太田牛一『信長公記』

太田牛一『信長公記』(正史 の史料)。扱う年は1568年 〜 1582年、出来事86件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年1568年 〜 1582年
出来事の数出来事86件・地図に置いた79件
著者太田牛一
原題信長公記

地域の内訳: 日本 79 · 中国 7

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1568年箕作山城信長軍が箕作山城を攻略。申の刻から夜まで攻めて落とした。巻一(四)
1568年觀音寺城(觀音寺山)観音寺山を手に入れると残党が降伏した。人質を取って旧状のまま置き、一国を平定した。巻一(四)
1568年芥川城山崎に陣を置いたのち、芥川城に信長が供奉し、義昭が移り座した。巻一(四)
1568年池田城(摂津)池田城(池田筑後)を攻撃。池田筑後守が降伏し、人質を差し出した。巻一(四)
1568年六條本國寺(京)義昭が芥川から戻り、六条本圀寺に入った。天下は喜んだ。巻一(四)
1569年六條(京)三好三人衆らが六条本圀寺に攻め込み、激戦となった。守る側の多くが戦死した。巻二(一)
1569年二條城(京)二条御所の築城が始まった。石垣を高く積み、洛中洛外から職人・材木を動員した。巻二(三)
1569年阿坂城木下藤吉郎が先鋒として阿坂城を攻めた。攻め手は浅手を負って退き、城は降伏して退去した(原文は主語が曖昧)。巻二(六)
1569年大河内城(伊勢)大河内城を滝川左近・津田掃部に引き渡し、国司父子は笠木坂へ退いた。巻二(七)
1570年手筒山城(越前 敦賀)信長が自ら敦賀方面の手筒山城を見回り、攻めて落とした。原文の戦果は「頸数千参百七十」(約1,370級)。巻三(四)
1570年朽木(구쓰키)4月の晦日、朽木越で軍を引き、京都に兵を集めた。朽木信濃守が道案内をした。巻三(四)
1570年野洲河原(落窪, 野洲)承禎父子が南郡の一揆を起こして野洲川に出ると、柴田・佐久間が落窪で破った。原文の戦果は「七百八十」(約780級)。巻三(六)
1570年姊川(姉川)信長・家康の連合軍が姉川で浅井・朝倉軍と戦い、破った。原文の戦果は「宗徒者千百余討捕」(1,100余級)。巻三(八)
1570年佐和山城信長が佐和山城に陣を置き、鹿垣で囲んだ。東百々屋敷など要所に部隊を置いた。巻三(八)
1571年坂本(宇佐山 근방)浅井・朝倉の大軍が二手に分かれて坂本の町に攻め入った。森三左衛門らが迎え撃って戦死した。巻三(十)
1571年長島城(長島一向一揆)信長軍が三口から河内長島を攻めた。諸方面の部隊が出て一揆勢と交戦した。巻四(三)
1571年火燒比叡山(比叡山)信長が比叡山を囲み、根本中堂など寺院をすべて焼き払った。僧俗を斬殺した(原文の描写のまま)。巻四(五)
1572年虎御前山(虎後前山)信長が虎御前山に砦を築き、羽柴藤吉郎を定番に置いた。巻五(三)
1572年竹生島水軍の部隊が船を出し、竹生島を大筒・鉄炮で攻撃した。巻五(三)
1573年三方原(身方か原, 浜松 북서)武田信玄の軍が三方ヶ原で家康方を攻め、平手甚左衛門ら多数が戦死した。家康は軍の中を突き抜けて逃れた。巻五(四)
1573年Imazu (Katata)織田軍が今堅田を攻めた。明智十兵衛が船を繋いで湖側を塞ぎ、正午ごろに攻め口を突破して敵を多数斬り、志賀郡の大半を鎮めた。巻六 節三
1573年Makishima7月18日、二方向から宇治川を渡って槇島城を攻めた。義昭は降伏して城を去り、羽柴秀吉の護衛で若江城へ送られた。室町幕府の事実上の終結。巻六 節八
1573年Ichijōdani8月18日、信長が府中の龍門寺に陣を置くと、義景は一乗谷の館を捨てて逃げた。大野郡山田庄六坊で、家臣の朝倉式部大輔が義景を殺した。首は府中の龍門寺へ運ばれ、8月24日に信長に献じられた。朝倉家は滅んだ。巻六 節十一
1573年Tsuruga (Tone-zaka)刀根山の峠で朝倉軍が崩れ、敦賀まで11里を追われてほぼ全滅した。本文の注文で首は3,000余級。巻六 節十一
1573年Odani8月27日夜、羽柴秀吉が京極丸を占拠して浅井下野の居城を奪い、浅井父子を分断した。翌日、信長は浅井備前らを殺し、二つの首を京都へ送って梟首した。浅井家は滅んだ。巻六 節十一
1573年Kyoto (Nijō)信長が京都二条の妙覚寺に滞在中、三好左京大夫が裏切って家臣とともに襲った。三好方の家臣の多くがともに自害し、左京大夫は切腹した。巻六 末尾(霜月四日)
1574年Echizen1月19日、越前の守護代だった前波播磨が家臣らに殺された。越前一揆が起こり、一揆勢が越前を掌握する契機となった。巻七 節二
1574年Nara (Tōdaiji)3月28日、東大寺正倉院の蔵を開き、名香蘭奢待の長さ6尺の片から1寸8分を切り取った。巻七 節四
1574年Takatenjin (Takatenjin Castle)6月5日、武田勝頼が遠州の高天神城を囲んだ。城の小笠原は信長方だったため、信長は後詰めを準備した。巻七 節七
1574年Nagashima9月29日、長島の一向一揆が降伏を請うて退こうとすると、信長は鉄砲で撃ち殺した。中江城・屋長島城に閉じ込められた男女2万余人は、四方から火をかけて焼き殺された。巻七 節十一 (말미)
1575年Takaya4月8日、信長軍が高屋城を攻め、不動坂の入口で激戦となった。4月19日、三好笑岩が友閑を通じて謝罪し、赦された。巻八 節三
1575年Nagashino5月21日朝、信長・家康の連合軍が長篠城前方の陣から鉄砲数百挺を一斉に放ち、武田軍の攻撃を崩した。武田軍は破れて退いた。巻八 節四
1575年Fuchu (Echizen)8月15日、府中の龍門寺を攻略したのち、府中の町で越前・加賀の西国一揆2,000余騎を斬り殺した。越前一揆勢は大きく崩れた。巻八 節七
1575年Kitanoshō (Fukui)9月2日、信長が豊原から北庄に移り、縄張りを定めて築城を命じた。越前の諸郡を部下に分け与えた。のちの北庄城。巻八 節七
1576年Azuchi4月1日、安土山で大石による石垣の築造を始め、天主の築造に着手した。近隣の大工・職人を動員した。巻九 節一
1576年Kizugawa-guchi (Osaka)7月15日、毛利方の大船約800隻が兵糧を大坂へ入れようとした。織田方は300余隻で木津川口を塞いで対抗した。信長方の水軍の将が多数戦死した。巻九 節五
1577年Saika (Saikano-shiro)2月18日以降、信長軍が雑賀領内に入り、小雑賀川の川岸に柵を設けた敵を攻めた。雑賀一帯を焼き、兵を分けて包囲した。巻十 節一
1577年Tedorigawa (Kaga)8月8日、柴田修理亮を大将として北国に出陣し、加賀へ攻め入って手取川を渡り、小松・本折・阿多賀・富樫などを焼いた。羽柴秀吉が報告なく帰陣し、信長の怒りを買った。巻十 節六
1577年Shigisan10月10日夜、秋田城介信忠らが信貴山城を夜襲し、矢と弓が尽きると松永が天守に火をかけて死んだ。本文は大仏殿焼失の因果として述べる。巻十 節九
1578年Miki Castle2月23日、羽柴秀吉が播州に出動し、別所小三郎が存分を主張して三木城に籠城した。のちの三木攻めにつながる。巻十一 節四
1578年Kanki Castle7月15日夜、二手に分かれて東の丸に入り、16日に中の丸へ押し寄せて神吉民部少輔を殺し、天主に火をかけて天守の過半が焼けた。西の丸は羽柴方が攻めた。神吉城は落去した。巻十一 節八
1578年Itami (Arioka Castle)10月21日、荒木摂津守の謀叛の報が届いた。信長は使者を遣わして母を人質に出すよう求めたが応じず、籠城の準備をした。のちの伊丹一帯の戦いにつながる。巻十一 節十三
1578年Kizugawa-guchi (Osaka)11月6日、西国の船600余隻が木津方面へ出動した。九鬼右馬允の大船6隻が迎え、大砲を一斉射撃して、西国の船数百隻を木津浦へ追い込んだ。巻十一 節十三
1578年Tamba (Hatano)12月、惟任日向守が単独の兵力で丹波波多野の館の四方3里を囲み、堀・柵・塀を巡らせ、町屋に小将を置いて見張らせた。巻十一 節十五
1579年Azuchi5月27日、安土で法華宗と浄土宗の宗論があった。判定により法華側が敗れ、信長は大脇伝介らを斬刑に処し、法華側の僧は袋叩きにされた。本文の叙述による。巻十二 節四
1579年安土城丹波の波多野兄弟3人を生け捕りにして安土へ送り、慈恩寺町の端で磔にした。卷十二 (五) 丹波國波多野兄弟張付之事
1579年黑井城赤井悪右衛門が守る黒井城を攻め、敵10余人を斬り、残りは降伏した。卷十二 (六) 赤井惡右衞門退參之事
1579年尼崎市9月2日夜、荒木摂津守が5~6人とともに伊丹城を抜け出し、尼崎へ移った。卷十二 (七) 荒木伊丹城妻子捨忍出之事
1579年有岡城(伊丹城)10月15日、伊丹城内の星野・山脇・隠岐らが謀反して城内が崩れ、侍町に火をかけた。卷十二 (十三) 伊丹城謀叛之事
1579年京都誠仁親王が二条新御所へ移る行啓。公家・大名の行列が一条から室町通を過ぎた。卷十二 (十六) 親王樣二條御新造へ行啓之事
1579年尼崎市尼崎近くの七松で荒木一族の女性122人を磔にした。この日を含め510余人が処刑された。卷十二 (十八) 伊丹城相果たし御成敗之事
1580年三木城三木城の籠城の末、別所小三郎・彦進らが妻子を殺して自害した(申の刻)。三木城は終わった。卷十三 (一) 播州三木落居之事
1580年大坂(大阪城)8月2日、本願寺(大坂)方が退去した。雑賀・淡路の船数百艘が迎えに来て、大坂の伽藍は3日間燃え続けた。卷十三 (九) 大坂退散之事
1580年佐久間父子が信長の折檻状を受け、高野山を去って紀伊熊野の奥へ逃れた。卷十三 (十一) 佐久間林佐渡丹羽右近伊賀々々守事
1581年京都2月28日、禁裏の東の馬場で、五畿内・隣国の大名・小名が参加する馬揃(御馬揃)が行われた。天皇が叡覧した。卷十四 (二) 御馬揃之事
1581年高天神城高天神城の籠城者の過半が餓死し、残った者は柵を破って出て討ち死にした。首688(家康方の注文)。卷十四 (三) 高天神干殺歷〻討死之事
1581年鳥取城6月25日、羽柴秀吉が中国へ出兵し(2万余騎)、備前・美作を経て因幡に乱入し、鳥取城の包囲を始めた。卷十四 (六) 因幡國取鳥城取詰之事
1581年伊賀國信雄が伊賀国に向かい、甲賀口・信楽口・加太口・大和口の4方面から攻めて一揆を殲滅した。卷十四 (九)
1581年鳥取城10月25日、鳥取城が陥落した。籠城者は餓死寸前まで追い込まれ、城将の三大将は切腹して首を献じた。宮部善祥坊が城代に置かれた。卷十四 (十二) 因幡國取鳥果口之事
1581年羽衣石城10月26日、伯耆の南条兄弟が味方の居城にいたが、吉川が出陣して南条表を取り巻いた。羽柴が後詰めに出た。卷十四 (十三) 伯耆國南條表發向之事
1581年淡路國11月17日、羽柴・池田勝九郎が淡路島に人数を渡して岩屋を攻めると、懇望の条件で岩屋が池田勝九郎の手に渡された。卷十四 (十四) 淡路島被申付之事
1582年高遠城3月2日、高遠城攻め。信忠が大手・搦手に分けて塀を越えて入り、仁科五郎ら400余の首を得た。卷十五 (六) 信州高遠之城中將信忠卿被攻之事
1582年新府城3月3日、武田勝頼が新府の館に火をかけて退いた。人質の多くが焼け死んだ。卷十五 (八) 武田四郞甲州新府退散之事
1582年天目山之戰3月11日、武田勝頼父子と上臈40余人が包囲された末に討ち死にした。勝頼父子の首は信忠に献じられた。卷十五 (十) 武田四郞父子生害之事
1582年富山城3月11日、富山城で一揆の大将小島六郎左衛門・加老戸式部が神保越中守を城内に閉じ込めた。柴田・佐々・前田・佐久間らが包囲した。卷十五 (十一) 越中富山之城神保越中居城謀叛之事
1582年4月3日、恵林寺が破滅した。老若上下150余人を焼き殺した(快川長老を含む)。卷十五 (二十) 惠林寺御成敗之事
1582年Hamamatsu家康一行が浜松を早朝に発ち、今切の渡しを越えた。接待の船が動員された。巻十五 天正10年4月17日(조각 줄 5368~)
1582年Chiryu (池鯉鮒)岡崎・赤坂などを経て、池鯉鮒に宿泊した。巻十五 天正10年4月18日
1582年Kiyosu清洲まで通過した。巻十五 天正10年4月19日
1582年Gifu岐阜に移って滞在した。巻十五 天正10年4月20日
1582年Azuchi信長が岐阜から安土へ帰陣する途中、佐和山・山崎などで接待を受けた。巻十五 天正10年4月21日
1582年Azuchi安土帰陣の直後、神戸三七(信孝)を助けるため、四国阿波への出兵準備として兵を動員した。巻十五 天正10年4月21日(節二十四)
1582年Sumiyoshi (住吉)住吉に至り、四国渡海用の船を準備させた。巻十五 天正10年5月11日(節二十五 앞)
1582年Takamatsu (備中)羽柴秀吉が備中の諸城を攻めて宿毛塚城などを落とした。信長は、中国平定後に九州まで行くとの命を伝えた。巻十五 天正10年5月15日(節二十六)
1582年Takamatsu (備中)秀吉が高松城を水攻めにし、水を湛えた。毛利方の救援軍と対峙した。巻十五 天正10年5月15日(節二十六)
1582年Kameyama (丹波)明智光秀が中国出陣の命を受けて坂本を発ち、丹波亀山城に着いた。巻十五 天正10年5月26日(節二十九)
1582年明智光秀が愛宕山西坊で連歌百韻を催した。巻十五 天正10年5月28日(節二十九)
1582年Kyoto信長が京都へ上り、安土の本城は留守衆に任せた。上京後ただちに中国へ出陣する予定だった。巻十五 天正10年5月29日(節三十)
1582年Kameyama (丹波)丹波亀山で明智光秀が謀反を決め、信長を討って天下を狙うことにした。巻十五 天正10年6月1日夜(節三十一)
1582年Kyoto Honnōji明智軍が本能寺を五方面から囲んで攻めた。信長は奥の御殿で自害した。巻十五 天正10年6月2日(節三十二)
1582年Kyoto Nijō織田信忠が二条御所で囲まれて自害した。巻十五 天正10年6月2日(節三十三)
1582年山岡兄弟が明智方への加担を拒み、瀬田橋を焼いて道を塞いだ。巻十五 天正10年6月2日(節三十四 앞)
1582年Uji (宇治田原 대용)家康が宇治田原越で退く途中、一揆勢と遭遇し、穴山梅雪が殺された。巻十五 天正10年6月2日(節三十五)
1582年Atsuta (熱田)家康が桑名で船に乗り、熱田の港に着いた。巻十五 天正10年6月2日(節三十五)
1582年Sakamoto (坂本)明智光秀が坂本に戻り、城に入った。巻十五 天正10年6月2日(節三十四)
1582年Azuchi安土城を捨てることとなり、天守の金銀と刀剣を持ち出したうえで火をかけて去れとの命が下った。巻十五 天正10年6月3日(節三十四)

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