『本朝世紀』

『本朝世紀』(正史 の史料)。扱う年は935年 〜 1103年、出来事21件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年935年 〜 1103年
出来事の数出来事21件・地図に置いた18件
著者藤原通憲
原題本朝世紀

地域の内訳: 日本 18 · 中国 3

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
935年Kyoto海賊平定の祈願。28日に臨時幣帛使を遣わすことが決まった(伊勢・石清水・賀茂など)。卷001 承平五年六月廿一日
935年Kyoto海賊追捕の祈願として、京中の祭祀と山陽・南海両道の名神に幣帛を奉った。卷001 承平五年六月廿八日
938年Kyoto地震が止まないため、諸寺・諸社に仁王経1万部の読誦を命じた。卷002 天慶元年七月三日
938年Kyoto4月15日夜、大地震。損害は甚大で、続いて洪水があった(小注)。卷002 天慶元年七月十三日 小注
938年Kyoto夜の戌二刻、内侍所が温明殿を出て後涼殿に移った。神物の辛櫃の移送も含む。卷002 天慶元年七月十三日戊午
938年Dazaifu大宰府が唐の商人の献上した羊2頭を朝廷に上進した。卷002 天慶元年七月廿一日
938年Kyoto8月6日夜、地震が2回あった。釜殿などの建物が倒れ、京中の宮城の垣があちこち崩れた。卷002 天慶元年八月六日庚辰
938年Yamashina石清水本宮の道俗数千が山科の新宮を破壊し、尼の八幡像を本宮に移した。二つの神社の間の争い。卷002 天慶元年八月十二日丙戌
938年Kyoto天皇が常寧殿から綾綺殿へ移った(戌二刻)。卷002 天慶元年八月廿七日
938年Kyoto東西両京の大路・小路に木で神像を刻んで向かい合わせに立てた。岐神・御霊と呼ばれた。卷002 天慶元年九月二日丙午
938年Ise斎王徽子女王が伊勢大神宮へ向かった。野宮から葛野川での御禊ののち出発した。卷002 天慶元年九月十五日己未
938年Usa宇佐宮奉幣使として小野好古を遣わした。宣命に、4月の大地震ののちの平安を祈り大幣帛を奉ると記す。卷002 天慶元年十月九日壬午
938年伊豆国の解により、「平将武」を追捕せよとの官符4通を駿河・伊豆・甲斐・相模の4国に下した(平将武=平将門と推定するのは判断)。卷002 天慶元年十一月三日丙午
938年Kyoto月食の予報。戊子の夜に月が5分の4欠けるとの勘文を出し、当夜「毫釐無差」で的中したと記録する。卷002 天慶元年十二月十五日戊子
1099年Kyoto関白内大臣藤原師通が病により辞表を提出した。原文に「被収之」(受理されたかは原文だけでは不明)。群書類従本 卷34 承徳三年六月廿五日
1099年Kyoto関白藤原師通が薨じた。38歳(薨時春秋卅八)。群書類従本 卷34 承徳三年六月廿八日
1099年Kyoto前関白の葬送が広隆寺・東北野で営まれた。出家の礼により、薨奏・贈位はなかった。群書類従本 卷34 七月九日
1103年Kyoto女御藤原苡子が皇子を産んだ(原文「皇子」。のちに天皇となったかは判断しない)。群書類従本 卷34 康和五年正月十六日
1103年Kyoto上皇が皇子を見に女御殿へ行幸したその日の亥刻、女御苡子が急死した(28歳)。群書類従本 卷34 康和五年正月廿五日
1103年前斎院娟子内親王が薨じた(72歳)。群書類従本 卷34 康和五年三月十二日
1103年阿闍梨で権僧正の良意が入滅した(70歳)。群書類従本 卷34 康和五年十一月十五日

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