吾妻鏡(記録 の史料)。扱う年は1180年 〜 1266年、出来事111件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。
| 区分 | 記録 |
|---|---|
| 視点 | 内側の視点 |
| 扱う年 | 1180年 〜 1266年 |
| 出来事の数 | 出来事111件・地図に置いた98件 |
| 著者 | 미상(가마쿠라 막부 편찬 관계자, 편년체) |
| 原題 | 吾妻鏡 |
地域の内訳: 日本 98 · 中国 13
| 年 | 場所 | 出来事 | 原文の位置 |
|---|---|---|---|
| 1180年 | 京都(三条高倉御所) | 4月9日、源頼政は平清盛討伐を長く企てていたが、この夜、子の仲綱らとともに以仁王の三条高倉御所を密かに訪ね、源頼朝らの源氏を集めて平氏を討つよう勧め、令旨を下させた。たまたま都にいた陸奥十郎義盛(行家)が令旨を持って東国へ向かうことになった。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年4月9日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 45행) |
| 1180年 | 伊豆 北条(韮山) | 4月27日、以仁王の令旨が八条院蔵人行家の手で伊豆国北条館の頼朝に届いた。頼朝は水干姿で、まず石清水(男山)の方へ遠く拝礼し、令旨を広げて読んだ。行家は甲斐・信濃の源氏に知らせるため、そちらへ出発することになった。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年4月27日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 47행) |
| 1180年 | 三井寺(園城寺) | 5月19日、以仁王が15日に密かに三井寺へ入り、衆徒が法輪院に御所を設けたという噂が都に広まった。源頼政は近衛河原の屋敷に自ら火を放ち、子孫・家人を率いて宮のもとへ駆けつけた。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年5月19日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 67행) |
| 1180年 | 宇治 | 5月26日未明、三井寺の兵が弱まったため以仁王は奈良の衆徒を頼って南都へ向かった。頼政の一族と衆徒が従ったが、平知盛・維盛らが二万騎の官兵を率いて追撃し、宇治付近で合戦となった。頼政・仲綱・兼綱らは討たれ、宮も光明山の鳥居の前で亡くなった(三十歳)という。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年5月26日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 73행) |
| 1180年 | 伊豆 山木 | 8月4日、頼朝は伊豆に流された平氏一族の山木判官平兼隆を先に討つ計画を立てた。都から来た遊客の邦通を兼隆の館に数日泊まらせ、山川や村里の地形をすべて描いて持ち帰らせた。この日戻った邦通の絵図を、頼朝は北条時政とともに広げた。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年8月4日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 99행) |
| 1180年 | 伊豆 山木 | 8月17日、三島社の神事の日に佐々木四兄弟(定綱・経高・盛綱・高綱)が洪水で遅れて到着した。夜の子の刻、北条時政は兼隆の後見人である堤信遠(山木の北)を先に攻めさせた。経高の最初の矢が「源家が平氏を征伐する最初の矢」となり、信遠を討った。兼隆の館前の天満坂付近でも矢を射かけたが、多くの郎党は三島社参拝で出払っていた。頼朝は薙刀を景廉に渡して山木へ行かせ、兼隆の首を持ち帰らせた。盛綱と景廉は館に入って首を得て、居室に火を放った。明け方、頼朝は縁側で兼隆と家来の首を見た。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年8月17日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 116행) |
| 1180年 | 相模 石橋山 | 8月23日夜、雨の中、頼朝は北条時政父子・盛長・茂光・実平ら三百騎とともに相模国石橋山に陣を張った。令旨を旗の上に掲げた。同じ国の大庭景親・俣野景久らの平家の家人三千余騎が石橋山の近くに陣を張り、一つの谷を隔てて向かい合った。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年8月23日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 172행) |
| 1180年 | 相模 椙山(堀口邊) | 8月24日、頼朝は相模の杉山の中、堀口付近に陣を張ったが、大庭景親が三千余騎で再び追ってきたため、裏山の峰へ逃れた。加藤景廉・大見実政らが後に残って防ぎ、矢を射て戦ったが、馬が矢に当たって死んだものが多かった。矢が尽きると、景廉が手綱を取って深い山へ導いた。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年8月24日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 174행) |
| 1180年 | 三浦(衣笠城) | 8月27日、三浦介義明(89歳)が河越重頼・江戸重長らに斬られた。義澄らは安房国へ向かい、北条時政・義実らと土肥郷の岩浦から船に乗って房州へ出た。海の上で三浦の者たちと出会った。景親は数千騎で三浦を攻めたが、義澄らがすでに海を渡っていたため引き返した。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年8月27日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 180행) |
| 1180年 | 安房 猟島 | 8月29日、頼朝は実平とともに小舟で安房国平北郡の猟島に着いた。北条時政以下が迎えて拝礼し、数日の憂鬱が一度に晴れた。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年8月29日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 184행) |
| 1180年 | 上総국(安房에서 이동) | 9月13日、頼朝は安房国を出て上総国へ向かった。従う精兵は三百騎余りであったが、上総広常の軍勢召集が遅れた。この日、千葉介常胤が子らと一族を連れて源家に参ろうとしていた。胤頼が国の目代(平家方)を先に討つことを勧め、常胤が許した。胤頼と甥の成胤が襲撃して火を放ち、目代の首を取った。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年9月13日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 212행) |
| 1180年 | 隅田川 부근 | 9月19日、上総権介広常が国の軍勢二万騎を率いて隅田川のほとりに来て、頼朝に拝謁した。頼朝は遅れたことを咎めたが、広常は表向きは服従の態度を取りつつ、内心では二心を抱いていた。遅参を責める頼朝の気色を「人の主の風格」にかなうと見て、害する気持ちを改め、おだやかに従ったという。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年9月19日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 220행) |
| 1180年 | 隅田川 도하→武藏 | 10月2日、頼朝は常胤・広常らの舟で大井・隅田の二川を渡り、精兵三万余騎で武蔵国へ向かった。豊島清元・葛西清重らが真っ先に出て拝謁し、足立遠元も迎えに来た。小山政光の妻・寒河尼が末子を連れてきたので、頼朝は自ら元服の儀を行い、小山七郎宗朝(のちの朝光)と名づけた。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年10月2日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 238행) |
| 1180年 | 鎌倉(相模) | 10月6日、頼朝は相模国に入った。畠山重忠が先陣を、常胤が後陣を務めた。従う軍勢は数万とも言われた。急いで民家を宿所に定めた。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年10月6日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 246행) |
| 1180年 | 鎌倉 小林郷 | 10月12日、先祖を敬うため、頼朝は小林郷の北山に社殿を建て、鶴岡宮(八幡)をここへ移した。専光房を仮の別当とし、景義が宮寺の事務を担当した。本社は頼義が康平6年に石清水を勧請した由比郷のものであり、義家が修復したと記されている。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年10月12日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 256행) |
| 1180年 | 甲斐·駿河 鉢田 | 10月14日、武田・安田の軍は神野・春田の道を通って鉢田付近に至り、甲斐へ向かっていた駿河目代橘遠茂の軍と思いがけず出会った。山の頂と岩の道で進退が難しかったが、信光が景廉らとともに先頭で戦い、長田入道の二人の子を討ち、遠茂を生け捕りにした。遠茂の首は富士野の伊堤付近にさらされた。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年10月14日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 260행) |
| 1180年 | 駿河 富士川 | 10月20日、頼朝は駿河国の賀島に至った。平維盛・忠度・知度は富士川の西岸に陣を張った。真夜中、武田信義が密かに平氏の陣の背後を襲おうとしたとき、富士沼の水鳥の群れが一斉に飛び立ち、その羽音が軍勢のように聞こえて平氏を驚かせた。忠清は「東国の軍はみな頼朝に従った」と言って、夜明け前に急いで引き返した。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年10月20日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 292행) |
| 1180年 | 駿河 黄瀬河 | 10月21日、維盛を追撃して上洛せよという命が出たが、常胤・義澄・広常らは、佐竹らがまだ服従していないので、まず東国を平定してから関西へ行くよう諫めた。そこで頼朝は宿所を黄瀬川へ移し、安田義定を遠江、武田信義を駿河に置いた。この日、弱冠の若者が訪ねてきたが、それは奥州の九郎、すなわち義経であった。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年10月21日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 294행) |
| 1180年 | 相模國府 | 10月23日、頼朝は相模国府に着き、初めて勲功の賞を行った。北条時政・武田信義・安田義定・千葉常胤・三浦義澄・上総広常らは、本領の安堵または新たな恩賞を受け、義澄は三浦介となった。降伏してきた大庭景親は、広常に預けられた。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年10月23日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 308행) |
| 1180年 | 常陸(출발) | 10月27日、頼朝は佐竹秀義を討つため常陸国へ出発した。この日は御衰日であったので引き止める者もいたが、4月27日に令旨が届いて東国を任された以上、日を選ぶ必要はないとして、27日を吉日とした。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年10月27日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 314행) |
| 1180年 | 常陸 金砂城 | 11月5日、実平・宗遠らが頼朝に使者を送り、佐竹の築いた防御は人力では破れないと報告した。老兵たちの意見を集めて、広常は秀義の叔父である佐竹蔵人を説得して服従させ、蔵人を案内役として金砂城の裏へ回り、鬨の声を上げると城郭が鳴り響いた。秀義と郎党は防備を忘れて慌てて逃げ、秀義の行方は消えた。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年11月5日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 322행) |
| 1180年 | 鎌倉 | 11月17日、頼朝は鎌倉へ戻った。曾我祐信は大いに赦され、和田義盛が侍所別当に任じられた(石橋合戦の後、安房へ向かう際にこの職を願い、許されていたことの実行)。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年11月17日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 338행) |
| 1180年 | 近江 | 12月1日、平知盛が数千の官兵を率いて近江国に下り、山本義経・柏木義兼ら源氏と合戦した。義経らは命がけで戦ったが、知盛は多勢で彼らの館と源氏の家々に火を放ち、義経・義兼は逃げた。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年12月1日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 348행) |
| 1180年 | 園城寺(三井寺) | 12月11日、平清盛は重衡を園城寺に遣わして衆徒と合戦させた。この寺の僧たちが五月頃に以仁王(三条宮)をかくまったためであり、南都も滅ぼす計画であった。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年12月11日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 356행) |
| 1180年 | 鎌倉 | 12月20日、新しく建てた御亭で三浦義澄が椀飯を献上し、続いて御弓始が行われた。あらかじめ決めていたことではなかったが、橘公長兄弟が弓にすぐれているという話を聞いたため、その場で試させたという。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年12月20日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 364행) |
| 1180年 | 信濃(上野에서) | 12月24日、木曾義仲は上野国を避けて信濃国へ向かった。自ら立とうとする志があり、多胡荘は亡父の遺跡であったが、頼朝の権威がすでに東関に輝いていたため、帰服の心を抱いたという。 | 吾妻鏡 卷1 治承四年12月24日条 (zh_吾妻鏡_卷001.wiki 378행) |
| 1181年 | 南都(奈良) | (1181) 1月18日、前年12月28日に南都の東大寺・興福寺などの堂塔がすべて平家に焼かれ、火は大仏殿にまで及び、焼け死んだ者は百人余りだという噂が関東に伝わった。相模国毛利荘の者である印景がその知らせを持ってきた。 | 吾妻鏡 卷2 治承五年1月18日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 11행) |
| 1181年 | 伊勢·志摩(二見浦) | 1月21日、熊野山の悪僧たちが五日以後、伊勢・志摩の両国に乱入し、何度も合戦した。この日は二見浦の民家を焼き、四瀬川のほとりまで進んだところ、船江付近で平氏一族の関信兼の軍と出会った。悪僧の首領である戒光(大頭八郎房)は信兼の矢に当たって退き、悪僧たちは二見浦で十数人を捕らえ、船で熊野浦へ送った。 | 吾妻鏡 卷2 治承五年1月21日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 13행) |
| 1181年 | 肥後·豊後(鎮西) | 2月29日、西国で兵乱が起きた。肥後国の住人菊池隆直と豊後国の住人緒方惟能らが平家に反旗を翻したのである。隆直の側は六百余騎で関所と陸路・海路をふさぎ、平家方の原田種直は九州の軍勢二千騎を集めて合戦した。 | 吾妻鏡 卷2 治承五年2月29日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 35행) |
| 1181年 | 京都 九条河原口 | 閏2月4日戌の刻、入道平相国(清盛)が九条河原口の盛国の家で死んだ。先月25日から病に伏せっていたが、遺言として三日後に葬儀を行い、遺骨は播磨国山田の法花堂に納めること、子孫はただ東国への帰服を図ることを命じた。 | 吾妻鏡 卷2 治承五年2月4日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 39행) |
| 1181年 | 尾張 墨俣川 | 3月10日、行家が尾張・三河両国の武士を率いて墨俣河のほとりに陣を張った。西岸には重衡・維盛・通盛・忠度ら平氏の大将が陣取っていた。行家が夜陰に乗じて密かに襲おうとしたが、重衡の舎人がこれを見つけて知らせたため、先に平氏軍が攻めかかり、行家の軍は混乱に陥った。義円禅師は盛綱に討たれ、蔵人次郎は忠度に生け捕りにされ、泉太郎兄弟は盛久に討たれた。軍兵で川に落ちたり傷を負って死んだ者は、合わせて六百九十余人と伝えられる。 | 吾妻鏡 卷2 治承五年3月10日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 55행) |
| 1181年 | 尾張 熱田社 | 3月19日、尾張国の住人大屋中三安資が鎌倉に駆けつけ、10日に墨俣河で行家が平氏と合戦し、行家の従者が全滅したと報告した。平氏は勝ちに乗じて、行家が熱田社に立てこもる状況だと言った。頼朝は安資の忠義を褒めた。 | 吾妻鏡 卷2 治承五年3月19日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 63행) |
| 1181年 | 京都(宣下) | 8月13日、藤原秀衡に頼朝を、平資長に木曾義仲を追討せよという宣旨が下された。平氏の申請によるものである。 | 吾妻鏡 卷2 養和元年8月13日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 153행) |
| 1181年 | 越後 | (1181) 9月3日、越後守城四郎資永が勅命を受けて国の兵を集め、木曾義仲を討とうとしていたが、この朝急に死んだ。天罰を受けたのだという。 | 吾妻鏡 卷2 養和元年9月3日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 170행) |
| 1181年 | 伊予 | 9月27日、平家の使者である民部大夫成良(田口)が伊予国に乱入した。河野通信以下の在庁たちは二心を抱いており、合戦に至った。河野は劣勢に追い込まれた。 | 吾妻鏡 卷2 養和元年9月27日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 177행) |
| 1181年 | 遠江(방어 논의) | (1181) 11月5日、足利義兼・義経・土肥実平・土屋宗遠・和田義盛らは平維盛を防ぐため遠江国へ向かおうとしたが、佐々木秀能が、維盛は近江国におり、いつ下ってくるか分からない、行家が尾張国に陣を張っているので、まず彼を防ぐべきだと言い、出発を延期した。 | 吾妻鏡 卷2 養和元年11月5日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 212행) |
| 1182年 | 鎌倉(伊東祐親 자살) | (1182) 2月14日、三浦義澄に預けられていた伊東祐親法師について、御台所が懐妊されたという噂が立った。義澄が機を見て頼朝に赦しを請うたので、赦免が下された。義澄がこれを伝えると、祐親は以前の過ちを恥じてすぐに自害した。義澄が駆けつけたときには、すでに終わっていた。 | 吾妻鏡 卷2 養和二年2月14日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 258행) |
| 1182年 | 鎌倉(御産) | (1182) 8月12日酉の刻、御台所が男児を安産された(のちの頼家)。験者は専光房良暹と観修であった。鳴弦と引目は御家人(上総広常ら)が務め、河越重頼の妻(比企尼の娘)が召されて乳付けを担当した。 | 吾妻鏡 卷2 壽永元年8月12日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 350행) |
| 1182年 | 信濃 筑摩河 | (1182) 10月9日、越後の住人城四郎永用が源家を射ようとしたところ、木曾義仲が北陸道の軍勢を率いて信濃国筑摩河のほとりで戦い、夜になって永用は敗走した。 | 吾妻鏡 卷2 壽永元年10月9日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 380행) |
| 1182年 | 土佐 | (1182) 11月20日、土佐冠者(希義)を殺した土佐国の住人家綱・俊遠らを討つため、伊豆右衛門尉有綱が土佐国に派遣された。有綱は夜須七郎行宗を国内の案内役として、この日の未明に出発した。 | 吾妻鏡 卷2 壽永元年11月20日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 392행) |
| 1183年 | 遠江 浜松庄橋本 | (1183) 2月17日、安田義定は義盛・忠綱らとともに遠江国の住人を率いて、遠江国浜松庄橋本付近に至った。頼朝の命によるもので、要害を固めて平氏の襲来を待つためである。 | 吾妻鏡 卷2 寿永二年2月17日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 417행) |
| 1183年 | 下野 野木宮 | (1183) 2月23日、志田(志太)義広が三万余騎で鎌倉の方へ向かい、小山朝政の館の近くまで来た。朝政は先に野木宮に入って計略を練り、谷や木の上に人を登らせて鬨の声をあげさせ、大勢の伏兵に見せかけた。義広が慌てると、朝政の郎党が攻めかかり、宗政・行平らも加わったので、義広の軍は敗れた。 | 吾妻鏡 卷2 寿永二年2月23日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 423행) |
| 1183年 | 越前 水津 | (1183) 5月4日、木曾義仲は平家を追討するため北陸道を回って上洛した。先陣の根井太郎が越前国水津に至り、通盛の軍と合戦を始めた。 | 吾妻鏡 卷2 寿永二年5月4日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 441행) |
| 1183年 | 下野 足利 | (1183) 9月7日、足利太郎藤原俊綱(秀郷の後裔)は平家に属し、子の忠綱は義広に同調して頼朝の側に来なかったので、頼朝は追討の御書を下した。和田義茂に三浦義連・葛西清重・宇佐美実政が加わり、義茂がこの日まず下っていった。 | 吾妻鏡 卷2 寿永二年9月7日条 (zh_吾妻鏡_卷002.wiki 443행) |
| 1184年 | 京都(宇治·勢多) | (1184) 1月20日、範頼と義経が頼朝の使者として数万騎を率いて義仲を討つため入洛した。範頼は勢多から、義経は宇治路から入り、義仲の軍は二つの道で防いだがいずれも敗れた。義仲は近江国粟津付近で相模の住人石田次郎に討たれた。 | 吾妻鏡 卷3 壽永三年1月20日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 29행) |
| 1184年 | 京都 七条河原 | 1月26日、検非違使たちが七条河原で義仲と忠直・兼平・行親らの首を受け取り、獄門の前の木に懸けた。また囚人の樋口兼光も引き回した。 | 吾妻鏡 卷3 壽永三年1月26日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 45행) |
| 1184年 | 京都→西国 | 1月29日、関東の二人の将軍(範頼・義経)が平氏追討のため、軍兵を率いて都を出て西国へ向かった。 | 吾妻鏡 卷3 壽永三年1月29日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 51행) |
| 1184年 | 攝津·播磨 一谷 | 2月4日、平家は西海道と山陰道の二道から数万の兵を集め、摂津と播磨の境の一の谷に城郭を築いた。この日は相国禅門(清盛)の三回忌にあたり、法会を営んだ。 | 吾妻鏡 卷3 壽永三年2月4日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 59행) |
| 1184年 | 一谷 鵯越 | 2月7日の未明、義経は精鋭七十余騎を分けて一の谷の裏山、鵯越に至った。熊谷直実・平山季重らが表の道を回って奇襲し、先陣と名乗った。平家の飛騨景綱・越中盛次・上総忠光・悪七兵衛景清らが二十三騎で木戸口を開いて迎え撃った。やがて範頼ら多数が駆けつけ、両軍が入り乱れて激戦となった。 | 吾妻鏡 卷3 壽永三年2月7日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 82행) |
| 1184年 | 京都 八条堀川 | 2月14日、右衛門権佐定長が勅命により、故中御門中納言家成卿の八条堀川の堂舎へ、本三位中将重衡を尋問しに行った。土肥実平が同じ車で重衡を連れてきて、弘庇で訊問し、口述の条項を記して提出した。 | 吾妻鏡 卷3 壽永三年2月14日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 92행) |
| 1184年 | 鎌倉(一谷合戦 보고) | 2月15日、範頼・義経の飛脚が摂津国から鎌倉に着き、合戦の記録を差し出した。7日の一の谷の合戦で平家は大半が討たれ、前内府宗盛らは海へ出て四国へ向かい、本三位中将重衡は生け捕られた。通盛・忠度・経俊らは範頼が、経正・師盛・教経らは義定が、敦盛・知章らは義経が討ったという。 | 吾妻鏡 卷3 壽永三年2月15日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 94행) |
| 1184年 | 京都→関東(重衡 호송) | 3月10日、本三位中将重衡が都を出て関東へ向かった。梶原景時が護送した。頼朝の求めによるものである。 | 吾妻鏡 卷3 壽永三年3月10日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 165행) |
| 1184年 | 伊豆国府 | 3月27日、三品羽林(重衡)が伊豆国府に着いた。そのとき頼朝は北条におられたので、景時が使者を送って指示を仰いだ。連れてくるよう命じられ、同行したが、面会は翌日と定められた。 | 吾妻鏡 卷3 壽永三年3月27日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 181행) |
| 1184年 | 鎌倉(重衡 도착) | 4月8日、本三位中将重衡が伊豆国から鎌倉に到着した。頼朝は郭内の家を一軒選んで彼を入れ、狩野介一族が夜ごと十人ずつ交代で守らせた。 | 吾妻鏡 卷3 壽永三年4月8日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 219행) |
| 1184年 | (改元) | 4月16日、改元して寿永三年を元暦元年とした。 | 吾妻鏡 卷3 元暦元年4月16日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 229행) |
| 1184年 | 鎌倉(志水冠者 도주) | 4月21日、頼朝の婿である志水冠者は、父が勅勘を受けて死んだのだから、その子も殺すべきだという考えが密かに決まった。それを知った女房たちが姫君(大姫)に知らせ、志水は計略を用いて明け方に逃げた。女房の装いで出て、馬は別の場所に置いた。同じ年頃の海野幸氏が身代わりとして帳台の中で夜具の下に横たわり、双六をしているふりをした。 | 吾妻鏡 卷3 元暦元年4月21日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 235행) |
| 1184年 | 武藏 入間河原 | 4月26日、堀親家の郎党藤内光澄が戻ってきて、武蔵の入間河原で志水冠者を殺したと知らせた。内密の相談だったが、姫君はすでに知らせを聞いて悲しみのあまり水も飲まなくなった。御台所もそれを察して嘆いた。 | 吾妻鏡 卷3 元暦元年4月26日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 248행) |
| 1184年 | 鎌倉 営中 | 6月16日、一条忠頼が勢威を頼みに世を乱す考えがあるという噂があり、頼朝は営中で彼を殺すことに決めた。西侍で献杯の席を設けた。工藤祐経が銚子を取ったが、相手が大武将なので躊躇した。小山田有重が「こんな杓は老人の役目だ」と言って代わりに銚子を受け取り、天野遠景が太刀を抜いて忠頼の左側からすぐに斬り伏せた。続いて忠頼の供の新平太らが暴れたが、重成・重朝・朝光・遠景らがこれを斬った。 | 吾妻鏡 卷3 元暦元年6月16日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 300행) |
| 1184年 | 伊賀 | 7月5日、大内惟義の飛脚が鎌倉に来て、先月7日(6月7日)に伊賀国で平家一族の襲撃を受け、頼みとした家人の大半が討たれたと知らせた。皆が駆けつけ、鎌倉は騒然となった。 | 吾妻鏡 卷3 元暦元年7月5日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 326행) |
| 1184年 | 鎌倉→西海(範頼 출진) | 8月8日正午、参河守範頼が平家追討使として西海へ向けて出発した。旗を持つ者と箙を負う者が並んで先頭に立った。範頼は紺色の直垂を着て栗毛の馬に乗り、北条小四郎・足利義兼・武田有義・千葉常胤・三浦義澄らを含む千余騎が従った。 | 吾妻鏡 卷3 元暦元年8月8日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 346행) |
| 1184年 | 京都(信兼 일족 주살) | 8月26日、義経の飛脚が着き、10日に信兼の子の兼衡・信衡・兼時らを宿廬に呼び寄せて殺したこと、11日に信兼に解官の宣旨が下ったことを知らせた。 | 吾妻鏡 卷3 元暦元年8月26日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 360행) |
| 1184年 | 京都→西海(範頼) | 9月12日、参河守範頼の使者が来て、先月27日に入洛し、29日に追討使の官符を受け、9月1日に西海へ出発したと記した書状を届けた。 | 吾妻鏡 卷3 元暦元年9月12日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 371행) |
| 1184年 | 備前 児島(藤戸) | 12月7日、平行盛が五百騎ほどで備前国児島に城郭を築いた。頼朝の使者である佐々木盛綱が攻めに行ったが、波が高くて近づけなかった。行盛が手招きすると、盛綱は船を探さず、馬に乗ったまま藤戸の海を三町余り渡って行盛を追い払った。従者は六騎であった。 | 吾妻鏡 卷3 元暦元年12月7日条 (zh_吾妻鏡_卷003.wiki 480행) |
| 1185年 | 関東(兵粮 조달 명령) | (1185) 1月6日、西海の東国武士たちが船と食糧が尽きて戦えないという噂が広まり、頼朝は東国に兵糧米を船で送るよう命じた。範頼が昨年11月14日に送った飛脚がこの日に着き、兵糧が足りず軍勢がまとまらず、半数以上が帰国を望んでいると伝え、馬も求めた。頼朝は雑色の宗光らに詳しい御書を持たせて送り出した。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年1月6日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 5행) |
| 1185年 | 長門 赤間関 | (1185) 1月12日、範頼は周防国から長門国の赤間関に着き、平家を討つため海を渡ろうとしたが、食料が尽き船もなく、数日とどまった。東国の者たちは退きたい気持ちが強かったが、豊後国の臼杵惟隆・緒方惟栄が源家に心を寄せているという噂があったので、その兄弟の船を呼び寄せて豊後へ渡ることに決め、この日は周防へ引き返した。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年1月12日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 26행) |
| 1185年 | 豊後·筑前 葦屋浦 | (1185) 2月1日、範頼が豊後国へ渡った。北条小四郎・下河辺庄司・渋谷庄司らが先頭に立った。この日、葦屋浦で太宰少弐の種直が子の賀摩兵衛尉らとともに軍を率いて迎え撃ったが、重国の矢に射倒され、行平は美気三郎敦種を斬った。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年2月1日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 52행) |
| 1185年 | 攝津 渡辺(출항) | (1185) 2月16日、関東の軍兵が平氏追討のため讃岐国へ向かい、義経が先陣を務めた。酉の刻に纜を解いた。泰経が準備を見に来て、大将軍が全陣の先頭に立つ必要はないと諫めたが、義経は先陣で命を捨てる覚悟だと言った。平家は前内府が屋島に、知盛が門司関に陣を敷いていた。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年2月16日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 62행) |
| 1185年 | 阿波 椿浦 | (1185) 2月18日、前日に渡辺から出港しようとした義経の船団は嵐で多くが壊れたが、義経は丑の刻に五艘を先に出し、卯の刻に阿波国の椿浦に着いた(ふつう三日かかる道のり)。約150騎を上陸させ、近藤親家を案内役として屋島へ向かい、桂浦で桜庭良遠を攻めたところ、良遠は城を捨てて逃げた。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年2月18日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 64행) |
| 1185年 | 讃岐 志度 | (1185) 2月21日、平家が讃岐国の志度道場に立てこもったので、義経は八十騎で追った。平氏の家人田内左衛門尉が帰服し、河野通信も三十艘を率いて加勢した。義経はすでに阿波を渡っており、熊野別当湛増も源氏を助けて海を渡ったという噂が都に広まった。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年2月21日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 68행) |
| 1185年 | 讃岐 屋島 | (1185) 2月22日、梶原景時以下の東国武士が140余艘で屋島の浜に着いた。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年2月22日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 70행) |
| 1185年 | 屋島(합전 결과 보고) | (1185) 3月8日、義経の飛脚が鎌倉に着き、先月17日に150騎で嵐を突いて渡辺を出て、翌日の卯の刻に阿波国に着いて戦い、19日には屋島へ向かったこと、使者が播磨国から振り返ると屋島の方角から黒煙が天に立ちのぼっていたので、合戦はすでに終わり、内裏以下が焼けたに違いないと伝えた。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年3月8日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 100행) |
| 1185年 | 豊後(範頼 兵粮 곤란) | (1185) 3月9日、範頼が西海から書状を送り、平家が近くにいると聞いて豊後国に着いたが、民はみな逃げ、兵糧を得る道がなかったと記した。和田義盛の兄弟らが帰国しようとしていたが、無理に引き止めて一緒に海を渡ったという。熊野別当湛増が義経の側について、追討使として讃岐へ渡ったという噂もあった。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年3月9日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 102행) |
| 1185年 | 周防→壇ノ浦(출격 지연) | (1185) 3月21日、大雨の中、義経は平氏を討つため壇の浦へ行こうとしたが、雨のため延期した。周防国の在庁・船所五郎正利が国の舟船奉行として数十艘を献じたので、義経は彼に頼朝の御家人となるよう書状を送った。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年3月21日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 121행) |
| 1185年 | 長門 壇ノ浦 | (1185) 3月24日、長門国赤間関の壇の浦の海上で源平が三町ほどの間隔で船を並べて戦った。平家の船五百余艘は三手に分かれ、山鹿秀遠と松浦党が大将であった。正午になって平氏はついに敗れた。二品禅尼は宝剣を抱き、安徳天皇(八歳)とともに海の底に沈んだ。建礼門院は救い上げられ、宗盛・清宗は伊勢能盛に生け捕られた。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年3月24日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 125행) |
| 1185年 | 京都(滅亡 보고) | (1185) 4月4日、平家がすべて討ち滅ぼされたという報告が昨夜、義経の使者によって都に伝えられ、今日は源弘綱が死者と生け捕りの名簿を仙洞(後白河)に差し出した。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年4月4日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 139행) |
| 1185年 | 鎌倉(西海 처분 의논) | (1185) 4月12日、平氏滅亡の後、西海で処理すべき条項をこの日の評定で論じた。範頼はしばらく九州にとどまって没官領などを調べ、義経は生け捕りにした者たちを連れて上洛することに定めた。雑色の時沢らが飛脚として鎮西へ向かった。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年4月12日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 169행) |
| 1185年 | 鎌倉(宗盛 입성) | (1185) 5月16日、忠清法師を六条河原で梟首し、この日、前内府(宗盛)が鎌倉に入り、見物人が垣根のように並んだ。内府は車に乗り、金吾(清宗)は馬に乗った。若宮大路を経て横大路に至り、しばらく止まってから営中の西対に住まわされた。夜、大江広元が食事を差し出したが、宗盛は食べず、ただ涙をのんだ。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年5月16日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 277행) |
| 1185年 | 対馬→高麗 | (1185) 5月23日、範頼は頼朝の命により、対馬守親光を迎えるため船を対馬島へ送ろうとしたが、親光は平氏の攻撃を避けて3月4日に高麗国へ渡ったと報告された。それなら高麗へ送るよう島の在庁たちに指示を出し、今日すでに送った。対馬守護人河内義長も親光に送る書状を一緒に送った。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年5月23日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 285행) |
| 1185年 | 鎌倉 腰越 | (1185) 5月24日、義経は平氏を滅ぼした後、前内府を連れてきたが、日頃の不義のせいで頼朝の怒りを買い、鎌倉に入れず、腰越の駅で数日を過ごした。思い悩んだ末、因幡前司広元を通じて一通の款状を差し出した。広元は読んだが、はっきりした返答はなかった。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年5月24日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 287행) |
| 1185年 | 相模 酒匂 | (1185) 6月9日、義経は酒匂付近にとどまっていたが、この日、前内府を連れて京へ戻った。頼朝は橘馬允・浅羽庄司・宇佐美平次らを付けて囚人を護送させた。義経は大功によって褒賞を受け、本望を遂げられると思っていたが、望みに反して拝謁もできず、手ぶらで帰ったので、その恨みは深かった。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年6月9日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 320행) |
| 1185年 | 近江 篠原宿 | (1185) 6月21日卯の刻、義経は近江国篠原宿に着き、橘馬允公長に前内府(宗盛)の首を斬らせた。続いて野路口で堀弥太郎景光に前右金吾(清宗)の首を梟させた。大原の本性上人が父子の知識としてやって来て、二人は恨みを解いて浄土を求めたという。重衡もこの日、京へ入った。 | 吾妻鏡 卷4 元暦二年6月21日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 332행) |
| 1185年 | (改元) | (1185) 8月14日、元暦二年を文治元年と改元した(左大弁兼光が撰進)。 | 吾妻鏡 卷4 文治元年8月14日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 380행) |
| 1185年 | 京都(源氏 受領) | (1185) 8月29日、16日の小除目の聞書が届き、源氏の大半が朝恩を受けた。義範は伊豆守、惟義は相模守、義兼は上総介、義経は伊予守となった。義経の官職は四月頃、泰経に密かに頼んでおいたもので、不正が露見したが、勅定に任されることになり、これらの国は当時、関東御分国となった。 | 吾妻鏡 卷4 文治元年8月29日条 (zh_吾妻鏡_卷004.wiki 394행) |
| 1185年 | 鎌倉 | (1185) 9月1日、廷尉公朝が勅使として営中に来て、二品(頼朝)と対面した。酒がすすめられ、砂金十両と馬・鞍を受け、邦通を通じて長絹二十疋・紺絹三十端が宿所にも届けられた。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年9月1日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 3행) |
| 1185年 | 鎌倉 南御堂 | (1185) 9月3日子の刻、故左典厩(義朝)の遺骨を正清の首とともに南御堂の跡地に葬った。道中では輿を用い、頼朝は素服を着て参列した。義信・頼隆・惟義だけが一緒に入ることを許された。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年9月3日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 7행) |
| 1185年 | 鎌倉→京都(昌俊 출발) | (1185) 10月9日、伊予守義経を討つことを長く議論した末、土佐房昌俊を遣わすことに決まった。皆が辞退する中、昌俊が自ら引き受け、頼朝は感激して、老母と幼子がいる下野国中泉荘を与えた。八十三騎を率い、九日の道のりを行くことに決まった。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年10月9日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 31행) |
| 1185年 | 京都 六条室町 | (1185) 10月17日、土佐房昌俊が六十余騎を率いて、伊予大夫判官義経の六条室町の亭を襲撃した。義経の側は人が多くなかったが、佐藤忠信らとともに門を開けて駆け出し、戦った。行家も背後から加勢したので、昌俊は退いた。義経はすぐに仙洞へ走り、無事を奏上した。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年10月17日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 47행) |
| 1185年 | 鎌倉 勝長寿院 | (1185) 10月24日、南御堂、名を勝長寿院という堂の供養が行われた。寅の刻、御家人の中の壮健な者たちが辻々を守った。堂の左右に仮屋を建て、左に二品(頼朝)、右に御台所らの座を設けて法要を聴いた。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年10月24日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 64행) |
| 1185年 | 駿河 黄瀬河 | (1185) 11月1日、二品(頼朝)が駿河国の黄瀬川駅に着き、御家人たちに京の様子を聞くため、しばらくここに滞在するので乗馬と旅の食料を用意するよう命じた。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年11月1日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 135행) |
| 1185年 | 攝津 大物浜(出航) | (1185) 11月3日、行家は桜威の甲、義経は赤地錦の直垂と萌黄威の甲で西海へ向かった。まず仙洞に使者を送り、「鎌倉の咎めを避けて鎮西へ落ちる」と知らせた。時実・良成・有綱・堀景光・佐藤忠信・伊勢能盛・片岡弘経・弁慶ら、約二百騎が従った。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年11月3日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 139행) |
| 1185年 | 攝津 大物浜 | (1185) 11月6日、行家と義経が大物浜で船に乗って纜を解いたとき、突風が起こり、大波が船を覆したので海を渡れなかった。同行の者は散り、義経に従ったのは伊豆有綱・堀景光・弁慶と、妾の静ら四、五人だけであった。その夜は天王寺の近くで過ごし、その後は行方をくらました。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年11月6日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 143행) |
| 1185年 | 大和 吉野山 | (1185) 11月17日、義経が大和国の吉野山に隠れているという噂があり、執行が悪僧を集めて山林を探したが、何も見つからなかった。この夜、義経の妾の静が藤尾坂から下りて蔵王堂に着き、衆徒に捕らえられた。静は、義経が大物浜からこの山に来て五日間滞在したが、衆徒が立ち上がるという噂が出ると、山伏の姿で逃げたと語った。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年11月17日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 162행) |
| 1185年 | 大和 多武峰 | (1185) 11月22日、義経は吉野山の深い雪を分けて、ひそかに多武峰へ向かった。大織冠(鎌足)の影像に祈るためである。到着したのは南院の中の藤室で、その房主は十字坊という悪僧で、義経を手厚くもてなした。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年11月22日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 170행) |
| 1185年 | 京都(北条時政 입경) | (1185) 11月25日、北条時政が入洛したという噂が流れた。行家と義経の反逆に頼朝が憤慨している事情を師中納言が奏上し、この日必ず探し出せという宣旨が下された。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年11月25日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 174행) |
| 1185年 | 京都(泰経 籠居) | (1185) 11月26日、大蔵卿泰経が籠居した。義経の追討宣旨を求める申し出を伝えたのは泰経であったため、頼朝は大いに憤り、その思いが天聴に届いて勅定が下った結果だという。泰経は行家・義経の謀反に同調する文を竹の枝に挟み、師中納言の庭に立てた。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年11月26日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 180행) |
| 1185年 | 京都(守護地頭 설치) | (1185) 11月28日、諸国に一律に守護・地頭を任じ、権門勢家や公領の区別なく、段別五升の兵糧米を課すことを、この夜、北条時政が藤中納言経房卿に申し上げた。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年11月28日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 182행) |
| 1185年 | 鎌倉(庄園 下地 관할) | (1185) 12月21日、諸国の荘園の下地(土地の支配権)は関東がすべて扱うという。かつての地頭の多くは平家の家人であったが、それは朝恩ではなかったので、平家が没落した後、家人が持っていた地位は没収され、古くからの領主が元の座に戻された。 | 吾妻鏡 卷5 文治元年12月21日条 (zh_吾妻鏡_卷005.wiki 258행) |
| 1265年 | 鎌倉(元旦 垸飯) | (1265) 1月1日、日蝕であったが、前夜から雨が降っていたため見えなかった。御所は囲わず、左典厩(時宗)が椀飯を担当した。御簾を下ろし、土御門大納言が仕え、御剣は越後守実時、御調度は越前前司時広らが担当した。 | 吾妻鏡 卷52 文永二年1月1日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 3행) |
| 1265年 | 京都 六波羅→鎌倉 | (1265) 1月5日亥の刻、六波羅の飛脚が鎌倉に着き、山門(延暦寺)と園城寺の騒動を知らせた。 | 吾妻鏡 卷52 文永二年1月5日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 25행) |
| 1265年 | 箱根·伊豆山(二所詣) | (1265) 2月7日、将軍家が二所(伊豆山・箱根)へ出発した。供の者が垣根をなし、後陣の随兵一騎が中下馬橋で落馬した。午の刻に御息所が急に病気になり、人々が集まったが、別状はなかったという。 | 吾妻鏡 卷52 文永二年2月7日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 55행) |
| 1265年 | 箱根·伊豆山→鎌倉 | 2月12日、一日中雨が降り、戌の刻に将軍家が二所から鎌倉に戻った。 | 吾妻鏡 卷52 文永二年2月12日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 59행) |
| 1265年 | 鎌倉 鶴岡 | 3月9日亥の刻、大地震があった。この夜、鶴岡若宮の宝殿の前で管弦講が行われ、別当僧正が式を読む八幡講があり、続いて御神楽が奏された。 | 吾妻鏡 卷52 文永二年3月9日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 91행) |
| 1265年 | 鎌倉 亀谷·泉谷 | 6月10日、一日中大雨が降り、亀谷と泉谷の多くの山が崩れた。人や馬が土砂に押しつぶされて死んだ者が多く、土の中から掘り出されて助かったのは一人か二人だけであった。 | 吾妻鏡 卷52 文永二年6月10日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 141행) |
| 1265年 | 鎌倉(評定衆 新加) | 6月11日、評定衆に前越前守平時広、中務権大輔平教時、宮内権大輔大江時秀が新たに加わり、引付衆にも新しい人々が加わった。壱岐五郎左衛門尉為忠が辞任した後任を埋めたものだという。 | 吾妻鏡 卷52 文永二年6月11日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 143행) |
| 1265年 | 鎌倉 山内 | 7月4日未の刻、山内の御山荘で侍二人が争いを起こし、互いに殺し合った。このため鎌倉の中が騒然となり、御家人たちが駆けつけた。 | 吾妻鏡 卷52 文永二年7月4日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 172행) |
| 1265年 | 信濃 善光寺 | 11月20日、信濃国善光寺の周辺の悪党を鎮め、警告するために置かれていた奉行人(和田石見入道仏阿ら四人)が、職務外の雑事に口出しして不当な処分をしているという訴えが出た。この日評議して、これら奉行人を廃止することにし、信濃国守護人陸奥孫四郎にこのことを通知した。 | 吾妻鏡 卷52 文永二年11月20日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 241행) |
| 1265年 | 鎌倉(彗星) | 12月14日の未明、東の空に彗星が現れた。掃部助範元が真っ先に御所に知らせ、続いて晴茂らが彗星であると報告して勘文を奉った。 | 吾妻鏡 卷52 文永二年12月14日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 247행) |
| 1266年 | 鎌倉→山内 | 6月23日酉の刻、御息所と姫宮が急に山内殿へ移り、若宮は相州(時宗)の屋敷に入った。人々が押し寄せ、鎌倉の中は理由も分からずに騒然となった。 | 吾妻鏡 卷52 文永三年6月23日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 375행) |
| 1266年 | 鎌倉 소동 | 7月1日、御家人たちが関を破って駆けつけたり、道を回って密かに集まり、武器を持って民家に隠れた。酉の刻に突然騒動が起き、集まった群れが弓を構えたが、何事もなく日が暮れた。 | 吾妻鏡 卷52 文永三年7月1日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 383행) |
| 1266年 | 鎌倉 薬師堂谷→佐介 | 7月4日午の刻、中務権大輔教時が甲冑を着けた兵数十騎を率いて薬師堂谷の屋敷から塔の辻の宿所へ出たため、近隣が大いに騒いだ。相州(時宗)は東郷八郎入道を遣わして教時の行列を遮らせた。戌の刻、将軍家が越後入道勝円の佐介亭に入ったが、これは帰京のための出門であったという。 | 吾妻鏡 卷52 文永三年7月4日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 387행) |
| 1266年 | 京都 六波羅 | 7月20日戌の刻、前将軍家(宗尊親王)が入洛し、左近大夫将監時茂の六波羅の亭に入った。 | 吾妻鏡 卷52 文永三年7月20日条 (zh_吾妻鏡_卷052.wiki 420행) |
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