ドゥーカス『歴史』

ドゥーカス『歴史』(正史 の史料)。扱う年は1347年 〜 1455年、出来事100件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年1347年 〜 1455年
出来事の数出来事100件・地図に置いた77件
著者Doukas (Michael Doukas)
原題Ducae Michaelis Nepotis Historia Byzantina

地域の内訳: 西アジア 68 · 南ヨーロッパ 32

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1347年Κωνσταντινούπολις / Cpolisカンタクゼノス軍が都に入り、宮殿に閉じ込められた皇后アンナと幼帝が降伏する。カンタクゼノスはトルコ軍に贈り物をして帰し、娘婿オルハンに謝意を示す。10 (Bonn p.38)
1347年Κωνσταντινούπολις / Cpolisヨハネス5世とカンタクゼノスの娘ヘレナの婚礼、ブラケルナイの聖母聖堂で戴冠。カンタクゼノスも共同皇帝に即位し、息子マタイオスは専制公と宣言される。10 (Bonn p.38-39)
1350年 〜 1357年Chersonesusオルハンの子スレイマンがランプサコスから海峡を渡りケルソネソスを略奪する。マタイオス・カンタクゼノスはヘクサミリオン付近で迎え撃ち、多数のトルコ兵を殺す。10 (Bonn p.39)
1354年Tenedosイタリアとドイツで2年を過ごしたヨハネスはテネドス島に着き、ジェノヴァ人フランチェスコ・ガッティルジオと協約する。帝位を取り戻せば妹マリアを妻に与えるという約束である(ドゥーカスの年代順は実際と異なる可能性がある)。11 (Bonn p.40)
1354年Κωνσταντινούπολις / Cpolis夜、ホデゲトリア門の前で油壺を割って音を立てる策で門番をおびき寄せ、武装兵500人が三段櫂船から出て城内に侵入する。夜明けに市民が「ヨハネス・パライオロゴス万歳」と叫んで集まる。11 (Bonn p.40-42)
1354年Κωνσταντινούπολις / Cpolisカンタクゼノスは帝位を退き、修道院(アトス山)に入って修道生活を送る。11 (Bonn p.43)
1355年Mytileneヨハネスは義弟ガッティルジオに妹を嫁がせ、持参金としてレスボス島を与える。ガッティルジオはミティリニに居を構え、子孫が代々治める。12 (Bonn p.45)
1362年オルハンが死に、息子ムラトが君主の座を継ぐ。11 (Bonn p.43)
1369年Κωνσταντινούπολις / Cpolisカンタクゼノスが政務を一手に担う中、享楽に耽る娘婿ヨハネス5世を叱責すると、ヨハネスは三段櫂船2隻でイタリアへ去る。10 (Bonn p.39-40)
1373年Κωνσταντινούπολις / Cpolisムラトの子クンテュズとヨハネスの子アンドロニコスが父を追放する陰謀を企てる。ムラトはクンテュズの目を潰し、アンドロニコスも同様にせよと要求する。12 (Bonn p.43-44)
1373年Κωνσταντινούπολις / Cpolisヨハネスはアンドロニコスと幼い孫ヨハネスの目を潰し、マヌエルを共同皇帝、テオドロスをラケダイモン君主に据える。アンドロニコスはアネマス塔に幽閉される。12 (Bonn p.44)
1376年Κωνσταντινούπολις / Cpolis塔から脱出したアンドロニコスはガラタのジェノヴァ人の助けで父と戦い、市内に入って皇帝と宣言され、父と兄弟を同じ塔に幽閉する。12 (Bonn p.44-45)
1390年Κωνσταντινούπολις / Cpolisバヤジットは貢納と、ヨハネスの息子1人を兵100人とともに送るよう要求する。マヌエルが派遣されバヤジットの下で仕える。バヤジットは穀物の搬入を止め、艦隊60隻でキオスを焼く。13 (Bonn p.47)
1390年Κωνσταντινούπολις / Cpolisヨハネスは黄金門の防備を積み上げ、古い聖堂(諸聖人・40殉教者・聖モキオス)の石材を取り壊して使う。13 (Bonn p.47-48)
1391年Κωνσταντινούπολις / Cpolisバヤジットは黄金門の防備を壊すよう命じ、従わなければプルサのマヌエルの目を潰すと脅す。痛風で臥せっていたヨハネスは防備を壊したが、まもなく死ぬ。13 (Bonn p.48-49)
1391年Prusa父の死を聞いたマヌエルは夜にプルサから逃れてコンスタンティノポリスに到着し、即位する。バヤジットは怒り、市内にイスラム裁判官(カーディー)を置くなど不当な要求を送る。13 (Bonn p.49)
1394年 〜 1396年Κωνσταντινούπολις / Cpolisバヤジットは都を封鎖し、四方に1万以上の兵を置いて出入りを止める。都は飢饉に襲われ、市民は薪がなく高い家を壊して燃やす。13 (Bonn p.50)
1395年Κωνσταντινούπολις / Cpolisマヌエルは教皇とフランス・ハンガリー王に、都が包囲され飢えていると知らせて救援を求め、助けがなければ信仰の敵の手に渡ると警告する。13 (Bonn p.50)
1396年Nicopolisフランドル伯、イングランド・フランス・イタリアの軍がハンガリーのジギスムントと合流し、ニコポリスでドナウ川の対岸へ渡り、バヤジットとの対決に備える。13 (Bonn p.51)
1396年Nicopolisフランドル騎兵の最初の突撃は成功したが、近衛兵1万の伏兵にフランク・ハンガリー軍は包囲され敗走する。ブルゴーニュ公(フランドル伯)と多くの貴族が捕虜となってプルサへ送られ、のち身代金で解放される。13 (Bonn p.52)
1399年Κωνσταντινούπολις / Cpolisバヤジットは都を要求し、アンドロニコスの子ヨハネス(セリュンブリア)を押し立ててマヌエルの退位を迫る。市民の騒乱の中、マヌエルはヨハネスを都に入れることにし、妻子と三段櫂船で都を去る。14 (Bonn p.54-55)
1399年Κωνσταντινούπολις / Cpolisヨハネス7世が入城して帝位に就き、バヤジットの条件どおり市内にトルコ人裁判官を置き、セリュンブリアをバヤジットに譲る。15 (Bonn p.56)
1400年Methoneマヌエルは妻と幼い息子たちをモドニ(メトネ)に残し、大船でヴェネツィアに着き、ミラノ・ジェノヴァ・フィレンツェ・フェラーラ・フランス・ドイツを巡って諸侯の歓待と贈り物を受ける。帰国後はメトネで家族と静かに過ごす。14 (Bonn p.56)
1400年Prusaプルサのバヤジットの前にティムールの使者が来て奪った土地の返還を求めると、バヤジットは使者の髭を剃刀で剃り落として侮辱し、送り返す。15 (Bonn p.58)
1400年Sebastiaバヤジットはカッパドキアの大都市セバステイアを占領し、大アルメニアの国境を越えてアルシンガを手に入れる。15 (Bonn p.58)
1400年Sebastiaティムールはセバステイアの城壁の下に坑道を掘って崩し、市民を縛って穴に生き埋めにする。15 (Bonn p.59-60)
1400年Damascusティムールはフェニキアとダマスカスまで進み、すべてを焼き略奪して多くの捕虜を連れ去る。15 (Bonn p.61)
1401年Halepumダマスカスの次にティムールはアレッポを破壊し、多くの職人をペルシアへ移す。その後アラブ人を威嚇し、サマルカンドへ戻る。15 (Bonn p.61)
1402年Κωνσταντινούπολις / Cpolis春、太陽が双子座を通るころ西の空に明るい彗星が現れ、秋分まで続く。ドゥーカスは戦争の前兆として記す。16 (Bonn p.63)
1402年Ancyraバヤジットはアンカラ近郊の平原に陣を張ったが、3日間狩りに出た隙にティムールが水辺の陣地を先取りする。水がなく兵5000人が渇きで死ぬ。16 (Bonn p.62-63)
1402年Ancyraアンカラの戦い:ティムール軍が平原を円形に包囲し、バヤジット側の属州兵が次々とティムール側に寝返る。16 (Bonn p.65-66)
1402年Ancyraセルビアのステファン・ラザレヴィチが槍騎兵5000で突破して脱出路を開き、バヤジットに逃げるよう勧めたが拒まれる。ステファンはバヤジットの長男ムスリムとともに脱出し、プルサへ向かう。16 (Bonn p.66-67)
1402年Ancyraバヤジットは捕虜となってティムールの前に引き出される。ティムールは息子とチェスを指して平静を装う。16 (Bonn p.68-69)
1402年Ancyraバヤジットの三男メフメトが地下道を掘って父を救い出そうとしたが、明け方に警備兵に見つかり失敗する。宦官長ホチアペルジスは斬首され、バヤジットは鎖で縛られる。16 (Bonn p.70-71)
1402年Prusaティムールはコティアイオンを経てプルサに入り、宝物庫を空にし、バヤジットの妻・側室とラザルの娘を見つけ出す。17 (Bonn p.72)
1402年Smyrnaティムールはスミルナのロードス騎士団の城塞を、港口に石を積んで塞ぎ攻撃する。城が陥落すると、避難したキリスト教徒1000人余りを引き出して皆殺しにし、首で塔を築く。17 (Bonn p.72-75)
1402年Smyrnaスミルナで、首と石を一段ずつ交互に積んだ塔が築かれる(ドゥーカスは身の毛もよだつ光景と記す)。17 (Bonn p.75)
1403年Ephesusティムールはエペソスに30日間滞在し、周辺の住民を集めて拷問し金銀を奪った後、カリアのミュラサへ向かう。厳寒で獣や鳥が凍死する。17 (Bonn p.76)
1403年フリギアのサルタリア(トルコ語でカラサル)でバヤジットが苦難の末に死ぬ。毒を自ら飲んだと言う者が多い。遺体はプルサの生前の墓に葬られる。17 (Bonn p.77)
1403年Κωνσταντινούπολις / Cpolisマヌエルがビュザンティオンへ戻り、甥から政権を取り戻す。バヤジットの長男ムスリム(スレイマン)がコンスタンティノポリスに来て、マヌエルの足元にひれ伏し、息子となることを誓う。18 (Bonn p.78)
1403年Thessalonicaスレイマンはテサロニケ、ストリュモン一帯の都市、ペロポネソスなどの返還を約束する。デメトリオス・レオンタリオスがテサロニケに入り、ヨハネスを全テッサリアの皇帝と宣言する。18 (Bonn p.79)
1404年Ephesusスミルナの地方官カラスパシの子キネイテスはエペソスを数日包囲して占拠し、スレイマンに書状を送って忠誠を示す。18 (Bonn p.80-81)
1405年Ephesusカリアのマンタキアスがアティンの子ホムルとともに6000でエペソスを攻め、都市は2日で灰となる。キネイテスの父は城塞で秋まで持ちこたえたのち降伏する。18 (Bonn p.81-82)
1405年Ephesusマンマロス塔に幽閉されていたキネイテスの父と一行は、宴で警備兵を酔わせて縄で脱出し、キネイテスが送った二段櫂船でスミルナに戻る。冬、キネイテスはエペソスを略奪する。18 (Bonn p.82-83)
1405年Ephesusスレイマンはプルサ・ロパディオン・ペルガモンを経てエペソスへ進軍する。カラマン3万・カルミヤン1万・キネイテス5千が立ちはだかる。キネイテスは密かに陣を抜け、首に縄をかけてスレイマンの前に出て赦しを乞う。スレイマンは4か月間エペソスで享楽に時を過ごす。18 (Bonn p.84-86)
1409年Sinopeアティン、メフメト、そしてアンカラにいたモセス(ムーサー)はシノペのスペンティアルのもとへ逃れ、その助けでワラキアへ渡る。19 (Bonn p.88)
1409年Valachiaモセスはワラキアのヴォイヴォダ、ミルチャを訪ねて身分を明かし、自由に往来することを許される。ドナウ辺境の総督たちがスレイマンに警告する。19 (Bonn p.88)
1410年Lampsacusジェノヴァ貴族サラグルソはスレイマンの命でランプサコスにガリポリ向かいの大塔を築き、スレイマンは厚く報いる。スレイマンはガリポリで酒と享楽に溺れる。19 (Bonn p.88-89)
1411年Adrianopolisモセスはイストロス沿岸のトルコ人を集め、トラキア・テッサリア・イリリクムの君主と宣言される。スレイマンが送った軍を撃破し、ソフィアの城門まで追撃する。19 (Bonn p.89)
1411年Adrianopolis遅れて我に返ったスレイマンはコンスタンティノポリスへ向かう途中、追従者がモセスに寝返り、少数の騎兵だけになる。ある村で兄弟5人の射手に馬から落とされ首を切られる。モセスはアドリアノポリス市民に歓迎され、西方の君主と宣言される。19 (Bonn p.90)
1411年Adrianopolisモセスはスレイマンを殺した村を、住民全員ごと小屋に閉じ込めて焼き払う。19 (Bonn p.90-91)
1411年Serviaモセスはセルビアを攻めて城3つを落とし、住民を虐殺して死体の上で宴を開く。19 (Bonn p.92)
1411年Κωνσταντινούπολις / Cpolisモセスはコンスタンティノポリスの攻城機械を整えてテサロニケを攻め、マヌエルが住民を移して空になった都市を焼く。19 (Bonn p.92-93)
1412年Scutariumマヌエルはプルサのメフメトをスクタリオンに来るよう招き、三段櫂船でコンスタンティノポリスに連れてきて3日間歓待する。メフメトはモセスと戦って2度敗れ、都に避難する。19 (Bonn p.94-95)
1413年メフメトは軍を二つに分け、一方を黒海へ、もう一方をアドリアノポリスへ送る。モセスの軍はメフメト側に寝返り、モセスは沼地で右腕を切られて死ぬ。遺体はプルサに葬られる。19 (Bonn p.95-96)
1413年Ephesusモセスとメフメトが戦う間にキネイテスはトラキアから逃れて小アジアに戻り、エペソスを占拠し、スレイマンが置いた守備隊長の首を刎ねて小アジア全域を掌握する。19 (Bonn p.97)
1413年Adrianopolisメフメトはマヌエルの使節を歓待し、協約どおり黒海沿岸の城塞とテッサリア・プロポンティス周辺の都市を返還し、「父マヌエルのなさるとおりに従う」と答える。20 (Bonn p.97)
1414年Κωνσταντινούπολις / Cpolisメフメトの子ムラトはその後アマシアへ行く。一方マヌエルの子ヨハネスはロシアの公女を妻に迎えてアンナと改名させ、3年後に疫病で死ぬ。20 (Bonn p.98)
1414年Cymeメフメトは小アジアへ渡り、ペルガモン・キュメ・カガジク城塞・ニュンファイオンを順に平定する。21 (Bonn p.103-104)
1414年Prusaメフメトがトラキアに行った間にカラマンがプルサを略奪し、バヤジットの遺骨を墓から掘り出して焼く。メフメトは引き返して懲らしめる。21 (Bonn p.103)
1415年Peloponnesusマヌエルは都の港を発ってペロポネソスへ行き、アカイア公を服従させ、ナバラ傭兵の一派を屈服させる。息子テオドロスをペロポネソス全域の君主として残して帰還し、ガリポリでメフメトと会う。20 (Bonn p.102)
1415年Smyrnaメフメトがスミルナを包囲し、10日間攻めるとキネイテスの母と妻が赦しを乞いに出て都市を引き渡す。近くの島の領主とロードス騎士団長がメフメトを訪ねて祝う。21 (Bonn p.105-106)
1415年Smyrnaロードス騎士団長が港口に建てようとした塔をトルコ軍が夜に壊し、騎士団長が抗議する。メフメトはカリアとリキアの境に望むだけの土地を与えると許す。21 (Bonn p.106-108)
1415年カリアに聖ペトロ城(ペトロニオン)が築かれる。マンタキアスの妨害は失敗する。33 [표기 오류: 21장 이어짐] (Bonn p.115-116)
1416年Callipolisナクソス公を罰するため、トルコ艦隊30隻がアンドロス・パロス・メロスを略奪する。ヴェネツィア艦隊はガリポリ港の前でトルコ艦隊を破り、提督ジャリ・ベイをめった切りにする。21 (Bonn p.109-110)
1416年Tenedos勝利したヴェネツィア軍はテネドスでトルコ人捕虜をすべて殺し、金で漕いでいたキリスト教徒を島中の絞首台に吊るす。21 (Bonn p.110)
1416年Stylariusスティラリオン山で財産の共有を説いたムスタファ(偽アッバス)の追随者が道を押さえ、スレイマンの後任総督スースマンの息子とその軍を全滅させる。21 (Bonn p.112-113)
1416年Ephesus12歳のムラトがバヤジット・パシャと討伐に出てスティラリオイを破る。偽アッバスは駱駝に十字形に吊るされてエペソスを引き回される。その後、小アジアの隠遁修道者のトルコ人が処刑される。21 (Bonn p.114-115)
1417年Κωνσταντινούπολις / Cpolis人質となっていたバヤジットの子がヨハネス皇帝とともに学び、疫病の中で洗礼を求め、ヨハネス皇帝が代父となる。翌日に死に、ストゥディオス修道院に安置される。20 (Bonn p.99)
1417年Iconiumメフメトはカラマンのコニヤを占領し、カラマンはシリアの山地へ逃げたが降伏し、領地を返されて誓約する。21 (Bonn p.116-117)
1420年Thessalonicaメフメトの弟ムスタファとキネイテスはテサロニケ付近で敗れて都市に逃げ込み、デメトリオス・レオンタリオスが迎えて慰める。22 (Bonn p.118)
1420年Κωνσταντινούπολις / Cpolisメフメトはムスタファの引き渡しを要求するが、マヌエルは拒み、二人を牢から出さないと誓う。ムスタファはレムノスへ送られ、メフメトが年30万アスプロスの生活費を払うことで合意する。22 (Bonn p.119-121)
1421年Κωνσταντινούπολις / Cpolisマヌエルは使節をイタリアへ送り、モンフェッラート侯の娘をヨハネスに、マラテスタ伯の娘をテオドロスに迎える。ヨハネスとテオドロスの婚礼が行われる。20 (Bonn p.99-100)
1421年Adrianopolis狩りの最中に猪に驚いて落馬したメフメトは半身不随となり、翌日てんかんで言葉を失い、夜に息絶える。ドゥーカス:多くの先代と違い、毒殺・絞殺を免れた唯一のスルタン。22 (Bonn p.123-124)
1421年Adrianopolisパシャたちはメフメトの死を40日間隠し、医者二人に病状を語らせる。内臓を取り出して埋め、遺体に香油を塗って寝台に寝かせておく。22 (Bonn p.128)
1421年Prusaプルサでムラトが皇帝と宣言される。バヤジット・パシャがムラトの名で演説し、遺体をプルサの生前の墓に安置する。23 (Bonn p.130-131)
1421年Κωνσταντινούπολις / Cpolisマヌエルがムラトに使節を送り、遺言どおり幼い二人の王子の引き渡しを求めると、パシャはイスラムの子をキリスト教徒の手で育てられないと拒む。マヌエルはムスタファの解放を構想する。23 (Bonn p.132)
1421年Tenedosマヌエルはレオンタリオスに三段櫂船10隻を与え、レムノスのムスタファとキネイテスを連れてケルソネソスに上陸させ、トラキアの君主に据えるよう命じる。二人はビザンツ皇帝の意に背かないと誓う。23-24 (Bonn p.134, 139)
1421年Callipolisムスタファ一行がガリポリを攻撃する。キネイテスが上陸して守備隊を追い出す。ムスタファが市民に演説し、城塞の一部が投降し、ガリポリ一帯の住民が歓呼する。24 (Bonn p.140-142)
1421年Adrianopolisアドリアノポリス近郊の沼沢の平原で対峙する。バヤジット・パシャの軍が左右両翼からムスタファ側に寝返り、パシャは一人残される。キネイテスがパシャの首を刎ねる。24 (Bonn p.144-151)
1421年Callipolisムスタファはガリポリをビザンツに引き渡す協約を破って拒否する。イスラム教徒を異教徒に渡せないという。レオンタリオスは怒ってコンスタンティノポリスへ戻る。24 (Bonn p.152-155)
1421年Phocaeaフォカイア総督ジョヴァンニ・アドルノがムラトに船で海峡を渡らせると申し出、ムラトはプルサで会おうと答える。フォカイアのみょうばん鉱山の事情も記される。25 (Bonn p.164-165)
1422年Lopadiumムラトはプルサからロパディオンへ夜間進軍して橋を先に押さえ、切断する。ムスタファはガリポリから海峡を渡り、沼のほとりに陣を張る。25 (Bonn p.168)
1422年Lopadium二つの軍が沼を挟んで対峙すると、ムラトの家臣たちがキネイテスの弟ハムザを呼び、兄を裏切らせればアティンの領地を与えると懐柔する。26 (Bonn p.168-169)
1426年Κωνσταντινούπολις / Cpolisヨハネスがモンフェッラート出身の皇后をその容貌ゆえに遠ざけたため、皇后はガラタのジェノヴァ人と謀って脱出し、船でイタリアへ去り、実家で修道生活を送る。20 (Bonn p.100-102)
1444年Varna[索引] ムラトがヨーロッパへ渡り、ヴァルナでハンガリー王ラディスラウスが戦死してキリスト教軍が大敗する。32 (색인 요약)
1446年Peloponnesus[索引] ムラトがペロポネソスに侵攻する。32 (색인 요약)
1448年Κωνσταντινούπολις / Cpolis[索引] ヨハネス皇帝が死に、専制公コンスタンティノスがコンスタンティノポリスに来て帝位に就く。33 (색인 요약)
1451年Adrianopolis[索引] ムラトは息子メフメトの婚礼を行った直後に死ぬ。メフメト2世がアドリアノポリスに来て皇帝と宣言され、弟を絞殺させる。33 (색인 요약)
1452年Bosporus[索引] メフメトがボスポラスの狭い所に城塞を築くとビザンツは使節で抗議するが、メフメトは傲慢に答えて脅す。コンスタンティノポリス近郊の野を略奪し、宣戦する。34 (색인 요약)
1452年Bosporus[索引] ボスポラスを通過中のヴェネツィア船が撃沈され、メフメトの命で船長と乗員が残酷に処刑される。35 (색인 요약)
1452年Adrianopolis[索引] 大砲鋳造職人が巨大な青銅砲を造り、アドリアノポリスで試射する。35 (색인 요약)
1452年Κωνσταντινούπολις / Cpolis[索引] コンスタンティノスは教皇に援助を求め、教会合同を成し遂げる。イシドロス枢機卿が教皇使節としてコンスタンティノポリスに来て、ハギア・ソフィアで合同礼拝を行う。36 (색인 요약)
1453年Κωνσταντινούπολις / Cpolis[索引] メフメトは巨大な青銅砲をコンスタンティノポリス近くへ運ばせ、トルコ軍は黒海沿岸の都市とセリュンブリアを除くプロポンティス沿岸の小都市を占領する。37 (색인 요약)
1453年Κωνσταντινούπολις / Cpolis[索引] 城が陥落する。城壁が破られるとジュスティニアーニは部下を撤退させ、ガラタの人々が数隻の船で逃げる。トルコ軍は市民を捕虜として連行し、大公(ノタラス)は捕らえられて監視下に置かれる。40 (색인 요약)
1453年Κωνσταντινούπολις / Cpolis[索引] メフメトは市内に入りハギア・ソフィアへ行ってイマームに祈らせる。コンスタンティノス皇帝の首を確認した後、アウグステイオンの柱に吊るす。41 (색인 요약)
1453年Κωνσταντινούπολις / Cpolis[索引] メフメトはノタラスを慰め、貴族の名を書かせる。ノタラスの妻を探して慰めるが、末の息子を宴に寄越せと命じるとノタラスが拒み、メフメトは息子を殺させノタラスも斬首する。貴族は身代金を払った後に皆殺される。41 (색인 요약)
1453年Galata[索引] メフメトはガラタに入って城壁の一部を壊し、ハギア・ソフィアをモスクに変えてアドリアノポリスへ戻る。ノタラスの妻が死ぬ。42 (색인 요약)
1454年Smedrovum[索引] メフメトはセルビアに貢納を課し、君主ゲオルギオスにセルビアを去るよう命じる。スメデレヴォ攻撃は失敗する。43 (색인 요약)
1455年Chius[索引ではなく本文の章頭] 早春、メフメトが大艦隊をキオス侵攻に送る(以後の叙述は読んでいない)。45 (Bonn 장 머리)

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