テンチ『ポート・ジャクソン入植記』(第一船団)(記録 の史料)。扱う年は1788年 〜 1791年、出来事72件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。
| 区分 | 記録 |
|---|---|
| 視点 | 外側の視点 |
| 扱う年 | 1788年 〜 1791年 |
| 出来事の数 | 出来事72件・地図に置いた53件 |
| 著者 | Watkin Tench |
| 原題 | A Complete Account of the Settlement at Port Jackson |
地域の内訳: オセアニア 70 · 東南アジア 1 · サハラ以南アフリカ 1
| 年 | 場所 | 出来事 | 原文の位置 |
|---|---|---|---|
| 1788年 | Norfolk Island | サプライ号が7月20日にノーフォーク島へ出発し、8月26日に帰還。もたらした知らせは、ノーフォーク島の土壌が穀物や種に合い、似た植物が自生しているらしいということだけ | CHAPTER II (raw line 236) |
| 1788年 | Sydney | ポート・ジャクソン港を調査し、カヌー67隻と人147人を数えたが、この数字では使える人口推定はできないと付け加える | CHAPTER II (raw line 242) |
| 1788年 | Parramatta | 総督は内陸16マイルのローズヒルに新たな入植地を設ける。土壌がシドニーより良いと判断し、小さな砦を築き、大尉の分遣隊が農耕囚人を見張る | CHAPTER II (raw line 261) |
| 1788年 | Sydney | 最後の輸送船2隻が11月19日、ケープホーン経由でイギリスへ出発。残る船はサプライ号だけになり、孤立感が増す | CHAPTER II (raw line 267) |
| 1788年 | Manly | 総督の命令で、ボール中尉とジョンストン中尉が2隻のボートでマンリー・コーヴへ行き、先住民2人を捕らえる。残りは逃げたが、叫びながら戻ってくる | CHAPTER III (raw line 342) |
| 1788年 〜 1789年 | Sydney | 捕らえられた先住民がシドニーに到着。30歳前後で背は高くないががっしりした体格、ひどく動揺している(後に名はアラバヌーと判明) | CHAPTER III (raw line 364) |
| 1788年 〜 1789年 | Cape Town | 喜望峰では、オランダ総督の厚いもてなしを受け、商人から物資を買い入れて7週間滞在。帰路、ヴァン・ディーメンズ・ランドのタスマン岬付近で難破寸前の危険に遭う | CHAPTER IV (raw line 732) |
| 1789年 | Sydney | サプライ号が再びノーフォーク島へ出航。総督は港の外まで同乗し、アラバヌーは不信と不本意のまま乗船する | CHAPTER III (raw line 524) |
| 1789年 | Botany Bay | 囚人16人がレンガ窯の作業を無断で離れ、ボタニー湾まで行軍して先住民の漁具や槍を奪おうとするが、先住民に反撃される。1人死亡、7人負傷 | CHAPTER III (raw line 555) |
| 1789年 | Sydney | 将校のみで構成された軍法会議が、政府倉庫から小麦粉・肉・酒・煙草を盗んだ海兵6人に絞首刑を言い渡す | CHAPTER III (raw line 587) |
| 1789年 | Sydney | 港のあちこちで先住民の遺体が見つかる。体中に天然痘に似た膿疱が密集しており、先住民にはなかった病がなぜ広がったのか説明できなかったと記録される | CHAPTER IV (raw line 604) |
| 1789年 | Sydney | シリウス号(ハンター船長)が喜望峰から戻り、5月2日の日没に入港を告げる。積んできた小麦粉と塩が飢餓の日を先延ばしにする | CHAPTER IV (raw line 720) |
| 1789年 | Sydney | アラバヌーは天然痘を6日間患い、5月18日に死去。薬も看護も尽くしたが効果はなかった | CHAPTER IV (raw line 744) |
| 1789年 | Broken Bay | 総督は2隻のボートと大人数でブロークン湾を再調査。短い入り江に見えた水路をたどると、突然淡水の川(後のホークスベリー川)の河口に着く | CHAPTER V (raw line 839) |
| 1789年 | Hawkesbury River | 総督の第2次探検では、川床に沿って測って60〜70マイル川を遡り、滝でボートが止まる。水はどこも淡水だが、土地の評価は人によって分かれる | CHAPTER V (raw line 854) |
| 1789年 | Parramatta | テンチはローズヒルの砦から、外科医と兵士たちとともに夜明けに西へ出発し、5マイルの丘からカーマーゼン山脈を望む。この道筋がネピアン川の発見につながる(後の節で川幅と名が述べられる) | CHAPTER V (raw line 881) |
| 1789年 | Botany Bay | 9月、ボタニー湾を9日間測量する。30マイル以上の海岸線の相対位置はハンター大尉が図面に描き、テンチはこの湾が広く語られていた場所ではないと断定 | CHAPTER V (raw line 959) |
| 1789年 | Sydney | 10月、週配給が削減される。小麦粉8ポンドから5ポンド5オンスへ、豚肉5ポンドから3ポンド5オンスへ、エンドウ豆3パイントから2パイントへ | CHAPTER V (raw line 1058) |
| 1789年 | Nepean River | ダウズ中尉らがネピアン川の浅瀬を渡って西へ向かうが、3日間で15マイルしか進めず、カーマーゼン山脈への到達を断念。そこは、それまでどの白人よりも内陸深くまで入った地点 | CHAPTER V (raw line 1069) |
| 1789年 | Sydney | ブラッドリー中尉がボートで先住民の若者2人を抵抗なく拉致し、シドニーに降ろす。後の記述ではベネロングとコルビーと呼ばれる | CHAPTER V (raw line 1093) |
| 1790年 | Norfolk Island | 3月6日、シリウス号がサプライ号とともにノーフォーク島へ出航。ロス少佐、海兵隊の大部隊、囚人200人以上を乗せる。人口を分けて食料を延ばすための措置 | CHAPTER VI (raw line 1231) |
| 1790年 | Sydney | 港へ下る総督の一行は、サプライ号のボートに乗ったボール大尉から、シリウス号がノーフォーク島で難破したことを聞く。ハンター船長ら全員救助された | CHAPTER VI (raw line 1264) |
| 1790年 | Sydney | サプライ号(ボール大尉)が4月17日、食料を求めてバタビアへ出航 | CHAPTER VI (raw line 1338) |
| 1790年 | Sydney | 5月3日夜、病気を装って階下へ降り、裏庭の柵を乗り越えて逃亡 | CHAPTER VI (raw line 1419) |
| 1790年 | Sydney | 6月3日、レディ・ジュリアナ号が女性囚人225人を乗せて入港。1789年7月のプリマス寄港を含め、ほぼ11か月の航海。船上の人々は手紙と知らせに圧倒される | CHAPTER VII (raw line 1478) |
| 1790年 | Sydney | ジャスティニアン号(メイトランド船長)が食料のみを積んで入港。1月20日にファルマスを出て、5か月で航海を終える。すぐに全量配給が復活する | CHAPTER VII (raw line 1580) |
| 1790年 | Sydney | その月のうちに輸送船3隻が、ニューサウスウェールズ軍団2個中隊と囚人を乗せて入港。乗船者1,038人のうち、航海中に273人が死亡し、病人として上陸したのは486人(表の合計) | CHAPTER VII (raw line 1606) |
| 1790年 | Parramatta | テンチ、ダウズ、ウォーガンがローズヒルの南西の未踏地を7日間探検。円錐形の丘をピラミッド・ヒル、ネピアン川の上流と見られる川をウォーガン川と命名。特に成果はない | CHAPTER VII (raw line 1688) |
| 1790年 | Broken Bay | ブロークン湾を3度目に探検。広い港だが、海岸は耕作に適さない荒地。各探検で通った土を袋に詰めて分析のため持ち帰る | CHAPTER VII (raw line 1704) |
| 1790年 | Manly | ネピアン大尉の一行がマンリー・コーヴで、死んだクジラを囲む先住民200人以上と出会う。ベネロングとも再会し、総督も後から到着する | CHAPTER VIII (raw line 1724) |
| 1790年 | Manly | 先住民が槍を投げ、総督に命中。長さ10フィート超の槍の柄が刺さったまま後退し、ベネロングとコルビーは姿を消し、四方から槍が飛んでくる | CHAPTER VIII (raw line 1881) |
| 1790年 | Parramatta | ローズヒルで囚人5人が夜、小さな平底船を盗んでサウスヘッドへ行き、そこで見張り所のボートを盗んで海へ逃げる。その後、消息は途絶える | CHAPTER VIII (raw line 1936) |
| 1790年 | Sydney | 港の北岸に火が見え、一行が行くとベネロングらがいた。午後に再会を約束し、武器を持たずに上陸して手斧と魚を贈る | CHAPTER IX (raw line 1969) |
| 1790年 | Sydney | 10月8日、先住民は約束どおり合図の火を焚き、いくつかの一行が品物を持って会いに行く。ベネロングやバンガレーらが集まっていた | CHAPTER IX (raw line 2116) |
| 1790年 | Sydney | 先住民4人を病院の向かいに降ろし、総督公邸へ連れて行く。見物人が集まるが、彼らは恐れずに歩き、ベネロングは総督の傷が治ったことを喜ぶ | CHAPTER IX (raw line 2178) |
| 1790年 | Sydney | サプライ号がバタビアから戻り、10月19日に入港。涙で見送った船を歓声で迎える | CHAPTER X (raw line 2266) |
| 1790年 | Jakarta | ボール大尉が6か月余りでニューホランドを初めて一周。途中で島々を発見・命名し、バタビアで米と塩漬け肉を買い、借り上げたオランダの帆船に積んで後から送らせる | CHAPTER X (raw line 2271) |
| 1790年 | Parramatta | 11月16日夕方にローズヒルへ行き、翌日農場を見て回る。開墾地約200エーカーのうち、小麦・大麦・燕麦が55、トウモロコシが30 | CHAPTER X (raw line 2356) |
| 1790年 | Parramatta | 囚人ジェームズ・ルースは、ボドミン巡回裁判で7年の刑を受け、1789年8月に刑期を終える。入植を約束され土地を与えられ、単独で農業を試している | CHAPTER X (raw line 2497) |
| 1790年 | Sydney | 先住民が普段より多く集まり騒がしい日、ベネロングが総督のもとに来て、ボタニー湾から連れてきた女性をまもなく殺すと知らせる | CHAPTER XI (raw line 2622) |
| 1790年 | Botany Bay 북쪽 갈래 근처 | 海兵隊の伍長と囚人3人(総督の猟師マッケンタイアを含む)がボタニー湾の北の支流を渡り、猟小屋で寝ていると、先住民の槍がマッケンタイアの左わき腹を貫く | CHAPTER XII (raw line 2763) |
| 1790年 | Botany Bay 곶 | テンチは兵40人と士官・軍医を率いて報復遠征に出る。総督の命令は先住民6人を捕らえるか撃つこと。午前9時にボタニー湾の岬に到達したが、午後4時まで先住民は一人も見えない | CHAPTER XII (raw line 2941) |
| 1790年 | Botany Bay 곶 | 第2次遠征は22日の日没時に出発。沼地で大いに苦しんで村に着くが、先住民は一人もおらず、再び失敗 | CHAPTER XII (raw line 3047) |
| 1790年 | Sydney | オランダの帆船がバタビアから12週間の航海の末、12月17日に入港。乗組員16人を失い、サプライ号に残された病人もバタビアで死亡 | CHAPTER XIII (raw line 3231) |
| 1790年 | Sydney | バタビアのシャーバンダル(港湾長)からのオランダ語の手紙を帆船が運び、英西の開戦を知る | CHAPTER XIII (raw line 3241) |
| 1791年 | Sydney | 帆船の積荷を降ろした後、サプライ号をノーフォーク島へ送り、ハンター船長とシリウス号の乗組員を連れ戻させる | CHAPTER XIII (raw line 3267) |
| 1791年 | Sydney | 2月26日、ハンターと乗組員がシドニーに合流。3月28日、帆船が彼らを乗せ、ティモールとバタビアを経由し北回りの航路でイギリスへ出航 | CHAPTER XIII (raw line 3283) |
| 1791年 | Sydney | 帆船の出発の6日前、サプライ号がヒル大尉とニューサウスウェールズ軍団の分遣隊を乗せて再びノーフォーク島へ出航。先住民の孤児の少年ボンデルが自ら同行を申し出る | CHAPTER XIII (raw line 3291) |
| 1791年 | Sydney | 帆船の出発直後、囚人11人(女1人・子ども2人を含む)が総督のカッターを奪い、網・銃・四分儀・食料を積んで海へ逃げる | CHAPTER XIII (raw line 3309) |
| 1791年 | Timor | カーペンタリア湾付近で大きなカヌーに追われ、櫂を漕いで逃れる。6月5日にティモールに着き、難破船の乗組員だと偽る。オランダ人は親切に迎えるが疑われる | CHAPTER XIII (raw line 3351) |
| 1791年 | Sydney | 4月2日、週配給が再び削減され、米・小麦粉・豚肉がそれぞれ3ポンドになる | CHAPTER XIII (raw line 3377) |
| 1791年 | 5月1日、総督は刑期を終えた囚人のうち入植を希望する者に土地を分け与える | CHAPTER XIII (raw line 3448) | |
| 1791年 | Parramatta | ホークスベリー川とネピアン川が同じ川かを確かめるため、21人の一行がローズヒルの総督官邸を出発。やや北東へ進んだ後、北34度西へ鋭く向きを変え、午後4時前に野営 | CHAPTER XIV (raw line 3515) |
| 1791年 | Hawkesbury River | 4月12日午前6時半に出発し、2時間で川に着く。通ってきた土地は不毛で、川に沿って下流を追跡する | CHAPTER XIV (raw line 3602) |
| 1791年 | Hawkesbury River | 4月14日、この地点から川を上流へ追跡し、カヌーに乗った先住民と出会って言葉を交わす。海岸と内陸の言葉が単語ごとに違うことを記録する | CHAPTER XIV (raw line 3712) |
| 1791年 | Hawkesbury River | 4月16日、追跡を諦めて帰還することに決める。これを聞いた先住民の同行者は大いに喜ぶ | CHAPTER XIV (raw line 3907) |
| 1791年 | Hawkesbury/Nepean River | テンチとダウズの追加の試みで、ホークスベリー川とネピアン川が一本の川だと確定。1790年8月にはリッチモンド・ヒルのそばを既に通りながら気づかず、1789年6月には発見地まで歩いていた | CHAPTER XIV (raw line 3935) |
| 1791年 | Botany Bay 남쪽 | 7月、ローズヒルの南に大きな川があると聞いて見に行くと、ボタニー湾に通じる塩水の小川にすぎず、飲み水もなく惨めな夜を過ごす | CHAPTER XIV (raw line 4009) |
| 1791年 | Parramatta | 6月2日、総督の命令により、港の奥の入植地ローズヒルは先住民の名前パラマッタに改名される | CHAPTER XV (raw line 4070) |
| 1791年 | Sydney | 7月9日、メアリー・アン号が2月25日にダウンズを出てから4か月12日で入港。女性囚人144人のうち死者はわずか3人 | CHAPTER XV (raw line 4109) |
| 1791年 | Port Jervis | アトランティック号(ボウエン中尉)がヴァン・ディーメンズ・ランドとポート・ジャクソンの間の港に入り、ジョン・ジャーヴィス卿にちなんでポート・ジャーヴィスと命名。入口の幅は約1.25マイル、内側の湾は幅5マイルで、淡水はない | CHAPTER XV (raw line 4191) |
| 1791年 | Parramatta | ローズヒルでは、最近到着した船団の男性囚人20人と妊娠した女性が、1週間分の食料と道具を持って姿を消す。定住した囚人に行き先を尋ねられると「中国」と答える | CHAPTER XV (raw line 4273) |
| 1791年 | Sydney | ゴーゴン号が9月21日に到着。海兵隊大隊の帰国の日が近づく | CHAPTER XVI (raw line 4320) |
| 1791年 | Sydney | サプライ号が11月26日にイギリスへ出発。自分たちの出発も近いことを知らせる | CHAPTER XVI (raw line 4326) |
| 1791年 | Parramatta | 12月2日、ローズヒルに上がり、公共建築・道路・入植の状況を視察。倉庫・兵舎・判事の宿舎は完成し、本通りを開設中 | CHAPTER XVI (raw line 4352) |
| 1791年 | Parramatta | 12月8日、ルースの農場に着き、「実験農場」と名付けられた30エーカーの土地の証書を確認する | CHAPTER XVI (raw line 4779) |
| 1791年 | Sydney | 12月13日、海兵隊大隊がゴーゴン号に乗船し、18日にイギリスへ出航 | CHAPTER XVI (raw line 4901) |
| 1791年 | Sydney | ブリタニア号(メルヴィル船長)が10月14日に入港。ヴァン・ディーメンズ・ランドとポート・ジャクソンの間で大型のマッコウクジラの群れを見たと報告 | CHAPTER XIX (raw line 6395) |
| 1791年 | Sydney | メルヴィルは14日間の捕鯨を終えて11月10日に帰港。マッコウクジラを数千頭見て7頭を捕らえたが、荒い海のため船に引き上げられなかった | CHAPTER XIX (raw line 6402) |
| 1791年 | Sydney | 11月11日、メアリー・アン号が16日間の捕鯨を終えて帰港。南緯41度まで下ったがクジラは見ず、嵐で鯨脂を煮る釜が流されそうになる | CHAPTER XIX (raw line 6420) |
| 1791年 | Sydney | 11月22日、ウィリアム・アンド・アン号が3週間以上の予定で出港し、ブロークン湾に寄港してから帰港。天候さえ良ければ鯨油50トンを得られたはずだと主張する。メルヴィルが分配した鯨を捕った船でもある | CHAPTER XIX (raw line 6426) |
| 1791年 | Sydney | 12月5日に2隻が再び出漁し、16・17日には捕鯨船すべてが成果なく帰港。悪天候のせいだとし、もう一度試みてから北の海へ向かうつもり | CHAPTER XIX (raw line 6444) |