レメゾフ・シベリア年代記

レメゾフ・シベリア年代記(記録 の史料)。扱う年は1577年 〜 1651年、出来事67件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分記録
視点内側の視点
扱う年1577年 〜 1651年
出来事の数出来事67件・地図に置いた21件
著者Семён Ремезов(편찬, 원문 말미 암호 「Писалъ Семенъ Ремезовъ」)
原題Ремезовская летопись по Мировичеву списку

地域の内訳: 東ヨーロッパ・ロシア 67

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1577年Astrakhanエルマークの一味がオカ・ヴォルガ・カスピ海で商船とペルシア使節を略奪すると、ツァーリは十月一日にイヴァン・ムラシキンを派遣し、捕らえ次第処刑するよう命じた。레메조프본 ст.5
1578年 〜 1579年Ermakovo gorodishche (Sylva)エルマークの一味がヴォルガとカマ川を遡り、シルヴァ川上流のエルマコヴォ・ゴロディシェに至って冬を過ごし、ボグリチを略奪した。레메조프본 ст.5 (10–11)
1578年 〜 1579年(Moscow → Stroganov)イヴァン四世は、ストロガノフがエルマークの一味に食糧と武器を与えたと聞き、彼を叱責する書簡を送った。레메조프본 ст.7
1579年Chusovaya river / Tagil portageエルマークはストロガノフから食糧と武器を受け、六月十二日にチュソヴァヤ川を遡り、ウラルを越えるタギルの陸路へ出発した(原典は兵五千人と記す)。레메조프본 ст.6–8
1579年 〜 1580年Pelym districtタギル川の岸、アブガイ沢のほとりでボグリチのウルスを征服し、タヴダを服属させ、冬の間じゅうペリム領で戦った。레메조프본 ст.12–13
1580年Turinsk五月一日、トゥラ川を下り、最初のタタール公エパンチャの町の近くで、弓の形をした大きな湾曲部での戦いに勝った。레메조프본 ст.14
1580年Tyumen八月一日、エルマークはチュメニ(チンギトゥラ)を占領し、ツァーリのチンギを殺して、そこで冬を過ごした。레메조프본 ст.15
1580年 〜 1581年Tyumenエルマークはクチュムの使者クトゥガイをタルハンで捕らえ、手厚く遇し、火縄銃の腕前を見せてから送り返し、クチュムを怯えさせた。레메조프본 ст.30–34
1581年Tyumen五月九日、エルマークはチュメニからトゥラ川を下り、河口で六人の公と戦い、千六十人で勝利し、戦利品を河口に埋めた。레메조프본 ст.35–36
1581年Karaulny Yar (Tobol)6月8日、トボル川を下り、ベリョゾヴィ・ヤルで大きな戦いをした。6月29日、カラウルヌイ・ヤルでクチュムの兵が張った鎖の柵を突破し、三日間戦って勝利した。레메조프본 ст.37–38
1581年Babasan (Tobol)タヴダ川の河口に一週間とどまり、引き返すかどうかを協議した。7月8日、ババサン・ムルザの地で先頭の偵察船が捕らえられたが、取り返した。레메조프본 ст.39–41
1581年Babasan (Tobol)7月21日、ババサンでクチュムの子マメトクルの軍と五日間戦い、勝利した。레메조프본 ст.43
1581年Turba mouth (Dolgy Yar)7月26日、トゥルバ川の河口のドルギー・ヤルで数えきれない敵に出会って怯えたが、救世主の聖像に導かれて矢の雨を突き抜けた(信仰を語る箇所)。레메조프본 ст.44–47
1581年Karachin (town of Karacha)8月1日、クチュムの高官カラチャの城、カラチンを攻撃した。레메조프본 ст.48
1581年Pachenka / Koshuni (Tavda)カラチンを発ってタヴダ川を遡り、パチェンカ湖畔の大きな戦いでパチェンカ公を殺した。8月6日、コシュニ公とチャンディリ公からヤサクを受けた。레메조프본 ст.49–51
1581年Tavda → Karachin上タヴダ川でペリム公パトリクと戦ったが、ウラルの向こうへの道がないと知った。10月4日タヴダ川を下り、11月8日にカラチンで冬を越した。레메조프본 ст.52
1581年Karachinカラチン城を奪い、莫大な金銀・蜂蜜・家畜を得た。待降節の間は断食して過ごした。레메조프본 ст.53
1581年Tobol mouth → Irtysh9月14日(7090年)にカラチンを発ち、トボル川の河口からイルティシュ川へ出た。イルティシュ川の河口はクチュムの大軍で埋まっていたが、エルマークの兵は45人しか残っていないのに、イルティシュ川を遡った。레메조프본 ст.58
1581年Atik's town / Chuvash hillイルティシュ川上流のアティク・ムルザの町を占領して籠城した。10月1日、チュヴァシ山の柵でクチュムと最初の戦いをし、町へ戻った。레메조프본 ст.59–62
1581年Chuvash hill (Kashlyk)10月23日、チュヴァシ山の麓でエルマークの兵が総攻撃をかけ、クチュムの弓兵と槍兵を破った。大砲二門を山の下のイルティシュ川へ投げ落とした。레메조프본 ст.63–64
1581年Kashlyk (Sibir)10月26日、幻視と失意の中、クチュムは首都カシュリク(シビル)を捨ててカザフの草原へ逃げた。레메조프본 ст.65–68
1581年Kashlyk (Sibir)同じ10月26日、エルマークの兵は空になったカシュリク(シビル)に入城し、莫大な財貨と穀物を得た。레메조프본 ст.69–70
1581年Kashlyk入城の四日後、デミヤン公のボヤールが贈り物を持って来て、エルマークに服属し、ヤサクを献じた。레메조프본 ст.71
1581年Abalak lake11月5日、アバラク湖で魚を捕っていたコサック20人が、マメトクルの兵に寝込みを襲われて全滅した。레메조프본 ст.72
1582年Aremzyan (Irtysh)3月5日、五十人隊長ブリャズガが50人を率いてイルティシュ川を下り、アレムジャン城を占領した。ヤサクを取り立て、忠誠の誓いを受けた。레메조프본 ст.73
1582年Demyanka mouthデミャンカ川の河口の大きな要塞を三日間攻撃したが突破できなかった。捕虜のチュヴァシ人の情報と攻撃の脅しで住民が逃げ、ヤサクを受けた。레메조프본 ст.74–75
1582年Rachev gorodishche春の増水で水位が上がると、軽い舟に乗り換えて下った。ラチェフ・ゴロディシェの祭壇ではシャーマンたちが森へ逃げ、待ち伏せも銃撃で撃退した。레메조프본 ст.76–77
1582年Samar (Irtysh/Ob)5月20日、オブ川とイルティシュ川の合流点近くにあるサマル公の陣を日曜日に襲撃し、公を殺してその後継者アラチェイを立てた。레메조프본 ст.78
1582年Belogorye (Ob)ベロゴリエでは神殿付近の住民が逃げて空だったので、三日後に引き返し、5月29日にヤサクを携えてシビルへ帰還した。레메조프본 ст.79–80
1582年Shanshinエルマークは逃げるマメトクルを追い、シャンシンスキーで打ち破った。最初の戦死者は、サウス・ハン岬の古い王墓の墓地に葬られた。레메조프본 ст.81
1582年Yaskalba marshland (Yaskalbinsky volosts)12月6日、ヤスカルバ湿地の公イシベルデイとスクレムが贈り物とヤサクを持って来て服属した。イシベルデイはその後、道案内として忠実に仕えた。레메조프본 ст.82
1582年 〜 1583年Moscow12月22日、イヴァン・コルツォが部下とヤサクを携えて狼道を通ってモスクワへ行った。イヴァン4世はシベリア征服の知らせに大いに喜び、エルマークに鎧二領と毛皮の外套などを送った。레메조프본 ст.84–85
1583年Kashlyk3月1日、皇帝の使者が鎧二領と外套、称賛の手紙をエルマークと五人のアタマンに届けた。레메조프본 ст.86
1583年Kularovoムルザ・タギンがマメトクルはバガイにいると知らせた。2月28日、エルマークは若者60人を送り、クラロヴォで寝ていたマメトクルを捕らえて連れ帰った。레메조프본 ст.87–88
1583年Kod / Nazym / Tavdaエルマークはイルティシュ川を下り、コド城とナジム城、そしてアラチェイ公を制圧した。6月20日に帰還し、7月1日にはタヴダ川のラブタ城とパチェンカを再び攻めて、ヤサクを取り立てた。레메조프본 ст.90
1583年Moscow11月21日、エルマークは捕らえたマメトクル公子とヤサクをモスクワのフョードル皇帝へ送り、厚遇と褒賞を受けた。레메조프본 ст.91
1583年 〜 1584年Kashlyk5月10日にモスクワから派遣された公ヴォルホフスキーとイヴァン・グルホイが、500人を率いて11月2日にシビルへ着いた。飢えで多くが死んだが、春になるとタタールとオスチャークが魚や食糧を供給して、彼らは生き延びた。레메조프본 ст.92
1583年Karacha lands9月10日、カラチャが使節を送って偽りの誓いを立てた。エルマークはコルツォと40人を送ったが、カラチャの地で全滅した。레메조프본 ст.93
1584年Kashlyk (Sibir)四旬節の3月12日、カラチャが大軍でシビルを包囲し、サウス・ハン岬に陣を張って、5月までコサックを苦しめた。레메조프본 ст.94
1584年Kashlyk (Sibir)5月9日の夜、エルマークは城外に出てカラチャの陣を夜襲し、その息子二人を殺した。包囲は解け、カラチャは逃げ去った。레메조프본 ст.95–96
1584年Vagay river8月1日、クチュムがブハラの商人の通行を妨げているという知らせを受け、エルマークは50人を率いてイルティシュ川を遡った。アギト岬に陣を築き、バガイ川の河口まで行ったが、ブハラ人には会えなかった。레메조프본 ст.98
1584年Begish's town (Irtysh)エルマークは300人を率いてイルティシュ川を遡り、ベギシ公の城でタタールとカラチャの連合軍と大きな戦いをした。カザンから運んだ大砲二門はイルティシュ川に落ちたが、勝利した。레메조프본 ст.99
1584年Ust-Ishimイシム川の河口で素手の白兵戦をし、コサック5人が戦死した。タタールはこれに歌の節をつけ、「янымъ, янымъ, бинть казакъ」(戦死五人)と歌い、その歌を「Царицынъ плачь」(王妃の嘆き)と呼んだ。레메조프본 ст.100
1584年Kularyクラリ城を五日間攻めたが突破できず、引き返しながら「帰りに取り立てる」と言った。레메조프본 ст.101
1584年Vagay8月6日の夜、クチュムがバガイ川の河口の野営地で油断していたコサックを奇襲した。一人だけが逃げ延び、シビルへ知らせた。레메조프본 ст.105
1584年Vagayエルマークは鎧を二領着たまま舟に飛び込み、イルティシュ川で溺れ死んだ(8月6日)。레메조프본 ст.106
1584年Kashlyk → Ob残った150人のコサックは8月15日にシビルを捨て、オブ川とイルティシュ川に沿ってウラルを越え、ロシアへ帰還した。레메조프본 ст.107
1584年 〜 1585年Kashlyk (Sibir)カシュリクを空けた後、クチュムの息子アレイが入り込んだが、ベクブラトの息子セイディヤクが彼を追い出し、父の仇を討ってシビルを手に入れた。레메조프본 ст.103
1584年Epanchin yurts / Baishev cemetery8月13日、漁師ヤニシがエパンチン・ウルトの岸でエルマークの遺体を引き上げた。鎧を確かめ、六週間安置した後、バイシェフ墓地の松の下に埋葬した。레메조프본 ст.109–112
1584年 〜 1585年Ob (opposite Irtysh mouth)エルマーク死後、イヴァン・マンスロフが百人の兵を率いてイルティシュ川を下り、オブ川に着いた。氷が張る前に砦を築き、そこで冬を越した。레메조프본 ст.119
1585年 〜 1586年Ob fortオスチャークの一団が砦を攻撃したが、ベロゴリエに偶像を立てて供犠を捧げていたところ、大砲が偶像を砕くと、恐れて散らばり、ヤサクを献じた。레메조프본 ст.120
1585年Tyumen7月29日、ヴォエヴォダのスーキン、ミャスノイ、チョルコフが300人を率いて、シベリア最初の救世主教会をチュメニ(旧チンギ)に建て、トゥラ川とトボル川一帯のヤサクを取り立てた。레메조프본 ст.121
1586年 〜 1587年Tobolsk7095年、フョードル・イヴァノヴィチの時代に、500人を受けたヴォエヴォダのチョルコフがトボル川の河口にトボリスク城を築き、三位一体教会と救世主教会を建てた。레메조프본 ст.122
1587年 〜 1589年Tobolskトボリスクのヴォエヴォダは、セイディヤク、サルタン、カラチャを宴に招いた。毒を疑う彼らに杯を勧め、合図を出して襲撃し、捕らえた。레메조프본 ст.123–125
1588年Moscow9月10日、チョルコフがセイディヤク、サルタン、カラチャをモスクワへ送った。皇帝は彼らに洗礼を受けさせ、領地と食糧を与えた。레메조프본 ст.126
1590年Tobolsk7月28日、クチュムは全軍を集めてトボリスクを攻めようとしたが、恐れて引き返し、カウルダクとサリンの村を略奪しただけだった。레메조프본 ст.127
1591年Chilikul lake (Ishim)トボリスクのヴォエヴォダ・マルサルスキーは7月8日に出発し、8月1日にイシム川沿いのチリクル湖でクチュムを襲撃、息子と妻二人を捕らえた。레메조프본 ст.128
1591年 〜 1597年Ishim / Nor-Ishim upperクチュムはカルムイクの国境に近いイシム川上流の森と湖の間に隠れ、タラ一帯を荒らしながら、7105年まで放浪した。레메조프본 ст.129
1598年Taraタラのヴォエヴォダ・マルサルスキーは5月9日、ボリス・ゴドゥノフの命で出陣し、クチュムの兵を襲撃して、息子三人・娘二人・妻六人を捕らえ、8月23日にタラへ帰還した。레메조프본 ст.130
1598年Moscowタラとトボリスクから送られたクチュムの息子三人・娘二人・妻六人を、ツァーリのボリスが受け取り、シベリア人を褒め、金貨と褒賞を与えた。레메조프본 ст.131
1598年 〜 1600年Zaisan / Nor-Ishimクチュムはイルティシュ川上流のザイサン湖へ逃げ、カルムイクの馬を盗んだ。カルムイクが追撃し、クルガルチノ湖畔で打ち破って馬を取り返した。레메조프본 ст.132
1598年 〜 1601年Nogai landクチュムがノガイの地へ逃れると、ノガイ人は、彼が父の悪行に似ていると言って殺し、財産を奪った。레메조프본 ст.133
1598年 〜 1601年Tobolskクチュムが死ぬと、草原に残ったタタールがトボリスクへ来てヤサクを納めた。一部は洗礼を受け、ムルザ三百人は給与を与えられて軍役に編入された。레메조프본 ст.134
1620年 〜 1621年Tobolsk皇帝ミハイルと総主教は、シベリア大主教キプリアンにエルマークがどう生き、どう死んだかを調べさせ、大主教はロシア人とタタール人の証言を集めた。레메조프본 ст.114
1636年Tobolsk2月16日、総主教フィラレートと皇帝ミハイルは、シベリア大主教ネクタリーに、エルマークと戦死したコサックのために日付ごとの永遠の記念礼拝を執り行わせた。레메조프본 ст.135
1649年 〜 1650年Tobolskカルムイク公アブライ・タイシの使者がトボリスクに来て、エルマークの鎧を贈り物として求め、カイダウルとコンダ公の鎧にも言及した。레메조프본 ст.115
1650年 〜 1651年Ablay's urga (Kalmyk)トボリスクのストレリツィ百人隊長ウリャン・レメゾフがエルマークの鎧を持ってアブライのオルドへ行き、贈り物として献じた。アブライから、エルマークの墓と遺体の話を確かめた。레메조프본 ст.115–118

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