陳書 本紀

陳書 本紀(正史 の史料)。扱う年は545年 〜 604年、出来事91件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年545年 〜 604年
出来事の数出来事91件・地図に置いた81件
著者姚思廉
原題陳書 本紀 (卷1~6)

地域の内訳: 中国 89 · 東南アジア 2

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
545年 〜 547年交州交州の蘇歴江口で陳霸先が李賁の数万の軍を破った。李賁は典澈湖・屈獠洞へ逃げたが、屈獠に斬られ、首が都へ送られた。陳書 卷1 大同11年 六月
549年廣州侯景の乱の中、陳霸先は南海で義兵を集め、広州刺史元景仲を攻めた。元景仲は首をくくって死に、陳霸先は蕭勃を広州に迎えた。陳書 卷1 太清3年 七月
550年南康陳霸先は始興を出発し、大庾嶺を越えて南野に陣取った蔡路養を大破し、南康に駐屯した。陳書 卷1 大寶元年 正月
551年南康杜僧明らが李遷仕の築いた城を陥落させ、李遷仕を捕らえて南康へ送ると、陳霸先が斬った。陳書 卷1 大寶2年 三月
551年巴丘王僧弁の軍の兵糧が尽きると、陳霸先は貯えておいた軍糧五十万石のうち三十万石を分け与え、巴丘に駐屯した。陳書 卷1 大寶2年 八月
552年豫章陳霸先は甲士三万・強弩五千・戦船二千で豫章を発し、侯景討伐に出た。陳書 卷1 大寶3年 正月
552年建康石頭城の前で陳霸先・王僧弁の連合軍が侯景軍を大破し、侯景は西明門まで追われ、宮城の下からわずか二人の息子だけを連れて逃げた。陳書 卷1 大寶3年 三月
552年北斉の辛術が七万で秦郡の厳超達を包囲すると、陳霸先は一万で救援に赴き、北斉の平秦王が矢に当たって死に、数百の首級を挙げた。陳書 卷1 大寶3年 五月
552年江陵湘東王蕭繹が江陵で即位し、大宝三年を承聖元年に改めた(元帝)。陳書 卷1 大寶3年 十一月
554年江陵西魏が江陵を陥落させた。陳書 卷1 承聖3年 十一月
555年建康北斉が貞陽侯蕭淵明を送り返して即位させると、王僧弁はこれを受け入れて天成に改元したが、陳霸先は反対した。陳書 卷1 承聖4年 五月
555年京口陳霸先は徐度・侯安都・周文育と謀り、その夜、南徐州(京口)から王僧弁を討つために出発した。陳書 卷1 承聖4年 九月
555年建康陳霸先は石頭で火を放って王僧弁を捕らえ、その夜、王僧弁と息子の王頠を首つりにして殺した。陳書 卷1 承聖4年 九月
555年建康晋安王蕭方智が即位し、承聖四年を紹泰元年に改めた(敬帝)。陳霸先には大都督中外諸軍事などを授けた。陳書 卷1 承聖4年 十月
555年吳興王僧弁の女婿で震州刺史の杜龕が呉興に拠り、義興太守韋載とともに挙兵した。陳霸先は周文育を派遣して義興を攻めさせた。陳書 卷1 紹泰元年 十月
555年侯安都が水軍で胡墅を夜襲して北斉の船千余隻を焼き、周鉄武は輸送路を断って北徐州刺史張領州を捕らえた。陳書 卷1 紹泰元年 十一月
555年建康北斉の柳達摩が使者を送って和議を請うと、陳霸先は城門の外で犠牲を捧げて盟約し、翌日、石頭城の南門から北斉の人々を北へ帰した。陳書 卷1 紹泰元年 十二月
556年梁山蕭軌らが十万で北斉の柵口から出て梁山へ向かうと、黄叢が迎え撃って先陣の船を焼き、北斉は蕪湖にとどまった。陳書 卷1 紹泰2年 三月
556年建康莫府山の南での決戦で陳霸先自ら出陣し、侯安都が背後から攻めて北斉軍を大破、徐嗣徽兄弟を捕らえて斬り、臨沂まで追撃した。陳書 卷1 紹泰2年 六月
557年南康蕭勃が広州から嶺を越えて南康に進み、欧陽頠らを先鋒として豫章へ送り、余孝頃が呼応すると、陳霸先は周文育・侯安都を派遣して討伐させた。陳書 卷1 太平2年 二月
557年建康梁の朝廷は陳霸先を相国・十郡の陳公に進め、九錫を与えた。陳書 卷1 太平2年 九月
557年建康梁の敬帝が陳王に禅位する詔を下し、別宮へ退いた。陳書 卷1 太平2年 十月
557年建康陳霸先は南郊で祭祀を行って皇帝に即位し、太極前殿で大赦、永定に改元した。梁の皇帝は江陰王に封じられた(陳の建国)。陳書 卷2 永定元年 十月
557年郢州西方討伐の都督周文育・侯安都が郢州で敗れ、王琳に捕らえられた。陳書 卷2 永定元年 十月
558年郢州王琳が梁の永嘉王蕭荘を郢州で擁立した。陳書 卷2 永定2年 三月
558年建康臨川王蒨が水軍五万で王琳討伐のため都を発ち、皇帝が冶城寺まで出向いて見送った。陳書 卷2 永定2年 八月
558年豫章周文育が軍を率いて豫章へ出て、余孝勱を討った。陳書 卷2 永定2年 十月
558年建康侯景の乱で焼失した太極殿を再建し完成させた(大きな楠の木で柱を補った)。陳書 卷2 永定2年 十月
559年合州司空侯瑱が長江から合肥へ入り、北斉の船を焼き、三月に合肥から凱旋した。陳書 卷2 永定3年 二月·三月
559年南皖口鎮北将軍徐度が南皖口に城を築いた。陳書 卷2 永定3年 閏四月
559年北江州刺史熊曇朗が陣中で都督周文育を殺して挙兵し、王琳は余孝勱を助けるため常衆愛らを送った。陳書 卷2 永定3年 五月
559年左里侯安都が左里で常衆愛らを破り、王琳の一族三十余人を捕らえ、常衆愛は廬山の民に斬られた。陳書 卷2 永定3年 六月
559年建康陳霸先が璿璣殿で五十七歳で崩御し、遺詔で臨川王蒨を呼んで即位させた(諡は武皇帝・高祖)。陳書 卷2 永定3年 六月
559年建康陳蒨が南皖から戻り、中書省に入り、その日のうちに太極前殿で即位した(文帝)。陳書 卷3 永定3年 六月
559年王琳が大雷を攻め、侯瑱・侯安都・徐度が防戦に出た。陳書 卷3 永定3年 十一月
560年梁山太尉侯瑱が梁山で王琳を、博望で北斉軍を破り、王琳と蕭荘は北斉へ逃げた。陳書 卷3 天嘉元年 二月
560年武陵北周の賀若敦が歩兵騎兵一万で武陵を急襲し、武州刺史呉明徹は防げず巴陵へ退いた。陳書 卷3 天嘉元年 八月
560年巴陵侯瑱が楊葉洲で北周の独孤盛を急襲して船をすべて奪うと、独孤盛は上陸して城を築き持ちこたえた。陳書 卷3 天嘉元年 十月
560年巴陵北周の巴陵城主尉遅憲が降伏し、巴州刺史侯安鼎が城を守った。陳書 卷3 天嘉元年 十二月
561年湘州北周の湘州城主殷亮が降伏し、湘州が平定された。陳書 卷3 天嘉2年 正月
561年武陵賀若敦は単身脱出して引き返したが、兵・馬の七、八割を失い、武陵など諸郡が平定された。陳書 卷3 天嘉2年 七月
562年建康百済王余明を撫東大将軍に、高句驪王高湯を寧東将軍に封じた。陳書 卷3 天嘉3年 閏二月
562年湓城江州刺史周迪が留異と呼応して湓城を襲撃し、豫章郡を攻めたが、いずれも勝てなかった。陳書 卷3 天嘉3年 閏二月
562年司空侯安都が桃支嶺で留異を破り、留異は身一つで晋安へ逃げ、東陽郡が平定された。陳書 卷3 天嘉3年 三月
563年臨川周迪が城を捨てて逃げると、閩州刺史陳宝応がこれを受け入れ、臨川郡が平定された。陳書 卷3 天嘉4年 正月
563年護軍章昭達に建安の陳軍と陳宝応の討伐を命じ、余孝頃は東の道から合流させた。陳書 卷3 天嘉4年 十二月
564年章昭達が建安で陳宝応を破り、陳宝応と留異を捕らえて都へ送り、晋安郡が平定された。陳書 卷3 天嘉5年 十一月
565年臨川臨川太守駱文牙が周迪を斬り、首を都へ送って朱雀航に晒した。陳書 卷3 天嘉6年 七月
566年建康陳蒨(文帝)が有覚殿で崩御し、遺詔により太子の即位を命じた。陳書 卷3 天康元年 四月
566年建康太子伯宗は世祖の崩御の当日、太極前殿で即位した(廃帝)。陳書 卷4 天康元年 四月
567年湘州湘州刺史華皎が反乱し、淳于量が水軍を統べて討伐した(六月、徐度は陸路から湘州を襲撃)。陳書 卷4 光大元年 五月
567年郢州北周の拓跋定が兵二万で郢州に入り華皎と合流したが、淳于量・呉明徹に大敗し、華皎は単身江陵へ逃げ、拓跋定は捕らえられた。陳書 卷4 光大元年 九月
568年建康慈訓太后が朝堂に群臣を集め、廃帝を臨海王に格下げし、安成王頊を推戴する令を出した。陳書 卷4 光大2年 十一月
568年建康新羅が使者を送って方物を献じた。陳書 卷4 光大2年 七月
569年建康安成王頊が太極前殿で即位(宣帝)、光大三年を太建元年に改め、太子や始興王らを封じた。陳書 卷5 太建元年 正月
569年廣州左衛将軍歐陽紇が広州に拠って挙兵し、章昭達が討伐に出発した。陳書 卷5 太建元年 十月
570年廣州儀同章昭達が欧陽紇を捕らえ、建康の市で斬り、広州が平定された。陳書 卷5 太建2年 二月
571年建康遼東・新羅・丹丹・天竺・盤盤らが共に使者を送って方物を献じた。陳書 卷5 太建3年 五月
573年白下北討大都督呉明徹が十万を率いて白下を発ち、北斉征伐(淮南回復戦)を開始した。陳書 卷5 太建5年 三月
573年歷陽北斉が十万を送って歴陽を救援したが、黄法𣰋が撃破し、五月に歴陽城が陥落した。陳書 卷5 太建5年 四月
573年歷陽黄法𣰋が歴陽城を陥落させ、そのまま歴陽に陣を移した。陳書 卷5 太建5年 五月
573年壽陽呉明徹が寿陽の外城を陥落させた。陳書 卷5 太建5年 七月
573年壽陽呉明徹が寿陽城を陥落させ、王琳を斬って首を都の朱雀航に晒した。陳書 卷5 太建5年 十月
573年淮陰淮陰城が降伏した。陳書 卷5 太建5年 十一月
573年朐山威虜将軍劉桃根が朐山城を陥落させた。陳書 卷5 太建5年 十一月
575年下邳樊毅が下邳・高柵など六城を陥落させた。陳書 卷5 太建7年 二月
575年呂梁都督呉明徹が呂梁で北斉軍を大破した(閏九月)。陳書 卷5 太建7年 閏九月
577年呂梁司空呉明徹が呂梁で北周の梁士彦の数万の軍を撃破した。陳書 卷5 太建9年 十月
578年呂梁呉明徹の北伐軍が呂梁で大敗し、呉明徹と将兵のすべてが北周軍に捕らえられた。陳書 卷5 太建10年 二月
578年樊毅が淮水の北の清口に城を築かせたが、数日後に清口城は守りきれなかった。陳書 卷5 太建10年 四月
578年建康新羅が使者を送って方物を献じた。陳書 卷5 太建10年 七月
579年壽陽北周の梁士彦が肥口に至り、ついで寿陽を包囲した。陳書 卷5 太建11年 十一月
579年壽陽豫州(寿陽)が陥落し、まもなく霍州も陥ちた。陳書 卷5 太建11年 十一月
579年南北兗・晋の三州と盱眙・山陽など九郡が自ら撤退して都へ戻り、譙・北徐州も陥ちた。淮南の地はすべて北周に渡った。陳書 卷5 太建11年 十二月
580年鄖州北周の鄖州総管司馬消難が鄖・隨など九州八鎮を率いて陳に帰順し、陳は彼を司空・隋郡公とした。陳書 卷5 太建12年 八月
580年歷陽北周の王延貴が歴陽を救援に来ると、任忠が撃破し、王延貴らを捕らえた。陳書 卷5 太建12年 九月
582年建康宣帝が宣福殿で五十三歳で崩御し、太子の叔宝が後を継いだ(諡は孝宣皇帝・高宗)。陳書 卷5 太建14年 正月
582年建康始興王叔陵が反乱し(先帝の崩御の翌日)、処刑された。陳書 卷6 太建14年 正月
582年建康太子叔宝が太極前殿で即位した(後主)。陳書 卷6 太建14年 正月
583年交州交州刺史李幼栄が調教した象を献じた。陳書 卷6 至德元年 四月
587年江陵後梁の蕭琮の臣、蕭巌・蕭瓛が荊州刺史陳紀に降伏を請い、文武・男女十余万人が長江を渡ってきた。陳書 卷6 禎明元年 九月
588年散騎常侍周羅睺が軍を率いて峡口に駐屯した。陳書 卷6 禎明2年 正月
588年廣陵隋の晋王楊広の軍が巴・蜀・沔・漢から長江下流の広陵まで数十の道に分かれて侵攻した。湘州刺史施文慶らが報告を握りつぶし、守りは準備されなかった。陳書 卷6 禎明2年 十一月
589年京口隋の賀若弼が広陵を発して京口で長江を渡った。陳書 卷6 禎明3年 正月
589年採石隋の韓擒虎が横江から採石へ長江を渡り、南の道で賀若弼と合流しようとした。陳書 卷6 禎明3年 正月
589年京口賀若弼が南徐州を、翌日韓擒虎が南豫州を陥落させた。陳書 卷6 禎明3年 正月
589年建康甲申の日、後主の軍が賀若弼と決戦して敗れ、賀若弼は楽遊苑を経て宮城の北掖門を焼いた。陳書 卷6 禎明3年 正月
589年建康任忠が韓擒虎に降伏し、朱雀航を経て宮城へ導き、南掖門から入った。陳書 卷6 禎明3年 正月
589年建康後主は景陽殿の井戸に隠れたが、夜に隋軍に捕らえられ、翌日晋王広が京城に入って占拠した(陳の滅亡)。陳書 卷6 禎明3年 正月
589年長安後主は王公・百官とともに建鄴を離れ、長安へ送られた。陳書 卷6 禎明3年 三月
604年洛陽後主は隋の仁寿四年十一月に洛陽で五十二歳で没し、邙山に葬られた(諡は煬)。陳書 卷6 禎明3年 三月 이하 (사후 기록)

原文のライセンスと出典

陳書 — 中文維基文庫(zh.wikisource.org) 編者, CC BY-SA 4.0 (원저작 PD). 대목 나누기·정리: 지도 프로젝트

원저작 PD · 위키문고(zh.wikisource.org) 본문 CC BY-SA 4.0

https://zh.wikisource.org/wiki/陳書

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