高麗史節要(正史 の史料)。扱う年は918年 〜 1392年、出来事98件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。
| 区分 | 正史 |
|---|---|
| 視点 | 内側の視点 |
| 扱う年 | 918年 〜 1392年 |
| 出来事の数 | 出来事98件・地図に置いた91件 |
| 著者 | 金宗瑞 等 |
| 原題 | 高麗史節要 |
地域の内訳: 朝鮮半島 86 · 中国 10 · 日本 2
| 年 | 場所 | 出来事 | 原文の位置 |
|---|---|---|---|
| 918年 | 鐵原 | 王建が布政殿で即位し、国号を高麗、年号を天授と定める | 권1 太祖神聖大王 元年 |
| 919年 | 開城 | 松嶽の南に都を定め、松嶽郡を開州に昇格させて市場・坊里・五部・六衛を置く | 권1 太祖神聖大王 二年 |
| 925年 | 寧安 | 契丹が渤海の都城・忽汗城を包囲して滅ぼし、東丹国と改める。渤海世子の大光顕ら数万戸が高麗に帰順 | 권1 太祖神聖大王 八年 |
| 927年 | 慶州 | 甄萱が新羅の王都を急襲して略奪し、王宮に居座る。新羅王は鮑石亭で遊んでいたが南の離宮へ逃れる | 권1 太祖神聖大王 十年 |
| 927年 | 大邱 | 王建が精鋭騎兵5千で公山桐藪で甄萱を迎え撃ち大戦するが不利となる。申崇謙・金楽が戦死し、王は辛うじて逃れる | 권1 太祖神聖大王 十年 |
| 934年 | 洪城 | 王みずから雲州を討つ。甄萱が甲士5千を送って和を請うが、庾黔弼が騎兵で突撃して3千余の首を斬り、熊津以北の30余城が降伏 | 권1 太祖神聖大王 十七年 |
| 935年 | 金堤 | 甄萱の長男・神剣が父を金山の仏宇に幽閉し、弟の金剛を殺す | 권1 太祖神聖大王 十八年 |
| 935年 | 開城 | 新羅王・金傅が百官を率いて開京に入る。王建は郊外で迎えて柳花宮に泊め、長女の楽浪公主を嫁がせる | 권1 太祖神聖大王 十八年 |
| 936年 | 善山 | 936年9月、王が三軍を率いて一善に至ると、神剣は一利川を挟んで陣を張る。後百済との最後の決戦 | 권1 太祖神聖大王 十九年 |
| 945年 | 江華 | 王規の謀反に気づいた恵宗は西京の大匡・王式廉と備え、王規を甲串に追放したのち人を遣わして斬り、一味300余人を処刑 | 권2 惠宗義恭大王 二年 |
| 947年 | 開城 | 契丹が侵攻しようとしているという崔光胤の書簡を受け、兵30万を選んで光軍とし、光軍司を置く | 권2 定宗文明大王 二年 |
| 958年 | 開城 | 光宗が翰林学士・双冀に科挙を任せ、詩・賦・頌・時務策で進士を選び、威鳳楼で榜を掲げる。初めて科挙を置く | 권2 光宗大成大王 九年 |
| 984年 | 刑官御史・李謙宜に鴨緑江岸へ関城を築かせるが、女真が阻んで李謙宜を捕らえる。軍は崩れ、帰還した者は3分の1 | 권2 成宗文懿大王 三年 | |
| 993年 | 安州 | 993年10月、朴良柔・徐熙・崔亮を上・中・下軍使として北界に遣わす。成宗が西京を経て安北府まで行ったとき、契丹の蕭遜寧が蓬山郡を攻め先鋒軍使・尹庶顔らを捕らえたとの報を聞く | 권2 成宗文懿大王 十二年 |
| 1010年 | 義州 | 契丹主が通州城外の農民を捕らえ、絹の衣と矢文を与えて興化鎮へ送り、降伏を勧めて康兆の引き渡しを要求 | 권3 顯宗元文大王 元年 |
| 1010年 | 安州 | 契丹軍が清水江に至ると、安北都護府使・朴暹が城を捨てて逃げ、住民が散り散りになる | 권3 顯宗元文大王 元年 |
| 1010年 | 平壤 | 契丹軍が西京を包囲し、契丹主は城西の寺に駐屯。西京副留守・元鍾奭らは降伏の表文を書き、将軍・大道秀は城を出て契丹に降る | 권3 顯宗元文大王 元年 |
| 1018年 | 義州 | 1018年、契丹の蕭遜寧が10万と称して侵攻。姜邯賛を上元帥として20万8千余人を寧州に駐屯させる。興化鎮で騎兵1万2千を伏せ、牛革で川を堰き止めて放水し大破。続いて慈州来口山で閔偕、馬灘で趙元が撃破 | 권3 顯宗元文大王 九年 |
| 1019年 | 龜城 | 1019年2月、契丹軍が亀州を通過すると、姜邯賛が東の野で迎え撃ち、風雨が北に吹いて大破。石川を渡り盤嶺まで追撃し、生還した者は数千に過ぎない | 권3 顯宗元文大王 十年 |
| 1052年 | 三陟 | 東女真の高之問らが海から来て三陟県の臨遠戍を攻撃。守将・河周呂が出て戦い、安辺都護判官・金崇貞のラッパの音に敵が驚き散り、10余の首を斬る | 권4 文宗仁孝大王 六年 |
| 1080年 | 定州 | 東蕃の乱で文正を判行営兵馬とし、歩騎3万が定州に駐屯。夜に三軍が分かれて敵の巣窟を攻撃し、392の首を斬り、首領39人を生け捕る | 권5 文宗 三十四年 |
| 1086年 | 開城 | 宋から帰った義天が礼成江に至ると、王が太后を奉じて出迎える。仏経1千巻を献上し、興王寺に教蔵都監を置いて遼・宋・日本から書籍4千巻を集めて刊行 | 권6 宣宗思孝大王 三年 |
| 1096年 | 漢陽 | 衛尉丞同正の金謂磾が道詵記を引き、三角山南の木覓壌に南京の都城を築き、時に応じて巡幸するよう上書 | 권6 肅宗明孝大王 元年 |
| 1104年 | 定州 | 林幹が定州城外で女真と戦って敗れ、死者は大半に及ぶ。拓俊京は敵将1人を斬り、捕虜2人を取り戻す | 권7 肅宗 九年 |
| 1107年 | 開城 | 睿宗が女真征伐を前に順天館の南門に出て軍を閲兵し、銀・布・酒・食べ物を賜う | 권7 睿宗文孝大王 二年 |
| 1107年 | 尹瓘が地界を分け、英州(950間)・雄州(992間)・福州(774間)・吉州(670間)に城郭を築く | 권7 睿宗文孝大王 二年 | |
| 1108年 | 1108年、女真軍数万が雄州城を包囲。崔弘正が四門を開いて出撃し大勝、80の首を斬り兵車50輌を得る。拓俊京は城を抜け出て援軍を率いて来る | 권7 睿宗文孝大王 三年 | |
| 1109年 | 女真が吉州城を包囲し、6つの柵を立てて攻撃。李冠珍が一晩で二重の城壁を築いて持ちこたえる。救援に向かった呉延寵は伏兵に大敗 | 권7 睿宗文孝大王 四年 | |
| 1109年 | 開城 | 1109年、睿宗が群臣を集め、女真に九城を返還するか議論。初めに聞いたのと違い、道がすべて通じて城同士が遠く守りにくいという論議 | 권7 睿宗文孝大王 四年 |
| 1117年 | 開城 | 1117年、金の皇帝・阿骨打が使者・阿只ら5人を遣わし、「兄の金国皇帝より弟の高麗国王へ」として和親・兄弟の盟を請い、馬1頭を送る。大臣らは和親不可と強く主張 | 권8 睿宗 十二年 |
| 1126年 | 義州 | 1126年、金に使者を遣わし、保州城の地を高麗に属することを許したことへの謝意を表す表文を奉る | 권9 仁宗恭孝大王 四年 |
| 1128年 | 平壤 | 1128年、妙清・白寿翰・鄭知常が西京に王気があるとして上京に移すよう主張し、仁宗の西京行幸を推進 | 권9 仁宗恭孝大王 六年 |
| 1131年 | 平壤 | 1131年、李仲孚を遣わして西京の林原宮城を築かせ、宮中に八聖堂を置いて妙清の説に従う | 권9 仁宗恭孝大王 九年 |
| 1135年 | 平壤 | 1135年、妙清・柳旵・趙匡らが西京で反乱。留守らを監禁し、国号を大為、年号を天開と建て、軍を天遣忠義軍と称して要路を断つ | 권10 仁宗 十三年 |
| 1135年 | 平壤 | 西京の反乱軍が馬灘の紫浦を渡って官軍の後軍を急襲。僧・観善らの反撃で官軍が大勝し、300余の首を斬る | 권10 仁宗 十三年 |
| 1136年 | 平壤 | 1136年、趙匡らが官軍の土山に対抗して城内に二重の城壁を築こうとすると、尹彦頤・智錫崇は出兵2年だから密かに攻めて城壁を壊そうと請うが、金富軾は聞き入れない。尹彦頤の固執で結局軍を三道に分けて攻撃 | 권10 仁宗 十四年 |
| 1136年 | 平壤 | 1136年、西京が平定されると仁宗が赦免の詔を下す | 권10 仁宗 十四年 |
| 1173年 | 慶州 | 1173年、慶州の人々が淳錫・仁俊一派を討ち殺し、李義旼らを城に迎え入れた。毅宗を客舎に幽閉し、10月庚申朔に連れ出して坤元寺の北の池のほとりで酒を勧める | 권12 明宗光孝大王 三年 |
| 1174年 | 平壤 | 1174年、西京留守・趙位寵が鄭仲夫・李義方の討伐を掲げて東北両界の城に檄を飛ばす。折嶺以北の40余城が呼応したが、延州のみ玄譚胤父子が固守 | 권12 明宗光孝大王 四年 |
| 1175年 | 平壤 | 1175年6月、後軍摠管・杜景升が土を築き大砲で延州を陥落させる。西北の諸城が服属すると軍を移して西京を攻撃。尹鱗瞻は西京の東北に土山を築いて長く包囲するよう建議 | 권12 明宗光孝大王 五年 |
| 1176年 | 平壤 | 1176年、尹鱗瞻が西京の通陽門、杜景升が大同門を攻撃し、城は大きく崩れる。趙位寵を捕らえて斬り、その首を開京に送ってさらし首にする | 권12 明宗光孝大王 六年 |
| 1179年 | 開城 | 1179年9月、将軍・慶大升が許升と謀り、鄭仲夫とその婿・宋有仁を殺す | 권12 明宗光孝大王 九年 |
| 1196年 | 開城 | 1196年4月、将軍・崔忠献が弟の忠粋とともに李義旼を殺す。王が普済寺に行幸していた時 | 권13 明宗 二十六年 |
| 1202年 | 慶州 | 1202年、慶尚道按察使・池自深が慶州が降伏を請うと報告すると、崔忠献は怒り、金陟侯らを中・左・右道兵馬使として討伐に遣わす。賊は雲門山・蔚珍の草賊を集めて正国兵馬を自称 | 권14 神宗靖孝大王 五年 |
| 1204年 | 慶州 | 1204年、東京の人が新羅復興を唱えて反乱を企てたとして、東京留守を知慶州事に降格し、安東を大都護府に昇格 | 권14 神宗靖孝大王 七年 |
| 1218年 | 江東 | 1218年12月、モンゴルの元帥・哈真・札剌の1万と東真の完顔子淵の2万が契丹を討つと称して、和・孟・順・徳の4城を破り江東城に直行。大雪で軍糧が途絶える | 권15 高宗 五年 |
| 1219年 | 江東 | 1219年正月、江東城の契丹軍が降伏。哈真・札剌が趙冲・金就礪と兄弟の盟約を結ぶ | 권15 高宗 六年 |
| 1222年 | 義州 | 1222年、韓恂・多智の残党が東真軍を引き連れて静州に入り、義州まで侵犯。防戍将軍・秀延は敗れ、麟州の防戍将軍が城外で襲撃して200余の首を斬る | 권15 高宗 九年 |
| 1231年 | 龜城 | 1231年、モンゴル軍が亀州城の城郭200余間を壊し、降伏した城の兵を先頭に立てて砲28基で攻撃。住民が決死で戦い大勝 | 권16 高宗 十八年 |
| 1231年 | 龜城 | モンゴル軍が大砲車で再び亀州を攻撃すると、朴犀は砲車で応戦して射る。撒礼塔の降伏勧告を拒み、雲梯攻撃は大于砲で打ち砕く | 권16 高宗 十八年 |
| 1232年 | 江華 | 1232年、崔瑀が宰枢を集めて江華遷都を議論。兪升旦は反対し、夜に別抄指諭・金世沖が門を押し開けて入り崔瑀を問い詰める | 권16 高宗 十九年 |
| 1232年 | 龍仁 | 1232年、モンゴルの撒礼塔が処仁城を攻撃中、城内に避難していた僧・金允侯の放った矢に当たって死ぬ | 권16 高宗 十九年 |
| 1233年 | 平壤 | 1233年、西京の人・畢賢甫・洪福源らが宣諭使・鄭毅・朴禄全を殺し、城ごと反乱。崔瑀が家兵3千と閔曦を遣わして討伐し、畢賢甫は腰斬、洪福源はモンゴルへ逃走。残った民は島に移され、西京は廃墟となる | 권16 高宗 二十年 |
| 1236年 | 安城 | 1236年、モンゴル軍が竹州で降伏を要求。城内の兵が撃って追い払い、モンゴル軍は砲・火で15日間攻めたが落とせず退く。防護別監・宋文冑が計略を見通していた | 권16 高宗 二十三年 |
| 1251年 | 江華 | 1251年正月、王が梯浦宮でモンゴル使臣・洪高伊をもてなす。使臣は、北はすでに破壊されて旧都に戻れないから川に頼って守れと言い、帰って報告すると述べる | 권17 高宗 三十八年 |
| 1253年 | 鐵原 | 1253年、モンゴル軍が東州山城を陥落させる。防護別監・白敦明が精兵600で迎え撃ったが、兵卒が戦わず逃げ、敦明・副使・判官・県令が死に、婦女・子供が捕らわれる | 권17 高宗 四十年 |
| 1258年 | 江華 | 1258年3月、柳璥・金仁俊らが崔竩を殺す。崔竩が幼く暗愚で賢士を礼遇せず、凶年にも倉を開かず人心を失った末のこと | 권17 高宗 四十五年 |
| 1269年 | 江華 | 1269年、林衍が三別抄・六番都房を毬庭に集め、宰枢に挙事を告げる。李蔵用は辞退すると言い、柳千遇は世子が帰ってからにするよう言う | 권18 元宗順孝大王 十年 |
| 1269年 | 平壤 | 1269年、崔坦が西京留守・崔年、判官・劉讃、龍州・寧州・鉄州・宣州の守令を殺し、残りの城の官吏はみな賊の手に落ちる。モンゴルに投降 | 권18 元宗順孝大王 十年 |
| 1270年 | 江華 | 1270年6月、将軍・裴仲孫と夜別抄指諭・盧永僖らが「蛮族の軍が攻め込んで人を殺す」と叫んで人々を毬庭に集め、金剛庫の兵器を放出して城を守る。三別抄による開京還都への蜂起 | 권18 元宗順孝大王 十一年 |
| 1271年 | 密陽 | 1271年、密城郡の人・方甫・桂年らが珍島に呼応し、副使・李頤を殺し、清道の監務も殺す。按察使・李晤らが鎮圧 | 권19 元宗 十二年 |
| 1273年 | 濟州 | 1273年、金方慶と忻都らの連合軍が咸徳浦から耽羅に上陸。岩の間に隠れた敵を撃ち、外城を越えて入り、矢で火を放ち、三別抄は大きく崩れる | 권19 元宗 十四年 |
| 1274年 | 馬山 | 1274年10月、都督使・金方慶ら高麗軍8千とモンゴル・漢軍2万5千、戦艦900余隻が合浦を発って日本征伐に向かう | 권19 元宗 十五年 |
| 1274年 | 壹岐 | 11日で壱岐島に着くと、倭兵が海岸に陣を張る。朴之亮・趙抃が追撃し、倭は降伏を請う | 권19 元宗 十五年 |
| 1281年 | 馬山 | 1281年5月、忻都・洪茶丘と金方慶・朴球・金周鼎らが水軍で日本征伐に向かう | 권20 忠烈王 七年 |
| 1291年 | 原州 | 1291年、哈丹が原州に駐屯。騎兵50が雉岳城に来て牛馬を略奪すると、元沖甲が歩卒6人で追い、馬8頭を奪う | 권21 忠烈王 十七年 |
| 1318年 | 濟州 | 1318年、済州の民・使用・金成が徒党を集めて反乱し、星主の王子を追い出す。宋瑛が安撫に行くと、賊は頭目2人を斬って降伏 | 권24 忠肅王 五年 |
| 1339年 | 開城 | 1339年、前王が榜を掲げ、曺頔らが弓と刀を帯びて人を集め反乱を企てたと告げ、帰順する官員は許すと言う。曺頔一派は宮門の外に車を連ねて塞ぐ | 권25 忠肅王 八年 |
| 1352年 | 開城 | 1352年、趙日新が乱を起こして内外に号令。王は李仁復と相談し、行省で金添寿に日新を捕らえて斬らせる | 권26 恭愍王 元年 |
| 1354年 | 高郵 | 1354年、元の太師・脱脱が高郵城を攻撃。高麗遠征軍を含む2万3千が先鋒だったが、陥落直前に脱脱が讒言で流罪に。高麗軍は六合城を陥落させ淮安路へ移動、李権ら6人が戦死 | 권26 恭愍王 三年 |
| 1356年 | 永興 | 1356年、東北面兵馬使・柳仁雨が登州に留まる(双城から200余里)。双城総管・趙小生に対抗した趙暾が内応を約束し、一晩で200里を駆けて柳仁雨の陣に来て、双城の奪還に協力 | 권26 恭愍王 五年 |
| 1360年 | 平澤 | 1360年5月、倭寇が全羅道の会尾・沃溝、楊広道の平沢・牙州・新平などを侵し、龍城など10余県を焼く。開京に戒厳令、柳濯を京畿兵馬都統使とする | 권27 恭愍王 九年 |
| 1360年 | 白岳 | 1360年、南京(漢陽)遷都のため李安を遣わして城闕を修理させ民が苦しんだが、太廟の占いが不吉で中止。臨津県北の白岳に新都の工事を推進 | 권27 恭愍王 九年 |
| 1361年 | 朔州 | 1361年、紅頭賊の偽平章・潘誠、沙劉、関先生、朱元帥ら10余万が鴨緑江を渡り朔州を侵す | 권27 恭愍王 十年 |
| 1361年 | 開城 | 1361年、紅巾賊が折嶺の柵を破り安祐らが崩れると、王は公主・太后を奉じて南へ避難しようとする。開京の婦女・老弱者から先に出す | 권27 恭愍王 十年 |
| 1361年 | 安東 | 1361年12月、王が福州に至ると、鄭世雲が紅賊を一掃して京城を回復すると言って摠兵官となる | 권27 恭愍王 十年 |
| 1362年 | 開城 | 1362年、安祐・李芳実・崔瑩ら20万が東郊の天寿寺前に陣を張り、鄭世雲が督励。太祖が麾下2千で先鋒として大破し、賊の首魁・沙劉と関先生を斬り10余万を斬首、元の皇帝の玉璽を得て京城を回復 | 권27 恭愍王 十一年 |
| 1362年 | 洪原 | 1362年7月、納哈出が数万で洪原の韃靼洞に駐屯。太祖が徳山洞の原平で先鋒を追い、咸関嶺・車踰嶺を越えて大いに撃ち、鎧・兵器を捨てさせる | 권27 恭愍王 十一年 |
| 1363年 | 開城 | 1363年閏3月、金守・曹連ら50余人が行宮の興王寺を急襲し、宦官を殺す。王は大妃殿の密室に隠れる。宦官・安都赤が王のふりをして横たわって死に、洪彦博らが殺害される | 권27 恭愍王 十二年 |
| 1364年 | 義州 | 1364年正月、崔濡が元軍1万で徳興君を奉じて鴨緑江を渡り義州を包囲。安遇慶が七度戦って退けたが、都兵馬使・洪善が捕らえられ高麗軍は敗れて安州に退く。崔瑩を都巡慰使として急派 | 권28 恭愍王 十三年 |
| 1364年 | 咸興 | 1364年、女真の三善・三介らが咸州を陥落させ、守将・全以道・李煕が軍を捨てて逃げる。李成桂は西北の救援に行っていた | 권28 恭愍王 十三年 |
| 1370年 | 1370年、李成桂が騎兵5千・歩兵1万で黄草嶺・雪寒嶺を越えて鴨緑江を渡る。東寧府同知・李吾魯帖木児は亐羅山城に入って防ごうとしたが、李成桂が至ると鎧を脱いで拝し、300余戸と帰順 | 권29 恭愍王 十九年 | |
| 1370年 | 遼陽 | 1370年11月、義州から浮橋で鴨緑江を渡り、羅将塔に至って7日分の軍糧だけを携え、騎兵3千で遼城を急襲 | 권29 恭愍王 十九年 |
| 1374年 | 馬山 | 1374年、倭船350隻が合浦に侵入し、軍営と兵船を焼き、兵50余人が死ぬ。都巡問使・金鋐を処刑 | 권29 恭愍王 二十三年 |
| 1375年 | 金海 | 1375年、倭が金海府で民家を略奪し官庁を焼く。曺敏修が戦って敗れ、大丘県でも敗れたが、黄山江を遡って密城を狙う倭を撃ち数十の首を斬る | 권30 辛禑 1年 |
| 1377年 | 江華 | 1377年、判開城府事・羅世が江華で倭を討つと請い、李元桂らと派遣される。崔瑩が昇天府にいると、倭は江華を捨てて守安・通津・童城などへ退いて略奪 | 권30 辛禑 3年 |
| 1378年 | 豐德 | 1378年、倭船が昇天府に入り開京を攻めると叫び、戒厳令。崔瑩が海豊郡に駐屯し、李成桂が精鋭騎兵で合流して大破 | 권30 辛禑 4年 |
| 1380年 | 群山 | 1380年、倭船500隻が鎮浦の入口に入り、太い縄で船をつないで上陸し略奪。羅世・沈徳符・崔茂宣が崔茂宣の作った火砲で敵船を焼く | 권31 辛禑 6年 |
| 1380年 | 南原 | 1380年、李成桂が南原に至り、裵克廉が出迎える。陣を張らずに雲峰を越え、荒山西北の鼎山峰に登って要路の険しい地を見渡す。敵がすぐ突出し、これに対峙(荒山の戦い) | 권31 辛禑 6年 |
| 1382年 | 義州 | 1382年、遼東の胡抜都が兵1千で鴨緑江をひそかに渡って義州を襲い、上万戸・張侶の家を包囲。副万戸・崔元沚が追撃して20余の首を斬る | 권31 辛禑 8年 |
| 1383年 | 南海 | 1383年、海道元帥・鄭地が戦艦47隻で木浦から出港し、倭船120隻と南海の観音浦・朴頭洋で戦い、17隻を焼いて大破 | 권32 辛禑 9年 |
| 1385年 | 咸興 | 1385年、倭船150隻が咸州・洪原・北青などを侵し、人をほとんど殺すか連れ去る。沈徳符らが洪原の大門嶺の北で敗れ、李成桂が行って討つと請い、咸州で部署を定める | 권32 辛禑 11年 |
| 1388年 | 平壤 | 1388年、禑王が平壌から鴨緑江に浮橋を架けさせ、崔瑩を八道都統使、曺敏修を左軍都統使とするなど遼東征伐軍を編成(右軍は李成桂) | 권33 辛禑 14年 |
| 1388年 | 開城 | 1388年6月、李成桂が黄龍旗を立て善竹橋を過ぎて南山に登る。崔瑩の部下・安沼が先に占拠していたが旗を見て崩れる。崔瑩は花園に逃げて追われる | 권33 辛禑 14年 |
| 1389年 | 對馬 | 1389年、慶尚道元帥・朴葳が兵船100隻で対馬を撃ち、倭船300隻と家屋をほぼ焼き尽くし、捕らわれた民100余人を連れ帰る | 권34 恭讓王 元年 |
| 1389年 | 開城 | 1389年、恭譲王が孝思観に行き、禑・昌を処刑したことを太祖に告げる | 권34 恭讓王 元年 |
| 1392年 | 開城 | 1392年、鄭夢周が李成桂の病中に趙浚・鄭道伝・南誾らを弾劾させると、李芳遠が趙英珪らを遣わして道で夢周を撃ち殺す | 권35 恭讓王 四年 |
| 1392年 | 開城 | 1392年、百官が国璽を王大妃安氏の前に奉じ、摂政させる(『節要』の最後の記事) | 권35 恭讓王 四年 |
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