清史稿

清史稿(正史 の史料)。扱う年は1616年 〜 1911年、出来事221件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年1616年 〜 1911年
出来事の数出来事221件・地図に置いた118件
著者趙爾巽 등
原題清史稿

地域の内訳: 中国 219 · 朝鮮半島 1 · 東南アジア 1

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1616年ヌルハチが即位し、天命を年号と定め、国号を後金と名づけた。清史稿 卷1 天命1年正月
1618年撫順明の撫順遊撃・李永芳が降伏し、総兵官に任じられて漢人を率いることになり、城は放棄された。清史稿 卷1 天命3年二月
1619年勢いに乗って富察(フチャ)に至ると、明軍の火器は逆風に跳ね返されて大敗し、朝鮮軍も降伏した。清史稿 卷1 天命4年三月
1619年開原ヌルハチは開原を攻めて陥落させ、馬林らを斬って軍を殲滅し、その後、界凡に駐屯した。清史稿 卷1 天命4年六月
1620年瀋陽秋八月、明を攻めて瀋陽を奪取した。明軍は戦わずに退き、軍を引き返した。清史稿 卷1 天命5年八月
1621年瀋陽瀋陽は守りが堅かったが、後金軍は木柵を引き抜いて猛進し、明の総兵・賀世賢以下が陣中で斬られた。清史稿 卷1 天命6年三月
1622年庚申の日に広寧に入り、城堡四十を降して山海関へ進軍した。熊廷弼は沿道の村々を焼き払って逃げた。清史稿 卷1 天命7年正月
1625年瀋陽三月、瀋陽に遷都した。五度の遷都の末に定めた都を盛京と名づけた。清史稿 卷1 天命10年三月
1626年毛文龍の軍が安山駅と薩爾滸を襲撃したが、首長の巴布泰らが撃破し、将の李良美を捕らえた。清史稿 卷1 天命11年五月
1626年天命十一年九月、ホンタイジが瀋陽で即位した。清史稿 卷2 天命1年九月
1627年錦州明が錦州・大凌河・小凌河に城を築き屯田を行ったと聞き、ホンタイジは自ら軍を率いて攻撃した。清史稿 卷2 天聰1年五月
1628年カラチンの使者がチャハルに繰り返し殺されたため、ホンタイジは自ら親征した。清史稿 卷2 天聰2年二月
1629年ジルガランらが大安口を陥落させ、五戦五勝し、馬蘭営・馬蘭口・大安営の三城を降伏させた。清史稿 卷2 天聰3年
1630年榆林明の楡林の副将・王世選が降伏してきた。清史稿 卷2 天聰4年二月
1631年張春らは敗残兵を集めて政権を立てたが、後金軍に大敗し、張春と副将三十三人が捕らえられた。清史稿 卷2 天聰5年九月
1632年歸化チャハルのリンダン・ハーンは後金軍の名を聞くと、帰化城の民と家畜を追い立てて黄河の西へ逃げた。清史稿 卷2 天聰6年四月
1633年旅順岳託らが旅順口を陥落させたと報告した。清史稿 卷2 天聰7年七月
1634年大同代善らを派遣し、得勝堡から入って大同を奪取、西は黄河に至り、朔州から引き返した。清史稿 卷2 天聰8年六月
1635年チャハルのナンナン太妃と太吉が千五百戸を率いて降伏し、エジェ(額哲)も母とともに出てきて投降した。清史稿 卷2 天聰9年五月
1636年天地を祀って尊号を受け、国号を大清と改め、年号を崇徳と定めた。清史稿 卷3 崇德1年四月
1636年保定アジゲ(阿済格)は保定を経て安州に至り、十二の城を陥落させ、五十六戦すべてに勝った。清史稿 卷3 崇德1年九月
1637年朝鮮王・李倧(仁祖)は、江華島の陥落と妻子の疲弊、南漢山城の危急を聞いて、降伏を請うた。清史稿 卷3 崇德2年正月
1638年四月、ポケドリに駐屯し、葉克書らが黒竜江征討の勝利を報告した。清史稿 卷3 崇德3年四月
1638年ドド(多鐸)がジルガランの軍と合流して中後所へ向かうと、祖大寿は北京救援に向かい、夜に後金軍を襲撃した。清史稿 卷3 崇德3年
1639年濟南ドルゴンとドゥドゥは北京から山西の境を経て山東に至り、済南府を破って府・州・県五十余りを陥落させた。清史稿 卷3 崇德4年三月
1640年錦州ドルゴンは錦州で明軍を破り、ドゥドゥは寧遠で再び撃破した。清史稿 卷3 崇德5年七月
1641年錦州皇帝は帰還し、ドゥドゥとアバタイに錦州を、ドドに松山を、アジゲに杏山を包囲させた。清史稿 卷3 崇德6年九月
1642年洪承疇は援軍が途絶えて何度も突破できず、副将の夏承徳が降伏を約束して内応を求めた。清史稿 卷3 崇德7年二月
1643年寧遠寧遠総兵の呉三桂は祖大寿の書簡に返答しながら迷い、皇帝は再び勅諭を下した。清史稿 卷3 崇德8年正月
1643年錦州アジゲとニカンが軍を率いて錦州を守備した。清史稿 卷4 崇德8年八月
1644年揚州福王・朱由崧が江南で即位し、年号を弘光と改め、史可法を大学士として揚州に駐屯させ、督師とした。清史稿 卷4 順治1年七月
1645年潼關アジゲとニカンが軍を率いて潼関に至ると、敵将の馬世堯が降伏したが、すぐに離反の疑いで斬られた。清史稿 卷4 順治2年正月
1645年九江閏六月、アジゲは鄧州で李自成を破り、九江まで追撃して十三戦すべてに大勝した。清史稿 卷4 順治2年閏六月
1646年岳州三年正月、ルケデフンが部将を派遣して臨湘で流賊を破り、岳州を陥落させた。清史稿 卷4 順治3年正月
1646年ホーゲの軍は西充で張献忠を陣中で斬り、百三十余りの陣営を破った。清史稿 卷4 順治3年
1647年湘潭で、桂王の将・黄朝選の十三万を燕子窩で破り、さらに衡州(ホンチョウ)で撃破して宝慶を陥落させ、魯王らを斬った。清史稿 卷4 順治4年十二月
1648年四月、大軍は辰州を陥落させ、永寧を破って全州に至った。明の督師・何騰蛟は逃走し、諸王が捕らえられた。清史稿 卷4 順治5年四月
1649年降将の楊登州が背き、山陰を陥落させた。清史稿 卷4 順治6年十月
1651年桂林孔有徳が桂林を陥落させ、靖江王と文武官僚四百七十三人を斬り、残りの者すべてを降伏させた。清史稿 卷5 順治8年正月
1651年肇慶総兵の許爾顕が肇慶と羅定を、徐成功が高州を陥落させた。清史稿 卷5 順治8年閏二月
1652年桂林七月、明の将・孫可望が桂林を奪い、定南王の孔有徳が死んだ。清史稿 卷5 順治9年七月
1652年成都梅勒章京の戴都が成都を包囲すると、明の将・劉文秀が城を挙げて降伏した。清史稿 卷5 順治9年七月
1654年十二月、鄭成功は漳州を陥落させ、泉州を包囲した。清史稿 卷5 順治11年十二月
1656年福州鄭成功の軍は閩安鎮を陥落させ、福州を包囲したが、官軍に退けられた。清史稿 卷5 順治13年八月
1656年舟山九月、官軍は鄭成功の部将を夏関と衡水洋で破り、舟山を回復した。清史稿 卷5 順治13年九月
1658年重慶四月、官軍は合州で敵を破り、重慶を陥落させた。清史稿 卷5 順治15年四月
1659年清軍は永昌を陥落させた。李定国は桂王を奉じて騰越へ逃げ、磨盤山に伏兵を置いた。清軍は力戦して騰越を再び奪い返した。清史稿 卷5 順治16年四月
1659年荊州から来た水軍と蘇松の水軍が合流して総督の郎廷佐と会戦し、水陸併進して勝利を報告した。清史稿 卷5 順治16年八月
1661年順治十八年正月、世祖が崩御し、八歳の康熙帝が即位して年号を康熙と改めた。清史稿 卷6 順治18年正月
1663年台灣三月、オランダが使節を送り台湾討伐の助力を請うたので、手厚く褒賞した。清史稿 卷6 康熙2年三月
1663年廈門冬十月、耿継茂と施琅がオランダ艦隊と海峡で戦い、厦門を陥落させた。浯嶼・金門も奪ったため、鄭錦は台湾へ逃げた。清史稿 卷6 康熙2年十月
1674年長沙二月、呉三桂が長沙を陥落させ、副将の黄正卿が反乱に呼応して衡州(ホンチョウ)まで陥落させた。清史稿 卷6 康熙13年二月
1675年王進宝が臨洮を、孫思克が靖遠を回復した。清史稿 卷6 康熙14年四月
1676年吉安二月、呉三桂の将・高大傑が吉安を陥落させた。清史稿 卷6 康熙15年二月
1676年荊州三月、勒爾錦は太平街で呉三桂の軍と戦って不利となり、荊州へ退いて守った。清史稿 卷6 康熙15年三月
1677年莽依図の軍が南安に至ると、厳自明が城ごと降伏した。南雄を陥落させて韶州へ進入した。清史稿 卷6 康熙16年四月
1678年六月、呉三桂の将が永興を侵し、イリプとハクシャンが戦ったが敗れて死んだ。清史稿 卷6 康熙17年六月
1679年岳州正月、チャニ(察尼)が水軍で岳州を包囲すると、敵将の呉応麒は逃走し、岳州は奪還された。清史稿 卷6 康熙18年正月
1680年九月、呉世璠が夏国柱・馬宝をひそかに四川へ侵攻させ、瀘州・永寧を陥落させた。夔州の賊徒も呼応した。清史稿 卷6 康熙19年九月
1681年雲南七月、趙良棟は総兵の李芳述を派遣して胡国柱を破り、建昌を回復して雲南へ入った。清史稿 卷6 康熙20年七月
1683年台灣八月、施琅が軍を率いて台湾に入ると、鄭克塽と劉国軒らが出迎えて降伏し、台湾は平定された。清史稿 卷7 康熙22年八月
1685年彭春らがアルバジン(雅克薩)城を攻め、ロシアの援軍を林興珠の盾兵が河で撃破して船を沈め、首領のエリゲクサは降伏を請うた。清史稿 卷7 康熙24年五月
1686年ロシアが再びヤークサを占拠したため、サブス(薩布素)に軍を率いて駆逐させた。清史稿 卷7 康熙25年正月
1688年漢陽七月、南陽総兵の史孔華が漢陽を回復した。清史稿 卷7 康熙27年七月
1689年四月、再びソーエトゥらをニブチュ(ネルチンスク)へ派遣し、ロシアと国境を定めさせた。清史稿 卷7 康熙28年四月
1690年歸化康親王の傑書と恪慎郡王の岳希の軍を帰化城に駐屯させた。清史稿 卷7 康熙29年六月
1690年八月、無遠大将軍・裕親王の福全がオランブトンでガルダンを大破した。ガルダンはラマの斉隆を遣わして和を請うたが、福全はすぐには進軍しなかった。清史稿 卷7 康熙29年八月
1693年寧夏二月、ランタンを小武将軍とし、アナンダル・シネイとともに軍を率いて寧夏へ送った。清史稿 卷7 康熙32年二月
1695年肅州ガルダン麾下の回子五百人が三岔河の境界に侵入したが、粛州総兵の潘育龍が全員捕らえ、粛州に拘禁した。清史稿 卷7 康熙34年八月
1695年平陽十二月、平陽で地震が起きたため、今年の税を減免し、諸省の滞納を免じ、大赦を行った。清史稿 卷7 康熙34年十二月
1696年大将軍・費揚古が小莫多でガルダンを大破し、三千を斬り、その妻アヌを陣中で殺した。清史稿 卷7 康熙35年五月
1697年哈密正月、ハミの回部の首長が、ガルダンの子セプテンバルジュルを捕らえて献上した。清史稿 卷7 康熙36年正月
1715年哈密史翼徳は、策旺阿拉布坦の軍が哈密を略奪したと報告したが、遊撃の潘至善がこれを撃破したと述べた。清史稿 卷8 康熙54年四月
1716年西寧額倫特に西寧駐屯を命じ、軍を分けてガシグを守備させた。清史稿 卷8 康熙55年十月
1717年烏魯木齊七月、フニンアンがトンアパシでオイラトを襲撃し、ウルムチまで進んで穀物畑を踏み荒らし、ビリュタオで敵を破った。清史稿 卷8 康熙56年七月
1717年十二月、皇太后が崩御し、遺詔が出され、皇帝は喪服を着て別宮へ移った。清史稿 卷8 康熙56年十二月
1718年台灣五月、閩浙総督の満保が、台湾の要衝の港九か所に城壁と守備を置き、淡水営の駐屯を設けるよう提案し、裁可された。清史稿 卷8 康熙57年五月
1718年将軍の額倫特と侍衛の色楞はケラオソで敵を幾度も破ったが、後続がなく戦死した。清史稿 卷8 康熙57年九月
1719年西寧四月、大将軍・胤禵を西寧に駐屯させた。清史稿 卷8 康熙58年四月
1719年九月、西寧の新たな活仏がダライ・ラマの後身とされ、大将軍の命で官員と兵を付けてチベットへ送られ、安定させることになった。清史稿 卷8 康熙58年九月
1720年烏魯木齊三月、フニンアンをウルムチへ、アラナをトルファンへ進軍させ、同時にジュンガルを攻撃させた。清史稿 卷8 康熙59年三月
1720年吐魯番七月、軍がトルファンに至ると、首長のアケスアルタンが部衆を率いて降伏した。清史稿 卷8 康熙59年七月
1721年台灣福建水師提督の施世驃が台湾を平定し、朱一貴を捕らえて護送した。清史稿 卷8 康熙60年六月
1722年福州四月、福州の駐防兵が騒ぎを起こし、将軍の黄秉鉞は統制できず罷免され、首謀者は斬られた。清史稿 卷8 康熙61年四月
1722年辛丑の日、皇帝が即位し、翌年を雍正元年とした。清史稿 卷9 康熙61年
1723年西寧ロブザン・ダンジンが西寧を侵したが、守将の馬有仁と参将の宋可進が申中堡で撃破し、敵は逃走した。清史稿 卷9 雍正1年
1724年青海の反乱の首領らが護送されると、皇帝は午門で捕虜を受け取った。清史稿 卷9 雍正2年閏四月
1724年高其倬は、官軍が中廟の反乱を鎮圧して平定したと報告した。清史稿 卷9 雍正2年
1729年三月、ジュンガルのガルダン・ツェリンを討つため、傅爾丹を定辺大将軍(北路)、岳鍾琪を寧遠大将軍(西路)として出征させた。清史稿 卷9 雍正7年三月
1730年京師九月、京師で地震が起き、百官に宴を賜い、八旗にそれぞれ銀三万両を下賜した。清史稿 卷9 雍正8年九月
1731年七月、黄廷桂が、占台の反乱者が蜂起したため兵を送って平定したと報告した。清史稿 卷9 雍正9年七月
1731年ジュンガルが克魯倫に侵入して略奪すると、親王の丹津多爾済と策凌が合兵して撃退し、多くを捕らえ斬った。清史稿 卷9 雍正9年十月
1732年哈密岳鍾琪が、ジュンガルが哈密を侵したと報告すると、総兵の曹勷を派遣して撃破し、敵は無克克嶺へ逃げた。清史稿 卷9 雍正10年二月
1738年京師十二月、ガルダン・ツェリンは哈柳らを遣わし、侍郎のアクドゥンとともに京師に至って上表した。清史稿 卷10 乾隆3年十二月
1740年宿遷八月、江蘇省宿遷県の朱家閘の川が決壊し、朝廷は道水牌を用いて堤防を築くよう命じた。清史稿 卷10 乾隆5年八月
1742年歸化綏遠城・右衛・帰化城から、トゥメドやチャハルのトルグートなどの兵四千を選んで北路軍を支援させ、ラクダと馬を整えさせた。清史稿 卷10 乾隆7年正月
1745年安南の莫康武が反乱し、太原(タイグエン)・高平(カオバン)を陥落させたため、ナストゥらに国境の要地を厳重に守らせた。清史稿 卷10 乾隆10年三月
1745年慶復は、上瞻對を鎮めて下瞻對へ進み、班滾、加社丫などの関所と南路の各砦を陥落させたと報告した。清史稿 卷10 乾隆10年九月
1746年打箭爐慶復は打箭炉に至り、李質粹らの遅延を弾劾し、官兵の増派を求めて裁可された。清史稿 卷11 乾隆11年三月
1747年大金川の土司が隣接する土司を略奪したため、慶復に四川にとどまり張広泗と進攻を相談させた。清史稿 卷11 乾隆12年三月
1747年八月、慶復が刮耳崖を攻め、連戦連勝したと報告した。清史稿 卷11 乾隆12年八月
1748年德州三月、皇帝は徳州に至って舟に乗った。皇后が崩御したため、皇帝は徳州に留まった。清史稿 卷11 乾隆13年三月
1749年正月、大金川の土司の莎羅奔と郎卡が降伏を請うたため、傅恒に撤兵させ、忠勇公に封じた。清史稿 卷11 乾隆14年正月
1752年正月、準噶爾の達瓦齊と阿睦爾撒納の内紛により、阿爾泰の国境の要地に兵を増派した。清史稿 卷11 乾隆17年正月
1755年吐魯番四月、吐魯番の首長莽噶里克が来て降伏した。清史稿 卷11 乾隆20年四月
1755年京師六月、羅卜藏丹津らを京師へ護送し、太廟で告祭を行い、献俘の礼を行った。清史稿 卷11 乾隆20年六月
1756年曲阜三月、皇帝は曲阜に至り、先師孔子廟を拝謁した。清史稿 卷12 乾隆21年三月
1756年八月、哈達哈らが哈薩克を征伐し、大いに撃破した。清史稿 卷12 乾隆21年八月
1757年烏魯木齊二月、兆恵が全軍を率いて烏魯木齊に至り、一等伯に封じられた。清史稿 卷12 乾隆22年二月
1757年伊犁三月、噶勒藏多爾濟が伊犁を陥落させたため、成袞扎布に討伐させた。清史稿 卷12 乾隆22年三月
1758年葉爾羌兆恵は葉爾羌城の外に至ったが、敵の包囲に陥った。清史稿 卷12 乾隆23年
1762年京師正月、皇帝は皇太后を奉じて南巡に出て京師を発った。直隷・山東の通過地では、今年の地租を三割減免した。清史稿 卷12 乾隆27年正月
1762年喀什噶爾十二月、ホカンのベクが、喀什噶爾を境界とすべしとの書簡を送ってきたため、厳しく反駁するよう勅諭した。清史稿 卷12 乾隆27年十二月
1766年正月、雲南の官軍が猛住で莽匪を攻撃したが失敗した。清史稿 卷13 乾隆31年正月
1767年正月、雲南の官軍が新街で緬匪を攻めたが失敗し、楊廷璋は広東へ送り返された。清史稿 卷13 乾隆32年正月
1767年二月、雲南の官軍が底麻江でビルマ軍と戦って敗れ、提督の李時升は投獄された。清史稿 卷13 乾隆32年二月
1771年七月、アルタイが小金川の土司が沃克什を包囲攻撃していると報告し、討伐が命じられた。清史稿 卷13 乾隆36年七月
1771年九月、土爾扈特の首長渥巴錫を旧土爾扈特の汗ジュリケドゥハンに封じ、策伯克多爾濟を親王、舍楞を郡王とした。清史稿 卷13 乾隆36年九月
1772年四月、桂林が革布什咱の土司の地をすべて回復し、小金川の格烏などを陥落させたと報告した。清史稿 卷13 乾隆37年四月
1773年十一月、アグイらが美諾を回復したと報告し、金川への進撃を命じた。清史稿 卷13 乾隆38年
1775年八月、アグイらが勒烏囲の勝利を報告し、噶喇依の敵の砦へ進んだ。清史稿 卷13 乾隆40年八月
1776年二月、アグイらが索諾木らの降伏を報告し、檻車で京師へ護送すると述べ、大金川は平定された。清史稿 卷14 乾隆41年二月
1779年六月、河南の武陟県と河内県で河が決壊した。清史稿 卷14 乾隆44年六月
1780年京師班禪額爾德尼が京師で死去した。清史稿 卷14 乾隆45年
1781年三月、甘粛の順化の撒拉族の蘇四十三が反乱して河州を陥落させ、西安提督の馬彪に討伐が命じられた。清史稿 卷14 乾隆46年三月
1781年蘭州三月、回民の反乱軍が蘭州を侵したため、アグイに甘粛へ行き反乱を鎮圧するよう命じた。清史稿 卷14 乾隆46年三月
1784年五月、甘粛の回民が通渭県を陥落させたが、まもなく奪還された。清史稿 卷14 乾隆49年五月
1785年喀什噶爾正月、喀什噶爾で、ベクの阿里木が薩木薩克と密かに通じていたことが発覚し、処刑された。清史稿 卷14 乾隆50年正月
1787年台灣二月、林爽文が鳳山を再び陥落させ、台湾府を侵したため、柴大紀が兵民を率いて防いだ。清史稿 卷15 乾隆52年二月
1787年台灣七月、海蘭察を参賛大臣とし、侍衛と章京の兵を率いて台湾へ行き敵を討たせた。清史稿 卷15 乾隆52年七月
1788年八月、グルカ(廓爾喀)が再び宗喀を陥落させたため、鄂輝を将軍、成徳を参賛大臣として討伐させた。清史稿 卷15 乾隆53年八月
1788年十二月、越城を回復し、黎維祁を安南国王に再封し、孫士毅・許世亨に爵位を授けた。清史稿 卷15 乾隆53年十二月
1789年正月、阮恵が再び越城を陥落させ、許世亨らが戦死した。清史稿 卷15 乾隆54年正月
1792年閏四月、扎什倫布が陥落した件により、仲巴呼圖克圖と孜仲喇嘛らが処罰された。清史稿 卷15 乾隆57年閏四月
1795年四月、台湾・彰化の陳周全らが反乱して県城を陥落させたが、まもなく奪還された。清史稿 卷15 乾隆60年四月
1799年七月、山西の兵三千を湖北へ、盛京の兵二千を四川へ送って敵を討たせ、額勒亨額が統率した。清史稿 卷16 嘉慶4年七月
1800年伊犁正月、松筠を伊犁将軍としたが、陝西に留まって匪賊を討伐させた。清史稿 卷16 嘉慶5年正月
1800年七月、右翼総兵の長齢に吉林・黒竜江の兵を率いて湖北へ行き、教匪の討伐に協力させた。清史稿 卷16 嘉慶5年七月
1806年正月、海賊の蔡牽が鳳山県を陥落させたため、玉徳に討伐を命じ、広州将軍の賽沖阿を急派して監督させた。清史稿 卷16 嘉慶11年正月
1813年その一味の馮克善・牛亮臣が県城を陥落させ、克捷が戦死した。清史稿 卷16 嘉慶18年九月
1813年九月、首魁の林清が捕らえられた。清史稿 卷16 嘉慶18年九月
1816年七月、英国使節を引率したが謁見が叶わなかった件で、和世泰らが降格された。清史稿 卷16 嘉慶21年七月
1817年天津三月、天津水師営の総兵官を増設し、水師二営を専管させた。清史稿 卷16 嘉慶22年三月
1820年九月、斌靜・布魯特・蘇蘭奇らが、薩木薩克の子・張格爾を糾合して乱を起こしたと報告された。清史稿 卷17 嘉慶25年九月
1821年三月、貴州提督の羅思挙を雲南の軍営へ送り、協力して討伐させた。清史稿 卷17 道光1年三月
1825年喀什噶爾その首領の汰列克は衆を集め、喀什噶爾で巴彥巴圖らを包囲したため、慶祥は穆克登布らを送って救援させた。清史稿 卷17 道光5年九月
1826年七月、張格爾が和闐城を陥落させ、領隊大臣の奕湄らが戦死した。清史稿 卷17 道光6年七月
1826年喀什噶爾八月、張格爾が喀什噶爾城を陥落させ、参賛大臣の慶祥らが戦死した。清史稿 卷17 道光6年八月
1827年喀什噶爾四月、長齢らが喀什噶爾を回復し、張格爾は逃走した。清史稿 卷17 道光7年四月
1830年喀什噶爾九月、安集延の回民が再び喀什噶爾に入り、方弁大臣の塔斯哈が敗死し、城は包囲された。清史稿 卷17 道光10年九月
1831年二月、各省でアヘンの栽培と販売を重ねて禁じた。清史稿 卷18 道光11年二月
1831年喀什噶爾五月、長齢に命じて喀什噶爾へ行かせ、招撫と措置の順序を協議させた。清史稿 卷18 道光11年五月
1832年二月、湖南の江華県の匪賊・趙金龍が反乱したため、盧坤らに討伐が命じられた。清史稿 卷18 道光12年二月
1832年三月、湖南提督の海陵阿と副将の馬韜らが永元で匪賊を攻めて敗れ、戦死した。清史稿 卷18 道光12年三月
1833年楊芳が越巂の匪賊イビを攻めて大敗させ、瓘邊のイビへ進んだ。清史稿 卷18 道光13年五月
1835年三月、山西の趙城県の匪賊・曹順が反乱し、知事の楊延亮が死に、霍州が包囲された。清史稿 卷18 道光15年三月
1840年定海六月、英国の船が浙江の海に入り、定海県城を包囲した。清史稿 卷18 道光20年六月
1840年定海六月、英国人が定海県を陥落させ、知県の姚懐祥らが死んだ。清史稿 卷18 道光20年六月
1841年虎門二月、英国人が広東の虎門砲台と烏涌関を陥落させ、水師提督の関天培と湖南提督代理の祥福らが戦死した。清史稿 卷19 道光21年二月
1841年寧波九月、英国人が浙江の寧波府を陥落させた。清史稿 卷19 道光21年九月
1842年上海五月、英国人が上海県を陥落させ、防衛した楊慶恩が戦死した。清史稿 卷19 道光22年五月
1842年鎮江六月、英国人が鎮江を陥落させ、副都統の海齢が死んだ。清史稿 卷19 道光22年六月
1844年六月、米国(メリケン)との通商条約が定められた。清史稿 卷19 道光24年六月
1846年二月、雲南の永昌の回民が反乱し、提督の張必禄に討伐が命じられた。清史稿 卷19 道光26年二月
1847年葉爾羌十月、奕山らが葉爾羌付近の科科熱依瓦特で安集延の匪賊を攻撃し、大いに破った。清史稿 卷19 道光27年十月
1848年三月、雲南の昭州の匪賊が反乱し、林則徐に討伐が命じられた。清史稿 卷19 道光28年三月
1849年五月、雲南の騰越庁で匪賊のイェが反乱したが、林則徐が討伐して平定した。清史稿 卷19 道光29年五月
1850年道光帝が円明園の慎德堂で崩御した。清史稿 卷19 道光30年
1851年永安閏八月、新墟の一味の首領・洪秀全が永安州を陥落させて占拠し、太平天国を僭称した。清史稿 卷20 咸豐1年閏八月
1854年岳州三月、駱秉章が敵の岳州陥落を報告し、曾国藩は城へ戻って防衛した。清史稿 卷20 咸豐4年三月
1854年岳州七月、湖南の水軍が岳州を回復し、曾国藩に三品の位が授けられた。清史稿 卷20 咸豐4年七月
1855年上海正月、吉爾杭阿が上海県城の回復を報告した。清史稿 卷20 咸豐5年正月
1856年武昌胡林翼が武昌を、官文が漢陽を回復し、ともに褒められた。清史稿 卷20 咸豐6年
1857年鎮江和春が張国梁とともに鎮江を回復したと報告した。清史稿 卷20 咸豐7年
1858年九江四月、湖北の官軍が九江を回復した。清史稿 卷20 咸豐8年四月
1858年吉安九月、湖南の官軍が吉安を回復した。清史稿 卷20 咸豐8年九月
1859年正月、桂良らが和約の四条を報告した。清史稿 卷20 咸豐9年正月
1860年湖州五月、賊が浙江の長興を陥落させて湖州を包囲し、蕭翰慶が救援に向かったが敗れ、戦死した。清史稿 卷20 咸豐10年五月
1860年八月、皇帝が木蘭へ行幸するため、円明園を出発した。清史稿 卷20 咸豐10年八月
1861年寧波十二月、越匪(太平軍)が寧波・鎮海と紹興府の各県を陥落させた。清史稿 卷21 咸豐11年十二月
1861年杭州十二月、越匪が杭州を陥落させ、瑞昌と王有齢が死んだ。清史稿 卷21 咸豐11年十二月
1862年漢中四月、敵が漢中を陥落させ、左宗棠は衢州・江山の包囲を解いた。清史稿 卷21 同治1年四月
1864年伊犁十二月、官軍が回民を破って大勝し、イリの包囲が解けたため、明緒に黄馬褂が授けられた。清史稿 卷21 同治3年十二月
1865年西寧三月、西寧の回民が再び反乱し、大通を陥落させた。清史稿 卷21 同治4年三月
1865年哈密六月、奇台と哈密が陥落し、哈密判事大臣の札克當阿が死んだ。清史稿 卷21 同治4年六月
1866年正月、匪賊が阿勒楚喀および拉林城を陥落させたため、富明阿が吉林へ行って討伐した。清史稿 卷21 同治5年正月
1867年西安正月、張錫嶸が西安の魚化鎮で捻匪を攻め、戦死した。清史稿 卷22 同治6年正月
1868年台灣台湾で英国領事が楊長を解放し、船を略奪して英西を占拠し、国庫を焼いて軍費を要求した。清史稿 卷22 同治7年
1869年九月、馬化竜が再び反乱し、霊州を襲って陥落させた。清史稿 卷22 同治8年九月
1869年哈密十月、哈密の官軍が西方から回民を攻め、大勝した。清史稿 卷22 同治8年十月
1873年大理正月、官軍が大理を陥落させ、回民の首領の杜文秀らが処刑された。清史稿 卷22 同治12年正月
1873年肅州二月、金順の軍が粛州に至り、回民を攻めて破った。清史稿 卷22 同治12年二月
1874年七月、匪賊が寧古塔を陥落させたが、まもなく奪還された。清史稿 卷22 同治13年七月
1876年烏魯木齊八月、劉錦棠と金順が回民の首領・白彦虎を破り、ウルムチと迪化城を回復し、続いて昌吉・呼図壁・景化の各城を回復した。清史稿 卷23 光緒2年八月
1877年吐魯番四月、劉錦棠らが七克騰木・辟展を陥落させ、トルファンの満城と漢城の二城を回復した。清史稿 卷23 光緒3年四月
1877年十月、劉錦棠が喀喇沙爾と庫車の二城を平らげ、続いて阿克蘇と烏什城を回復した。清史稿 卷23 光緒3年十月
1878年喀什噶爾正月、西軍が葉爾羌と喀什噶爾を回復し、和闐の回民が降伏した。清史稿 卷23 光緒4年正月
1879年詔により、崇厚がロシアとイリ条約を結び、勝手に帰京したことを責め、条約は朝廷の評議に付された。清史稿 卷23 光緒5年
1882年朝鮮六月、朝鮮で内乱が起きたため、張樹声に討伐して平定させた。清史稿 卷23 光緒8年六月
1883年河內六月、ベトナムの将・劉永福が河内でフランス軍と戦い、勝利した。清史稿 卷23 光緒9年六月

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