『フロワサール年代記』

『フロワサール年代記』(正史 の史料)。扱う年は1325年 〜 1401年、出来事647件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点外側の視点
扱う年1325年 〜 1401年
出来事の数出来事647件・地図に置いた397件
原題Chroniques de Froissart

地域の内訳: 西ヨーロッパ 608 · 南ヨーロッパ 21 · 西アジア 3

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1325年 〜 1400年Rouenフランス王がルーアンに来て、騒いでいた市民をなだめた。王の城代殺しを赦し、市民は毎週金フローリン貨を納めることに同意した。L100-102
1325年 〜 1400年イングランドの騎士 li Canonnes とその一味がピエール城を占拠し、城を修理して砲兵を配置し、弓兵40人を残した。L393-396
1325年 〜 1400年Brusselsブラバント公と公妃はブリュッセルを出発した。百人の槍騎兵が護送し、ヘントを経てブリュージュに至り、フランドル伯が出迎えた。L565-572
1325年 〜 1400年アンジュー公とその部隊がプーリアに入った。前の段落では、公が山を越えて戦闘員3万人を連れてきたとされている。L838-844
1325年 〜 1400年城の隊長がイングランドの弓兵の矢に射られて死に、守りが崩れて城は陥落し、城内の人々の大半が殺された。その後、軍はセビーリャ方面へ進軍した。L1140-1149
1325年 〜 1400年Lisbon王の伝令官がリスボンに着き、ポルトガル王に戦いを求める意向を伝えた。L1517-1525
1325年 〜 1400年ポルトガル王は戦いを避けたことを弁明し、イングランド人とランカスター公のせいだとした。L1667-1673
1325年 〜 1326年Parisイザベル王妃は兄のシャルル4世に、夫エドワード2世とヒュー・スペンサーの迫害を訴えた。シャルルは妹を抱き寄せ、奥の部屋へ連れて行った。L2438–2498
1325年 〜 1400年Saint-Sauveur-le-Vicomteサン=ソーヴール=ル=ヴィコントの包囲が始まる。part70 L330-331
1325年 〜 1400年Bécherelベシュレルを奪ったのち、フランスの元帥(コンネタブル)と元帥たちがサン=ソーヴール=ル=ヴィコントの包囲に出る。part70 L438-439
1325年 〜 1400年Saint-Pol-de-Léonイングランド軍がサン=ポル=ド=レオンを強襲で陥落させ、町を掃き払って略奪・破壊する。part70 L583-586
1325年 〜 1400年Saint-Mahieu (Saint-Mathieu)イングランド軍が船から上陸し、サン=マエウの城塞を強襲で陥落させ、中の守備兵は全員戦死する。町はブルターニュ公を受け入れる。part70 L621-627
1325年 〜 1400年Saint-Brieucブルターニュ公がサン=ブリユーの包囲に出る。復活祭の前に救援がなければ、町と城をフランスに引き渡すことが取り決められる。part70 L803-806
1325年 〜 1400年Nouveau-Fortジャン・デヴルーがカンペルレ近くに「ヌーヴォ・フォール」を築き、周辺を略奪する。part70 L1056-1060
1325年 〜 1400年Quimperlé (Camperlé)ブルターニュ公とイングランドの諸侯がカンペルレの包囲を開始し、強襲を仕掛けた。part70 L1318-1321
1325年 〜 1400年Quimperlé (Camperlé)休戦が布告され、カンペルレの包囲は解かれた。城内の諸侯は喜んだ。part70 L1345-1349
1325年 〜 1400年Saint-Sauveur-le-Vicomteフランスの援軍が来なかったため、サン=ソヴェール守備隊は期限後にフランス諸侯に降伏した。part70 L1434-1440
1325年 〜 1400年Westminster (London)リチャード2世が、ウェストミンスター宮殿と礼拝堂で国王として戴冠した。part70 L2382
1325年 〜 1400年Dublinアイルランドの四人の王が戦うことなくリチャード王に服従した。ダブリン(デュヴリン)でイングランド王に屈した。part_75:1045-1048
1325年 〜 1400年Dulnestreイングランド軍とアイルランド軍がデュルネストル近郊で戦った。イングランド軍が勝ち、アイルランド王Arthur Maquemuireは逃亡した。part_75:1135-1136
1325年 〜 1400年王妃アンの死の知らせが語り手アンリに届き、出航が遅れた。part_75:1349-1349
1325年 〜 1400年Armeniaトルコ人バヤジッド(別名アムラト・バキン)がアルメニア王国を征服した。part_75:2209-2210
1325年 〜 1400年二人の騎士は二年以上も危険の中にあったが、国王は彼らを殺させなかった。part_75:2331-2332
1325年 〜 1400年Aulroyシャルル・ド・ブロワの息子、ブルターニュ伯ジャン・ド・ブルターニュがオルロワの戦いで戦死した。part_75:2487-2487
1325年 〜 1400年オリヴィエ・ド・クリソンは公爵の命令で部屋に閉じ込められ、死にかけた。part_75:2612-2613
1325年 〜 1400年Paris捕虜はパリのシャトレに連行され、裁判と処罰を受けた。誰がどんな罪を犯したかはこの断片の外である。L338-339
1326年Boulogneイザベル王妃は、息子、ケント伯、ロジャー・ド・モーティマーとともに、巡礼を口実に船で出発し、ブーローニュ港に着いた。L2326
1326年ブリストル城の前で Huon le fil が処刑された。引きずられ、斬首され、絞首刑にされるという三つの方法で。王が見届けた。part_34.txt 줄 1879
1326年 〜 1327年トマスは王をブリストルからバークリー城へ連れて行き、厳重に監視した。本文によれば、王は長くは生きられなかった。part_34.txt 줄 2151
1326年 〜 1327年廃位された王はバークリーで死んだ。伝えられるところでは人々が彼の命を早めたという (on li acourça sa vie)。part_34.txt 줄 2151
1326年 〜 1327年Bristolブリストルの住民は包囲の下で降伏し、城門を開いた。城内の人々は王妃側と条件付きの協定を結んだ。본문 줄 1071–1075
1326年Londonエドワード3世が16歳のとき、ウェストミンスター宮殿で戴冠した。본문 줄 1242–1246
1327年Westminsterウィンザーのエドワードがウェストミンスターでイングランド王として戴冠した。L302·L332–336
1327年Stirlingスコットランドのロバート・ド・ブルースは、スターリング前の戦いでイングランド軍を破った。L606–614
1327年 〜 1365年若いイングランド王は、スコットランド軍を追うため、軍を三つの部隊に編成した。L1827–1834
1327年八月初めの夜、イングランド軍とスコットランド軍は互いに向かい合って陣を張った。スコットランド軍は大きなかがり火と角笛で一晩中騒ぎを起こした。줄 445–460
1327年Bristolエドワード二世はブリストル城で捕らえられ、バークリー城の牢で死に、十四歳のエドワード(三世)がウェストミンスターで即位する。p58 l.1545–1550
1328年フランスの諸侯は、フランス王国は女性には継承されないとの理由で、王冠をイングランド王妃でシャルル4世の妹であるイザベルに与えなかった。L2124–2132
1328年Wissantエノー伯の娘フィリッパは、ウィッサンから船出してドーバーに着き、叔父ジャン・ド・エノーの護衛のもとロンドンの夫のもとへ向かった。줄 1609–1612
1328年ダグラスが去ったあと、イングランド王は妹イザベルをスコットランド王デイヴィッドのもとへ送り、婚姻が成立した。줄 2206–2214
1328年シャルル4世は臨終の床で側近を呼び、王妃が男子を産めばその子を戴冠させ、女子であれば王位を正しく定めるよう託した。줄 2384–2396
1328年Reimsフランスの十二人の諸侯は、ヴァロワ伯フィリップを王に立てることにし、ランスで聖別・戴冠式を行おうとした。줄 2424–2431
1328年Reimsフィリップ6世はランスのノートルダム大聖堂で聖別・戴冠を受けた。諸侯はそれぞれ役目を分担し、フランドル伯だけが身を引いた。L7-14
1328年Casselカッセルの戦い — フランドル軍が敗れて多くの戦死者を出し、エノー伯側がカッセルの丘の上に旗を立てた(戦死者数は原文どおり「XV」)。L215-227
1328年シャルル4世の死後、フランスの諸侯は、ヴァロワ伯の子フィリップ・ド・ヴァロワを王に選んだ。L617–620
1328年 〜 1347年Aachen (Aix-la-Chapelle)バイエルン公ルートヴィヒはアーヘン(エクス=ラ=シャペル)を四十日間包囲した。選帝侯はルートヴィヒを選んだが、フランス王フィリップとフランスの諸侯は、ボヘミアのカールを皇帝に立てようとして妨害した。part_39 L82–84
1328年Romeルートヴィヒはローマの人々の意向を借りて、一人の教皇と十二人の枢機卿を立て、その教皇から皇帝の戴冠を受けた。part_39 L123–125
1328年Mont Casselカッセル山に陣を張る王の陣営の下へ、フランドル人たちが指揮者なしに三つの隊列で山を下り、突撃する。part_41 l.2021–2028
1328年Parisフィリップ・ド・ヴァロワ(フィリップ6世)がパリで戴冠した。聖霊降臨の主日である。본문 줄 1953–1957
1328年Casselカッセル山での戦い。フランス王の旗が山の上に立てられた。본문 줄 2010–2013
1329年ロバート・ブルースは死に際して、臣下に息子デイヴィッドのために国を守るよう命じ、ダグラスには別に託した。줄 1769–1779
1330年 〜 1331年Sluis (l'Escluse)ダグラスはスコットランドのモレイ港から船出し、フランドルのスリュイスに着いて滞在した。スペインへ向かう途中であった。줄 2112–2116
1330年 〜 1331年ダグラスはグラナダ王と戦ったとき、ロバート・ブルースの心臓を携えたまま戦死した。ほかの王たちは戦わなかった。줄 2158–2176
1330年Londonエドワード3世はモーティマーを逮捕してロンドンへ連行し、多くの諸侯の前でその行状を読み上げ、判決を求めた。L1136-1137
1330年 〜 1331年ロジャー・モーティマーが処刑された。ヒュー・ディスペンサーと同じ死に方であった。본문 줄 2053–2056
1331年Yorkエドワード3世と王妃はヨークに来て滞在した。8月1日、イングランド全域に集結命令を発し、スコットランド遠征の準備を進めた。L2171-2178 (1판; 4판 L2212-2219 은 같은 일)
1332年 〜 1334年Bervichあの勇猛なロベール王は失っていた城と町を取り戻し、力と言葉によってバーウィックまで進んだ。エドワード王は怒り、軍を招集した。L1435–1440
1333年Berwick-upon-Tweedエドワード3世はバーウィックの町と城を占拠して入城した。L2035-2037 (1판)
1333年Dunbarイングランド軍はバーウィックの包囲を計画したが、海岸沿いの道を迂回してダンバーに至り、五日間攻撃した。L53–54
1333年Bervich休戦の条件:十五日以内にスコットランド王が来て包囲を解かなければ、バーウィックをイングランド王に明け渡す。L143–147
1333年 〜 1341年救援の見込みが立たず、要塞の守備側は十五日間の休戦に応じた。その間に救援がなければ、要塞を王に明け渡すという。L1261–1267
1333年Berwickエドワード3世がベリックを包囲し、スコットランド軍から奪還した。본문 줄 2175–2177
1334年Rosebourchロクスバラを包囲中、若い騎士ギヨーム・ド・モンタギューは城門での戦闘で勇敢さを示した。L352–353
1336年Valenciennesエノー伯の子ギヨームがヴァランシエンヌで騎士に叙され、イングランド人やエノー・ブラバントの人々が大規模な馬上槍試合と祝宴を催した。続いて、ギヨームはブラバント公の娘ジャンと結婚した。part_39 L883–885
1337年 〜 1340年ロベール・ダルトワはイングランド王をそそのかし、フランス王位を主張させた。フィリップ・ド・ヴァロワにはその権利がないという論理であった。L2039–2042
1337年Londonイングランド王の命令により、諸侯・騎士・聖職者・都市の代表が、ミカエル祭の日にロンドンでの集会に全員応じた。part_39 L1765–1766
1337年Penneボルドー側の部隊は、フランス軍が包囲していたペンヌ要塞を救援するため出撃することに決めた。part_39 L2212–2213
1337年Valenciennesエノー伯ギヨームは六月、ヴァランシエンヌの館で死去し、同じ市内のコルドリエ(フランチェスコ会)教会に葬られた。part_39 L2262–2263
1337年Blayeフランスの諸侯はブライの包囲を続けた。包囲軍はボルドーから陸路と水路で補給を受けた。part_39 L2377–2378
1337年 〜 1345年Blavesその時、ブラーヴ(Blaves)の町が占領された。直前の一節は人々が全員捕らえられたという内容(OCRで文字が不鮮明)。part40:18
1337年 〜 1345年Sebilachセビラック攻囲を扱うと予告する。陥落の経緯を語る章の冒頭である。part40:43-45
1337年 〜 1345年Bordeauxセビラック陥落ののち、Rollers d'Artois はボルドーへ戻った。part40:95-97
1337年 〜 1345年Gandクールトリシアン領主が死ぬと、その知らせがジャクモン・ダルテヴェルに届いた。伯が密かに自分を殺すのではないかと恐れ、ヘント(Gand)のすべての支配者になろうとした。part40:723-724
1337年 〜 1345年ある町を占領・略奪して火を放ったのち、イングランド側は戦利品と捕虜を船に積んで引き揚げる。part40:1087-1090
1337年Cadzandイングランド軍がカドザント島(Cadzand)でフランドル軍を破った。ギー・ド・フランドルが捕虜となった。原文は約3,000人が戦死したと記す。L25–L36
1337年 〜 1339年Cambraiイングランド王側の諸侯とフランドル軍がカンブレを包囲し、何度も攻撃したが陥落させられなかった(約5週間)。L484–L573
1338年 〜 1340年Gaiantガイアン港への上陸は激戦となった。そこのフランドル守備兵が強く防いだためである。part40:1058-1059
1338年 〜 1340年Gagaînt(섬)ガガーン島(Ille de Gagaînt)への上陸をめぐる大きな戦い。ダービー伯とゴーティエ・ド・モーニー卿が参戦した。part40:1211-1214
1338年Coblenceコブレンツで帝位の座に就いて三日間宮廷が開かれ、イングランド王が帝国代理人(vicaire)として立てられた。part40:2296-2301
1338年Southampton海賊の一団がサウサンプトンに侵入し、人々を殺して物を奪い、町に火を放った。戦利品を船に積んでノルマンディーへ戻り、捕虜を取って身代金を受け取った。part_41 l.161–169
1338年 〜 1340年La Réoleフランス側がガスコーニュのラ・レオル城を降伏させ、ガスコーニュの騎士レモン・セギンを守備隊長に据える。part_46.txt:39-43
1338年 〜 1340年Londonエドワード3世はロンドンの波止場から船四隻で出発し、フランドル・ゼーラント・ホラントの海岸沿いに進んだ。본문 줄 2353–2357
1339年 〜 1340年Arrasエドワード3世の軍がエスダン方面へ進むと、アラスの住民は包囲を恐れた。줄 526–530
1339年Valenciennesブラバント公がカンブレー前での合流を約束したのち、エドワード3世はニヴェルとモンスを経てヴァランシエンヌへ向かう。part_42 줄 1642
1339年Cambraiカンブレーの包囲が続くなか、若いエノー伯ギヨームが土曜日、自国の兵を連れて到着する。part_42 줄 1904
1339年Honnecourtオンヌクールへの攻撃は一日中続いた。中にいた十一人の貴族が守らなければ、町は陥落するところだった。part_42 줄 2376
1339年村は突撃で陥落し、物が奪われる。修道院も損なわれた。ドイツ人とフォークモン領主の手下による。part_42 줄 2396
1339年Guiseフランス王国の入り口にある要塞、ギーズ・リベモン・ボアンへ、さらに兵を送る。part_42 줄 2528
1339年Péronneフランス側はヴェルマンドワ方面のペロンヌへ下りて大軍を集め、ソンム川沿い、サン・カンタンとペロンヌの間に留まる。L2–6
1339年Mont-Saint-Martin 수도원イングランド王はモン=サン=マルタン修道院に滞在し、配下はバパウムやペロンヌ近くまで出て土地を略奪する。L8–10
1339年Saint-Quentin軍はサン・カンタンの丘に戦列を組んで立っており、町の中の人々もはっきり見ることができる。L104–105
1339年Saint-Quentinフランス王はサン・カンタンを発ち、できるだけ大きな軍を率いて、イングランド王を間近に追い、戦おうとする。L214–216
1339年Bernotイングランド王はオワーズ川に沿って下り、ベルノ村で川を渡る。L364–365
1339年Saint-Quentinフランス王はサン・カンタンへ戻り、全軍に暇(コンジェ)を与えて解散させる。L997–998
1339年Vironfosseフランス王はサン・カンタンを発ち、イングランド軍を急いで追い、ヴィロンフォスに至る。L1344–1347
1339年Antwerpen(앤트워프)イングランド王は従兄のブラバント公と別れ、アントウェルペンへ戻る。L1879–1880
1339年 〜 1340年Calaisフランス海軍はカレー・ブーローニュ・クロトワ・ディエップなどの海岸を巡って略奪し、イングランドは恐れる。L1993–1994
1339年Buironfosseイングランド王とフランス王がビュロンフォスで対峙したが、戦闘のないまま日が暮れた。イングランド軍は撤退した。L792–L800
1339年 〜 1340年Southamptonフランス側の海賊とジェノヴァ船団がハンプトン(Hantone)沿岸に上陸し、一日中略奪・放火して住民を殺した。L862–L878
1339年 〜 1340年Haspresカンブレの兵士らが報復としてエノー(Hainaut)を略奪しに出ることを望んだ。本文はハスプル(Haspres)の略奪の箇所である。L1010–L1030
1339年Brusselsエドワード3世がヴィルヴォルドを発ち、ブリュッセルへ向かいブラバント公と会おうとする。Kervyn 18권 줄 4715~4715
1339年Brusselsブラバント公は、エドワードがカンブレーを包囲するなら、兜1,200と兵2万を率いて合流すると約束する。Kervyn 18권 줄 4888~4888
1339年Mons9月、エドワードはモンスで2日間休み、義兄格(若い伯=エノー伯)の歓待を受ける。Kervyn 18권 줄 4901~4903
1339年Valenciennesエドワードはバランシエンヌにモンス門から入り、伯の案内で市庁舎(サル)に入る。Kervyn 18권 줄 4923~4924
1339年Valenciennes市庁舎の階段で、リンカーン司教が、カンブレー司教(不在のため返答なし)に町を開くよう求め、エノー伯には皇帝代理としてエドワードに仕えるよう勧める。伯は従うと答える。Kervyn 18권 줄 4749~4750
1339年Haspre翌日、エドワードはハスプルへ向かい、2日間留まって後続の部隊を待つ。Kervyn 18권 줄 4842~4843
1339年Cambraiエドワードはカンブレーを四方から包囲し、兵力は増え続ける。Kervyn 18권 줄 4972~4972
1339年Péronneブラバント公が、ペロンヌに滞在するフランス王に挑戦状(デフィアンス)を送る。Kervyn 18권 줄 4982~4983
1339年Cambraiカンブレー包囲中、頻繁な攻撃と小規模な交戦が続く。騎士たちはカンブレジを駆け回って土地を焼き、要塞を攻める。Kervyn 18권 줄 4995~4996
1339年Oisy-en-Cambrésisイングランド側の騎士たちがオワジー城に大攻撃をかける。中にいたクーシー領主側の者たちが防ぎ、損害はなかった。p125 줄 2–7
1339年Haspresイングランド王はハスプルに2日間滞在した後、ナーヴ経由でカンブレー方面へ発つ。p125 줄 100–102
1339年Cambraiイングランド王がカンブレーの町を四方から包囲した。兵は日ごとに増え、エノー伯が大軍を率いて到着した。p125 줄 102–105
1339年Origny-Sainte-Benoîteオリニーに大攻撃を加えて町を陥落させた。守備隊は農民などの戦闘に不慣れな者たちで、村々は略奪された。p125 줄 546–550
1339年Buironfosseリブモン近郊で損害を与えた後、大軍がビュイロンフォスに近づくと、ティエラシュの人々は森へ逃げた。p125 줄 603–606
1339年Crécy-sur-Serre帰路、城壁のない大きな町クレシー=シュル=セールを焼き払った。p125 줄 869–875
1339年Guise先鋒がバリケードの守備兵を攻撃して突破した。守備兵は住民とともに要塞の中へ退いた。p125 줄 1140–1148
1339年イルトン村を略奪して焼き、続いてボンウェを焼いた。その後ルヴィオン=アン=ティエラスへ向かう。p125 줄 1203–1207
1339年Avesnes-sur-Helpeイングランド王とブラバント公はアヴェヌ近くで一夜を過ごし、翌日解散して帰った。イングランド王はブラバントへ戻った。p125 줄 2090–2097
1339年 〜 1340年Cambraiジル・グリニャール・ド・モーニーがほぼ毎日カンブレーの城門前に来て、町を圧迫した。l.523–529
1339年 〜 1340年Haspre真夜中、カンブレーの歩兵・騎兵がアスプル村を奇襲し、人々を寝床から捕らえた。l.1011–1015
1339年 〜 1340年エノー伯は三つに分かれた陣営の第一の戦いを担当した(第二はボーモン領主、第三はフォークモン領主)。l.1456–1462
1339年 〜 1340年戦いの後、ヴィスダム側の騎士たちが捕らえられ、ヴィスダムは馬で逃げた。l.1363–1364
1340年 〜 1400年Roxburgh(본문 Rosebourch)スコットランド軍が梯子を携えて、ロクスバラ(本文ではRosebourch)とベリック(Berwich)を奇襲した。줄 566–573
1340年Sluys (L'Écluse)スリュイス(レクリューズ)沖の海戦。イングランド王の艦隊がノルマン・フランス側の艦隊を破る。Hues Kiérès、Pierres Bahucès らが戦死し、Barbenoire は舟で逃げる。L1989~1990
1340年Tournaiフランドル側が攻城装置を船に積み、スヘルデ川を使ってトゥルネーを攻撃する。一日中続いた攻撃で、両軍に多くの負傷者が出る。L2235
1340年Tournai王はトゥルネーの包囲を解きに行くことを決める。トゥルネーを失えば大きな損失だと考えたのだ。part_46.txt:571-574
1340年Tournaiドイツ騎士二人とフラスヌ領主がトゥルネー包囲陣営に来て、エノー伯に歓待される。part_46.txt:910-913
1340年スヘルデ川に多く打ち込まれた杭を抜く作業員たちが、苦労して働く。part_46.txt:1419-1421
1340年ヴァランシエンヌ側の攻撃は一日中続いたが、内側の傭兵を突破できず、攻撃側に多くの死傷者が出る。part_46.txt:1771-1775
1340年 〜 1341年モンモランシーの旗の下の騎士たちが貴族の捕虜を捕らえ、橋を無事に渡って陣営へ戻る(捕虜の数はOCRの表記が不明瞭)。part_46.txt:2182-2186
1340年休戦期限を1341年3月初めまで延長する。その間、住民は平和を期待する。L907–909
1340年 〜 1341年枢機卿たちの仲介は失敗し、休戦を二年延長するにとどまる。L1134–1136
1340年 〜 1341年Limogesリモージュとリムーザンを占拠し、相続地として掌握する(主語は本文では不明)。L1592–1593
1340年 〜 1341年要塞の指揮官ガルニエが死去。守備兵は落胆し、モンフォール伯は喜ぶ。L2016–2018
1340年 〜 1341年人々は彼を指導者(chapitainne)に選ぶ。L2301–2303
1340年Tournaiエドワード3世はトゥルネーの包囲を終えて去る。話はスコットランド側へ戻る。part_49 L296–298
1340年 〜 1341年Roxburghイングランド王はロクスバラの包囲を解く。両陣営の司教が仲介し、休戦に合意する。part_49 L537–553
1340年Sluysエドワード3世のイングランド艦隊がスルイス(l'Escluse)沖でフランス艦隊を大破した。原文は4万余人が死んだという。L1648–L1668
1340年 〜 1341年Tournaiイングランド王側の諸侯がトゥルネーを包囲し、ブラバント公・ゲルデルン公などの連合軍が集結した。L1734–L1743
1340年 〜 1341年Espléchinエスプレシャンの休戦交渉。仲介者8名(イングランド側4・フランス側4)が交渉にあたった。L1970–L1978
1340年 〜 1342年불명フランス貴族会議(ペール・ド・フランス)の判決が出た。フランス王は甥シャルルにブルターニュの相続権を譲り、モンフォール伯を敵と指名した。L2415–L2426
1340年Tournai1340年8月初め、イングランド王(エドワード3世と読む)、エノー伯、フランドルの連合軍がトゥルネーの包囲を始める。part107 L190-192
1340年Tournai包囲中、フランス王の側がトゥルネーに守備隊を入れて駐屯させる。part107 L216-217
1340年Saint-Amand同じ日、伯・イングランド軍・フランドル軍がサン=タマンを襲い、城壁から先に入って修道院と町を焼く。part107 L236-239
1340年Tournai包囲中、トゥルネー側のジラール・ド・マリヌが城門の外へ出撃する。part107 L257
1340年Séclin8月10日、エノー伯が大軍を率いてセクランを焼く。part107 L337-339
1340年불명サン=タマン付近、アルジリエールへの道の上でフランドル軍が戦闘隊形を組む。part107 L340-341
1340年Tournai包囲中で最大の攻撃。橋と城門で激戦があり、数人が負傷する。part107 L659-660
1340年Tournaiヘントの会議でトゥルネー包囲が決まった。フランドルの人々はこれを歓迎し、トゥルネーを得ればリール・ドゥエ・ベチューンも続いて得られると見ていた。p125 줄 2536–2544
1340年Saint-Quentinノルマンディー公は父王の命によりパリを発ち、サン=カンタンへ向かった。part_127 L150-152
1340年Werchinヴェルシャン城への攻撃。二日目には大攻撃と交戦があった。part_127 L574-575
1340年Escaudœuvreノルマンディー公はエスコー川畔、エスコードゥーヴル城の前に包囲陣を張った。part_127 L1417-1419
1340年Thun-l’Évêqueノルマンディー公はテュン=レヴェーク城の前に陣を張り、石を投げる攻城具を用意した。part_127 L1948-1952
1340年L'Escluse (Sluys)エクリューズ(スライス)沖の海戦。船から船へ乗り移って戦い、ヒュー・キエレス、ピエール・バユセらが死んだ。l.255–308
1340年Cambraiノルマンディー公は大軍を解散させ、リール・ドゥエ・トゥルネーに守備隊を置き、自身はカンブレーへ退いた。イングランド王がトゥルネー包囲に来るという噂があった。l.956–962
1340年Tournaiイングランド王側の軍がトゥルネーを包囲した。本文によれば包囲は11週間続き、外側の包囲軍は補給が豊富だったという。l.1417–1418; 1816–1817
1340年La Réoleラ・レオル城と町は合意により引き渡された。フランス側が入城して忠誠の誓いを受け、ガスコーニュの騎士レモン・セニをそこに置いた。l.1762–1766
1340年Auberoche「ライユ伯」の軍がオベロシュを包囲し、四方から攻撃した。城内はイングランド王側のエリス・ド・ピュミエが守った。l.1771–1779
1340年Tournaiドイツ人騎士二人とフラスヌ領主が手勢を率いてトゥルネー包囲陣に到着し、エノー伯が歓迎した。part129 L135–137
1340年Mortagneモルターニュの工兵がヴァランシエンヌ側の投石機を調べ、石を三度撃った。最初の石は投石機から約12歩の外に落ちた。part129 L592–595
1340年Tournaiエノー伯はトゥルネーの包囲を解いて退いた。part129 L939–939
1340年Mortagneエノー軍はモルタンの前で幾日も昼夜粘ったが何も得られず、トゥルネーの包囲へ戻る意向だった。ヴァランシエンヌの市民は帰宅を許された。part129 L1018–1021
1340年Mortagneモルタン側で交戦が起きた。前後の列が分断され、詳細は未確認。part129 L1181–1181
1340年Marchiennes伯と叔父たちはトゥルネーの包囲を離れ、マルシエンヌを攻めて町を焼いた。修道院はドゥエから派遣された部隊が守った。part129 L1310–1312
1340年Tournaiトゥルネーの包囲は長く続いた。城は攻撃では容易に落ちなかった。part129 L2229–2229
1340年 〜 1341年Tournaiトゥルネー城の前で両王の陣営が休戦(trieuwes)を結び、公布した。休戦期限は「MCCC XLII」年三月初めまで。idx 172-178; 677-678
1340年 〜 1341年Chartresブルターニュ公は帰国途上で病に倒れ、シャルトルで死んだ。子はなかった。そのため相続争い(シャルロン・ド・ブロワとモンフォール伯)が続いた。idx 817-823; 543-555
1340年 〜 1342年Brestブレスト:守備隊長ガルニエが死ぬと守備兵は散り散りになった。モンフォール伯は喜び、恩赦を約して守備隊と交渉した。idx 1356-1366
1340年 〜 1342年Rennesレンヌ近郊で大きな戦いがあった。双方が力を尽くして戦った(「grant bataille et fort combatirent」)。idx 1437-1447
1340年 〜 1342年Jugon-les-Lacsジュゴン近郊の戦い。イヴォンは救出され、アモーリ・ド・グリシオンとその一行は死ぬか捕虜となった。以後、ジュゴン城に戻った者はいない。idx 2162-2172
1340年 〜 1341年Chastonsealノルマンディー公ら仏諸侯が、ブルターニュ入口にあるモンフォール伯の防衛拠点、シャトノー(Chastonseal)城を包囲し、四方から幾度も攻撃した。1212–1215줄
1340年 〜 1341年Chastonseal守備側は救援が来ないことを悟り、生命と身体の保障を条件に降伏した。フランス諸侯はこの城を最初の戦果として得た。1245–1246줄
1340年 〜 1341年Carquefouフランス元帥たちがナントから四リューの距離にあるカルクフー町を攻撃した。町は陥落・略奪され、多くが殺され、半分が焼かれた。1391–1396줄
1340年 〜 1341年Nantesエルヴィス・ド・リオンとナントの人々は追われ、城門へ追い込まれた。町の前で激しい接戦となった。1458–1471줄
1340年 〜 1341年Nantesナントの市民と合意し、諸侯は市内に入って邸と宮殿でモンフォール伯(ジャン・ド・モンフォール)を捕らえ、城外の天幕へ移した。市民の財産と身体には手を出さなかった。1880–1881줄
1340年 〜 1341年Rosebourchスコットランド軍がRosebourch城を包囲中だった。2242–2242줄
1340年 〜 1341年Rosebourchスコットランド軍は陣営に火を放ち、Rosebourch 包囲を解いて森のほうへ去った。その知らせはイングランド王に伝わった。2286–2287줄
1340年 〜 1341年Tournaiイングランド軍はトゥルネーの包囲を解いて撤退した。2376–2376줄
1340年 〜 1341年Stirling両者の間で1341年5月1日までの休戦が結ばれた。スターリング城は休戦の外に置かれた。両軍は解散し、イングランド王は帰国、スコットランドは冬の間平和となった。2455–2456줄
1340年 〜 1341年Ettrick(Qedours)スターリング陥落後、スコットランド貴族たちはエトリック森(Qedours)へ退いていたが、イングランド王が大軍を率いてニューキャッスル(Noef-Chastid-sur-Thin)に留まっているとの知らせを聞いた。2463–2464줄
1341年 〜 1346年Durhamノーサンバーランドの領地を通り、略奪と放火を行い、ダーラム市も焼き払う。part_46.txt:218-222
1341年 〜 1346年ダグラス側の少数の者が門番を殺して鍵を奪い、門を開ける。ダグラスが角笛を吹く。part_46.txt:410-413
1341年 〜 1343年Rochepériotモンフォール伯がロシュペリオ城の前で八日間包囲するが、城を奪う方法が見つからない。part_48 l.264–269
1341年 〜 1343年ブルターニュ公が死ぬと、モンフォールは相続を主張して公国を手中に収める。part_48 l.1004–1010
1341年 〜 1343年大軍は三つの部隊(three battles)に分かれて進む。先鋒には五槍の騎士などがいる。part_48 l.1799–1808
1341年 〜 1343年Nantesナントの包囲が続く。冬が近づき、長くは持ちこたえられないと判断されるなかで、包囲は続く。part_48 l.2356–2358
1341年 〜 1343年Parisモンフォール伯は捕虜となり、二百槍の護送隊に乗せられてパリへ送られ、フランス王フィリップに引き渡される。part_48 l.2416–2420
1341年Nantesノルマンディー公はナントの町をシャルル・ド・ブロワに引き渡し、彼を公爵に据える。part_49 L99–103
1341年 〜 1342年Hennebont彼女は息子とともに海辺の町に冬の間ずっと留まり、守備隊の世話をし、給料を気前よく支払う。part_49 L292–295
1342年Dinan包囲された町の住民は力ずくで奪われることを恐れて休戦を結び、降伏を協議した。援軍が来るまで二、三日は持ちこたえられるという意見もあった。part_92 줄 443
1342年Hennebontシャルル・ド・ブロワがグラエ(Graais)の要塞を降伏させた後、エンヌボン(Hennebont)の前の包囲を再開することにした。フランス王は兵をさらに千人送った。part_92 줄 649
1342年Vannesイングランド王がヴァンヌ城に到着し、包囲を始めた。モンフォール伯夫人とゴーティエ・ド・モーニーが礼を尽くしに来て、エンヌボンへ戻った。part_92 줄 874
1343年Malestroit両枢機卿の仲介協定により、各自が占領地を保持することになり、ヴァンヌはシャルル・ド・ブロワに返された。クリソンとスタッフォード男爵は捕虜を交換した。part_92 줄 1093
1345年ダービー伯がオーベロッシュ城に迫ると、城主は怖気づき、城を明け渡して立ち去ることを願い出た。part_92 줄 1493
1345年エノー伯が船でフリースラントに上陸し、現地軍と戦ったが、伯と多くの貴族が戦死した。part_92 줄 2063
1346年Blanquetaque夜明けにイングランド軍はブランケタックの浅瀬に着いたが、川は満ちていて渡れなかった。王は後から続く軍を待った。part_15 줄 1–8
1346年Le Crotoyイングランド軍はクロトワの村を容易に占領して略奪し、牛・羊・豚とワインを積んで陣営に戻った。part_15 줄 401–412
1346年Crécy-en-Ponthieuフランス王は斥候を送り、イングランド軍がクレシーの野の外に陣取っていることを確かめた。戦いになると聞いて王は喜んだ。part_15 줄 670–681
1346年Crécy-en-Ponthieuイングランドの王太子の「バタイユ」は、騎士約1200・弓兵4000・ウェールズ兵1000の規模で隊列を整えた。part_15 줄 919–930
1346年Abbeville土曜日、フランス王はアブヴィルの城門を出て大軍を率いて進発した。part_15 줄 1096–1107

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原文のライセンスと出典

원문: Froissart, Chroniques (Kervyn de Lettenhove 판, Bruxelles 1867-77). archive.org OCR(djvu.txt) 그대로, 글자 교정 없음.

퍼블릭 도메인 (19세기 판, archive.org 스캔)

https://archive.org/details/oeuvresdefroiss01belggoog

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