レオン・ディアコノス『歴史』

レオン・ディアコノス『歴史』(正史 の史料)。扱う年は959年 〜 974年、出来事51件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年959年 〜 974年
出来事の数出来事51件・地図に置いた46件
著者Leo Diaconus
原題Leonis Diaconi Historia

地域の内訳: 西アジア 28 · 南ヨーロッパ 22

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
959年Constantinopolisロマノスがコンスタンティノスの死後に帝位を継ぐI.1
960年 〜 961年Creta/Candia(Heraklion)コンスタンティノス・ゴンギュレスがクレタでの戦いに失敗するI.2
960年 〜 961年Creta/Candia(Heraklion)ニケフォロス・フォカスがクレタ遠征を開始するI.2
960年 〜 961年Creta/Candia(Heraklion)ニケフォロスがカンディア(ハンダクス)の前に陣を築き兵力を集めるI.3
960年 〜 961年Creta/Candia(Heraklion)パスティラスを精鋭部隊の指揮官に任じ、島の内陸へ送り込むI.3
960年 〜 961年Creta/Candia(Heraklion)パスティラスがサラセン人の群れの中で、馬が矢と槍に倒れて死ぬI.3
960年 〜 961年Creta/Candia(Heraklion)ニケフォロスが兵士たちに、怠惰と惰弱を捨てるよう演説するI.6
960年 〜 961年Creta/Candia(Heraklion)クレタを助けに来たサラセン軍が大敗するI.7
960年 〜 963年Cilicia Pediasロマノスがフォカスの弟レオンを派遣し、ハムダーンを阻止させるII.1
960年 〜 963年レオン・フォカスがハムダーンを討って追い払い、アジアを守るII.5
961年Creta/Candia(Heraklion)ニケフォロスがクレタで冬を越すI.9
961年 〜 962年Creta/Candia(Heraklion)ニケフォロスが再びカンディアを攻撃し、攻城兵器で陥落させるII.6–7
961年 〜 962年Temenosクレタ島内に堅固な城塞テメノスを築き、兵士と入植者を置くII.8
963年Temenos宦官ヨセフが再びニケフォロスを狙うIII.1
963年Temenosマリアノスとヨハネス・ツィミスケスに手紙を送り、ニケフォロスに対抗するようそそのかすIII.2
963年Caesarea(Mazaka/Eusebeia)カイサレイアで軍がニケフォロスを皇帝と歓呼するIII.4
963年Constantinopolisニケフォロスがカイサレイアから首都へ進軍するIII.8
963年Constantinopolisヨセフが首都を掌握しようとするが、内部の騒乱で失敗して逃走するIII.7
963年Constantinopolisニケフォロスが首都に入り、冠を受けるIII.8
963年 〜 964年Constantinopolisニケフォロスがテオファノと結婚するIII.9
964年 〜 966年Claudiopolis(Bithynia)クラウディオポリスで地震、コンスタンティノープルで大雨IV.8
964年 〜 966年Antiochiaニケフォロスのシリア遠征。アンティオキア攻略に失敗し、エデッサ方面へ向かうIV.9
964年 〜 965年Tarsus/Antiochia ad Cydnumニケフォロスがタルソスの野に陣を張り、城を包囲するIV.8
964年 〜 965年Tarsus/Antiochia ad Cydnum包囲中に飢饉がひどくなるが、タルソスの人々は城壁から矢を射続けるIV.8
964年 〜 965年Tarsus/Antiochia ad Cydnumタルソスの人々は、シリア内陸へ自由に立ち去ることを許される条件で降伏し、出ていくIV.8
966年Constantinopolis昇天祭の行列の際、コンスタンティノープル市民とアルメニア兵が衝突。夕方に皇帝が宮殿へ戻る時、市民が罵声を浴びせ石を投げる。皇帝は夜のうちに騒ぎを鎮めて不問にする。 判定保留IV.7
966年Syracusaeニケフォロスがニケタスとマヌエルをシチリアへ派遣。シラクサやヒメラなどを容易に占領するが、山岳地帯の伏兵でマヌエルが戦死し、ニケタスはサラセンの君主に引き渡される。IV.7–8
968年Claudiopolisクラウディオポリス大地震。夏の激しい揺れで都市と建物が崩れ、住民と外来者が下敷きになって死ぬ。IV.9
968年Antiochiaニケフォロス帝が強行軍でアンティオキアに至り、城の前に陣を張る。城をすぐには攻めず、丘の上に砦を築いて毎日出撃させる(IV.11で完成、騎兵500と歩兵1,000が駐屯)。IV.10–11
968年Tripolisニケフォロスがレバノン山脈を越えてトリポリを包囲し、攻城兵器で城壁を崩して九日間略奪する。IV.10
968年Constantinopolis12月22日第4時、晴れた空で太陽が隠れて大地が暗くなる。レオンはその時コンスタンティノープルにいたと記す。IV.11
969年Antiochiaアンティオキア陥落。ミカエル・ブルツェスらが夜に梯子で城壁を登ってサラセンの歩哨を殺し、城門を開く。住民は降伏し、都市は焼かれ略奪される。V.4–5
969年Constantinopolis皇后テオファノがヨハネス・ツィミスケスをひそかに宮殿へ引き入れ、ニケフォロス廃位の陰謀が練られる。V.6
969年Constantinopolis12月11日の夜、共謀者たちが宮殿内の寝室でニケフォロスを殺す。その場でヨハネスが皇帝に推戴される。V.7–9
969年Constantinopolisヨハネスが総主教ポリュエウクトスの条件を受け入れ、皇后テオファノをプロティ島へ送り、レオン・バランテスを暗殺犯として引き渡した上で、ハギア・ソフィアで戴冠する。VI.4–5
969年Constantinople皇后が ドメスティコスと共謀し、寝室脇の礼拝堂の通路から刺客を引き入れ、眠っていたニケフォロス帝が殺されるpart_05 L959-976 (969-971행 핵심)
970年バルダス・スクレロスがルーシ軍と交戦。ルーシ3万以上に対し味方(伏兵を含む)は1万ほどで、ルーシ側の戦死は2万以上と伝えられる。VI.12–13
970年Caesarea Cappadociaeバルダス・フォカス(ニケフォロスの従兄弟筋)がアマセイアから夜に抜け出してカイサレイアへ行き、仲間を集めて自ら皇帝と宣言される。VII.1
971年フォカス配下の将軍たちがスクレロス側に寝返って軍が散り、フォカスは夜に無言でアンティグス砦へ逃げる。スクレロスは追撃し、加担者の目をえぐる。VII.5–6
971年Chiosフォカスが降伏。スクレロスの保証で城から下り、皇帝は彼を剃髪して司祭にし、妻子とともにキオス島へ送るよう命じる。VII.8–9
971年Constantinopolisヨハネス・ツィミスケスがコンスタンティノス・ポルフィロゲネトスの娘テオドラと結婚。即位2年目の11月。VII.9
972年Adrianopolis皇帝がコンスタンティノープルを発ち、軍を率いてアドリアノープルに着く。艦隊はドナウ川へ向かう。VIII.1–2
972年Praesthlabaプレスラフが二日で陥落。皇帝はブルガリア王(ボリス、本文ではBorim)を捕らえ、「ブルガリアの君主」として遇する。VIII.5–7
972年Dorystolumドロストロンの前の平地で皇帝軍とルーシ軍が激突。ルーシ軍は押されて城壁の内へ追い込まれる。それ以前にスフェンドスラボスはミュシア貴族300人を処刑していた。VIII.9–10
972年Constantinopolisレオン・クロパラテス(ニケフォロスの弟)がレスボスの流刑地を抜け出し、ひそかにコンスタンティノープルの対岸に上陸、宮殿の鍵を偽造して入城を図る。発覚し、息子とともに両目をえぐられる。IX.3–5
972年Dorystolumマギストロスのヨハネス・クルクアスが砲撃隊の監督中に酔って落馬し、ルーシ軍に捕らえられてばらばらに殺される。首は槍の先に刺される。IX.5
972年Dorystolumルーシ軍との最後の決戦(7月)。アネマスがスフェンドスラボスの目の前で馬を刺されて戦死。日暮れとともにルーシ軍は散り、夜のうちに講和を考える。IX.8–9
972年Dorystolum講和。ルーシ軍はドロストロンを引き渡し、捕虜を返し、ミュシアを去って帰国する条件。皇帝は食糧を与え、帰路を保証する。その後スフェンドスラボスが川岸の船上で皇帝と会談する。IX.10–11
972年Constantinopolis皇帝がコンスタンティノープルに凱旋し、ドロストロンを「テオドロポリス」と改称、ブルガリア王ボリスにマギストロスの称号を授ける。IX.12
974年Emesa夏、皇帝がシリア遠征。ユーフラテスを渡り、エメサが降伏して莫大な身代金を払う。従軍したニケタスは落馬してユーフラテスで溺死する。X.1
974年Nisibisニシビスを無人で占領。住民は事前に去っていた。皇帝はエクバタナ攻略に向かうが、砂漠と水不足で中止し、帰路で金銀を大量に受け取って帰る。X.1–2

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