明史 本紀

明史 本紀(正史 の史料)。扱う年は1344年 〜 1644年、出来事250件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年1344年 〜 1644年
出来事の数出来事250件・地図に置いた207件
著者張廷玉 等
原題明史 本紀 (卷1~24)

地域の内訳: 中国 239 · 朝鮮半島 5 · 東南アジア 5 · モンゴル・草原 1

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1344年皇覺寺旱蝗・大飢饉で父母と兄が相次いで死ぬと、十七歳の朱元璋は皇覚寺に入って僧となった。明史 卷1 至正四年
1352年濠州定遠人の郭子興が濠州で挙兵し、閏三月には朱元璋が濠州に入って、その親兵となった。明史 卷1 至正十二年
1353年滁州朱元璋は定遠を南方に平定し、李善長を得て、ともに滁州を陥れた。明史 卷1 至正十三年
1355年牛渚巣湖の水軍で長江を渡り牛渚に至った。常遇春が先頭に立って占拠し、采石も陥落した。明史 卷1 至正十五年
1355年太平舟を断って退路をなくし、太平を陥れ、納哈出を捕らえた。太平興國翼元帥府を置き、自ら元帥となった。明史 卷1 至正十五年
1356年集慶集慶を陥れ、集慶路を応天府と改めた(後の南京)。明史 卷1 至正十六年
1356年應天諸将が朱元璋を呉国公に推戴し、江南行中書省を設けた。明史 卷1 至正十六年
1358年婺州朱元璋が自ら婺州(金華)を攻め、梅花門で石抹宜孫の援軍を大破。婺州は降伏し、厚孫が捕らえられた。明史 卷1 至正十八年
1360年龍灣陳友諒が太平を陥れて漢帝を称し応天へ攻め込んだが、龍湾で伏兵と水陸の挟撃に大敗した。明史 卷1 至正二十年
1363年洪都陳友諒が大軍で洪都(南昌)を包囲した。明史 卷1 至正二十三年
1363年鄱陽湖朱元璋は洪都救援に出て、鄱陽湖で陳友諒と決戦した(康郎山・火攻)。八月、友諒は流れ矢に当たって死んだ。明史 卷1 至正二十三年
1364年應天李善長らの勧めにより、朱元璋は呉王に即位し、百官を置いた。明史 卷1 至正二十四年
1364年武昌朱元璋が再び武昌を征伐し、陳理が降伏して、漢・沔・荊・岳がすべて陥落した。明史 卷1 至正二十四年
1367年平江徐達が平江を陥れ、張士誠を捕らえて呉の地を平定した。明史 卷1 至正二十七年
1367年應天徐達を征虜大将軍、常遇春を副将軍とし、二十五万を率いて淮から河に入り北伐した。まず山東を取る戦略である。明史 卷1 至正二十七年
1367年慶元湯和が慶元を陥れ、方国珍は海へ逃げたが十二月に降伏し、浙東が平定された。明史 卷1 至正二十七年
1367年福州湯和と廖永忠が海路で福州を陥れた。明史 卷1 至正二十七年
1368年應天朱元璋は南郊で天地を祀り、皇帝に即位した。国号は明、年号は洪武と定めた。明史 卷2 洪武元年
1368年延平湯和が延平を陥れ、元の平章・陳友定を捕らえ、福建を平定した。明史 卷2 洪武元年
1368年南陽鄧愈が南陽を陥れた。明史 卷2 洪武元年
1368年廣州廖永忠が広州に至ると、元の守臣・何真が降伏し、広東が平定された。明史 卷2 洪武元年
1368年洛陽徐達・常遇春が洛水の北で元軍を大破し、河南(洛陽)を包囲した。梁王アルウェンが降伏した。明史 卷2 洪武元年
1368年潼關馮勝が潼関を陥れ、李思斉・張思道は逃走した。明史 卷2 洪武元年
1368年通州常遇春が徳州・通州を次々と破り、元の順帝トゴン・テムルは上都へ逃げた。明史 卷2 洪武元年
1368年南京応天を南京、開封を北京とした。明史 卷2 洪武元年
1368年大都徐達が元の都(大都)に入り、府庫と図書を封じ、兵の略奪を禁じた。大都路を北平府と改めた。明史 卷2 洪武元年
1368年太原徐達が太原を陥れ、擴廓帖木児は甘粛へ逃れ、山西が平定された。明史 卷2 洪武元年
1369年奉元徐達が奉元(西安)に至ると、張思道が逃げた。明史 卷2 洪武二年
1369年開平常遇春が開平を陥れ、元帝は北へ逃げた。明史 卷2 洪武二年
1369年慶陽徐達が慶陽を陥れ、張良臣を斬って陝西を平定した。明史 卷2 洪武二年
1369年臨濠臨濠を中都とした。明史 卷2 洪武二年
1370年南京諸子を秦・晋・燕・呉・楚・斉・譚・趙・魯王に封じた(燕王朱棣を含む)。明史 卷2 洪武三年
1370年沈兒峪徐達が沈児峪で擴廓帖木児を大破し、擴廓は和林へ逃げた。明史 卷2 洪武三年
1370年應昌李文忠が応昌を陥れ、元の嗣君は北へ逃げ、その子マディリバラと五万余人が降伏した。明史 卷2 洪武三年
1371年遼陽元の平章・劉益が遼東を挙げて降伏した。明史 卷2 洪武四年
1371年重慶湯和が重慶に至ると、夏の明昇が降伏した。明史 卷2 洪武四年
1371年成都傅友徳が成都を陥れ、四川を平定した。明史 卷2 洪武四年
1372年和林徐達が嶺北で元軍と戦って敗れた。明史 卷2 洪武五年
1372年瓜州馮勝が甘粛を陥れ、瓜州・沙州で元軍を追撃して破った。明史 卷2 洪武五年
1380年南京左丞相の胡惟庸が謀反の罪で処刑され、中書省が廃止されて丞相の職も廃された。明史 卷2 洪武十三年
1380年北平燕王朱棣が北平の封国へ行った。明史 卷2 洪武十三年
1381年北黃河徐達が辺境の外、北黄河まで出て元軍を破った。明史 卷2 洪武十四年
1381年雲南傅友徳を征南将軍、藍玉・沐英を副将軍として、雲南征伐に出陣させた。明史 卷2 洪武十四年
1381年曲靖傅友徳が白石江で元軍を大破し、曲靖を陥れた。梁王バザラワルミは自殺した。明史 卷2 洪武十四年
1382年昆明曲靖・中慶・澂江・武定などがすべて降伏し、雲南が平定された。明史 卷3 洪武十五年
1382年大理藍玉・沐英が大理を陥れ、鶴慶・麗江・金歯に分かれて進軍し、いずれも平定した。明史 卷3 洪武十五年
1382年耽羅元の梁王と威順王の家族を耽羅(済州)へ移した。明史 卷3 洪武十五年
1385年南京魏国公の徐達が死去した(洪武十八年二月)。明史 卷3 洪武十八年
1387年大寧馮勝が松亭関を出て、大寧・寛河・会州・富峪に城を築いた。明史 卷3 洪武二十年
1387年金山馮勝が金山を越えると、納哈出が降伏した。明史 卷3 洪武二十年
1388年捕魚兒海藍玉が捕魚児海で元の嗣君を奇襲して大破し、次子の地保奴と妃主・王公以下数万人を捕らえた。明史 卷3 洪武二十一年
1389年兀良哈兀良哈に泰寧・朵顔・福余の三衛を置いた。明史 卷3 洪武二十二年
1390年迤都燕王朱棣の軍が迤都に至ると、咬住らが降伏した。明史 卷3 洪武二十三年
1392年南京皇太子朱標が死去した(九月、皇孫の朱允炆を皇太孫とした)。明史 卷3 洪武二十五年
1392年朝鮮李成桂が高麗王瑶を幽閉して自立し、国号を朝鮮と改めさせた。明史 卷3 洪武二十五年
1393年南京涼国公の藍玉が謀反の嫌疑で処刑され、連座した功臣は多かった。明史 卷3 洪武二十六年
1394年南京潁国公の傅友徳が罪により処刑された。明史 卷3 洪武二十七年
1395年越州西平侯の沐春が阿資を捕らえて斬り、越州を平定した。明史 卷3 洪武二十八年
1395年南京宋国公の馮勝が罪により処刑された。明史 卷3 洪武二十八年
1396年徹徹兒山燕王が徹徹児山で敵を破り、兀良哈禿城まで追撃した。明史 卷3 洪武二十九年
1398年南京朱元璋が西宮で崩じた(享年七十一)。皇太孫允炆の即位を遺詔で定めた。明史 卷3 洪武三十一年
1398年南京皇太孫朱允炆(建文帝)が即位し、翌年を建文元年とした。明史 卷4 洪武三十一年
1399年北平燕山護衛の百戸・倪諒が燕王の不穏な動きを告発し、燕王府の官僚を逮捕する命が下った。明史 卷4 建文元年
1399年北平燕王朱棣が挙兵し(靖難)、北平布政使の張昺・都司の謝貴を殺した。明史 卷4 建文元年
1399年薊州燕軍が薊州を陥れ、馬宣が戦死した。明史 卷4 建文元年
1399年居庸關燕軍が居庸関を陥れた。明史 卷4 建文元年
1399年懷來燕軍が懐来を陥れ、宋忠・兪瑱が捕らえられて殺された。明史 卷4 建文元年
1399年雄縣燕軍が雄県を陥れ、月漾橋で潘忠・楊松が捕らえられ、鄚州も陥落した。明史 卷4 建文元年
1399年真定耿炳文が滹沱河の北で燕軍に敗れ、真定へ退いて守った。燕軍は攻めたが退いた。明史 卷4 建文元年
1399年大寧燕軍は劉家口の抜け道から大寧を奇襲して陥れ、寧王朱権と朵顔三衛の兵を北平へ連れ帰った。明史 卷4 建文元年
1399年北平李景隆が北平を包囲すると、燕軍が引き返して救援した。明史 卷4 建文元年
1399年鄭村壩李景隆が鄭村壩で燕軍に敗れて徳州へ逃げ、諸軍は全滅した。明史 卷4 建文元年
1399年會州燕軍は大寧で寧王と朵顔三衛の兵を収めて会州に至り、五軍を編成した(張玉が中軍、朱能が左軍など)。明史 卷5 建文元年
1400年白溝河白溝河で李景隆は初めは勝ったが、翌日大敗し、瞿能らが戦死した。明史 卷4 建文二年
1400年濟南燕軍が徳州を陥れて済南を攻め、城下で李景隆が敗れて南へ逃げた。明史 卷4 建文二年
1400年濟南盛庸・鉄鉉が燕軍を破り、済南の包囲が解け、徳州が奪回された。明史 卷4 建文二年
1400年東昌盛庸が東昌で燕軍を破り、その将・張玉を斬った。明史 卷4 建文二年
1400年蔚州燕軍が蔚州を陥れた。明史 卷5 建文二年
1400年大同燕王は大同まで進み、李景隆を紫荊関から誘い出した後、居庸へ引き返した。明史 卷5 建文二年
1400年滄州燕王は遼東を攻めると偽って昼夜南下し、滄州で徐凱を捕らえて城を破った。降伏した兵卒三千を生き埋めにした。明史 卷5 建文二年
1401年夾河盛庸が夾河で燕軍に勝ち譚淵を斬ったが、翌日敗れて徳州へ逃げた。明史 卷4 建文三年
1401年藁城呉傑・平安が藁城で燕軍に敗れ、真定へ戻って守った。明史 卷4 建文三年
1402年沛縣燕軍は東阿・東平・汶上・兗州・済陽を次々と陥れ、沛県を破壊した。明史 卷4 建文四年
1402年靈璧霊璧で大会戦があり、官軍が敗れて陳暉・平安らが捕らえられた。明史 卷4 建文四年
1402年揚州燕軍が淮水を渡って揚州へ向かい、王礼らが投降した。明史 卷4 建文四年
1402年高資港燕軍が長江を渡り、盛庸が高資港で敗れた。鎮江の守将・童俊は降伏した。明史 卷4 建文四年
1402年南京燕軍が金川門を攻め、谷王朱橞と李景隆が門を開いて都が陥落。宮中に火が出て、皇帝は行方が分からなくなった。明史 卷4 建文四年
1402年館陶燕軍は館陶で河を渡って南下し、続いて徐州を巡視した。明史 卷5 建文四年
1402年淝河燕王が淝河に伏兵を置き、平安の四万騎を大破した。明史 卷5 建文四年
1402年齊眉山斉眉山の麓で大戦が行われた。明史 卷5 建文四年
1402年泗州燕軍が泗州を陥れて祖陵を参拝し、続いて盱眙を陥れた。明史 卷5 建文四年
1402年瓜州燕軍は瓜州で長江を渡り、盛庸の海艘水軍が敗れた。明史 卷5 建文四年
1402年鎮江燕軍が鎮江を陥れた。明史 卷5 建文四年
1402年南京朱棣は孝陵を参拝し、奉天殿で皇帝(成祖)に即位した。方孝孺ら奸臣を名指しし、続いて族滅した。明史 卷5 建文四年
1402年南京この年を洪武三十五年、翌年を永楽元年と紀年し、建文期に改めた法をすべて旧制に戻すとの詔。明史 卷5 建文四年
1403年北平北平を北京とした。明史 卷6 永樂元年
1403年順天北京に留守行後軍都督府・行部・国子監を設け、北平を順天府と改めた。明史 卷6 永樂元年
1404年南京子の朱高熾を皇太子、朱高煦を漢王、朱高燧を趙王に封じた。明史 卷6 永樂二年
1405年西洋宦官の鄭和が艦隊を率いて西洋諸国へ使節として向かった(第一次下西洋。史料に出発地の記載なし)。明史 卷6 永樂三年
1406年安南朱能を征夷将軍とし、沐晟・張輔を副将軍として安南を征伐させた。黎季犛父子を処断し、陳氏の後裔を擁立するとの詔。明史 卷6 永樂四年
1406年北京翌年五月に北京の宮殿建設を始めるとの詔。四川・湖広などで木材を採取させた。明史 卷6 永樂四年
1406年嘉林江張輔が嘉林江で安南軍を大破し、東都・西都を次々と陥れた。明史 卷6 永樂四年
1407年河內張輔が黎季犛・黎蒼を捕らえて京師に献上し、安南を平定した(六月、交阯布政司を設置)。明史 卷6 永樂五年
1408年生厥江沐晟が生厥江で簡定と戦って敗れ、劉儁らが戦死した。明史 卷6 永樂六年
1409年北京皇帝は二月に京師を発って北巡し、三月に北京に到着した。明史 卷6 永樂七年
1409年臚朐河丘福が臚朐河で大敗し、丘福らが戦死した。明史 卷6 永樂七年
1410年北京皇帝が自ら北征に出て北京を発した。明史 卷6 永樂八年
1410年斡難河飲馬河を渡り、斡難河で本雅失里を大破した。本雅失里は七騎で逃げた。明史 卷6 永樂八年
1410年飲馬河阿魯台が偽って降伏した後に攻めてきたため、皇帝自ら旌旗を率いて大破し、百余里を追撃した。明史 卷6 永樂八年
1410年北京親征から帰還し、北京の奉天殿で朝賀を受けた。明史 卷6 永樂八年
1413年北京皇帝が北京へ行幸し、皇太孫の朱瞻基が同行した。明史 卷6 永樂十一年
1414年老撾張輔が陳季擴を老撾で捕らえて献上し、交阯を平定した。明史 卷7 永樂十二年
1414年忽蘭忽失溫忽蘭忽失温で馬哈木の攻撃を大破し、土剌河まで追撃した。馬哈木は夜に逃げた。明史 卷7 永樂十二年
1416年北京北京の造営について、群臣に議論させるよう詔が出た。明史 卷7 永樂十四年
1417年樂安漢王高煦を楽安州へ移して封じた。明史 卷7 永樂十五年
1419年望海堝劉江が望海堝で倭寇を殲滅し、広寧伯に封じられた。明史 卷7 永樂十七年
1420年蒲臺蒲台の女・唐賽児が反乱し、柳升が討伐した(三月、唐賽児は逃走)。明史 卷7 永樂十八年
1420年北京北京の郊廟・宮殿が完成した。九月、翌年から北京を京師とし、京師を南京とするとの詔。明史 卷7 永樂十八年
1421年北京奉天・華蓋・謹身の三殿が焼けた。明史 卷7 永樂十九年
1422年北京阿魯台が興和を侵すと、皇帝は自ら親征して北京を発った。明史 卷7 永樂二十年
1422年屈裂兒河屈裂児河で皇帝自ら兀良哈を撃破し、三十里追撃した。明史 卷7 永樂二十年
1423年宣府再び阿魯台を親征するため京師を発し、宣府に至った。明史 卷7 永樂二十一年
1424年榆木川北征からの帰途、榆木川で崩じた(享年六十五)。六軍が外にいたため秘して、遺体を載せて帰還した。明史 卷7 永樂二十二年
1424年北京皇太子朱高熾(仁宗)が即位し、翌年を洪熙元年とし、西洋の宝船の派遣を停止した。明史 卷8 永樂二十二年
1424年茶籠州交阯で方政が茶籠州において黎利と戦って敗れ、伍雲が戦死した。明史 卷8 永樂二十二年
1425年北京南京へ還都しようとして、北京の諸司を行在と称させた。明史 卷8 洪熙元年
1425年北京仁宗が欽安殿で崩じた(享年四十八)。明史 卷8 洪熙元年
1425年良鄉太子朱瞻基は良郷で遺詔を受け、入宮して発喪し、後に即位した(宣宗)。明史 卷9 洪熙元年
1426年樂安漢王朱高煦が反乱すると、皇帝は親征して楽安に至り、降伏させた。明史 卷9 宣德元年
1427年倒馬坡柳升が倒馬坡で伏兵に遭って戦死し、軍は壊滅した。明史 卷9 宣德二年
1427年交阯王通が交阯を捨てて黎利と盟約を結んだ。明史 卷9 宣德二年
1428年喜峰口皇帝が自ら喜峰口を出て、寛河で兀良哈を大破した。明史 卷9 宣德三年
1435年北京宣宗が乾清宮で崩じた(享年三十八)。明史 卷9 宣德十年
1435年北京宣宗の死後、英宗(朱祁鎮、九歳)が即位し、翌年を正統元年とした。明史 卷10 宣德十年
1439年麓川正統四年(1439)、方政は雲南西部の麓川反乱軍を大寨で破り、空泥まで追撃したが戦死した。明史 卷10 正統四年
1441年北京乾清・坤寧の二宮と奉天・華蓋・謹身の三殿が完成し、北京を都と定め、諸司は行在の称を使わなくなった。明史 卷10 正統六年
1441年麓川王驥が麓川を陥れ、思任発は孟養へ逃げた。明史 卷10 正統六年
1449年延平御史の丁瑄・指揮の劉福が延平で福建の反乱の首謀者・鄧茂七を斬り殺した。明史 卷10 正統十四年
1449年北京瓦剌のエセンが大同を侵すと、吏部尚書の王直らの反対にもかかわらず、皇帝は親征を決めた。郕王が北京を守った。明史 卷10 正統十四年
1449年大同親征軍は大同に到達したが、鎮守太監の郭敬が回軍を進言し、まもなく引き返した。明史 卷10 正統十四年
1449年鷂兒嶺成国公朱勇・永順伯薛綬が鷂児嶺で伏兵に遭い、全軍が全滅した。明史 卷10 正統十四年
1449年土木英宗の本陣が土木で包囲され、翌日壊滅して数十万が死に、皇帝は捕らえられた(土木の変)。明史 卷10 正統十四年
1449年北京郕王朱祁鈺(景帝)が即位し、英宗を太上皇帝に推し、翌年を景泰元年とした。明史 卷11 正統十四年
1449年紫荊關也先が紫荊関を陥れ、孫祥が戦死したため、京師に戒厳令が敷かれた。明史 卷11 正統十四年
1449年北京也先が都に迫ったが、彰義門で撃退された。于謙・石亨らが城下で繰り返し破ると、敵は退いた(北京保衛戦)。明史 卷11 正統十四年
1450年北京上皇(英宗)が瓦剌から帰還し、東安門で皇帝の出迎えを受け、南宮に居を定めた。明史 卷11 景泰元年
1457年北京石亨・徐有貞らが上皇を迎えて復位させた(奪門の変)。明史 卷11 景泰八年
1457年北京石亨・張軏・徐有貞・曹吉祥が南宮の英宗を迎え、奉天殿で復位させ、景泰八年を天順元年と改めた。明史 卷12 天順元年
1457年北京兵部尚書の于謙と大学士の王文を処刑し、家産を没収した。明史 卷12 天順元年
1459年安邊營石彪・楊信が安辺営で孛来を破った(周賢・李鑑が戦死)。明史 卷12 天順三年
1461年北京曹吉祥・曹欽が反乱し、孫鏜が討伐して曹吉祥を磔にし、一族を滅ぼした。明史 卷12 天順五年
1464年北京英宗が崩じた(享年三十八)。明史 卷12 天順八年
1464年北京憲宗(朱見深)が即位し、翌年を成化元年とした。明史 卷13 天順八年
1465年大藤峽韓雍が大藤峡の瑤族を大破し、峡の名を「断藤」と改めた。明史 卷13 成化元年
1466年南漳朱永が南漳で荊・襄の反乱の首謀者・劉通を破り捕らえた。明史 卷13 成化二年
1468年開城項忠が開城(固原一帯)の反乱の首謀者・満俊を捕らえ、京師へ送って処刑した。明史 卷13 成化四年
1470年延綏王越が延綏の東路で河套の阿羅出を破った。明史 卷13 成化六年
1471年襄陽荊・襄の流民の反乱が平定され、140余万人が生業に復帰した。明史 卷13 成化七年
1473年哈密土魯番の速檀阿力が哈密を破り、占拠した。明史 卷13 成化九年
1473年紅鹽池王越が紅塩池で満都魯・孛羅忽・癿加思蘭を大破し、諸部は河套の外へ退いた。明史 卷13 成化九年
1476年鄖陽鄖陽府を設置し、行都司・衛所を置いて荊襄の流民を受け入れた。明史 卷14 成化十二年
1477年北京西廠を設置し、太監の汪直が関門の偵察を統括した。明史 卷14 成化十三年
1480年威寧海子王越が威寧海子で亦思馬因を急襲して破った。明史 卷14 成化十六年
1482年哈密罕慎が哈密城を奪回した。明史 卷14 成化十八年
1483年大同迤北の小王子が大同を侵し、防いだ許寧は敗れた。明史 卷14 成化十九年
1487年北京憲宗が崩じた(享年四十一)。明史 卷14 成化二十三年
1487年北京孝宗(朱祐樘)が即位し、翌年を弘治元年とした。明史 卷15 成化二十三年
1488年蘭州小王子が蘭州を侵し、都指揮の廖斌が撃破した。明史 卷15 弘治元年
1488年哈密土魯番が忠順王の罕慎を殺し、再び哈密を占拠した。明史 卷15 弘治元年
1498年賀蘭山総制三辺の王越が賀蘭山の後ろから小王子を奇襲して破った。明史 卷15 弘治十一年
1500年大同火篩が大同左衛を大挙して侵したが、遊撃将軍の張俊が防ぎきった。明史 卷15 弘治十三年
1501年河套朱暉・史琳が河套で小王子を急襲した。明史 卷15 弘治十四年
1505年靈州小王子の諸部が霊州を包囲し、花馬池に入り、韋州・環県を略奪した。明史 卷15 弘治十八年
1505年北京孝宗が乾清宮で崩じた(享年三十六)。明史 卷15 弘治十八年
1505年北京武宗(朱厚照)が即位し、翌年を正徳元年とした。明史 卷16 弘治十八年
1506年北京韓文・劉健らが宦官の馬永成ら八人の処刑を求めたが許されず、劉瑾が司礼監を掌握した。明史 卷16 正德元年
1508年北京内廠を立て、劉瑾に率いさせた。明史 卷16 正德三年
1510年寧夏安化王朱寘鐇が寧夏で反乱し、巡撫の安惟学・総兵の姜漢を殺した(まもなく仇鉞が捕らえた)。明史 卷16 正德五年
1510年北京劉瑾が処刑された。明史 卷16 正德五年
1512年霸州河北の反乱軍(劉六ら)が覇州を侵し、京師に戒厳令が敷かれた。明史 卷16 正德七年
1512年光山仇鉞が光山で反乱軍を破り、河南の反乱を平定した。明史 卷16 正德七年
1517年應州小王子が陽和を侵し応州を略奪すると、皇帝が自ら指揮して五日間戦った(応州の戦い)。明史 卷16 正德十二年
1519年南昌寧王朱宸濠が反乱し、巡撫の孫燧らが死んだ。南康・九江が相次いで陥落した。明史 卷16 正德十四年
1519年樵舍王守仁が樵舎で朱宸濠を破って捕らえた。明史 卷16 正德十四年
1521年北京武宗が豹房で崩じた(享年三十一)。明史 卷16 正德十六年
1521年安陸武宗が後嗣なく死ぬと、慈寿皇太后と楊廷和は遺詔により、興王(朱厚熜)を興邸から迎えると定めた(世宗即位、嘉靖)。明史 卷17 正德十六年
1523年大同俺答(アルタン・ハーン)が大同を侵した。史料に俺答が初めて現れる項目である。明史 卷17 嘉靖二年
1524年北京大礼の議の結果、孝宗を皇伯考、興献王を皇考と定めた。明史 卷17 嘉靖三年
1524年肅州土魯番が侵入して粛州を包囲し、兵部尚書の金献民が総制となった。明史 卷17 嘉靖三年
1527年田州王守仁が両広・江西・湖広の軍務を総制し、田州の反乱を討伐しに向かった。明史 卷17 嘉靖六年
1538年河內仇鸞・毛伯温を派遣して安南の莫登庸を討とうとした。明史 卷17 嘉靖十七年
1541年石州俺答が山西を侵し、石州に入った。明史 卷17 嘉靖二十年
1542年太原俺答が朔州を侵し、雁門関を越えて太原を攻めた。明史 卷17 嘉靖二十一年
1542年北京宮人らが皇帝を害そうとして処刑された(壬寅宮変)。端妃曹氏・寧嬪王氏は磔にされた。明史 卷17 嘉靖二十一年
1550年古北口俺答が大挙して侵入し古北口を攻め、薊鎮の兵が崩れた(庚戌の変)。明史 卷18 嘉靖二十九年
1550年北京俺答が通州を略奪し白河に駐屯、続いて都城に迫り京師に戒厳令が敷かれた(史料は北京を「都城」と記す)。明史 卷18 嘉靖二十九年
1555年王江涇張経・兪大猷が王江涇で倭寇を大破した。明史 卷18 嘉靖三十四年
1555年南京倭寇が南陵を陥れ、蕪湖・太平を略奪した後、南京を犯した。明史 卷18 嘉靖三十四年
1560年豐州大同総兵の劉漢が豊州で俺答を急襲して破った。明史 卷18 嘉靖三十九年
1563年平海衞戚継光が平海衛で倭寇を破った。明史 卷18 嘉靖四十二年

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