金史 本紀

金史 本紀(正史 の史料)。扱う年は1114年 〜 1234年、出来事200件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年1114年 〜 1234年
出来事の数出来事200件・地図に置いた110件
著者脫脫 等(1344~1345)
原題金史 本紀

地域の内訳: 中国 200

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1114年甯江州太祖が寧江州に進軍し、寥晦城に駐屯した。途中で渤海軍を破り、諸軍は堀を埋めて城を攻めた。金史 卷002 太祖 癸巳(1113)다음 해 9月
1114年來流水諸路の軍が來流水に集まって二千五百人となると、遼の罪を天に告げて誓った。金史 卷002 太祖 1114年9月
1114年甯江州寧江州を攻め落とし、防禦使の大藥師奴を捕らえたが、釈放して遼人を招諭させた。金史 卷002 太祖 1114年10月
1114年出河店遼の都統・蕭糺里らが十万で鴨子河の北に集まったが、太祖が攻めて出河店で大破し、斡論濼まで追撃した。金史 卷002 太祖 1114年11月
1114年賓州僕虺らが賓州を攻めて陥落させた。金史 卷002 太祖 1114年11月
1114年鹹州斡魯古が鹹州の西で遼軍を破り、婁室が鹹州を陥落させた。金史 卷002 太祖 1114年11月
1115年正月朔日、群臣が尊号を奉じて即位させ、国号を大金、年号を収国と定めた。金史 卷002 太祖 收國元年正月
1115年黃龍府太祖は自ら黄竜府を攻めに出て益州まで至り、益州の人々は黄竜へ逃げた。金史 卷002 太祖 收國元年正月
1115年達魯古城達魯古城の前で遼軍二十万と歩兵七万を迎え撃って大破し、阿婁岡まで追撃した。金史 卷002 太祖 收國元年正月
1115年混同江黄竜府親征の途中、船がなかったので、馬で混同江を渡った。金史 卷002 太祖 收國元年8月
1115年黃龍府黄竜府を陥落させ、遼の使者・辞剌を帰らせた後、撤兵した。金史 卷002 太祖 收國元年9月
1115年護步答岡護歩答岡で遼主の親征軍(号して七十万)を追撃して大破し、死体は百余里に及んだ。金史 卷002 太祖 收國元年12月
1116年東京高永昌が東京を占拠し、太祖に援軍を求めた。金史 卷002 太祖 收國二年閏月
1116年東京斡魯らが高永昌を破り、撻不野が永昌を捕らえて献上したので、東京の州県が降伏した。金史 卷002 太祖 收國二年5月
1116年照散城阿徒罕が遼兵六万を照散城で破った。金史 卷002 太祖 收國二年5月
1117年顯州斡魯古が蒺藜山で遼の耶律捍里の軍を破り、顯州を陥落させ、乾・懿などの諸州が降伏した。金史 卷002 太祖 天輔元年12月
1118年黃龍府婁室の建議で諸路の謀克を合わせて万戸とし、黄竜府に鎮守させた。金史 卷002 太祖 天輔二年3月
1120年宋の使者・趙良嗣と王暉が来て、燕京・西京の地を協議した。金史 卷002 太祖 天輔四年2月
1120年上京太祖が遼の上京を攻め、闍母が先に登って外城を破り、留守の撻不野が城を献じた。金史 卷002 太祖 天輔四年5月
1122年中京都統の杲が高・恩・回紇の三城を陥落させ、中京を取り、沢州を陥落させた。金史 卷002 太祖 天輔六年正月
1122年西京遼主を追って宗翰が西京に至り降伏を受けたが、ほどなく再び反乱した(四月に再占領)。金史 卷002 太祖 天輔六年3月
1122年石輦鐸昱と宗望が遼主を石輦鐸で追いつき破ったが、遼主は逃走した。金史 卷002 太祖 天輔六年8月
1122年燕京太祖は居庸関を経て燕京に至り、南門から入城した。遼の重臣・左企弓らが表を奉じて降伏した。金史 卷002 太祖 天輔六年12月
1123年平州平州を南京と改め、張覺を留守とした。金史 卷002 太祖 天輔七年2月
1123年應州應州で遼主に追いつき決戦して大破し、その子の趙王・習泥烈と伝国璽を得た。金史 卷002 太祖 天輔七年4月
1123年平州南京(平州)の留守・張覚が城を拠点として反乱した。金史 卷002 太祖 天輔七年5月
1123年部堵濼八月戊申、太祖は部堵濼の西の行宮で崩じた。享年五十六。金史 卷002 太祖 天輔七年8月
1123年九月丙辰、太宗(呉乞買)が即位し、天輔七年を天会元年と改めた。金史 卷003 太宗 天會元年9月
1123年平州宗望は南京(平州)の東で張覚を大破し、張覚は宋へ逃げた。金史 卷003 太宗 天會元年11月
1124年平州闍母は南京(平州)を陥落させ、都統の張敦固を殺した。金史 卷003 太宗 天會二年5月
1125年余睹穀婁室が余睹穀で遼主(天祚帝)を捕らえた。金史 卷003 太宗 天會三年2月
1125年上京斡魯が遼主を京師へ連れて行き、太祖廟に報告し、遼主・延禧を海浜王に降封した。金史 卷003 太宗 天會三年8月
1125年諸将に宋征伐を命じた。宗翰は西京から太原へ、宗望・闍母は南京から燕山へ。金史 卷003 太宗 天會三年10月
1125年白河宗望の軍は白河で宋の郭薬師らを大破し、郭薬師が降伏して燕山の州県はすべて平定された。金史 卷003 太宗 天會三年12月
1125年太原宗翰は朔州・代州を攻め落とし、太原を包囲した。金史 卷003 太宗 天會三年12月
1126年汴京諸軍は黄河を渡って滑州を取り、汴(開封)を包囲した。金史 卷003 太宗 天會四年正月
1126年汴京宋は康王の構らを人質として送り、誓書と地図を献じ、伯侄の関係を称した(三鎮の割譲、歳幣の増額)。金史 卷003 太宗 天會四年正月
1126年汴京宋の姚平仲が四十万で宗望の陣を夜襲したが破られ、再び汴を包囲した。金史 卷003 太宗 天會四年2月
1126年太原宗翰は太原を陥落させ、経略使の張孝純を捕らえた。金史 卷003 太宗 天會四年9月
1126年真定宗望は井陘で宋の种師閔を破り、真定を陥落させ、守将の李邈を処刑した。金史 卷003 太宗 天會四年9月
1126年汴京宗翰・宗望が汴城を陥落させ、宋主の桓は青城に出て、十二月に降伏した。金史 卷003 太宗 天會四年閏11月
1127年宋の二帝(徽宗・欽宗)を庶人に降格した。金史 卷003 太宗 天會五年2月
1127年宋の太宰・張邦昌を大楚皇帝に立てた。金史 卷003 太宗 天會五年3月
1127年歸德宋の康王・構が帰徳で即位(南宋高宗)。金史 卷003 太宗 天會五年5月
1128年青州宗弼は青州で宋の鄭宗孟軍を破り、続いて青州を陥落させた。金史 卷003 太宗 天會六年正月
1129年晉寧軍婁室らが晋寧軍を破り、最後まで降伏しなかった守将・徐徽言を殺した。金史 卷003 太宗 天會七年2月
1129年江寧宗弼は長江を渡り、江寧で宋の杜充の軍を破り、守臣の陳邦光が降伏した。金史 卷003 太宗 天會七年11月
1129年杭州宗弼は湖州・杭州を陥落させ、阿里・蒲盧渾は宋主を明州まで追ったが、宋主は海へ逃げた。金史 卷003 太宗 天會七年12月
1130年大名府劉豫を大斉皇帝に立て、大名府に都させた。金史 卷003 太宗 天會八年9月
1130年富平宗輔らは宋の張浚の軍を富平で破り、耀州・鳳翔が降伏した。金史 卷003 太宗 天會八年9月
1131年和尚原宗弼は宋の呉玠と和尚原で戦って敗れた。金史 卷003 太宗 天會九年10月
1135年明德宮太宗が明徳宮で崩じた。享年六十一。金史 卷003 太宗 天會十三年正月
1135年太宗が崩じ、翌日、太祖の嫡孫・熙宗(合剌)が即位した。金史 卷004 熙宗 天會十三年正月
1137年汴京斉を廃し、劉豫を蜀王に降封し、汴に行台尚書省を置いた。金史 卷004 熙宗 天會十五年11月
1138年會寧京師を上京会寧府とし、旧上京(臨潢)を北京と改めた。金史 卷004 熙宗 天眷元年8月
1138年河南の地を宋に返還し、張通古らを江南に使者として派遣した。金史 卷004 熙宗 天眷元年8月
1140年汴京宗弼に河南・陝西を奪還させ、黎陽から汴へ、撒離合は河中から陝西へ向かわせた(六月までに河南・陝西は平定された)。金史 卷004 熙宗 天眷三年5月
1140年燕京熙宗は燕京に至り太祖廟を祀り、左丞相の完顔希尹らを殺した。金史 卷004 熙宗 天眷三年9月
1141年廬州宗弼は廬州を陥落させた。金史 卷004 熙宗 皇統元年2月
1141年淮河宗弼は宋を攻めて淮水を渡った後、書簡で淮を境界とすることを決めた。金史 卷004 熙宗 皇統元年9月
1142年宋の使者・曹勳が来て、歳幣として銀・絹二十五万を納め、淮水を境界とする和約を求めた。金史 卷004 熙宗 皇統二年2月
1149年大興國が符鑰で門を開き、亮(海陵)・秉徳らを寝殿に入れて熙宗を弑し、亮を擁立した。金史 卷005 海陵 皇統九年12月
1150年宗本・唐括弁を殺し、使者を遣わして秉徳・宗懿および太宗の子孫七十余人らを粛清した。金史 卷005 海陵 天德二年4月
1150年汴京使者を送り、汴京で行台左丞相の撒離喝を殺した。金史 卷005 海陵 天德二年10月
1151年燕京燕京へ遷都する詔。金史 卷005 海陵 天德三年4月
1153年燕京燕京に至り遷都を詔し、燕京を中都(大興府)、汴京を南京、中京を北京と改めた。金史 卷005 海陵 貞元元年3月
1155年沙流河海陵は沙流河で梓宮と皇太后(上京から移送)を自ら迎えた。金史 卷005 海陵 貞元三年9月
1155年大房山大房山の山陵の礼を終えた。金史 卷005 海陵 貞元三年11月
1156年大房山始祖以下十帝を大房山に葬った。金史 卷005 海陵 正隆元年10月
1157年會寧府会寧府の旧宮殿・大族の邸宅を取り壊し、跡地を耕作させた。金史 卷005 海陵 正隆二年10月
1159年通州中都城を修築し、通州で戦船を造り、諸路の猛安・謀克を徴発して宋征伐を準備した。金史 卷005 海陵 正隆四年2月
1160年東海縣東海県の民・張旺・徐元が反乱し、水軍九百を海へ送って討伐した(六月に平定)。金史 卷005 海陵 正隆五年3月
1161年河南府中都を出発して河南府に至り、狩猟を行い、汝州の温泉に行幸した。金史 卷005 海陵 正隆六年3月
1161年契丹の諸部が反乱したため、右衛将軍の蕭禿剌らを派遣して討伐させた。金史 卷005 海陵 正隆六年5月
1161年南京法駕を整えて南京(汴京)に入城した。金史 卷005 海陵 正隆六年6月
1161年壽春海陵は三十二総管の兵を率いて南京を出発し、寿春へ進撃して宋を攻めた。金史 卷005 海陵 正隆六年9月
1161年遼陽東京留守の烏禄(世宗)が遼陽で即位し、大定と改元して海陵の罪状を列挙した。金史 卷005 海陵 正隆六年10月
1161年盱眙徒単貞が宋の王権の軍を盱眙で破り、揚州へ進撃した。金史 卷005 海陵 正隆六年10月
1161年瓜洲瓜洲の渡しに水軍を集め渡江しようとした直前、浙西都統制の完顔元宜らが反乱し、海陵を殺した(四十歳)。金史 卷005 海陵 正隆六年11月
1161年韓州契丹の徴兵に反発した契丹人が反乱し、咸平府の謀克・括裏が韓州を陥落させ、咸平を占拠して東京を脅かした。金史 卷006 世宗 正隆六年(월 미상, 8월 이전)
1161年東京東京副留守の高存福の陰謀が露見し、清安寺に配下を集めておき、その席で捕らえた。金史 卷006 世宗 正隆六年9月
1161年東京南征万戸の完顔福寿らが二万、完顔謀衍が五千を率いて寝返り、諸軍は東京城に入って高存福らを処刑した。金史 卷006 世宗 正隆六年10月 (丁未 改元 大定 이후)
1161年吾劄忽らを派遣し、契丹諸部を討伐させた。金史 卷006 世宗 大定元年11月
1161年中都世宗が中都に至り、翌日太祖廟を参拝した。金史 卷006 世宗 大定元年12月
1162年勝州兵部侍郎の温敦朮突剌らが勝州で窩斡(契丹)と戦って敗れた。金史 卷006 世宗 大定二年閏2月
1162年長濼右副元帥の完顔謀衍が長濼で窩斡を破った。金史 卷006 世宗 大定二年4月
1162年陷泉右副元帥の僕散忠義が嫋嶺の西の陥泉で窩斡を大破した。金史 卷006 世宗 大定二年6月
1162年栲栳山元帥左監軍の高忠建が栲栳山で奚を破り、周辺の奚の六営を招降した。金史 卷006 世宗 大定二年8月
1162年元帥右都監の完顔思敬が契丹の窩斡を捕らえ、残りの衆をすべて平定した。金史 卷006 世宗 大定二年9月
1162年德順州元帥左都監の徒単合喜が宋の吳璘を徳順州で大破した。金史 卷006 世宗 大定二年9月
1162年右丞相の僕散忠義に宋を攻めるよう詔した。金史 卷006 世宗 大定二年11月
1163年德順州徳順州を再び取った。金史 卷006 世宗 大定三年正月
1163年商州商・虢・環州を取り、宋が侵入していた十六州をすべて回復した。金史 卷006 世宗 大定三年4月
1163年宿州宋が霊璧・虹県・宿州を攻略したが、左副元帥の紇石烈志寧が宿州を奪還した(河南副統の孛朮魯定方が戦死)。金史 卷006 世宗 大定三年5月
1164年楚州征南都統の徒単克寧が宋兵を破り、楚州を取った。金史 卷006 世宗 大定四年11月
1164年宋の通問使・魏杞が国書を持参し、「侄宋皇帝」と称して、歳幣二十万で和議を申し入れた。金史 卷006 世宗 大定四年12月 (월은 辛未 앞뒤 간지 순서로 추정)
1172年宿直将軍の烏古論思列を派遣し、王皓を高麗国王に冊封した。金史 卷007 世宗 大定十二年3月
1173年會寧会寧府を再び上京とした。金史 卷007 世宗 大定十三年7月
1175年鴨淥江高麗の西京留守・趙位寵が君主に背き、慈悲嶺の西・鴨緑江の東の四十余城を挙げて帰服したいと申し出たが、受け入れられなかった。金史 卷007 世宗 大定十五年9月
1180年衛州黄河が衛州で決壊した。金史 卷007 世宗 大定二十年12月
1182年平州河間の宗室を平州に移した。金史 卷008 世宗 大定二十二年10月
1185年上京速頻・胡裏改の両路の猛安から三十謀克を選んで三猛安とし、上京の地に移して上京を充実させた。金史 卷008 世宗 大定二十五年4月
1185年遼水帰路、遼水で百二十歳の女直の老人を召し、太祖の開国の事績を聞いた。金史 卷008 世宗 大定二十五年9月
1186年衛州黄河が決壊して衛州が崩れた。金史 卷008 世宗 大定二十六年8月
1186年烏底改が反逆して逃亡したため、討伐軍を送り、甲士を加えて船と筏を壊させた。金史 卷008 世宗 大定二十六年9月
1189年世宗が福安殿で崩じた。享年六十七。(章宗が即位)金史 卷008 世宗 大定二十九年正月
1189年世宗が崩じると、章宗は柩前で即位した。金史 卷009 章宗 大定二十九年正月
1191年西夏人が我が辺将・阿魯帯を殺した。金史 卷009 章宗 明昌二年11月
1194年陽武黄河が陽武の旧堤を破り、封丘を浸して東へ流れ込んだ。金史 卷010 章宗 明昌五年8月
1195年大鹽濼右丞相の完顔襄が駙馬の僕散揆らを率いて大塩濼に進軍し、軍を分けて諸営を攻め取った。金史 卷010 章宗 明昌六年12月
1196年大鹽濼大塩濼で群牧使の移剌睹らが広吉剌部の軍に敗れて戦死した。金史 卷010 章宗 承安元年正月
1196年特満群牧の契丹人・陀鎖・徳寿が反乱し、泰州軍がこれを破った。金史 卷010 章宗 承安元年11月
1198年北辺が安定し、襄が軍から帰還した。辺事が定まったと天下に詔した。金史 卷011 章宗 承安三年11月
1200年西北路招討使の独吉思忠が、西の坦舌から東の胡烈公まで六百里の辺堡・牆隍の修築を終えたと報告した。金史 卷011 章宗 承安五年9月
1203年奉御の完顔阿魯帯が宋から帰還し、権臣の韓侂胄が馬を買い入れ、武器を研いで北方侵攻を企てていると報告した。金史 卷011 章宗 泰和三年10月
1205年秦川宋兵が秦川の境内に入った。金史 卷012 章宗 泰和五年3月
1205年漣水宋人が漣水県に入った(六月に奪還)。金史 卷012 章宗 泰和五年5月
1206年壽春宋人が寿春を包囲した。金史 卷012 章宗 泰和六年4月
1206年宿州宋の田俊邁が宿州を攻めたが、納蘭邦烈らに敗れ、蘄へ退いた。金史 卷012 章宗 泰和六年5月
1206年壽州宋の李爽が寿州を包囲したが、刺史の徒単羲が防ぎ、一か月を過ぎても陥落しなかった。金史 卷012 章宗 泰和六年6月
1206年和尚原元帥右都監の蒲察貞が和尚原を取った。金史 卷012 章宗 泰和六年9月
1206年僕散揆が諸道の兵力を督励して宋を攻めた(潁・寿、渦口、唐・鄧、清口、陳倉など九路)。金史 卷012 章宗 泰和六年10月
1206年襄陽完顔匡が襄陽を攻め、外城を破った。金史 卷012 章宗 泰和六年11月
1206年楚州紇石烈執中が淮陰を陥落させ、楚州を包囲した。金史 卷012 章宗 泰和六年11月
1206年安豐僕散揆が安豊軍を陥落させ、霍丘県を取った。金史 卷012 章宗 泰和六年11月
1206年德安完顔匡が随州を取り、徳安を包囲し、付近の県をすべて席巻して降伏させた。金史 卷012 章宗 泰和六年11月
1206年大散關右監軍の充が大散関を陥落させた。金史 卷012 章宗 泰和六年12月
1206年宋の昭信軍節度使・四川宣撫副使の呉曦が完顔綱に降伏の意志を伝えた。金史 卷012 章宗 泰和六年12月
1207年宋の知枢密院事・張厳が方信孺を派遣して僕散揆らに書簡で和議を求めた。金史 卷012 章宗 泰和七年2月
1207年韓侂胄が王柟を送り、伯の称号、歳幣の増額、蘇師旦らの首を差し出すことを条件に和議を申し入れた。金史 卷012 章宗 泰和七年11月
1208年宋が賊臣・韓侂胄と蘇師旦の首級を献じた。金史 卷012 章宗 泰和八年5月
1208年宋との和平を許す詔。金史 卷012 章宗 泰和八年6月
1208年章宗が福安殿で崩じた。享年四十一。金史 卷012 章宗 泰和八年11月
1211年會河堡独吉千家奴・胡沙が会河堡で大敗して居庸関を失い、大元の前軍が中都に至り、中都に戒厳令が敷かれた。金史 卷013 衛紹王 大安三年9月
1211年西京紇石烈胡沙虎は西京を捨てて京師へ逃げ帰ったが、かえって右副元帥に任じられた。金史 卷013 衛紹王 大安三年11月
1212年葭州夏人が葭州を侵した。金史 卷013 衛紹王 崇慶元年3月
1213年中都胡沙虎は通玄門から中都に入り、知大興府らを殺して宮に入り、衛士を入れ替え、監国都元帥を称した。金史 卷013 衛紹王 至寧元年8月
1213年宣宗が即位し、衛紹王は東海郡侯に降封された。金史 卷013 衛紹王 至寧元年9月
1213年中都元帥右監軍の朮虎高琪が城の北で二度敗れて帰還し、兵を率いて胡沙虎の邸を襲って殺し、その首を掲げて宮門で罪を請うた。金史 卷014 宣宗 貞祐元年10月
1213年涿州大元の兵が涿州を陥落させた。金史 卷014 宣宗 貞祐元年10月
1213年會州夏人が会州を攻めたが、徒単醜児の軍に追い払われた。金史 卷014 宣宗 貞祐元年11月
1214年彰德府大元の兵が彰徳府を席巻し、知府事の黄摑九住が戦死した。金史 卷014 宣宗 貞祐二年正月
1214年懷州大元の兵が懐州を席巻し、沁南軍節度使の宋扆が戦死した。金史 卷014 宣宗 貞祐二年正月
1214年嵐州大元の兵が嵐州を陥落させ、鎮西軍節度使の烏古論仲温が戦死した。金史 卷014 宣宗 貞祐二年3月
1214年大元が和議を許したため国内に大赦が出た(山東・河北の諸郡が陥落し、真定・大名・東平など数城だけが残った)。金史 卷014 宣宗 貞祐二年4月
1214年宣宗は南遷を決意し、国内に詔を出した。金史 卷014 宣宗 貞祐二年5月
1214年順州大元の兵が順州を席巻し、勧農使の王晦が戦死した。金史 卷014 宣宗 貞祐二年10月
1214年懿州大元の兵が懿州を席巻し、節度使の高閭山が戦死した。金史 卷014 宣宗 貞祐二年12月
1215年北京北京の軍が反乱し、宣撫使の奥屯襄を殺した。金史 卷014 宣宗 貞祐三年正月
1215年中都中都が陥落し、尚書右丞相兼都元帥の承暉が死んだ。金史 卷014 宣宗 貞祐三年5月
1215年遼東遼東の蒲鮮万奴が帝号を称し、天泰と年号を立てた。金史 卷014 宣宗 貞祐三年10月
1215年熟羊寨移剌塔不也が一万の兵で、夏軍数万を熟羊寨で破った。金史 卷014 宣宗 貞祐三年11月
1216年太原大元の兵が太原を包囲した。金史 卷014 宣宗 貞祐四年2月
1216年延安大元の兵が延安を攻めた。金史 卷014 宣宗 貞祐四年8月
1216年潼關大元の兵が潼関を攻め、西安軍節度使の泥旁古蒲魯虎が戦死した。金史 卷014 宣宗 貞祐四年10月
1216年澠池モンゴル軍が澠池に至り、右副元帥の蒲察阿里不孫の軍が潰走した。金史 卷014 宣宗 貞祐四年11月
1216年太原モンゴル軍が代州・平定の要衝を越え、太原府を攻撃した。金史 卷014 宣宗 貞祐四年12月
1217年真定石海が真定を拠点に反乱すると、威州刺史の武仙が兵で石海とその一味200余人を斬り、降伏を受けた。金史 卷015 宣宗 貞祐五年3月
1217年光州完顔賽不の軍が淮水を渡り、光州の二関を破った。金史 卷015 宣宗 貞祐五年4月
1217年中山モンゴル軍が中山府と新楽県を席巻し、磁州も陥落させた。金史 卷015 宣宗 興定元年10月
1217年益都モンゴル軍が益都府を平定した。金史 卷015 宣宗 興定元年12月
1218年太原モンゴル軍が太原府を陥落させ、元帥左監軍の烏古論徳升が戦死した。金史 卷015 宣宗 興定二年9月
1218年密州李全が密州を破り、招撫副使の黄摑阿魯答らを捕らえた。金史 卷015 宣宗 興定二年9月
1218年平陽モンゴル軍が平陽を陥落させ、知府事・行尚書省の李革と従坦が戦死した。金史 卷015 宣宗 興定二年10月
1218年潞州モンゴル軍が潞州を攻略し、元帥右監軍の納合蒲剌都らが戦死した。金史 卷015 宣宗 興定二年11月
1218年僕散安貞を左副元帥に任じ、宋征伐を委ねた。金史 卷015 宣宗 興定二年12月
1219年興元陝西の兵が宋の虎頭関を破り、興元・洋州を取った。金史 卷015 宣宗 興定三年3月
1219年東勝州モンゴル軍が東勝州を席巻し、節度使の伯徳窳哥が戦死した。金史 卷015 宣宗 興定三年9月
1219年晉安府モンゴル軍が晋安府(絳州)を平定し、行元帥府事の粘割貞が戦死した。金史 卷015 宣宗 興定三年11月
1220年滄州宋人と紅襖賊が河朔を侵し諸郡が降伏したが、滄州経略使の王福だけは守り抜いた(のち張林に降った)。金史 卷016 宣宗 興定四年7月
1220年東平大元の木華里国王が軍で東平を包囲した。金史 卷016 宣宗 興定四年11月
1221年潼關モンゴル軍が潼関と京兆を陥落させ、詔により省・院に対策を議させた。金史 卷016 宣宗 興定五年12月
1222年河間河間公移剌眾家奴と高陽公張甫の軍が河間府を奪回した。金史 卷016 宣宗 興定六年8月 (元光 改元 달)
1222年同州モンゴル軍が同州を席巻し、定国軍節度使の李復亨らが自害した。金史 卷016 宣宗 興定六年11月
1223年河中モンゴル軍が河中府を陥落させた(侯小叔が奪回したが再び陥落)。金史 卷016 宣宗 元光二年正月
1223年邳州邳州従宜経略使の納合六哥らが行尚書省の蒙古綱を殺し、邳州を拠点に反乱した。金史 卷016 宣宗 元光二年8月
1223年宣宗が寧徳殿で崩御、61歳(翌年正月に正大へ改元)。金史 卷016 宣宗 元光二年12月
1225年夏国との和議が成立し、金を兄として仕え、それぞれ自国の年号を用い、使節を交換した。金史 卷017 哀宗 正大二年9月
1226年楚州宋の忠義軍の夏全らが楚州から帰順し、楚州を平淮府と改めた。金史 卷017 哀宗 正大三年11月
1226年中興府モンゴル軍が西夏を攻め、中興府を平定した。金史 卷017 哀宗 正大三年11月
1227年平陽モンゴル軍が徳順府を平定し、平陽を再び陥落させた。金史 卷017 哀宗 正大四年3月
1227年臨洮モンゴル軍が臨洮府を平定し、総管の陀満胡土門が戦死した。金史 卷017 哀宗 正大四年5月
1227年龜山李全が楚州に戻って占拠すると、訛可・慶山奴が盱眙を守り亀山で戦ったが敗れた。金史 卷017 哀宗 正大四年8月
1231年鳳翔モンゴル軍が鳳翔府を平定し、両行省は京兆を放棄して住民を河南へ移した。金史 卷017 哀宗 正大八年4月
1231年河中河中府が陥落し、権簽枢密院事の草火訛可が戦死した。金史 卷017 哀宗 正大八年12月
1232年三峰山モンゴル軍と両省の軍が鈞州の三峰山で戦い、両省軍は大敗した。合達・陳和尚らは鈞州へ逃れたが、城が破られて全員戦死した。金史 卷017 哀宗 天興元年(開興元年)正月
1232年白坡モンゴル軍は河中を平定した後、河清県の白坡で黄河を渡った。金史 卷017 哀宗 天興元年正月
1232年汴京モンゴル軍が汴京を攻撃し、哀宗は承天門に出て西方の将士を慰撫した。金史 卷017 哀宗 天興元年3月
1232年汴京戸部侍郎の楊居仁を遣わし、金帛を持たせてモンゴル軍に和議を請い、甲子の日に天興と改元した。金史 卷017 哀宗 天興元年4月
1232年汴京飛虎軍の兵士申福らがモンゴルの使者唐慶ら30余人を館で殺し、和議は途絶えた。金史 卷017 哀宗 天興元年7月
1232年京水完顔思烈が京水でモンゴル軍と遭遇して敗れ、合喜は輜重を捨てて逃走した。金史 卷017 哀宗 天興元年8月
1232年哀宗は汴京を離れ黄河の北へ向かい、黄城に駐屯した。金史 卷018 哀宗 天興元年12月
1233年衛州平章の白撒が軍を率いて衛州を攻めたが勝てなかった(のち白公廟でモンゴル軍に大敗)。金史 卷018 哀宗 天興二年正月
1233年歸德白撒の計略で哀宗は夜中に六軍を捨てて黄河を渡り帰徳へ逃げ、翌日諸軍は散り散りになった。金史 卷018 哀宗 天興二年正月
1233年汴京崔立が反乱し、完顔奴申らを殺して、太后に梁王を立てさせ、モンゴル軍の前で降伏の意を伝えた。金史 卷018 哀宗 天興二年正月
1233年青城崔立は青城で梁王従恪・荊王守純ら宗室500余人を殺した。金史 卷018 哀宗 天興二年4月
1233年蔡州蔡州へ移ることが決まり、蔡州に入城した。金史 卷018 哀宗 天興二年6月
1233年蔡州モンゴル軍は長い堡塁を築いて蔡城を包囲した。金史 卷018 哀宗 天興二年9月
1233年蔡州モンゴル軍と宋軍が水路を開いて蔡州を攻撃し、モンゴル軍は外城を破った。金史 卷018 哀宗 天興二年12月
1234年蔡州南面の守備兵が門を捨て大軍が入城、市街戦の末、末帝(承麟)は乱兵に殺され、金は滅亡した。金史 卷018 哀宗 天興三年正月

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金史 — 中文維基文庫(zh.wikisource.org) 編者, CC BY-SA 4.0 (원저작 PD). 대목 나누기·정리: 지도 프로젝트

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