史記 本紀

史記 本紀(正史 の史料)。扱う年は紀元前2600年 〜 紀元前97年、出来事195件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年紀元前2600年 〜 紀元前97年
出来事の数出来事195件・地図に置いた151件
著者司馬遷
原題史記 本紀

地域の内訳: 中国 186

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
紀元前2600年 〜 紀元前2500年阪泉黄帝が諸侯を率いて炎帝と阪泉の野で三度戦い、志を遂げた。 虚構史記卷001 五帝本紀
紀元前2600年 〜 紀元前2500年涿鹿蚩尤が乱を起こすと、黄帝は諸侯の軍を召集し、涿鹿の野で戦って蚩尤を捕らえて殺した。 虚構史記卷001 五帝本紀
紀元前2600年 〜 紀元前2500年涿鹿黄帝が北方の葷粥を追い払い、釜山で諸侯を集めて符を合わせた後、涿鹿の麓に都を定めた。 虚構史記卷001 五帝本紀
紀元前2600年 〜 紀元前2500年橋山黄帝が死去し、橋山に葬られた。 虚構史記卷001 五帝本紀
紀元前2250年 〜 紀元前2200年羽山舜が四凶を罰し、鯀を羽山で誅殺した(殛)。 虚構史記卷001 五帝本紀
紀元前2250年 〜 紀元前2200年岱宗舜は二月に東方を巡り、岱宗(泰山)に至って祭祀を行い、山川を望んで祭った。 虚構史記卷001 五帝本紀
紀元前2200年 〜 紀元前2190年九疑山舜が南方を巡ったが蒼梧の野で死に、江南の九疑に葬られた(零陵)。 虚構史記卷001 五帝本紀
紀元前2200年 〜 紀元前2100年禹は洪水を治めるため十三年間家の外におり、家の門前を通っても中に入らなかった。 虚構史記卷002 夏本紀
紀元前2070年 〜 紀元前2060年陽城舜が死んで三年の喪が明けると、禹は舜の子の商均を避けて陽城に退いた。諸侯が禹に朝見したので、禹は即位した。 伝承史記卷002 夏本紀
紀元前2062年 〜 紀元前2060年會稽禹は即位十年目に東方を巡り、会稽に至って死んだ。 虚構史記卷002 夏本紀
紀元前2050年 〜 紀元前2000年甘有扈氏が服さないので、啓は甘で大いに戦い、有扈氏を滅ぼした(甘誓)。 伝承史記卷002 夏本紀
紀元前1990年 〜 紀元前1950年洛汭太康が国を失うと、五人の兄弟は洛汭で待ち、「五子之歌」を作った。 伝承史記卷002 夏本紀
紀元前1750年 〜 紀元前1700年豳公劉が戎狄の間で后稷の農業を復興し、漆・沮から渭を渡って木材を求めた。のちに慶節が豳に国を建てた。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前1620年 〜 紀元前1600年夏臺桀が湯を呼び、夏台に閉じ込めたが、のちに釈放した。 伝承史記卷002 夏本紀
紀元前1600年 〜 紀元前1590年湯は伊尹とともに軍を起こして昆吾を討ち、続いて桀を討った(湯誓)。 伝承史記卷003 殷本紀
紀元前1600年 〜 紀元前1590年鳴條桀は有娀の跡地で敗れ、鳴条へ逃げ、夏の軍は崩れた。 伝承史記卷003 殷本紀
紀元前1560年 〜 紀元前1540年桐宮太甲が法度に背いたので、伊尹は彼を桐宮に三年間幽閉し、その後また迎え入れた。 伝承史記卷003 殷本紀
紀元前1420年 〜 紀元前1400年相河亶甲が相に住んだ。 伝承史記卷003 殷本紀
紀元前1400年 〜 紀元前1380年邢祖乙が邢に遷都した。 伝承史記卷003 殷本紀
紀元前1300年 〜 紀元前1290年亳盤庚が黄河を渡って南の成湯の旧址へ戻り、亳を治めたので、殷の道が再び興った。 伝承史記卷003 殷本紀
紀元前1250年 〜 紀元前1230年傅險武丁が夢で見た聖人を傅険に探し、そこで労役に就いていた説を得て、宰相とした。 伝承史記卷003 殷本紀
紀元前1200年 〜 紀元前1150年岐下戎狄の侵略を避けて古公亶父は民を率いて豳を離れ、漆・沮を渡り、梁山を越えて岐山の下に住んだ。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前1075年 〜 紀元前1046年羑里崇侯虎が告げると、紂は西伯(文王)を羑里に幽閉した。 伝承史記卷003 殷本紀
紀元前1060年 〜 紀元前1050年豐文王が犬戎・密須・耆・邘・崇侯虎を次々に討ち、豊邑を築いて岐下から豊へ都を移した。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前1047年盟津十一年十二月戊午に軍はみな盟津を渡り、諸侯が集まって『太誓』を作り告げた。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前1046年牧野周の武王が諸侯を率いて紂を攻めると、紂は牧野で防いだが、甲子の日に敗れた。史記卷003 殷本紀
紀元前1046年鹿臺(朝歌)敗れた紂は鹿台に登り、宝玉で身を飾って火に身を投げて死んだ。武王はその首を大きな白旗に掛けた。 伝承史記卷003 殷本紀
紀元前1046年牧野二月甲子の明け方、武王が商の郊外の牧野に至って誓約し、諸侯の戦車四千乗が陣を攻めた。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前1046年朝歌紂の兵は矛先を返して武王を迎え、紂は鹿台で焼け死んだ。武王は商に入り、紂の首を大きな白旗に掛けた。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前1045年營丘武王が功臣を封じた時、師尚父を営丘に封じた。これが斉である。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前1045年曲阜弟の周公旦を曲阜に封じた。これが魯である。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前1045年燕召公奭を燕に封じた。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前1045年雒邑武王は洛水の曲がりから伊水の曲がりに至る所を夏の旧地と見て、雒邑に周の居所を営み、去った。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前1042年宋武王が死ぬと、武庚が管叔・蔡叔とともに乱を起こした。成王は周公に討伐させ、その後、微子を宋に封じた。 伝承史記卷003 殷本紀
紀元前1042年 〜 紀元前1040年管叔・蔡叔が武庚とともに背くと、成王の命で周公は武庚・管叔を討ち、蔡叔を追放し、微子を宋に封じた。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前1038年 〜 紀元前1030年洛邑成王は豊にあり、召公に武王の意図どおり洛邑を再び営ませ、周公は占って九鼎を安置した。史記卷004 周本紀
紀元前1035年 〜 紀元前1030年奄召公・周公が東方の淮夷を攻め、奄を滅ぼし、その君主の薄姑を移した。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前977年江昭王が南巡から帰れず、江上で死んだ(訃報は伝えられなかった)。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前960年 〜 紀元前945年穆王が犬戎を討とうとしたとき、祭公謀父が止めたが、討伐して白狼四頭・白鹿四頭を得て帰った。以後、荒服の諸侯は来朝しなくなった。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前900年 〜 紀元前880年汧渭之間非子は馬をよく育てたので、孝王は汧水・渭水の間で馬の管理を任せ、附庸として秦の地に封じて「秦嬴」と呼んだ。 伝承史記卷005 秦本紀
紀元前841年彘国人が反逆して厲王を襲い、厲王は彘へ逃げた。史記卷004 周本紀
紀元前841年 〜 紀元前828年召公・周公の二人の宰相が政治を担当し、これを「共和」と呼んだ。十四年に厲王が彘で死んだ。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前822年犬丘宣王は荘公の兄弟五人に兵七千を与えて西戎を攻めさせた。彼らは撃破して犬丘を併せ、西垂大夫となった。 伝承史記卷005 秦本紀
紀元前789年千畝宣王三十九年、千畝で戦い、王の軍は姜氏之戎に敗れた。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前780年岐山幽王二年、西周の三川地域で地震が起き、その年、三川が涸れ、岐山が崩れた。史記卷004 周本紀
紀元前771年驪山申侯が繒・西夷・犬戎とともに幽王を攻めた。烽火を上げても兵は来ず、驪山の麓で幽王を殺し、褒姒を捕らえた。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前770年雒邑平王が即位し、戎寇を避けて東の雒邑へ遷都した。史記卷004 周本紀
紀元前770年岐襄公が軍を率いて平王を雒邑まで護送すると、平王は襄公を諸侯に封じ、岐の西の地を与えた。 伝承史記卷005 秦本紀
紀元前762年汧渭之會文公が七百人の兵で東方へ狩りに出た。四年に汧水と渭水の合流するところに至り、占いを行い吉と出たので、邑の建設を始めた。 伝承史記卷005 秦本紀
紀元前714年平陽寧公が平陽へ居所を移した。史記卷005 秦本紀
紀元前677年雍徳公が初めて雍城の大鄭宮に居を構えた。 伝承史記卷005 秦本紀
紀元前675年溫邊伯ら五大夫が乱を起こし、燕・衛の軍を呼んで恵王を攻めたので、恵王は温へ逃げ、鄭の櫟に留まった。王子頹が王となった。史記卷004 周本紀
紀元前655年宛百里傒が秦から宛へ逃げたが楚の人に捕らえられた。繆公は羊の皮五枚で身代金を払って彼を贖い、国政を任せた。 伝承史記卷005 秦本紀
紀元前645年韓繆公が晋の恵公と韓で戦って危機に陥ったが、岐の下で馬肉を食べた三百人が救い、恵公を捕らえた。史記卷005 秦本紀
紀元前636年 〜 紀元前635年汜翟人が周に入り、襄王は鄭へ逃げ、汜に留まった。十七年、晋の文公が襄王を迎え入れ、叔帯を処刑した。史記卷004 周本紀
紀元前632年踐土晋の文公が襄王を招き、河陽・踐土で会合した。諸侯はみな朝見し、文公は「天王が河陽で狩りをした」と記した。史記卷004 周本紀
紀元前627年滑秦軍が鄭を奇襲しようと周の北門を通って滑に至った。しかし鄭の商人弦高が牛を贈って軍をねぎらい、奇襲が露見した。秦は滑を滅ぼした。史記卷005 秦本紀
紀元前627年殽晉の襄公が殽で秦軍を防ぎ、大いに破って三人の将を捕らえた。史記卷005 秦本紀
紀元前626年彭衙繆公が再び孟明視を送って晋を攻めたが、彭衙で不利となり退いた。史記卷005 秦本紀
紀元前624年茅津繆公は孟明視らに黄河を渡らせ、船を焼き、晉を大いに破って王官・鄗を取った。茅津から渡り、殽の谷の屍を埋めて哭礼を行った。 伝承史記卷005 秦本紀
紀元前623年繆公は由余の計略により戎王を攻め、国を十二か所広げ、千里の地を開いて西戎を制覇した。 伝承史記卷005 秦本紀
紀元前621年鳳翔繆公が死んで雍に葬られ、殉死者は百七十七人であった(「黄鳥の歌」)。史記卷005 秦本紀
紀元前606年洛定王元年、楚の荘王が陸渾之戎を討ち、洛に留まって九鼎の重さを問うたが、王孫満の答えに軍を退いた。 伝承史記卷004 周本紀
紀元前506年郢呉が楚の郢に入ると、申包胥は七日間泣いて救援を請うた。秦が戦車五百乗を送って呉軍を破り、楚の昭王は郢へ帰還した。史記卷005 秦本紀
紀元前403年周威烈王二十三年、九鼎が震え、韓・魏・趙を諸侯に任じた。史記卷004 周本紀
紀元前362年少梁魏・晋と少梁で戦い、魏の将公孫痤を捕らえた。史記卷005 秦本紀
紀元前359年衛鞅が孝公に変法を説き、ついに法が用いられた。民は三年で安んじ、衛鞅は左庶長となった。史記卷005 秦本紀
紀元前352年安邑衛鞅が大良造として魏の安邑を包囲して降伏させた。史記卷005 秦本紀
紀元前350年咸陽咸陽を築き、冀闕を立てて、秦が都を移した。史記卷005 秦本紀
紀元前340年衛鞅が魏を攻めて魏の公子卬を捕らえ、列侯に封じられて商君と呼ばれた。史記卷005 秦本紀
紀元前316年蜀更元九年、司馬錯が蜀を攻めて滅ぼした。史記卷005 秦本紀
紀元前312年漢中庶長章が丹陽で楚を攻め、屈丐を捕らえ、漢中の地六百里を取って漢中郡を置いた。史記卷005 秦本紀
紀元前307年宜陽秦が宜陽を陥落させ、六万人を斬り、黄河を渡って武遂に城を築いた。史記卷005 秦本紀
紀元前297年楚の懐王が秦に入朝すると、秦はこれを拘束した。史記卷005 秦本紀
紀元前293年伊闕白起が伊闕で韓・魏を攻め、二十四万人を斬り、公孫喜を捕らえた。史記卷005 秦本紀
紀元前278年郢大良造白起が楚の郢を取って南郡を置き、楚王は逃げた。史記卷005 秦本紀
紀元前260年長平白起が長平で趙を大いに破り、四十余万人をことごとく殺した。史記卷005 秦本紀
紀元前259年 〜 紀元前257年邯鄲秦が趙の邯鄲を攻めたが陥落させられず退いた。史記卷005 秦本紀
紀元前259年邯鄲始皇は昭王四十八年正月に邯鄲で生まれ、名は政という。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前256年西周西周が秦に背いて合従し伊闕へ出ようとすると、秦の昭王は将軍の摎を送って攻めた。西周君が秦に赴き、邑三十六と人口三万を献上した。史記卷004 周本紀
紀元前255年周赧王が死ぬと周の民は東へ逃げた。秦は九鼎などの宝物を持ち去り、西周公を憚狐に移した。史記卷004 周本紀
紀元前249年東周七年後、秦の荘襄王が東周を滅ぼし、東西の周がともに秦に入り、周の祭祀は絶えた。史記卷004 周本紀
紀元前247年太原蒙驁が魏の高都・汲、趙の榆次・新城・狼孟など三十七城を取り、太原郡を置いた。史記卷005 秦本紀
紀元前241年野王韓・魏・趙・衛・楚が共同で秦を攻めたが引き揚げた。秦が衛を攻め、君主の角は野王へ移された。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前238年咸陽嫪毐が蘄年宮で乱をはかると、昌平君・昌文君が咸陽で戦い、数百人を斬って敗走させ、すべて捕らえた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前237年雍呂不韋が罷免され、茅焦の諫めにより、始皇は太后を雍から迎え、咸陽の甘泉宮に再び住まわせた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前230年新鄭内史騰が韓を攻めて韓王安を捕らえ、その地を潁川郡とした。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前228年邯鄲王翦・羌瘣が趙の東陽を平定して趙王を捕らえた。始皇は邯鄲に行き、昔の仇を穴に埋めた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前227年易水燕の太子丹が荊軻を送って秦王を刺そうとしたが失敗した。王翦・辛勝が燕を攻めて易水の西で破った。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前226年薊燕の太子の軍を破り、燕の薊城を取って太子丹の首を得た。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前225年大梁王賁が魏を攻め、黄河の流れを大梁に引き込んだ。城は崩れ、魏王が降伏し、その地をすべて取った。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前224年 〜 紀元前223年平輿王翦が陳の南から平輿まで取って楚王を捕らえた。二十四年、項燕が昌平君を立てたが破られ、昌平君は死に、項燕は自殺した。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前222年遼東王賁が燕の遼東を攻めて燕王喜を捕らえ、帰還して代を攻め、代王嘉を捕らえた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前221年臨淄秦が燕の地から南に斉を攻め、斉王建を捕らえて天下を統一した。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前221年咸陽天下を三十六郡に分け、天下の兵器を咸陽に集めて溶かし、豪富十二万戸を咸陽へ移した。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前219年嶧山始皇が東方の郡県を巡り、鄒嶧山に登って碑を立て、魯の儒生と封禅を論じた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前219年泰山泰山に登って碑を立て、封の祭祀を行った。暴風雨に遭い、木の下で休んだので、その木を五大夫に封じた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前219年之罘渤海に沿って東へ進み、黄・腄を経て成山の先端まで行き、之罘に登って碑を立てた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前219年瑯邪瑯邪に登って三か月滞在し、三万戸を瑯邪台の下へ移し、台を築いた。徐市は童男女数千人を連れて神仙を求め海に入ることを請うた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前218年陽武東方を巡行中、陽武の博狼沙で盗賊に襲われ、天下に十日間の大捜索を命じた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前215年碣石始皇が碣石に行き、燕の人盧生に神仙を求めさせた。「秦を亡ぼす者は胡なり」との図讖を受け、蒙恬に三十万で胡を撃たせ、河南の地を取った。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前214年逃亡者・婿養子・商人らを動員して陸梁の地を取り、桂林・象郡・南海を置いた。蒙恬は黄河を渡り、高闕・陽山・北仮を取って亭障を築いた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前213年咸陽咸陽宮の宴席で、淳于越の封建論に李斯が反論し、博士官の記録(秦記)以外の『詩』『書』・諸子百家の書を焼くよう建議した。制書で裁可された(焚書)。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前212年渭南 上林苑(阿房)咸陽は狭いとして、渭南の上林苑に朝宮を築き始め、まず前殿の阿房を建てた。刑徒七十余万人が阿房宮・驪山の工事に動員された。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前212年咸陽盧生・侯生が逃げると、咸陽の儒生を調べた。禁令を犯した者四百六十余人を咸陽で生き埋めにし、諫めた扶蘇は上郡の蒙恬のもとへ送られた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前210年九疑山始皇が雲夢に至り、九疑山で虞舜を遥かに祭った。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前210年會稽銭唐・浙江を過ぎ、会稽に登って大禹を祭り、南海を望んで碑を立てた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前210年之罘瑯邪から榮成山へ北上し、之罘で大魚を射止めた。以後、海辺に沿って西へ向かった。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前210年沙丘平原津で病に伏した始皇は、七月丙寅に沙丘の平台で死んだ。李斯・趙高・胡亥は死を隠し、遺詔を偽作して扶蘇と蒙恬を死に追いやった。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前210年咸陽直道で咸陽に至り、発喪した。胡亥が即位し、九月に始皇を酈山に葬った。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前209年陳七月、戍卒の陳勝らが旧楚の地で反乱を起こし、陳で楚王となり、国を「張楚」と号した。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前209年吳陳渉の挙兵から二か月後、項梁が会稽守の通を殺し、呉中の兵八千を起こした。史記卷007 項羽本紀
紀元前209年沛沛の令が心変わりして城門を閉ざすと、劉季は帛に文を書いて城壁の上へ射た。父老たちが令を殺して劉季を迎え、沛公とした。史記卷008 高祖本紀
紀元前208年戲陳勝が送った周章が数十万の兵で戯に至ると、章邯は驪山の囚人を赦免して武装させ、周章軍を破り、曹陽で殺した。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前208年下邳項梁は八千人で川を渡り西へ進んだ。淮を渡ると黥布・蒲将軍が合流し、合わせて六、七万で下邳に駐屯した。史記卷007 項羽本紀
紀元前208年盱台范増の説得により、項梁は民間から楚の懐王の孫の心を探し出して楚懐王に立て、盱台に都を置いた。史記卷007 項羽本紀
紀元前208年東阿項梁が東阿で秦軍を大いに破った。史記卷007 項羽本紀
紀元前208年定陶章邯が秦軍を総動員し、定陶で楚軍を大いに破った。項梁は死んだ。史記卷007 項羽本紀
紀元前207年咸陽趙高が鹿を献上して「馬だ」と言い、臣下の忠誠を試した。鹿だと言った者を法で害した(指鹿為馬)。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前207年望夷宮趙高が婿の閻樂に望夷宮を襲わせ、二世皇帝を自殺させ、公子嬰を秦王に立てた。史記卷006 秦始皇本紀
紀元前207年安陽宋義は安陽に四十六日留まり、進軍しなかった。項羽は夜明けに宋義を斬り、上将軍となって趙を救援に向かった。史記卷007 項羽本紀
紀元前207年鉅鹿項羽は船を沈め、炊事用の甑を砕いて、鉅鹿で秦軍と九回戦い、大いに破り、王離を捕らえた(沈船破釜甑)。史記卷007 項羽本紀
紀元前207年殷虛洹水の南の殷虚で、章邯が項羽と盟約を結ぶと、項羽は章邯を雍王に立てた。史記卷007 項羽本紀
紀元前207年新安新安で諸侯軍が秦の降卒を虐待した。反発を恐れた項羽は、秦軍二十余万を新安城の南で穴に埋めた。史記卷007 項羽本紀
紀元前207年高陽沛公が高陽を通るとき、監門の酈食其が謁見し、陳留の襲撃を勧めた。続いて開封・白馬などで秦軍を破った。史記卷008 高祖本紀
紀元前207年宛沛公が宛を包囲すると、陳恢の説得で南陽守を殷侯に封じて降伏させ、西へ進軍した。史記卷008 高祖本紀
紀元前207年武關酈生・陸賈を遣わして秦将を懐柔した後、武関を攻めて破り、藍田の南北で秦軍を大いに破った。史記卷008 高祖本紀
紀元前206年鴻門函谷関を破って戯の西に至った項羽は沛公を攻めようとしたが、項伯の仲裁で鴻門で宴が開かれた(鴻門の宴)。史記卷007 項羽本紀
紀元前206年咸陽項羽が西へ進んで咸陽を殺戮し、秦王子嬰を殺し、宮室を焼き払った。火は三か月消えなかった。史記卷007 項羽本紀
紀元前206年彭城項羽は天下を分けて諸侯を立て、自ら西楚覇王となり、九郡を統治し、彭城に都を定めた。史記卷007 項羽本紀
紀元前206年南鄭沛公を漢王に立てて巴・蜀・漢中を与え、南鄭を都とさせた。関中は秦の降将三人に分けられた。史記卷007 項羽本紀
紀元前206年郴縣項羽は義帝を長沙の郴県へ移させ、後に衡山王・臨江王に命じて川の中で殺させた。史記卷007 項羽本紀
紀元前206年霸上沛公が最も早く霸上に至り、秦王子嬰は軹道の傍らで降伏した。沛公は咸陽の宮室を封じ、霸上に戻って父老と「法三章」を約束した。史記卷008 高祖本紀
紀元前206年蝕中漢王が南鄭へ向かい、蝕中に入るときに桟道を焼いて断った。韓信は東へ向かって天下を争うよう勧めた。史記卷008 高祖本紀
紀元前206年陳倉漢王は韓信の計略で故道から引き返し、陳倉で雍王章邯を破り、廃丘へ追い込んで関中を平定した。史記卷008 高祖本紀
紀元前205年彭城漢王は五諸侯の兵五十六万で彭城に入ったが、項羽が蕭でしののめに攻めて大いに破った。漢軍十万余りが睢水に落ち、水の流れが止まった。史記卷007 項羽本紀
紀元前205年雒陽漢王は臨晋から黄河を渡って魏を従え、雒陽に至り、義帝の発喪を宣言し、諸侯に楚の討伐を呼びかけた。史記卷008 高祖本紀
紀元前205年廢丘黄河の水を引いて廃丘を水攻めにすると降伏し、章邯は自殺した。廃丘は槐里と改名された。史記卷008 高祖本紀
紀元前204年滎陽滎陽が包囲されると、紀信が漢王になりすまして楚軍を欺いた。漢王は西門から成皋へ逃げ、紀信は焼き殺された。史記卷007 項羽本紀
紀元前204年滎陽陳平の離間の策により、項羽は范増を疑った。范増は辞職し、彭城に着く前に背中のできもので死んだ。史記卷007 項羽本紀
紀元前204年修武漢王は成皋の獄門から脱出し、修武で張耳・韓信の陣営に入り、その軍を奪った。史記卷008 高祖本紀
紀元前204年井陘韓信が張耳とともに井陘を下り、趙を攻めて陳餘と趙王歇を殺した。史記卷008 高祖本紀
紀元前203年廣武広武で対峙した時、項羽は太公を高い俎の上で煮ると脅した。漢王は「一杯の汁を分けてくれ」と応じた。項羽の射た弩で漢王は胸に傷を負った。史記卷007 項羽本紀
紀元前203年濰水 일대項羽が送った龍且は、韓信・灌嬰に濰水の一帯で大敗して死に、韓信は自ら斉王となった。史記卷007 項羽本紀
紀元前203年鴻溝楚と漢は鴻溝を境に天下を二分することを約束し、項羽は漢王の父母・妻子を返して東へ帰った。史記卷007 項羽本紀
紀元前202年固陵漢王は項羽を追撃して固陵に至ったが、韓信・彭越が来ず、楚は漢を大いに破った。張良の計略で土地を約束すると、二人は合流した。史記卷007 項羽本紀
紀元前202年垓下垓下に陣を敷いた項羽の軍は漢軍に幾重にも包囲され、夜になると四方から楚歌が聞こえた。項羽は驚き「力は山を抜く」と歌った(垓下の歌)。史記卷007 項羽本紀
紀元前202年烏江項羽は陰陵で道を失い、東城では二十八騎だけが残った。烏江で戦った後、舟を断り、自ら首を刎ねて死んだ。史記卷007 項羽本紀
紀元前202年汜水之陽諸侯と将相の懇請により、漢王は汜水の北で皇帝の位に即き、天下は安定した。史記卷008 高祖本紀
紀元前202年雒陽高祖は雒陽に都を定めようとしたが、劉敬・張良の建議により、その日のうちに車を走らせ、関中に都を定めた。史記卷008 高祖本紀
紀元前201年陳陳平の計略により、雲夢に偽って巡狩し、陳で諸侯を集めて楚王の韓信を捕らえた。史記卷008 高祖本紀
紀元前200年平城高祖が韓王信を討ちに出て平城に至ったが、匈奴に七日間包囲された。史記卷008 高祖本紀
紀元前200年長安趙・雒陽を経て長安に至り、長楽宮が完成すると、丞相以下が長安へ移って政務を執った。史記卷008 高祖本紀
紀元前197年邯鄲趙の相国陳豨が代で反乱した。高祖は東へ行き邯鄲に至り、陳豨が漳水を塞がなかったので無能だと言った。史記卷008 高祖本紀
紀元前196年東垣豨の将趙利が守る東垣を高祖は一か月余り攻めて降伏させ、侮辱した兵は斬った。その子の恒を代王に立て、晋陽に都させた。史記卷008 高祖本紀
紀元前196年淮陰侯の韓信が関中で反逆を企てたとされ、三族が滅ぼされた。史記卷008 高祖本紀
紀元前196年中都高祖11年春、陳豨を破り代を平定した後、劉恒を代王に立て、中都を都とさせた。史記卷010 孝文本紀
紀元前195年淮南王黥布が反乱し、荊王劉賈の地を併合した。高祖は自ら赴き、十二年十月に会甀で黥布軍を破った。史記卷008 高祖本紀
紀元前195年沛高祖は帰りに沛に寄り、沛宮で宴を開き、「大風起こりて」と歌った。沛を湯沐邑とした。史記卷008 高祖本紀
紀元前195年長樂宮(長安)高祖が長楽宮(長安)で死んだ。四日間は発喪せず、丁未の日に発喪した。盧綰は匈奴へ逃げた。史記卷008 高祖本紀
紀元前194年長安孝恵が霸上まで出て趙王如意を迎え、そばに置いたが、十二月の未明に孝恵が狩りに出た隙に、呂太后が鴆酒を飲ませ、趙王は死んだ。史記卷009 呂太后本紀
紀元前188年長安孝恵が死ぬと、呂太后は哭したが涙を流さなかった。張辟彊の建議により呂氏の人物を南北軍に置き、呂氏の権勢が始まった。史記卷009 呂太后本紀
紀元前181年長安呂太后が趙王友を長安の宿舎に幽閉し、食を与えず飢え死にさせた。史記卷009 呂太后本紀
紀元前180年軹道軹道で青い犬のようなものが呂后の腋の下を噛み、占いは趙王如意の霊だとした。その傷で呂后は病んだ。史記卷009 呂太后本紀
紀元前180年長安呂后は死ぬ前、呂祿を北軍、呂產を南軍の責任者とし、「宮を守り、葬儀に行くな」と戒めた。辛巳の日に死んだ。史記卷009 呂太后本紀
紀元前180年齊(臨淄)朱虚侯の劉章が兄の斉王に知らせ、斉王は挙兵して西へ諸呂を討とうとし、丞相の召平を殺し、瑯邪王の軍も奪った。史記卷009 呂太后本紀
紀元前180年滎陽相国の呂産が遣わした灌嬰は滎陽に至り、諸呂を討つ意図を知ると進軍を止めて斉と結んだ。史記卷009 呂太后本紀
紀元前180年長安(北軍)周勃が北軍に入り、「呂氏に味方する者は右袖、劉氏に味方する者は左袖を脱げ」と命じると、全員が左袖を脱ぎ北軍を掌握した。続いて朱虚侯が未央宮で呂産を殺した。史記卷009 呂太后本紀
紀元前180年長安(代邸)大臣たちは代王を迎え、後九月の晦日に長安の代邸に至り、天子の璽を奉じて即位させた。史記卷009 呂太后本紀
紀元前180年長安(代邸)代王は渭橋で群臣の出迎えを受け、代邸で三度辞退した末に即位した。史記卷010 孝文本紀
紀元前177年高奴匈奴の右賢王が河南で略奪すると、文帝は辺境の官吏と騎兵8万5千を高奴に送り、丞相の灌嬰に討たせた。史記卷010 孝文本紀
紀元前177年太原文帝は甘泉から高奴を経て太原に行き、旧臣に褒賞を与え、十日余り滞在した。史記卷010 孝文本紀
紀元前177年滎陽済北王の興居は文帝が代に行ったと聞いて反乱を起こし、滎陽を襲おうとしたが、八月に敗れて捕らえられた。史記卷010 孝文本紀
紀元前167年長安淳于公が肉刑に処せられることになると、末娘の緹縈が長安に来て、父の罪を償うため官婢になると上書した。文帝は感動して肉刑を廃止した。史記卷010 孝文本紀
紀元前158年細柳匈奴3万が上郡に、3万が雲中に侵入すると、周亜夫は細柳に、劉禮は覇上に、徐厲は棘門に駐屯して防備した。史記卷010 孝文本紀
紀元前157年長安(未央宮)文帝は長安の未央宮で崩御し、簡素な葬儀を求める遺詔を残した。史記卷010 孝文本紀
紀元前154年梁(睢陽)呉・楚など七国が反乱を起こし、晁錯を殺した。袁盎が説得しても止まらず、西へ進んで梁の睢陽を包囲した。史記卷011 孝景本紀
紀元前154年梁(睢陽)大将軍の竇嬰と太尉の周亜夫を派遣して七国を討たせ、六月には恩赦と論功行賞を行った。史記卷011 孝景本紀
紀元前144年雍景帝は雍に行幸し、五帝を郊祀した。史記卷011 孝景本紀
紀元前141年長安景帝が崩御し、皇太子が即位した。孝武皇帝である。史記卷011 孝景本紀
紀元前140年長安武帝は儒学に従い、趙綰・王臧らを公卿に任じて明堂を建てようとしたが、竇太后の反対で趙綰と王臧は自殺し、計画はすべて廃止された。史記卷012 孝武本紀
紀元前133年李少君は竈の祭祀、穀物断ち、老いを退ける方術で武帝に会い、黄金、蓬莱の仙人、封禅による不老の説を語った。史記卷012 孝武本紀
紀元前122年雍武帝は雍で郊祀し、一角獣(麟)を得て五畤に献じ、諸侯に白金を下賜した。史記卷012 孝武本紀
紀元前120年 〜 紀元前119年甘泉宮少翁は神を呼ぶとして甘泉宮を造らせたが、神は現れず、帛書の偽造で誅殺された。数年後、鼎湖で病んだ武帝は甘泉に行幸して病が癒え、神君を祀った。 伝承史記卷012 孝武本紀
紀元前113年汾陰武帝は東に行き、汾陰の脽の上に后土祠を建て、上帝の礼のように自ら祭祀した。史記卷012 孝武本紀
紀元前113年雲陽(甘泉)十一月辛巳の朔旦冬至に、武帝は初めて雲陽の甘泉で泰一を郊拝した。史記卷012 孝武本紀
紀元前110年橋山武帝は朔方を北巡して十万余の兵を閲兵し、帰路に橋山の黄帝の墓で祭祀した。史記卷012 孝武本紀
紀元前110年太室三月、緱氏から中嶽の太室に登って礼を行い、崇高邑を造った。史記卷012 孝武本紀
紀元前110年泰山·梁父奉高から梁父に至り、四月乙卯に泰山の麓で封の祭祀を行い、侍中・奉車の子侯とともに山に登り、密かに封を行った。史記卷012 孝武本紀
紀元前110年九原封禅の後、海岸沿いに帰って碣石に至り、遼西を経て北辺を通り九原に至った。五月に甘泉に戻り、元封と改元した。史記卷012 孝武本紀
紀元前109年瓠子瓠子で自ら黄河の決壊した堤を塞ぐ作業に臨み、二日間留まり、玉を沈めて祭祀し、二人の卿に塞がせた。史記卷012 孝武本紀
紀元前108年朝鮮朝鮮を討った後、夏に旱魃があり、公孫卿が「乾封」だと言ったので、霊星の祭祀を行った。史記卷012 孝武本紀
紀元前106年天柱山南郡を巡行し、江陵から東へ行き、潜の天柱山に登って南嶽と名付け、長江に沿って尋陽・樅陽・彭蠡を経て、瑯邪を通り、四月に奉高で封を修めた。史記卷012 孝武本紀
紀元前104年長安柏梁台に火災が起きると、勇之の言葉に従い、千門万戸の建章宮をさらに大きく造った。太液池と蓬莱・方丈・瀛洲の模型を作った。史記卷012 孝武本紀
紀元前98年 〜 紀元前97年泰山再び泰山に行って封を修め、帰途に常山を通って祭祀を行った。史記卷012 孝武本紀

原文のライセンスと出典

史記 — 中文維基文庫(zh.wikisource.org) 編者, CC BY-SA 4.0 (원저작 PD). 대목 나누기·정리: 지도 프로젝트

원저작 PD · 위키문고(zh.wikisource.org) 본문 CC BY-SA 4.0

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