『大日本史』

『大日本史』(正史 の史料)。扱う年は1076年 〜 1392年、出来事84件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年1076年 〜 1392年
出来事の数出来事84件・地図に置いた25件
著者德川光圀 외 (水戶藩 편찬)
原題大日本史

地域の内訳: 中国 59 · 日本 25

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1076年山城源公綱を任命。7038
1081年大和橘成經を任命。7397
1094年藤井信方を大掾に任命。8163
1099年和泉藤原有信が死去(康和元年七月)。7828
1107年藤原宗政が死去(嘉承二年五月)。卷之三百八十一 줄 13453
1108年天仁元年の公卿年表の行(人名の記載で、出来事ではない)。10741
1108年天仁元年以後、親祀の儀礼が途絶えて行われていない。part08 L1447
1112年藤原宗佐が死去(天永三年十二月)。卷之三百八十一 줄 12972
1118年實重が名簿に現れる(介の欄)。7198
1127年神祇官に火災があり、中和院の使用が論じられた。part08 L1436
1129年河內橘盛賢が名簿に現れる。のちに武藏權守。7669
1132年長承元年、親祀の復旧が議論されたが、事情により中止された。part08 L1447
1133年攝津藤原行盛を任命(のち長承三年十一月に死去)。8023
1143年惟宗保道を任命(介の欄)。7212
1145年久安元年、古式どおり親祀を再開した。part08 L1447
1147年大和大中臣行職を権官に任命。7411
1151年藤原信方が死去(仁平元年、月不明)。卷之三百八十 줄 12654
1152年山城藤原季經を免職(先に久安四年正月に任命)。7052
1156年和泉藤原邦綱を任命。7839
1159年和泉物部真元を任命(目の欄)。7892-7893
1168年河內源師光を権官に任命。7684
1177年藤原盛賴が平清盛に殺される。卷之三百八十 줄 11672
1178年仲賢が盗賊に殺害される(治承二年七月)。卷之三百八十一 줄 12989
1180年佐竹忠義(介)が源頼朝に殺される(治承四年十一月)。卷之三百八十一 줄 14076
1181年三善友經を任命(介の欄)。7231
1183年源光長が現れた後、まもなく戦死。part_05 줄 6058 (卷之三百八十五)
1183年 〜 1185年Kyoto寿永の乱で東軍が京都を陥落させた。part08 L3
1185年Bungo源範頼が豊後に至り、原田種直を攻めて大いに破る。part_01.txt L2394
1185年屋島(八島)成直(田内左衛門)が八島の戦いの後、源義経に降伏した。阿波民部大輔成良 항목 (줄 1124)
1185年 〜 1190年Kyoto頼朝が京都守護を設置し、畿内を経略した。part08 L318
1190年Shimōsa (下總)源義定が下總守に任じられる。卷之三百八十 줄 12223
1193年Dewa泰衡の配下大河兼任が出羽から騎兵を率いて陸奥へ移る。由利維平の側との交戦で敗死(敗死の主体は原文が曖昧)。part_01.txt L2395
1203年大和藤原秀守を任命。7426
1204年山城藤原行政を任命。7069
1214年藤原隆清が薨去(建保二年一月)。卷之三百八十 줄 12475
1221年藤原信能が北条義時に殺害される。part_05 줄 153 (卷之三百八十七)
1221年島津忠経は承久の変に殉じた(若狭守護家の系譜)。島津 항목 (줄 292)
1221年Kyoto承久の変で東軍が京都を陥落させた。part08 L3
1221年Kyoto承久以後、北條氏は六波羅に府を置き、京都・西国の政務を掌握した。part08 L318
1235年Kyoto延暦寺と興福寺が清水寺(末寺)をめぐって争い、まさに戦おうとした。part_09.txt L599
1240年攝津源賴憲を任命。8034
1240年攝津源季雅を任命。8053
1251年和泉藤原經長を任命。7855
1252年河內祐村が名簿に現れる(姓の欄は空白)。7705
1264年 〜 1275年蒙古軍が対馬を侵し、筑前を略奪したが、ただちに撃退された。part08 L2
1272年櫻田春山が名簿に現れる(員外)。7572
1274年後宇多天皇が即位(年表欄の記録)。1389-1390
1275年元が使者を遣わして国書を奉じたが、北條時宗は使者を斬り、返答しなかった。part08 L2
1277年北条義宗が死去(建治三年八月)。卷之三百八十 줄 12484
1281年河野通時が現れた後、まもなく戦死。part_05 줄 6070 (卷之三百八十五)
1281年蒙古(元)が大軍で侵攻したが、大きく撃破された。part08 L2
1295年山城二階堂行貞を任命。7091
1304年源俊通が死去(嘉元二年五月)。卷之三百八十一 줄 13799
1307年北条時範が死去(徳治二年八月)。卷之三百八十 줄 12257
1311年北条師時が死去(應長元年九月)。卷之三百八十一 줄 13007
1318年 〜 1339年後醍醐の御代、宇治惟直・惟澄が勤王に功を立てた。part08 L472
1331年Kasagi天皇(後醍醐)が北条高時討伐の兵を発す。足利尊氏が笠置・赤坂を攻撃。part_01.txt L2424
1331年笠置1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が笠置に行幸し、尊良親王が随行する。卷之九十九 (part_06 줄 4760)
1331年延曆寺西塔元弘元年の秋、延暦寺西塔の僧侶が武装して集まり、二、三万人に及んだ。卷之九十九 (part_06 줄 4765)
1331年辛碕濱元弘元年8月、尊澄と尊雲が僧兵を集め、佐々木時信と辛碕濱で戦って追われた。卷之九十九 (part_06 줄 4772)
1331年 〜 1336年官軍と「賊」がこの地で何度も戦った(地名は項目名で未確認)。義景別業 항목 (줄 1460)
1331年 〜 1334年田關(항목명 끝 글자만 보임)新田義貞が北条泰家をこの地で討伐した。田關 항목 (줄 1473)
1331年般若寺(大和 柰良坂村)元弘の変の際、護良親王が般若寺に身を隠した。般若寺 항목 (줄 1946)
1332年大和金持景藤が名簿に現れる。7446
1332年土佐畑元弘2年、尊良親王が土佐畑へ移された(流罪)。卷之九十九 (part_06 줄 4760)
1333年赤橋守時が自害(元弘三年五月)。卷之三百八十一 줄 13012
1333年越中元弘3年、北條高時が恒性を越中へ移し、そこで殺された。卷之九十九 (part_06 줄 4789)
1333年Kamakura新田義貞が上野で挙兵して鎌倉を滅ぼし、北條高時が死んだ――天下は一つに戻った。part08 L2
1334年 〜 1336年Kyoto建武の変で東軍が京都を陥落させた。part08 L3
1335年三條河原建武2年、足利尊氏の反乱の際、尊良親王が京都の三條河原を通過した(討伐への出陣)。卷之九十九 (part_06 줄 4760)
1335年矢矧鷺坂建武2年、新田義貞が尊氏の先鋒と矢矧鷺坂で戦い、連破した。卷之九十九 (part_06 줄 4760)
1335年 〜 1336年Kyoto足利尊氏・直義が挙兵して反乱し、叛軍が京都を陥落させた。part08 L2
1335年 〜 1336年Kyoto尊氏が北朝を擁立し、室町に陣を張って王師に対抗した。part08 L318
1336年Ōmi近江に至り伊岐洲城を陥落させる。part_01.txt L2434
1336年金碕城延元元年、金碕城が陥落し、恒良親王が捕らえられた。卷之九十九 (part_06 줄 4775)
1336年京師延元元年、足利尊氏が京師を攻め、懷良親王は天皇に従って延暦寺へ行った。卷之九十九 (part_06 줄 4781)
1338年杣山延元3年春、義貞・義助が杣山を出て、諸城を次々と奪った。卷之九十九 (part_06 줄 4775)
1338年筑紫延元3年、懷良が征西大將軍に任じられ、筑紫を鎮撫した。卷之九十九 (part_06 줄 4781)
1347年楠正行が攝津に出兵し、細川顯氏らが誉田林で交戦して敗れる。part_01.txt L2447
1348年正平3年10月、崇光院が直仁親王を太弟に立てた。直仁親王 항목 (dai_nihonshi p07 줄 32)
1349年上杉重能が殺害される(貞和五年十二月)。卷之三百八十 줄 12672
1376年源成賢が薨去(永和二年二月)。卷之三百八十 줄 12299
1389年藤原賴房が薨去(康應元年四月)。卷之三百八十 줄 12301
1392年Kyoto南北朝合一――後亀山天皇が神器を後小松天皇に譲り、義満が北朝を説得した。part08 L4

原文のライセンスと出典

원문 전사: 위키문고(zh.wikisource.org) 기여자들, CC BY-SA 4.0 (원저는 퍼블릭 도메인) · https://zh.wikisource.org/wiki/大日本史

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