『太平記』

『太平記』(正史 の史料)。扱う年は1329年 〜 1367年、出来事159件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年1329年 〜 1367年
出来事の数出来事159件・地図に置いた96件
原題太平記

地域の内訳: 日本 96 · 中国 63

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1329年六波羅9月19日の明け方、軍勢が六波羅へ駆けつける。即使範之・山本時綱が楯大将を務め土岐邸の方へ向かう巻第一 L121
1330年南都(東大寺·興福寺)後醍醐天皇が東大寺・興福寺へ行幸(3月8日)巻第二 9 南都北嶺行幸事
1330年比叡山後醍醐天皇が比叡山の大講堂供養へ行幸巻第二 9 南都北嶺行幸事
1330年六波羅(京)円観・文観・忠円の僧3人が六波羅で捕らえられる巻第二 10 僧徒六波羅召捕事付為明詠歌事
1330年硫黄が嶋文観僧正の流罪先が硫黄島に決まる巻第二 11 三人僧徒関東下向事
1330年越後国忠円僧正の流罪先が越後に決まる巻第二 11 三人僧徒関東下向事
1330年陸奥国(奥州)円観上人、流罪を減刑された後、結城家に預けられ奥州へ連行される巻第二 11 三人僧徒関東下向事
1331年笠置8月27日、主上(後醍醐)が笠置寺に行幸し、本堂を皇居とする巻第三 L197.0
1331年比叡山(東坂本)同月、比叡山東坂本の戦いで六波羅軍が敗れたと聞き、近国の兵が笠置に集まる巻第三 L197.0
1331年 〜 1332年佐渡国日野資朝が佐渡で斬首される巻第二 13 長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事
1331年 〜 1332年鎌倉(葛原岡)俊基が鎌倉の葛原岡で斬首される巻第二 14 俊基被誅事並助光事
1331年富士(富士山)7月7日、地震。富士山頂が数百丈崩れる(本文の記録)巻第二 15 天下怪異事
1331年笠置後醍醐、南都を経て笠置の石室に行宮を置く。南朝の拠点の始まり巻第二 15 天下怪異事
1331年比叡山(西塔)師賢大納言が天皇の装束で比叡山西塔に臨幸を演出。失望した僧兵たちが夜に離脱巻第二 16 師賢登山事付唐崎浜合戦事
1331年唐崎唐崎浜の戦い:僧兵が六波羅軍を破る。個人の武勇談を含む巻第二 16 師賢登山事付唐崎浜合戦事
1332年京都藤原公孝か?違う -- 光明天皇(持明院統)が19歳で即位。藤原系の母の子(巻5・31)巻第五 31
1332年渡部橋5月21日、六波羅の5千余騎が渡辺橋で楠木方の少数を追い、橋に殺到して溺れる者が多数巻第六 38
1332年柏原(近江)源具行中納言が道誉の護送中、近江柏原の山裾で田児六郎左衛門尉に斬首される(辞世「逍遥生死」を残す)巻第四 24
1332年隠岐の島町(府の島)先帝が隠岐の府の嶋に到着、佐々木貞清が黒木の御所を建てて皇居とする巻第四 30
1332年杉坂(美作)児島高徳が先帝の護送路で奪還を狙って美作杉坂で待ち受けたが、護送が山陰道に変わり失敗。院庄行在所の庭の桜の木に詩を刻んで上聞に達する巻第四 30
1333年吉野1月16日、二階堂出羽入道道蘊が6万余騎で大塔宮(護良)の籠もる吉野城を攻める巻第七 L146
1333年鎌倉(回想)竹沢が「元弘の鎌倉合戦」で忠節を尽くしたと書状で陳述。事件自体は1333年の鎌倉の戦い巻第三十三 L437
1333年鎌倉3月27日、足利高氏が鎌倉を発って京都遠征(名目:西国の天皇側の援護)巻第九 58
1333年京都4月16日、足利高氏が京都に到着巻第九 58
1333年久我畷4月27日、久我畷の戦いで名越尾張守が戦死(矢一本)巻第九 59
1333年大江山4月27日、探題方の足利高氏が京都西の大江山を越えて丹波路へ移動巻第九 60
1333年篠村5月7日寅の刻、足利高氏が2万5千余騎で篠村を出発、篠村八幡宮に祈願して進軍巻第九 62
1333年六波羅5月7日、足利方の総攻撃、六波羅探題方の三方の防御が崩壊巻第九 63
1333年篠原天皇一行の逃走中、流れ矢が天皇の左肘に当たる(森の木陰、逃走経路)巻第九 64
1333年番場越後守仲時ら六波羅方432人が番場の辻堂の前で集団自害巻第九 65
1333年長光寺天皇・上皇一行が長光寺に仮に安置され、神器は後宮側に引き渡される巻第九 66
1333年千葉屋5月10日朝、千早の囲みの10万余騎が南都方面へ退却し、追撃で大敗巻第九 67
1333年摩耶城六波羅の5千騎が摂津摩耶城を攻撃。赤松が山道への誘い込み作戦で迎え撃ち大敗、押されて水に溺れる者が多数(摩耶合戦)巻第八 50
1333年京都3月12日、西国勢が淀・赤井・山崎など30余か所に火を放つ。六波羅は桂川を守ろうとしたが赤松勢が川を渡って大勝し、京中まで攻め入る巻第八 51
1333年鎌倉新田軍が鎌倉の早駆谷に進入、北条方の諸将の大半が戦死と伝わる巻第十 81
1333年東勝寺北条高時以下一族が東勝寺で自害し、邸に火を放つ(記録上283人、鎌倉全体で6千余人)巻第十 82
1333年船上山後醍醐天皇が伯耆船上山を出て山陰道を都へ向かう巻第十一 84
1333年京都後醍醐天皇が東寺から二条内裏に還幸(高氏は治部卿に任じられる)巻第十一 86
1333年博多少弐・大友の連合軍が探題北条英時の邸を攻め、英時が自害(一族340余人が殉じる)巻第十一 87
1335年京都(北山殿)西園寺公宗の北条残党と結ぶ挙兵計画が発覚し、北山殿で包囲・逮捕される(のち処刑)巻第十三 101
1335年鎌倉北条残党の蜂起(時行)——足利直義が将軍宮(成良親王)を奉じて鎌倉を捨て撤退巻第十三 102
1335年鎌倉(薬師堂の谷)足利直義の命により、家臣の淵野伊賀守が鎌倉の土牢で護良親王(兵部卿親王)を殺害巻第十三 103
1335年矢矧川義貞の6万が矢矧川を挟んで対陣。長浜六郎左衛門の計略で敵を川の向こうから引き込んで交戦。夜になり鎌倉方が矢矧を捨てて鷺坂へ退く巻第十四 107
1335年竹下竹下の合戦:12日昼に大軍が激突。菊池・千葉・宇都宮らが坂中を攻略。官軍側の大友・塩冶が背を向け、脇屋方が佐野原へ退く巻第十四 108
1336年比叡山(延暦寺)足利方(推定50万騎)が延暦寺を四方から攻撃、新田軍と延暦寺の中堂が防いで6月20日まで交戦、死傷者多数巻第十七 146
1336年京都延暦寺軍と新田・二条軍が京都北から進入し、東寺の足利軍と交戦(市街の一部が焼失)巻第十七 146
1336年京都後醍醐天皇が延暦寺の籠城を終え、今路から還幸巻第十七 153
1336年金崎城(敦賀)新田義貞が敦賀の津に到着し、東宮・一族を金ヶ崎城に入れる巻第十七 155
1336年金崎城(敦賀)足利方約6万騎が金ヶ崎城を四方から包囲、守備側の少数の突撃で攻防が続く巻第十七 159
1336年京都(東寺)光厳院法皇が建武3年6月10日に重祚——足利方が擁立巻第十九 168
1336年京都足利尊氏が11月5日の除目で正三位・大納言・征夷大将軍に(弟の直義は日本副将軍)巻第十九 169
1336年 〜 1337年吉野後醍醐先帝が三種の神器を携えて吉野へ潜行——南朝成立の契機巻第十九 172
1336年杣山瓜生兄弟が式部大輔義治を大将に立て、飽和の社の前で中黒の旗を掲げて挙兵巻第十八 162
1336年湯尾寄手6千余騎が深雪を越えて湯尾宿に着くと、瓜生は野伏3千を後ろの山に上げ、足軽700騎で左右を回って夜半に奇襲し寄手を破る巻第十八 162
1336年多々良浜尊氏方の少数(本文300騎)が菊池軍(本文4~5万)と対峙し、直義が進軍して形勢を逆転。菊池方の松浦・神田らが降人に転じ、菊池軍は後退巻第十六 125·127
1336年熊山児島高徳が25騎で館を焼いて熊山に登り挙兵、舟坂・三石方面の寄手3千余騎が熊山を攻める巻第十六 130
1336年舟坂脇屋方300騎が三石西の抜け道に出て舟坂の寄手を前後から包囲、本文上は寄手百余人が自害し五十余人が生け捕り巻第十六 130
1336年福山直義方が福山を取り囲むと、大江田式部大輔が千余騎で北の険しい尾根から突撃して寄手2万余を崩したが、陣が崩れて5月18日に三石へ抜け出る巻第十六 132
1336年湊川湊川の合戦:正成が700余騎で尊氏・直義軍を何度も突破した後、湊川北の民家で正成・正季兄弟が自害、一族13人も共に死ぬ巻第十六 135·138
1336年比叡山主上が三種の神器を先立てて再び比叡山(東坂本)へ行幸。義貞は6千余騎のみとなって帰京した後巻第十六 141
1336年東寺本院が東寺に隠れ入り、尊氏が東寺本堂を皇居と定めて持明院側の皇統を立てる巻第十六 142
1336年山崎山崎の合戦:赤松方の先鋒(紀氏300騎)の後に細川・赤松の本軍が進み、脇屋方の陣が崩れ、義貞方が大渡を捨てて都へ戻る巻第十四 111
1336年比叡山(東坂本)山崎の陣が崩れると、主上は三種の神器を玉体に携え、鳳輦で比叡山(東坂本)へ避難しようとする。駕輿丁がおらず、武装した護衛が徒歩で従う巻第十四 112
1336年京都尊氏が本文で「八十万騎」と記す軍勢で入京。持明院側の法皇・親王の多くがすでに比叡山へ抜けた後で、宮廷側の抵抗はなかったと本文は述べる巻第十四 114
1337年足羽(福井)新田義貞が6000余騎で国府を発ち、足羽城を攻める巻第二十 177 黒丸城初度軍事付足羽度々軍事
1337年八幡(石清水)尊氏方の高師直が夜間に侵入して放火し、八幡本山が焼失、南朝軍が撤退巻第二十 181 八幡炎上事
1337年藤島(足羽 인근)新田義貞が藤島の戦場で自害(首は敵方が持ち去る)巻第二十 185 義貞自害事
1337年伊勢(神風浜)第八皇子一行が東北へ向かう途中、暴風で船が散り散りになる。御座船が伊勢の神風浦に押し戻され引き返す巻第二十 188 奥州下向勢逢難風事
1337年敦賀(桑原)金ヶ崎救援のため里見伊賀守が義治の5千余を率いて敦賀の桑原まで進軍し、今川駿河守の2万余騎と衝突、里見・瓜生・義鑑房らが戦死巻第十八 163
1337年金崎金ヶ崎城総攻撃。飢えた城兵が木戸で踏ん張るも、一宮と新田義顕らが自害。義貞・義助は3月5日夜にすでに杣山へ脱出巻第十八 165
1338年吉野後醍醐天皇が吉野で崩御(本文の元号では1338年)巻第二十一 193 先帝崩御事
1338年越前府中新田義貞・義助が越前府中を攻撃——足利方の尾張守高経が敗走、同日に国内の城73か所が陥落巻第十九 170
1338年불명(본문에 장소 없음)東宮が足利方の命で鴆毒を飲まされ、4月13日に死去(本文の記述)巻第十九 171
1338年和泉の堺 安部野北畠顕家が和泉阿倍野で戦死——執事高師直の軍に敗れる巻第十九 176
1339年黒丸城(小黒丸城)脇屋義助・畑の計略で黒丸城が陥落巻第二十一 195 任遺勅被成綸旨事付義助攻落黒丸城事
1340年 〜 1341年佐々布山(出雲)塩冶高貞が妻子の死を聞き、馬上で切腹巻第二十一 196 塩冶判官讒死事
1342年京(法勝寺)六条の法勝寺の塔が火災、金堂・講堂などが全焼巻第二十一 192 法勝寺塔炎上事
1345年比叡山延暦寺延暦寺の大衆が三社(祇園・北野など)の神輿を中堂に上げ、天龍寺供養の中止を要求。公卿の仲裁で結局供養は強行され、神輿は帰座巻第二十四 208
1345年京都8月29日、天龍寺供養。尊氏・直義が数百騎の行列で参列、翌日上皇が御幸巻第二十四 209
1347年藤井寺藤井寺の合戦:細川顕氏が楠木正行に敗れて退く巻第二十五 215
1347年住吉楠木正行が500余騎で石津の民家に火を放ち、瓜生野の北で山名時氏の陣を急襲、6千騎の大合戦巻第二十五 215
1347年天王寺山名時氏が重傷を負って退却、狭い橋に兵が殺到して溺死者多数巻第二十五 215
1347年八幡高師直が7千余騎で八幡に到着。各地の兵が集まり6万余騎となる巻第二十六 216
1347年吉野楠木正行兄弟が吉野の皇居に参内して父の遺言を語り、決戦の許しを請う。後村上天皇が自ら応対巻第二十六 216
1348年四條畷四条畷の合戦:楠木正行の3千騎が高師直の陣を急襲、正行・正時兄弟以下143人が戦死巻第二十六 217–218, 220
1348年吉野高師直が3万騎で吉野の皇居を攻め、公卿の邸などを焼く。天皇は夜陰に紛れて脱出巻第二十六 219
1348年賀名生南朝の天皇が吉野から天野川奥の賀名生に移り、黒木の御所を建てる巻第二十六 219–220
1349年京(清水寺)清水寺火災、本堂・阿弥陀堂・楼門・舞台などが全焼巻第二十七 225 天下妖怪事付清水寺炎上事
1349年京(四条河原)四条河原の田楽の仮設桟敷が崩壊、死傷者多数巻第二十七 226 田楽事付長講見物事
1349年京(法成寺河原)高師直の大軍が将軍御所を包囲。直義が上杉・畠山の流罪を代償に譲歩巻第二十七 229 御所囲事
1349年越前国(江守庄)畠山直宗が切腹。上杉重能は刀を持ったまま時間を稼ぎ、下人に捕らえられ殺される巻第二十七 233 上杉畠山流罪死刑事
1349年京都高師直・師泰が将軍邸を包囲し、上杉伊豆守・畠山大蔵少輔を追い出して配流先で処刑巻第二十八 235
1349年京都足利義詮が鎌倉から上京して政務を執る。実権は高師直にある巻第二十八 235
1349年備後国足利直冬が備後を離れ、河尻肥後守幸俊の家に滞在巻第二十八 236
1350年(回想)1350年秋、高師直が上杉を滅ぼす巻第三十 L257
1350年石見国高師泰が6月20日に上京を発ち、石見で三角入道の討伐に向かう巻第二十八 237
1350年鼓が崎8月25日夜、夜討:佐和善四郎の鼓が崎城が陥落し善四郎は自害。残る二城も翌日陥落巻第二十八 237
1350年肥後国足利直冬が肥後に下り、河尻幸俊の家に滞在。九州に反乱が広がる巻第二十八 238
1350年京都足利尊氏が高師直と8千余騎で直冬討伐のため西の中国へ出発巻第二十八 238
1350年備前福岡尊氏軍が11月19日に備前福岡に到着。海の荒波と雪のため兵が少ししか集まらない巻第二十八 238
1350年大和国直義(入道慧源)が石堂頼房とともに夜に密かに抜け出して行方不明、のち大和の越智伊賀守に身を寄せる巻第二十八 239·240
1350年京都持明院の院宣:尊氏を鎮守府将軍に任命し、凶徒(直義)の討伐を命じる巻第二十八 240
1350年吉野直義(慧源)が南朝(吉野)に降伏の書状を送る。南朝は朝議の後、赦免の綸旨を出す巻第二十八 241
1351年(回想)1351年春、禅門(直義)が高師直を誅殺巻第三十 L257
1351年賀名生(山中)正平6年の暮れ、南朝の皇居はなお山中にあり、白馬節会など正月の儀式を行えない巻第三十 L262.22
1351年武庫川高師直・師泰兄弟が武庫川の堤で部下に殺される巻第二十九 251 師直以下被誅事付仁義血気勇者事
1352年2月26日、足利直義死去。史料は黄疸と発表したが、実は毒殺と囁かれた巻第三十 L257
1352年河内(行宮)8月8日、本院(持明院上皇)が河内の行宮で出家(法名勝光智、41歳)巻第三十三 L402.5
1352年賀名生光厳院法皇、南朝の賀名生から解放されて都に帰る巻第三十九 332
1352年京都茨宮の突然の即位(本文:将軍側の主導)巻第三十二 266
1352年伯耆8月26日、山名師氏が夜に京都を発って伯耆へ落ちる(七百余騎が従う)巻第三十二 268
1353年山国光厳院法皇、7月7日に崩御(丹波山国)巻第三十九 332
1353年京都2月4日、火災で持明院殿(院御所)が焼失巻第三十二 267
1353年京都6月9日の明け方、南朝軍3,000騎が京都の八条・九条に火を放って進入、市街戦巻第三十二 268
1353年吉峯6月11日の明け方、義峯を攻撃、武蔵将監が自害巻第三十二 268
1353年堅田6月13日、足利義詮が天皇を奉じて東近江へ避難巻第三十二 269
1353年伯耆山名父子が京都から退き、伯耆へ下る巻第三十二 270
1355年京都1月13日、直冬が京都に入る(将軍側は12日夜に近江の武家寺へ避難)巻第三十二 272
1355年山崎2月4日、足利義詮が7,000騎で山崎西の神南の峰に陣を張る(直冬方と合戦)巻第三十二 273
1357年京都1357年2月、持明院上皇・天皇・春宮を賀名生の山中から迎えて都(京都)へ還幸巻第三十三 L402.2
1358年京都12月18日、足利義詮(29歳)が征夷大将軍に就任巻第三十四 284
1359年京都11月28日、畠山道誓が関東勢約20万7千騎で上京巻第三十四 285
1359年天野南朝の天皇が河内の天野行宮に滞在、楠木正儀・和田正武が戦略会議巻第三十四 286
1359年尼崎12月23日、足利義詮の大軍が京都を出発し、南方の大手へ向かう(尼崎に陣)巻第三十四 287
1360年京都南方平定後、足利義詮が京都に帰還し、民心は安堵巻第三十五 294
1360年伊勢7月16日、京都内の衝突の後、仁木義長が伊賀路から伊勢へ逃れる巻第三十五 295
1360年矢矧8月4日夜、畠山道誓が京都を脱出し、関東の方へ下る巻第三十五 296
1360年飯守岡9月28日、伊盛岡で仁木軍と佐々木方が衝突、佐々木方が優勢巻第三十五 298
1360年竜門山4月3日、紀伊の最初峰を攻撃、塩谷伊勢守が戦死巻第三十四 288
1360年阿瀬河4月11日、再出陣後、南の籠城軍が竜門の陣を破って阿瀬川城へ退く巻第三十四 289
1360年賀名生4月25日、吉野の将軍宮が賀名生奥の銀嵩山に登って挙兵、南朝行宮一帯を焼く巻第三十四 290
1360年竜泉閏4月29日の明け方、桔梗一揆500騎が夜襲し、竜泉城が陥落巻第三十四 291
1360年赤坂5月3日、足利方20万騎が赤坂城を攻撃(楠木方は籠城の準備)巻第三十四 292
1360年尼崎5月28日、寄せ手総大将の義詮が尼崎から京都へ帰還(南方討伐の撤収)巻第三十四 293
1361年京都康安元年12月27日、急報:京都の凶徒を追撃して洛中から追い払った。近江武佐寺にいた主上が還幸の支度をする巻第三十七 L352.0
1361年比叡山(東坂本)翌朝、主上が比叡山東の坂本へ行幸し、そこで越年巻第三十七 L352.0
1361年京都3月30日夜、京都四条富小路で火災、四方86町が焼失巻第三十六 299
1361年阿波6月18日、大地震。阿波の由岐湊一帯で津波により民家1,700余軒が沈む巻第三十六 300
1361年天王寺地震で倒壊した四天王寺の金堂を円海上人が再建巻第三十六 301
1361年美作7月12日、山名時氏・師氏ら3か国の3,000騎が美作へ出陣巻第三十六 302
1361年倉懸11月4日、倉懸城が陥落、山名方の勝利巻第三十六 302
1361年香椎8月7日、征西将軍宮・菊池方の5,000騎が香椎の陣を攻撃、少弐・大友方が敗走巻第三十六 302
1361年神崎9月28日、摂津神崎で不意の事件、京方に多数の戦死者(佐々木秀詮ら)巻第三十六 303
1361年今熊野9月21日夜、将軍側が今熊野へ避けて防備、細川清氏の謀反発覚後の緊急対応巻第三十六 304
1361年若狭9月23日、細川清氏が若狭へ逃れる巻第三十六 304
1361年椿峠10月29日、尾張左衛門佐が大軍を率いて椿峠に進軍巻第三十六 305
1362年院庄6月3日、山名時氏が5,000騎で伯耆から美作院庄に進入巻第三十八 315
1362年長者原九州:菊池方が探題方の進路を塞ぎ、長者原で戦う巻第三十八 317
1362年修禅寺9月10日、畠山時親・義深(道誓の兄弟)が修禅寺城に籠もった末に降伏巻第三十八 318
1362年白峯7月24日、細川清氏が白峰の戦いで戦死、四国平定巻第三十八 319
1362年神崎8月16日夜、和田・楠木が神崎橋付近と株瀬の二か所に陣を張る巻第三十八 320
1362年湊川9月16日、石堂・和田・楠木の3,000騎が兵庫の湊川を襲撃・放火巻第三十八 320
1364年長門厚東駿河守が長門守護職を奪われて恨み、長門国を去って筑紫へ行き、菊池と組んで逆に大内介を攻めようとする巻第三十九 L457
1364年豊後国大内介が3千余騎で豊後国に攻め入り菊池と戦う(その後の第二戦の敗北・包囲・降伏は文の後ろ)巻第三十九 L457
1366年出雲国異国(元の征東行中書省)の牒使17名が至正23年8月13日に高麗を発ち、貞治5年9月23日に出雲に着く。本文の二つの年は3年の隔たり巻第三十九 L492
1367年鎌倉鎌倉左馬頭基氏が28歳で死去。本文は「関東の柱石摧ぬれば、柳営の力衰ぬ」と記す巻第四十 335
1367年京都(南禅寺)南禅寺の新関問題で園城寺衆徒が蜂起し、公武に列訴(嗷訴)巻第四十 336
1367年京都(紫宸殿)最勝講の最中、紫宸殿南庭で南都・北嶺の衆徒が衝突。南都側の手蓋侍従ら宗徒8人が死ぬ巻第四十 337
1367年京都(等持院)征夷大将軍足利義詮が38歳で薨去。12/12荼毘、等持院に安葬巻第四十 338

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