『カノ年代記』

『カノ年代記』(正史 の史料)。扱う年は999年 〜 1892年、出来事125件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年999年 〜 1892年
出来事の数出来事125件・地図に置いた84件
著者작자 미상(하우사 지방 연대기, 19세기 말 사본); 영역 H. R. Palmer 1908
原題Tarikh Arbab Hadha al-Balad al-Musamma Kanu (Kano Chronicle, Palmer 1908 영역)

地域の内訳: サハラ以南アフリカ 123

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
999年バガウダが軍を率いて来てカノ最初のサルキ(王)となる。名はダウド、母はカウナス。その後カノ地方の中心はシェメ、ガザルザワへ移る。Palmer 1908, Kano Chronicle §I Bagoda, p.65
999年 〜 1003年バガウダはディラニを2年占拠した後バルカへ移り、タルタの町を築いて2年統治する。Palmer 1908, Kano Chronicle §I Bagoda, p.65
1003年 〜 1063年バガウダは異教の首長ヤンカレらを攻めてその頭領を殺し、シェメからガブサニなどをすべて征服し、町を築いてそこで統治する。Palmer 1908, Kano Chronicle §I Bagoda, p.65
1063年 〜 1095年ワリシの臣ガワルクラが「ガザルザワはこの国の鍵だから近くに置け」と勧めたが、王は老いて力がないと断る。Palmer 1908, Kano Chronicle §II Warisi, p.66
1095年 〜 1134年Kanoギジマスはシェメを離れてガザルザワへ移り、町を築いて、贈り物で異教の長老たちを懐柔し支配権を得る。Palmer 1908, Kano Chronicle §III Gijimasu, p.66
1095年 〜 1134年Kanoギジマスは初日に牛100頭を屠って城壁の築造を始め、門8つを持つカノの町を築く。Palmer 1908, Kano Chronicle §III Gijimasu, p.66
1095年 〜 1134年サントロだけは最後まで服属せず持ちこたえる(住民が多く異教徒)。この一帯の他の地方はギジマスが治める。Palmer 1908, Kano Chronicle §III Gijimasu, p.66
1134年 〜 1136年Kano双子のナワタとガワタが共にカノを7か月統治し、一人が死んで残った者がさらに1年5か月統治する(合計2年)。Palmer 1908, Kano Chronicle §IV Nawata·Gawata, p.66
1136年 〜 1194年Kanoユサ(ツァラキ)がカノの城壁を完成させる。Palmer 1908, Kano Chronicle §V Yusa, p.67
1136年 〜 1194年ユサはカラエを襲撃し、バダリで5か月陣を張ると住民が降伏し、グルマイからファリナまで貢納する。Palmer 1908, Kano Chronicle §V Yusa, p.67
1194年 〜 1247年ナグジはクラからツァンガヤまでを席巻し、人々を強制的に従わせる。Palmer 1908, Kano Chronicle §VI Naguji, p.67
1194年 〜 1247年ナグジはサントロを攻めるためバセマで2年陣を張ったが戦に敗れ、カノに戻る。Palmer 1908, Kano Chronicle §VI Naguji, p.67
1194年 〜 1247年Kanoナグジは反乱寸前の異教の指導者サマギら4人を処刑し、残りは言葉でなだめる。Palmer 1908, Kano Chronicle §VI Naguji, p.67
1194年 〜 1247年Kanoナグジはすべての農民から収穫の8分の1を徴収する土地税を初めて導入する。Palmer 1908, Kano Chronicle §VI Naguji, p.67
1247年 〜 1290年Kanoググアが異教神の秘密を探ろうとすると、異教の首長40人が夜に神木の下に集まって対策を協議し、王は歓迎の中で啓示を聞いて突然盲目となる(在位44年のうち22年は盲人)。 判定保留Palmer 1908, Kano Chronicle §VII Gugua, p.68
1290年 〜 1307年Kanoセカラウは臣下の強硬策の進言を退け、贈り物を携えた異教の首長たちの願いを受け入れて習慣をそのままにさせる(戦のない17年)。Palmer 1908, Kano Chronicle §VIII Shekkarau, p.68
1307年 〜 1343年Kanoツァミアが異教徒にジズヤ(貢納)を課すと、彼らは7日で奴隷200人を集めて差し出そうとしたが、王は受け取らない。Palmer 1908, Kano Chronicle §IX Tsamia, p.69
1307年 〜 1343年Kanoツァミアは木曜日に異教の聖所(Kagwa)へ攻め込み、軍と異教徒の大軍が対峙し、バジェリが聖所の壁の内側まで突入する。王は壁と神木を壊し、残った異教徒から神の秘密を聞く。 判定保留Palmer 1908, Kano Chronicle §IX Tsamia, p.69
1343年 〜 1349年Kanoザムナガワが即位し(ツァミアの死の経緯は不明)7日間宮殿に籠もり、在位7年の間どこにも戦がなかった。Palmer 1908, Kano Chronicle §X Zamnagawa, p.70
1349年 〜 1385年Ranoヤジはザムナ・ガバからラノのサルキを追い出してラノへ行き、ブヌで2年統治した後クルへ移る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XI Yaji, p.70
1349年 〜 1385年Kanoメレから来たワンガラワのイスラム学者約40人がヤジに礼拝時刻を守らせ、グルダムスをイマームとする。Palmer 1908, Kano Chronicle §XI Yaji, p.70
1349年 〜 1385年Kano神木の下に東向きのモスクを建て、1日5回礼拝する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XI Yaji, p.70
1349年 〜 1385年ヤジはワンガラワの学者たちとともにサントロへ進軍してドゥジ付近に陣を張り、朝から晩まで戦ったが勝負がつかない。Palmer 1908, Kano Chronicle §XI Yaji, p.71
1349年 〜 1385年翌日の総攻撃でグワジが敵将ハンバリを刺し殺し、馬でサントロに入って都市を落とす。ヤジは女と子ども以外の住民を皆殺しにさせ、7日滞在した後、城壁と神木を壊してカノに戻る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XI Yaji, p.72
1349年 〜 1385年翌年ヤジはワルジと戦い、しばらく滞在する。このころビリからパンダまでの異教部族がすべて服属する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XI Yaji, p.72
1349年 〜 1385年クワララファだけは従わず、ヤジがその国へ行くと住民はタガラの岩山に逃げ、7か月陣を張って、ついに奴隷100人を差し出す。ヤジはここで死んだとも伝わる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XI Yaji, p.72
1385年 〜 1390年ブガヤはマグジャワの人々をポングイ岩から下ろして国中に散らし、権力をガラディマに任せる。国は平和で定期的な貢納が行われる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XII Bugaya, p.72
1390年 〜 1410年カナジェジはギザ岩の近くに住み、クワララファに貢納を尋ねられると奴隷200人を差し出し、相手は馬を送る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XIII Kanajeji, p.73
1390年 〜 1410年ウンバトゥ戦争(損失が大きく、リフィディ綿入れ鎧・鉄兜・鎖帷子を初めて導入する)。2度出兵して失敗する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XIII Kanajeji, p.73
1390年 〜 1410年3度目にベトゥで2年持ちこたえ、飢えた住民の降伏を受けて奴隷4,000人などを得て和睦する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XIII Kanajeji, p.73
1390年 〜 1410年翌年ズクズク(ザザウ)と戦うためトゥルンクに陣を張ったが敗れ、カノに戻る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XIII Kanajeji, p.73
1390年 〜 1410年Kano古い信仰の儀式を復活させ、神木の枝で太鼓を作って水に浸けてから出し、携えて40回歩く。Palmer 1908, Kano Chronicle §XIII Kanajeji, p.73
1390年 〜 1410年Zariaガダズに陣を張ってズクズクの王を殺して大勝し、ズクズクに入ってシカのそばで8か月暮らし、莫大な貢納を受ける。Palmer 1908, Kano Chronicle §XIII Kanajeji, p.74
1410年 〜 1421年Kanoウマルは友人アブバクラの諫言を聞いてサルキの座を辞し、ともに去って余生を悔恨のうちに過ごす。国政はガラディマが担う。Palmer 1908, Kano Chronicle §XIV Umaru, p.74
1421年 〜 1438年Kano南のボルヌから来た大王子ダガチが、馬・太鼓・銃・旗を持つ一団を率いてボンパイに至ると、ダウダが迎えてカノのドライの地に家を建ててやる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XV Dauda, p.74
1421年 〜 1438年Kanoダウダはザリア遠征に出る際にカノをダガチに任せて5か月統治させ、ダガチは大富豪となる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XV Dauda, p.75
1421年 〜 1438年Zariaザリアの女王アミナがクワララファとヌペに至るまですべての町を征服して貢納を受ける。征服は34年に及び、ヌペ王が宦官40人とコーラ1万個を送る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XV Dauda, p.75
1438年 〜 1452年Kanoアブドゥラヒ・ブルジャがボルヌからグワンジャへ通じる道を開き、ハウサの地で初めてラクダを持つ。Palmer 1908, Kano Chronicle §XVI Abdulahi Burja, p.75
1438年 〜 1452年ガラディマのダウドゥは7年間南の異教徒を征服して奴隷を送る。帰途、3マイルごとに村を築き、21の村に奴隷1,000人ずつを置き、戻ってサルキに奴隷3,000人を献上する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XVI Abdulahi Burja, p.76
1438年 〜 1452年Kanoブルジャが帰ってみるとダガチが大きな権力を握り、サラムタに家まで建てており、カラブカ市場を開いたのもダガチである。Palmer 1908, Kano Chronicle §XVI Abdulahi Burja, p.75
1452年Kanoダカウタは唖者だったが「王になれば話すだろう」と期待されてサルキに立てられ、一晩話せず追い出される。Palmer 1908, Kano Chronicle §XVII Dakauta, p.76
1452年Kanoダカウタの子アトゥマはガラディマのダウダの顔色をうかがううち、7日でサルキの座を追われる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XVIII Atuma, p.76
1452年 〜 1463年Gayaアガルファティが兄弟3人とカノに来て、ガヤ、ハデジア、ダル、ガヤムなどのサルキとなる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XIX Yakubu, p.76
1452年 〜 1463年ヤクブの時代、フラニがメレから神学・語源学の書を携えてハウサの地に来て、一部は残り、大半はボルヌへ行く。Palmer 1908, Kano Chronicle §XIX Yakubu, p.76
1452年 〜 1463年Katsinaアスベンの商人で塩が豊富になり、グワンジャの商人がカツィナに来始め、アラブの移住者がカノとカツィナに定住する。ハウサに戦はない。Palmer 1908, Kano Chronicle §XIX Yakubu, p.77
1463年 〜 1499年Kanoルムファの時代、シェリフのアブドゥ・ラハマンはメディナの土と各地の土を比べながら西へ旅し、カノの土が同じだったのでここに定住する。ルムファは彼を城内に迎えてイスラムを確立する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XX Mohamma Rimfa, p.77
1463年 〜 1499年Kanoルムファが神木の跡地に金曜モスクとミナレットを建てる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XX Mohamma Rimfa, p.77
1463年 〜 1499年Kanoルムファはダキン・ルムファ宮を建て、城壁をコファン・マタ、コファン・ゲルラワサ、コファン・カワイの方へ広げる。クルミ市場、宦官の官職、千人の妻など12の改革。Palmer 1908, Kano Chronicle §XX Mohamma Rimfa, p.77
1463年 〜 1499年Katsinaルムファの時代、カノとカツィナの最初の戦争が11年続いたが決着はつかない。Palmer 1908, Kano Chronicle §XX Mohamma Rimfa, p.78
1499年 〜 1509年Katsinaアブドゥラヒがカツィナを攻めて攻め込み、サルキ一行はチャゲロ付近の川辺で4か月滞在し、カツィナの城下まで陣を進める。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXI Abdulahi, p.78
1499年 〜 1509年Zaria続いてズクズク(ザリア)で戦い、ザリアの人々を打ち破った後、カダラとカラムの住民を攻めた。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXI Abdulahi
1499年 〜 1509年Kanoボルヌ王がカノを攻めてグンドゥワワに陣を張ると、アブドゥラヒは学者たちと出て身を低くして迎え、ボルヌ王は引き返す。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXI Abdulahi, p.78
1499年 〜 1509年Kano反乱の気配があったダガチをアブドゥラヒがなだめて従わせた後、官職から外し、自分の奴隷をその座に据える。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXI Abdulahi, p.78
1509年 〜 1565年キソキはアガイダムのために空いたウングルを攻めて城を落とし、捕虜の代わりに衣類と馬だけを取り、城外の森に1か月滞在する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXII Mohamma Kisoki, p.79
1509年 〜 1565年Kano翌年ボルヌ王がカノを攻めたが都市を落とせず引き返す。キソキは城壁に登り、戦士をたたえる歌を40日間歌わせる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXII Mohamma Kisoki, p.79
1509年 〜 1565年Kanoシェフ・トゥヌス(エシュティファの戦士長)とアブドゥ・サラムがカノに来て書物を持ち込み、トゥヌスの勧めでキソキはフマワのために金曜モスクを建てる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXII Mohamma Kisoki, p.79
1565年Kanoヤクフは4か月20日統治し、グリに廃される。ガラディマとグリのカノ内戦は40日間の戦いの末ガラディマがグリを殺し、ヤクフは復位を辞退して学者たちのもとへ行く。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXIII Yakufu, p.80
1565年ダウダ・アバサマは1か月20日で追われ、兄弟とともにカルマシェへ流され、そこに家を建てる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXIV Dauda Abasama, p.80
1565年 〜 1573年Kanoアブバカル・カドの時代、カツィナ軍がカノに勝ってサラムタまで陣を張り、カノ軍は城内に避難する。土地は荒れ、カラエ、グインギン、マスカ、タリなどの城郭都市か岩山にだけ人が残る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXV Abubakr Kado, p.80
1565年 〜 1573年Kanoアブバカルは王子たちにクルアーンを読ませ、クルアーン朗誦用のゴロン・フガチを建てる。宦官と学者が増える。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXV Abubakr Kado, p.81
1573年 〜 1582年Kankiaシャシェレがカツィナ遠征に出てカンキヤで交戦するが、カツィナ軍が数で勝ち、カノ軍は王を置いて逃げ、サン・トゥラキ・マイニャ・ナライら3人だけが残る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXVI Mohamma Shashere, p.81
1573年 〜 1582年Kanoシャシェレの兄弟たちが王の暗殺を図ると、サン・トゥラキ・ナライが王に成りすましてモスクで代わりに戦い死ぬ。王は暗殺を免れる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXVI Mohamma Shashere, p.81
1582年 〜 1618年Dauraザキの時代、クワララファ王がカノを攻め、カノの人々は都を空にしてダウラに避難する。クワララファが国を呑み込み、カノは著しく弱る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXVII Mohamma Zaki, p.82
1582年 〜 1618年Kanoカツィナはカノを悩まし続け、11年続く飢饉が襲う。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXVII Mohamma Zaki, p.82
1582年 〜 1618年Katsinaザキはラマダン22日の夜明けにカツィナの城下に至り、祭の前のグラジ戦でカツィナ軍を破り、馬400頭と馬鎧60着を得る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXVII Mohamma Zaki, p.83
1582年 〜 1618年Karayeザキはカラエに戻って死ぬ(在位37年5か月)。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXVII Mohamma Zaki, p.83
1618年 〜 1623年Karayeナジャキが和を求めたがカツィナ王は拒んで侵入する。カラエでカノ軍がカツィナ軍を破る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXVIII Mohamma Nazaki, p.83
1618年 〜 1623年Kano王がカラム遠征に出ている間に、ウォンバイ・ギワ(官職)が病から回復し、コファン・ドゴなどの間に城壁を築いて都市を広げる。王は報いとしてカラエを与える。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXVIII Mohamma Nazaki, p.83
1623年 〜 1648年Kanoクトゥンビは友人カリナ・アトゥマンに大きな権力を任せ、12年間サルキがむしろワジール(宰相)のようになる。彼の死後、ダワキ・クワシが反乱の気配を見せたが説得されて戻る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXIX Kutumbi, p.84
1623年 〜 1648年ダワキ・マガラがバウチ遠征から戻ってガンジュアに町を築き、奴隷2千人を送ると、怒ったクトゥンビは翌年出兵して貢納(ジズヤ)を取り、奴隷500人を残してその地をイブダブラと呼ぶ。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXIX Kutumbi, p.84
1623年 〜 1648年Katsina翌年クトゥンビはカツィナを攻めて勝ち、ドゥガザワに9か月陣を張って誰もカツィナから出られなくする。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXIX Kutumbi, p.84
1623年 〜 1648年次の年、クトゥンビがグンベを略奪する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXIX Kutumbi, p.85
1623年 〜 1648年Kanoクトゥンビはフラニから牛の群れを徴収する(ジャンガリ)ことをカノの王として初めて始める。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXIX Kutumbi, p.85
1623年 〜 1648年Katsinaカツィナ西門近くに陣を張ったクトゥンビをカツィナ軍が夜襲し、カノ軍は皆逃げ、クトゥンビはヤシまで追撃されて3日以内に死ぬ。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXIX Kutumbi, p.85
1648年 〜 1649年Kanoアルハジは8か月24日で廃され、ダン・ザキに退く。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXX Al Haji, p.85
1649年 〜 1651年セカラウの時代にカノとカツィナの間に和平が結ばれ、シェフ・アタマンが「今後攻めた側は勝てない」と宣言する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXI Shekkarau II, p.86
1651年 〜 1652年Kanoマダワキ・クマがククナを1年で追い出し、妹ファスマの子ソヤキを立てる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXII Kukuna, p.86
1652年Kanoソヤキが3か月統治した後、ククナがガヤ軍と進軍し、ホトロの戦いでカノ軍はマダワキ・クマを見捨てて逃げ、ククナが宮殿に入ってソヤキを追い出す。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXIII Soyaki, p.86
1652年 〜 1660年Auyoクワララファ王アダシュがカノを攻めると、ククナはヤン・マガダに7日、アユオワとアベワに40日滞在し、戻るとコファン・カワイの門が崩れており、7日後に門を再び築く。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXIV Kukuna(복위), p.87
1652年 〜 1660年Kanoマグジャワの首長ジャンクらを21日間呼び集め、イマームのヤンドイヤから廃位を防ぐ護符を得て、トゥラキ・マイニャの家など3か所に埋め、火を焚かせる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXIV Kukuna(복위), p.87
1660年 〜 1670年Kanoバワの時代、カノの地に戦はなく、アブバカル・カドが建てた荒れたゴロン・フガチを修復し、学校(フガチン・キシ)を設ける。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXV Bawa, p.87
1670年 〜 1703年Kanoクワララファ王がカノに侵入してコファン・ガドン・カヤから入り、カノの人々を虐殺する。チビリの神物のそばで、サルキの前にいた学者出身の首長99人と両脇の戦士各100人がほぼ全滅し、戦死者のうち名の挙がる首長は97人。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXVI Dadi, p.88
1670年 〜 1703年Dauraダディはダウラへ逃げ、クワララファはザリまで追って引き返す。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXVI Dadi, p.88
1670年 〜 1703年Gayaガヤのサルキ、ファリン・ドゥシが3年ジズヤを納めず反乱すると、ダディが呼び出して殺す。その後、ダワキ・デバをアウゼラのサルキに任じる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXVI Dadi, p.89
1703年 〜 1731年Kanoシャレファがカロ、リンスアなど7つの搾取慣行を導入する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXVII Mohamma Sharefa, p.89
1703年 〜 1731年ウォンバイ・デバがキルを攻めて灰だけを残し、多くの捕虜と略奪品を得る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXVII Mohamma Sharefa, p.89
1703年 〜 1731年ジャンファラ王ヤクブ・ダン・マズラがカノを攻め、イェルガナの戦いでカノ軍が敗れ、サルキの傍に数人だけが残ってカノに戻る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXVII Mohamma Sharefa, p.89
1703年 〜 1731年Gayaシャレファはガヤのサルキにガヤの城壁を築かせ、タルカイ、チョコア、ガノなどにも城壁を築かせる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXVII Mohamma Sharefa, p.89
1703年 〜 1731年Kanoシャレファの時代、貝貨(カウリ)が初めてハウサの地に入る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXVII Mohamma Sharefa, p.90
1731年 〜 1743年クンバリの時代、カノとゴビル(ゴビル王ソバ)は激しい戦争を長く続け、互いに日ごとに勝ち負けを繰り返す。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXVIII Kumbari, p.90
1731年 〜 1743年ボルヌ王メイ・アリがカノを攻めてファギに3日陣を張ったが、シェフたちの制止で戦わずに帰る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXVIII Kumbari, p.90
1731年 〜 1743年Dutsiクンバリはドゥシのサルキ、マクリと戦って城に入りかけたが、臣下に止められて帰る。この戦でアウゼラのサルキ、ブガウが戦死する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXVIII Kumbari, p.90
1731年 〜 1743年Kanoクンバリが市場や学者にまでジズヤを課したため、アラブ人はカノを去ってカツィナに戻り、貧しい者は田舎へ逃げる。トゥラキが諫めてやめる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXVIII Kumbari, p.90
1743年 〜 1753年カベがゴビル王バルバリの和平提案を拒むと、翌年バルバリがカノを攻め、ダミの戦いでカノ軍は逃げ、カベは奴隷たちと一人残される。Palmer 1908, Kano Chronicle §XXXIX Alhaji Kabe, p.91
1753年 〜 1768年Kanoヤジ(2世)の治世は平和で兄弟との不和がなく、多くの人がカノへ移り住む。Palmer 1908, Kano Chronicle §XL Yaji II, p.92
1768年 〜 1776年ババ・ザキはビリン・アウヤウを攻めたが落とせず、ブルムブルミを急襲して住民を捕らえ首を刎ねる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLI Babba Zaki, p.92
1768年 〜 1776年Kanoカノに初めて銃兵の護衛隊を置く(以後の慣行となる)。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLI Babba Zaki, p.92
1776年 〜 1781年Kanoダウダ・アバサマ(2世)の治世は戦も反乱もない平和なもので、ガラディマのマカルナの助言に従う。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLII Dauda Abasama II, p.93
1781年 〜 1807年Kanoアルワリはディルキ(革で包んだクルアーン)に牛40頭を出せという要請に怒り、若者たちに斧で革を開かせて中のクルアーンを取り出す。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLIII Mohamma Alwali, p.93
1781年 〜 1807年Zariaフラニはイスラム復興を掲げてハウサ7国を征服し、アルワリをカノから追い出す。アルワリはザリアへ逃げるが、ザリアの人々は呪って追い出す。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLIII Mohamma Alwali, p.93
1804年 〜 1807年アルワリはラノへ逃げたが、フラニはブルマイまで追って殺す。フラニと3年間戦っていた。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLIII Mohamma Alwali
1807年 〜 1819年Kanoスリマヌは入宮を阻むフラニと争い、シェフ・オスマン・ダン・ホディオに願い出て剣・刀・旗を受け、ギダン・ルムファに入る。ファガムを除くカノ全体が服従する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLIV Sulimanu, p.94
1807年 〜 1819年スリマヌはファガムを攻めて多くの戦利品を得、反乱を防ぐため都市を二つに分ける。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLIV Sulimanu, p.94
1807年 〜 1819年Sokotoダボ・ダン・バゾがソコトで妻を求めた件でスリマヌと対立し、二人はソコトのダン・ホディオの前に行って和解し、カノに戻る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLIV Sulimanu, p.94
1807年 〜 1819年Zariaスリマヌはガラディマのイブラヒマをザリアへ送って征服させ、多くの戦利品を得る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLIV Sulimanu, p.94
1819年 〜 1846年Kanoイブラヒム・ダボの入宮直後、地方のサルキたちが反乱(タワイエ)を起こし、40日の祈りの後、ダラの丘に陣を張って「ダラに陣を張った者」と呼ばれる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLV Ibrahim Dabo, p.95
1819年 〜 1846年Karayeダボはサルキのダワキ・マヌ・マイトゥタを送ってカラエを攻め落とす。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLV Ibrahim Dabo, p.95
1819年 〜 1846年ダボは自らジリマへ行って都市を落とし、続いてガソコリとジジタを攻め、「都市を略奪するダボ」と呼ばれる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLV Ibrahim Dabo, p.95
1819年 〜 1846年ダボはヤン・ヤヒヤでダン・トゥンクを攻めて破り、ダン・トゥンクはダンバルタ経由でカザウリへ逃げる。ダボはコレンマまで追って戻り、ダンバルタの家を壊す。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLV Ibrahim Dabo, p.95
1819年 〜 1846年Ranoダボはビリン・サンカラとラノを攻めてラノ市を奪い、そのサルキの家に滞在する。都市を落とした時にだけ頭を剃る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLV Ibrahim Dabo, p.95
1846年 〜 1855年Hadejiaオスマヌの時代はハデジアとの戦いのほか戦はなく、盗賊が増えた(王は手も首も切らなかった)。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVI Osumanu, p.96
1846年 〜 1855年Kanoドゥシのサルキ、ベロが反乱すると、王はカノへおびき寄せて廃位する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVI Osumanu, p.96
1855年 〜 1883年Kanoアブドゥラヒは盗賊の手を切らせ、大飢饉が起きた。「アブドゥ・サルキン・イェンカ」と呼ばれる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVII Abdulahi, p.96
1855年 〜 1883年ウンバトゥとの長い戦いでクルキを先に攻めたが、ダン・イヤ・ロワルが死ぬとアブドゥラヒは帰還し、息子のタフィダとサルキ・ダワキ・ダン・ラダンおよびその子タフィダをザリアの地に送る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVII Abdulahi, p.96
1855年 〜 1883年ダン・ボスコリ(マラディのサルキ)がグウォルゾに攻め込むと、王は西から迎え撃ったがカノ軍は逃げ、サルキ・ダワキ・ダン・ラダンが戦死する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVII Abdulahi, p.96
1855年 〜 1883年アブドゥラヒはワルジを攻めてシルで莫大な戦利品を得(ワルジの死体約400)、もう一度攻めてカノは奴隷で満ちる。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVII Abdulahi, p.97
1855年 〜 1883年アブドゥラヒがソコトへ行った留守に、息子ユスフがタルカイとドゥバイヤでダン・マジと戦って敗れ、続いてヤンボでハルナ(ダン・マジの子)を攻めて700人ほどを殺す。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVII Abdulahi, p.97
1855年 〜 1883年ワソでダン・マジと戦ったが、夕刻で光が失せ、ダン・マジは命拾いした。ベトゥも攻撃したが失敗する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVII Abdulahi, p.97
1855年 〜 1883年Zariaアブドゥラヒはザリアのアフィラとズンゴナイヤに陣を張り、ザリア王と反乱したマダワキ・アリを和解させて帰る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVII Abdulahi, p.97
1855年 〜 1883年Kusadaマラディ王ダン・ボスコリがカツィナへ来ると、アブドゥラヒは迎え撃ってクサダで対峙したが、互いに睨み合っただけで引き返す(「アルギシ・ビギシ」)。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVII Abdulahi, p.98
1855年 〜 1883年Bichiマラディのサルキ、バラフィアとカノのサルキがビチで戦い、バラフィアが逃げ、アブドゥラヒが戦利品をすべて得る。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVII Abdulahi, p.98
1855年 〜 1883年ダマガラム王ババがジリマまで来てガルン・アッラーを略奪する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVII Abdulahi, p.98
1855年 〜 1883年アブドゥラヒは在位27年8日でソコトへ向かう途中のカロフィで死ぬ。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVII Abdulahi, p.98
1883年 〜 1892年Kanoベロは友人のサルキン・ファダ・ダン・ガトゥマをワジールとしてカノを任せ、彼が死ぬと親政に乗り出し、ガラディマのイブラヒムを解任してプンクイへ流し、息子トゥクルをガラディマとする。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVIII Mohammed Belo, p.98
1883年 〜 1892年Kanoベロは息子ザカリをサン・トゥラキに、別の息子アブバカルをチロマに任命する。Palmer 1908, Kano Chronicle §XLVIII Mohammed Belo, p.98

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