日本書紀(正史 の史料)。扱う年は紀元前666年 〜 西暦692年、出来事187件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。
| 区分 | 正史 |
|---|---|
| 視点 | 内側の視点 |
| 扱う年 | 紀元前666年 〜 西暦692年 |
| 出来事の数 | 出来事187件・地図に置いた93件 |
| 著者 | 舍人親王 등(720) |
| 原題 | 日本書紀 |
地域の内訳: 中国 69 · 日本 51 · 朝鮮半島 20
| 年 | 場所 | 出来事 | 原文の位置 |
|---|---|---|---|
| 紀元前666年 | 吉備 | 神武天皇がアキから吉備へ移り、仮宮(高島宮)を造って三年間、船と兵器を整える 虚構 | 日本書紀 卷第三 神武紀 단락5 |
| 紀元前663年 | 龍田 | 神武軍が龍田の道を進むが、道が狭いので引き返して生駒山を越えようとすると、長髄彦が立ち向かい、五瀬命が矢を受けて進軍できなくなる 虚構 | 日本書紀 卷第三 神武紀 단락8 |
| 紀元前663年 | 茅渟 | 五月、神武軍が茅渟山城の水門に至る。矢傷の重い五瀬命は剣を撫でて、悔しさを叫ぶ 虚構 | 日本書紀 卷第三 神武紀 단락9 |
| 紀元前663年 | 名草 | 六月、軍は名草の村に至り、那賀須泥彦を斬る。熊野へ向かうが海で嵐に遭い、稲飯命が剣を抜いて海に入る 虚構 | 日本書紀 卷第三 神武紀 단락10 |
| 紀元前663年 | 菟田 | 九月、神武は菟田の高倉山の頂から国内を見渡すと、国見丘の上に八十の敵の首が晒されていた 虚構 | 日本書紀 卷第三 神武紀 단락12 |
| 紀元前660年 | 橿原 | 神武天皇が橿原宮で即位する(神武元年、辛酉) 虚構 | 日本書紀 卷第三 神武紀 단락21 |
| 紀元前585年 | 橿原 | 神武天皇七十六年春三月、橿原宮で崩御する。翌年、畝傍山の東北陵に葬られる 虚構 | 日本書紀 卷第三 神武紀 4年 단락26 |
| 紀元前475年 | 掖上 | 孝昭天皇が都を掖上(池心宮)に移す 虚構 | 日本書紀 卷第四 孝昭紀 1年 단락34 |
| 紀元前157年 | 春日 | 開化天皇が都を春日(伊邪河宮)に移す 虚構 | 日本書紀 卷第四 開化紀 1年 단락68 |
| 紀元前91年 | 崇神七年春、詔して災害が続くことを憂え、神々に罪を問い、占って神を祀ろうとする 虚構 | 日本書紀 卷第五 崇神紀 7年 단락7 | |
| 紀元前91年 | 三輪 | 十一月、イカガシコオが祭祀の品々を用意し、オオタタネコをオオモノヌシの祭主とする 虚構 | 日本書紀 卷第五 崇神紀 7年 단락9 |
| 紀元前88年 | 九月、大彦を北陸、武渟川別を東海、吉備津彦を西道、丹波道主を丹波へ派遣する(四道将軍の派遣) 虚構 | 日本書紀 卷第五 崇神紀 10年 단락15 | |
| 紀元前87年 | 四道将軍が戎夷を平定した様子を奏上し、朝廷に報告する 虚構 | 日本書紀 卷第五 崇神紀 11年 단락19 | |
| 紀元前38年 | 出雲 | 六十年七月、詔により出雲大神宮に祀られる神宝を見るために、ヤタベノミヤツコを遣わす 虚構 | 日本書紀 卷第五 崇神紀 60年 단락27 |
| 紀元前30年 | 崇神天皇六十八年十二月に崩御、翌年山辺道上陵に葬られる 虚構 | 日本書紀 卷第五 崇神紀 65年 단락32 | |
| 紀元前5年 | 伊勢 | 二十五年三月、天照大神を豊耜入姫から倭姫に託す。倭姫は祀る場所を探して宇陀などを経て伊勢に至る 虚構 | 日本書紀 卷第六 垂仁紀 25年 단락17 |
| 69年 | 纒向 | 九十九年七月、垂仁天皇が纒向宮で崩御する 伝承 | 日本書紀 卷第六 垂仁紀 99年 단락34 |
| 73年 | 紀伊 | 三年二月、紀伊国に行幸して神器を祀ろうと占うが、不吉なので止め、ヤヌシオシオタケオゴコロを遣わして祀らせる 虚構 | 日本書紀 卷第七 景行紀 3年 단락4 |
| 74年 | 纒向 | 四年十一月、天皇は美濃から戻り、再び纒向に都を定める。宮は日代宮 伝承 | 日本書紀 卷第七 景行紀 4年 단락7 |
| 83年 | 日向 | 十三年五月、襲国をすべて平定し、高屋宮に滞在する 判定保留 | 日本書紀 卷第七 景行紀 13年 단락14 |
| 87年 | 子湯 | 十七年三月、天皇は子湯の県に行幸し、丹裳小野(にものおの)で遊ぶ 判定保留 | 日本書紀 卷第七 景行紀 17年 단락15 |
| 88年 | 熊縣 | 十八年四月、熊県に至り、熊津彦の兄弟を召す。兄は来たが、弟は来ない 判定保留 | 日本書紀 卷第七 景行紀 18年 단락17 |
| 97年 | 熊襲 | 二十七年十月、天皇は日本武尊(当時十六歳)を遣わして熊襲を討たせる 虚構 | 日本書紀 卷第七 景行紀 27年 단락30 |
| 97年 | 熊襲 | 十二月、日本武尊が熊襲国に至り、地形と様子を探る(怪物トロシカヤなど) 虚構 | 日本書紀 卷第七 景行紀 27年 단락31 |
| 98年 | 熊襲 | 二十八年二月、日本武尊が熊襲の首魁を殺して国を平定したと奏上する 虚構 | 日本書紀 卷第七 景行紀 28年 단락32 |
| 110年 | 四十年七月、東国が騒がしく、蝦夷が皆反したので、誰を遣わして平定させるか群臣に問う 判定保留 | 日本書紀 卷第七 景行紀 40年 단락34 | |
| 110年 | 伊勢 | 日本武尊は伊勢神宮に参拝し、倭姫に別れを告げると草薙の剣を授かる 虚構 | 日本書紀 卷第七 景行紀 40年 단락36 |
| 110年 | 駿河 | 日本武尊が初めて駿河に至ると、そこの敵が偽って狩りに誘い込む 虚構 | 日本書紀 卷第七 景行紀 40年 단락37 |
| 128年 | 近江國 | 五十八年二月、近江国に行幸し、志賀で三年滞在する(高穴穂宮) 判定保留 | 日本書紀 卷第七 景行紀 58年 단락52 |
| 130年 | 高穴穗 | 六十年十一月、景行天皇が高穴穂宮で崩御する 判定保留 | 日本書紀 卷第七 景行紀 60年 단락53 |
| 131年 | 成務天皇元年正月、皇太子が即位する(太歳辛未) 判定保留 | 日本書紀 卷第七 成務紀 1年 단락55 | |
| 193年 | 角鹿 | 二年二月、天皇は角鹿に行幸し、仮宮(気比宮)を造ってそこに滞在する 判定保留 | 日本書紀 卷第八 仲哀紀 2年 단락6 |
| 199年 | 筑紫 | 八年正月、筑紫に行幸すると、岡県主の祖クワニが船を用意して出迎える 判定保留 | 日本書紀 卷第八 仲哀紀 8年 단락12 |
| 199年 | 筑紫 | 九月、群臣に熊襲征討を論じさせると、神が皇后に降りて新羅を討つよう告げる 虚構 | 日本書紀 卷第八 仲哀紀 8年 단락14 |
| 200年 | 橿日 | 九年二月、天皇は急に病み、翌日崩御する(五十二歳) 判定保留 | 日本書紀 卷第八 仲哀紀 9年 단락15 |
| 200年 | 三月、皇后は吉日を選んで斎宮に入り、神主となる。武内宿禰に琴を弾かせる 虚構 | 日本書紀 卷第九 神功紀 前紀(仲哀 9年) 단락2 | |
| 200年 | 松峽 | 皇后は熊鷲を討つため、橿日宮から松峽宮へ移る 判定保留 | 日本書紀 卷第九 神功紀 前紀(仲哀 9年) 단락3 |
| 201年 | 穴門 | 新羅征伐の翌年(二〇一年)二月、皇后は群臣を率いて穴門豊浦宮に移り、天皇の御像を祀る 判定保留 | 日本書紀 卷第九 神功紀 9年 단락11 |
| 201年 | 山背 | 三月、武内宿禰と和珥の武振熊に数万の兵を率いさせ、忍熊王を討たせる(山背へ進む) 判定保留 | 日本書紀 卷第九 神功紀 9年 단락12 |
| 203年 | 磐余 | 三年正月、誉田別を皇太子とし、磐余に都を移す(稚櫻宮) 判定保留 | 日本書紀 卷第九 神功紀 3年 단락22 |
| 246年 | 卓淳 | 四十六年三月、斯摩宿禰を卓淳国に遣わす 伝承 | 日本書紀 卷第九 神功紀 46年 단락31 |
| 249年 | 卓淳 | 四十九年三月、荒田別と鹿我別を将軍とし、久底らとともに軍を率いて卓淳国に至り、新羅を討とうとする 伝承 | 日本書紀 卷第九 神功紀 49年 단락33 |
| 262年 | 新羅 | 六十二年、新羅が朝貢しないので、ソツヒコを遣わして新羅を討たせる 伝承 | 日本書紀 卷第九 神功紀 62年 단락40 |
| 269年 | 磐余 | 六十九年四月、神功皇太后が稚櫻宮で崩御する(百歳)。十月、狭城の盾列陵に葬られる 虚構 | 日本書紀 卷第九 神功紀 69年 단락44 |
| 285年 | 百濟 | 十六年、百済の阿花王が死ぬと、天皇は直支王を呼び、帰国して即位させ、東韓の地を与える | 日本書紀 卷第十 応神紀 16年 단락30 |
| 310年 | 筑紫 | 四十一年、阿知使主らが呉(中国)から筑紫に至り、宗像大臣が織女を求める 伝承 | 日本書紀 卷第十 応神紀 41年 단락51 |
| 313年 | 難波 | 仁徳天皇が即位し、難波(高津宮)に都を定める 伝承 | 日本書紀 卷第十一 仁徳紀 1年 단락1 |
| 377年 | 飛騨 | 六十五年、飛騨国に一身に二つの顔を持つスクナという者がいて、朝廷に従わない 虚構 | 日本書紀 卷第十一 仁徳紀 65年 단락45 |
| 379年 | 河内石津原 | 六十七年十月、河内の石津原に行幸し、陵の地を定める 伝承 | 日本書紀 卷第十一 仁徳紀 67年 단락46 |
| 401年 | 磐余 | 履中天皇元年十月、磐余に都を定める | 日本書紀 卷第十二 履中紀 2年 단락5 |
| 405年 | 稚櫻 | 六年三月、天皇が稚櫻宮で崩御する | 日本書紀 卷第十二 履中紀 6年 단락18 |
| 406年 | 丹比 | 反正天皇元年十月、河内の丹比に都を定める(柴籬宮) | 日本書紀 卷第十二 反正紀 1年 단락23 |
| 453年 | 四十二年正月、允恭天皇が崩御すると、新羅王は驚いて貢納の船八十艘と楽人を献上する | 日本書紀 卷第十三 允恭紀 42年 단락19 | |
| 456年 | 安康天皇が眉輪王に殺される(三年八月) | 日本書紀 卷第十三 安康紀 3年 단락25 | |
| 464年 | 八年二月、スムラノスクリアオと日の隈の民のフハクを呉に遣わす | 日本書紀 卷第十四 雄略紀 8年 단락31 | |
| 465年 | 新羅 | 九年三月、天皇が自ら新羅を討とうとするが、神がそれを止めたので、紀小弓宿禰らを遣わす 虚構 | 日本書紀 卷第十四 雄略紀 9年 단락34 |
| 474年 | 伊賀 | 十八年八月、物部麁鹿火らを遣わして伊勢の朝日郎を討たせると、朝日郎は青墓で抗戦する | 日本書紀 卷第十四 雄略紀 18年 단락64 |
| 476年 | 百濟 | 二十年冬、高句麗王が大軍で百済を攻め、ほぼ滅ぼす。わずかな遺民が久羅覇(くらは)の下に集まる | 日本書紀 卷第十四 雄略紀 20年 단락68 |
| 479年 | 百濟 | 二十三年四月、百済の文斤王が死ぬと、天皇は昆支王の次男の末多王を呼び、王として送る | 日本書紀 卷第十四 雄略紀 23年 단락75 |
| 479年 | 二十三年八月、雄略天皇は病が重く、群臣と別れを告げて崩御し、大伴室屋らに遺詔を遺す | 日本書紀 卷第十四 雄略紀 23年 단락78 | |
| 480年 | 磐余 | 清寧天皇元年正月、磐余の甕栗に壇を設けて即位し、都を定める | 日本書紀 卷第十五 清寧紀 1年 단락2 |
| 485年 | 近江國 | 顕宗天皇元年二月、老人を集めて尋ねると、オキメが父王の遺骨の埋まった場所を知っていたので、近江国へ行って探す | 日本書紀 卷第十五 顕宗紀 1年 단락25 |
| 487年 | 任那 | 仁賢天皇三年、紀生磐宿禰が任那に拠って高句麗と通じ、三韓の王になろうとする | 日本書紀 卷第十五 顕宗紀 3年 단락40 |
| 498年 | 十一月、大伴金村が太子に、ヘクリノマトリを討つよう求め、討伐に出る | 日本書紀 卷第十六 武烈紀 11年 단락19 | |
| 512年 | 百濟 | 六年四月、穗積押山を百済に遣わす。十二月、百済が朝貢し、任那四県の割譲を求める | 日本書紀 卷第十七 継体紀 6年 단락15 |
| 526年 | 磐余 | 二十年九月、磐余の玉穂に都を移す | 日本書紀 卷第十七 継体紀 20年 단락33 |
| 527年 | 任那 | 二十一年六月、近江毛野臣が六万の兵を率いて任那に赴き、新羅に破られた南加羅・喙己呑を復興しようとする | 日本書紀 卷第十七 継体紀 21年 단락35 |
| 527年 | 筑紫 | 八月、天皇が物部麁鹿火に、反乱したイワイを討てとの詔を下す | 日本書紀 卷第十七 継体紀 21年 단락36 |
| 528年 | 御井 | 二十二年十一月、物部麁鹿火が反逆者のイワイと筑紫の御井郡で戦い、イワイを斬る | 日本書紀 卷第十七 継体紀 22年 단락38 |
| 531年 | 磐余 | 二十五年二月、継体天皇が磐余の玉穂宮で崩御(八十二歳)。十二月、藍陵に葬られる | 日本書紀 卷第十七 継体紀 25年 단락53 |
| 534年 | 三嶋 | 安閑天皇元年閏十二月、三島に行幸して良田のことを尋ね、県主イイボに求める | 日本書紀 卷第十八 安閑紀 1年 단락7 |
| 535年 | 筑紫 | 二年五月、筑紫の穂波など、各地に屯倉を設ける | 日本書紀 卷第十八 安閑紀 2年 단락9 |
| 536年 | 筑紫 | 宣化天皇元年五月、詔により、筑紫は遠方からの朝貢が集まる所なので、穀物を集めて蓄えよとする | 日本書紀 卷第十八 宣化紀 1年 단락22 |
| 540年 | 磯城 | 欽明天皇元年七月、大和の磯城郡の磯城島に都を移す(金刺宮) | 日本書紀 卷第十九 欽明紀 1年 단락4 |
| 540年 | 難波 | 九月、難波の祝津宮に行幸し、新羅征討に必要な兵の数を群臣に問う | 日本書紀 卷第十九 欽明紀 1年 단락6 |
| 551年 | 平壌 | 十二年、百済の聖明王が二国の軍とともに高句麗を攻め、漢城を得て平壌まで進み、六郡の地を回復する | 日本書紀 卷第十九 欽明紀 12年 단락44 |
| 552年 | 百濟 | 十三年十月、百済の聖明王が釈迦仏の金銅像一体と幡蓋、経論若干を献上する(仏教伝来) | 日本書紀 卷第十九 欽明紀 13年 단락47 |
| 553年 | 百濟 | 十四年十月、百済の王子余昌が国中の兵をすべて起こして高句麗へ向かい、白合野に砦を築く | 日本書紀 卷第十九 欽明紀 14年 단락55 |
| 555年 | 百濟 | 十六年二月、百済の王子恵が聖明王が敵に殺されたと奏上し、天皇は悲しむ | 日本書紀 卷第十九 欽明紀 16年 단락62 |
| 562年 | 任那 | 二十三年七月、紀乎麻呂を大将軍として任那に遣わし、新羅が任那を攻めた状況を尋ねる | 日本書紀 卷第十九 欽明紀 23年 단락76 |
| 562年 | 高麗 | 二十三年八月、大伴狭手彦が数万の兵を率いて高句麗を攻め勝つと、王は垣を越えて逃げる | 日本書紀 卷第十九 欽明紀 23年 단락77 |
| 571年 | 三十二年四月、欽明天皇が病み、皇太子を呼んで新羅の問題と任那の再興を託し、崩御する | 日本書紀 卷第十九 欽明紀 32年 단락91 | |
| 572年 | 敏達天皇元年四月、皇太子が即位し、皇后を皇太后に上げる | 日本書紀 卷第二十 敏達紀 1年 단락1 | |
| 585年 | 十四年三月、物部守屋が寺に行き、塔を引き倒して火を放ち、仏像と仏殿を焼く | 日本書紀 卷第二十 敏達紀 14年 단락41 | |
| 587年 | 崇峻即位前、六月、蘇我馬子が炊屋姫を奉じて軍を厳しくし、佐伯連丹経手らに命じる | 日本書紀 卷第廿一 用明紀 2年 단락11 | |
| 587年 | 七月、蘇我馬子が諸皇子と群臣に勧め、物部守屋を滅ぼすことを謀る | 日本書紀 卷第廿一 用明紀 2年 단락15 | |
| 588年 | 百濟 | 崇峻元年、百済が使者と僧慧聡らを遣わし、仏舎利を献上して朝貢する | 日本書紀 卷第廿一 崇峻紀 1年 단락19 |
| 591年 | 筑紫 | 四年十一月、紀男麻呂らを将軍とし、氏族の臣らを率いさせ、新羅・任那のことで筑紫に駐屯させる | 日本書紀 卷第廿一 崇峻紀 4年 단락26 |
| 592年 | 倉梯 | 五年十一月、蘇我馬子が大和の東漢直駒(やまとのあやのあたい こま)に天皇を殺させ、その日に倉梯に葬る | 日本書紀 卷第廿一 崇峻紀 5年 단락30 |
| 593年 | 推古元年四月、厩戸(聖徳太子)を皇太子とし、摂政を任せ、政務をすべて委ねる | 日本書紀 卷第廿二 推古紀 1年 단락5 | |
| 600年 | 新羅 | 八年、境部臣を大将軍とし、一万余の兵で任那のために新羅を討つべく海を渡る | 日本書紀 卷第廿二 推古紀 8年 단락29 |
| 602年 | 筑紫 | 十年二月、来目皇子を新羅撃将軍とし、兵二万五千を与える | 日本書紀 卷第廿二 推古紀 10年 단락37 |
| 602年 | 筑紫 | 四月、来目皇子が筑紫に至り、嶋郡に駐屯して船と軍糧を集める | 日本書紀 卷第廿二 推古紀 10年 단락38 |
| 603年 | 筑紫 | 十一年二月、来目皇子が筑紫で死ぬと、駅馬で奏上があり、天皇は大いに驚く | 日本書紀 卷第廿二 推古紀 11年 단락43 |
| 604年 | 十二年四月、聖徳太子が憲法十七条を作る(第二条、三宝を篤く敬え) | 日本書紀 卷第廿二 推古紀 12年 단락55 | |
| 606年 | 飛鳥 | 十四年四月、丈六の銅仏像が完成し、元興寺の金堂に安置されるが、仏像は門より高かった | 日本書紀 卷第廿二 推古紀 14年 단락78 |
| 607年 | 十五年七月、大礼の小野妹子を大唐(隋)に遣わし、鞍作福利を通事とする | 日本書紀 卷第廿二 推古紀 15年 단락86 | |
| 618年 | 高麗 | 二十六年八月、高句麗が使者を遣わし、隋の煬帝が三十万で侵入したが撃退したと伝えて、捕虜を献上する | 日本書紀 卷第廿二 推古紀 26年 단락142 |
| 621年 | 斑鳩 | 二十九年二月、厩戸皇子が斑鳩宮で死ぬと、誰もが幼い子を失ったかのように悲しむ | 日本書紀 卷第廿二 推古紀 29年 단락153 |
| 626年 | 飛鳥 | 三十四年五月、蘇我馬子が死に、桃原墓に葬られる | 日本書紀 卷第廿二 推古紀 34年 단락170 |
| 630年 | 百濟 | 舒明天皇二年三月、高句麗の大使の宴子抜・小使の若徳、百済の大使の恩率素子らが共に朝貢する | 日本書紀 卷第廿三 舒明紀 2年 단락36 |
| 632年 | 對馬 | 四年八月、唐が高表仁を遣わして三田耜を送還し、対馬に停泊する | 日本書紀 卷第廿三 舒明紀 4年 단락49 |
| 637年 | 九年、蝦夷が反して朝貢せず、上毛野形名を将軍として討たせるが敗れ、砦に包囲される | 日本書紀 卷第廿三 舒明紀 9年 단락71 | |
| 639年 | 百濟 | 十一年七月、詔によりこの年に大宮と大寺を造ることとし、百済川のほとりを宮地と定め、西の民は宮を、東の民は寺を造る | 日本書紀 卷第廿三 舒明紀 11年 단락84 |
| 641年 | 百濟 | 十三年、舒明天皇の后を宮の北に住まわせ、百済大妃と呼ぶ。東宮の開別皇子(十六歳)が脳死する | 日本書紀 卷第廿三 舒明紀 13年 단락97 |
| 642年 | 南淵 | 皇極元年八月、天皇が南淵河のほとりで四方を拝して雨を祈り、五日間雨が降る | 日本書紀 卷第廿四 皇極紀 1年 단락34 |
| 643年 | 斑鳩 | 二年十一月、蘇我入鹿が巨勢徳太らを遣わし、山背大兄王を斑鳩で襲わせる | 日本書紀 卷第廿四 皇極紀 2年 단락101 |
| 643年 | 斑鳩 | 山背大兄王が斑鳩寺に戻ると、軍の長らが兵で寺を囲む | 日本書紀 卷第廿四 皇極紀 2年 단락104 |
| 645年 | 四年六月、上表文を読み上げているとき、蘇我倉山田麻呂が恐れて汗を流し、入鹿が不審に思って理由を尋ねる(乙巳の変) | 日本書紀 卷第廿四 皇極紀 4年 단락134 | |
| 645年 | その翌日、蘇我蝦夷が死に臨んで天皇記・国記と宝物を焼く。船史恵尺が国記を拾い出し、中大兄に献上する | 日本書紀 卷第廿四 皇極紀 4年 단락136 | |
| 645年 | 孝徳天皇が即位し、皇祖母尊を敬い、中大兄を皇太子、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田麻呂を右大臣とする | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 단락5 | |
| 645年 | 乙卯の日、天皇・皇祖母尊・皇太子が大きな欅の木の下に群臣を集め、盟約を交わす | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 단락7 | |
| 645年 | 吉野 | 九月、古人大兄皇子が蘇我田口川堀らとともに吉野で謀反を企てる | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 1年 단락26 |
| 645年 | 難波 | 十二月、天皇が難波長柄豊碕に都を移す(ネズミが難波へ向かったのが遷都の兆しだという) | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 1年 단락33 |
| 646年 | 難波 | 大化二年二月、天皇が宮の東門に出て、蘇我右大臣に詔を読み上げさせる | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 2年 단락43 |
| 646年 | 二年八月、詔によって、天地と陰陽、人こそ万物の中で最も霊妙であることを述べ、政治を正す志を明らかにする | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 2年 단락53 | |
| 647年 | 小郡 | 三年、この年に小郡を壊して宮を造り、そこで礼法を定める | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 3年 단락61 |
| 648年 | 磐舟 | 四年、新羅が朝貢し、磐舟の柵を築いて蝦夷に備え、越後・信濃の民を選び、冊封の号を与える | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 4年 단락83 |
| 649年 | 五年三月、蘇我日向が倉山田大臣が皇太子を害そうとしていると讒言する | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 5年 단락89 | |
| 649年 | 山田寺 | 倉山田大臣は山田寺で自害し、軍が寺を囲み、部下たちが自殺する | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 5年 단락95 |
| 650年 | 難波 | 白雉元年(650)二月、朝廷が白雉を得て儀式を行い、天皇がそれを見て、皇太子が祝賀する | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 1年 단락109 |
| 653年 | 飛鳥 | 白雉四年(653)、皇太子が皇祖母尊・間人皇后・皇子らを率いて大和の飛鳥川のほとりの行宮に移る | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 3年 단락127 |
| 654年 | 白雉五年二月、大唐押使として高向黒麻呂を遣わす | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 5年 단락132 | |
| 654年 | 難波宮 | 白雉五年十月、皇太子は天皇が病んだと聞き、皇祖母尊・間人皇后とともに難波宮へ行き、天皇が崩御する | 日本書紀 卷第廿五 孝徳紀 5年 단락137 |
| 656年 | 飛鳥 | 斉明二年、飛鳥の岡本に再び宮の地を定める | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 2年 단락18 |
| 656年 | 飛鳥 | 宮を造って天皇が移り、古飛鳥岡本宮と呼ぶ。タムネの丘に垣を巡らし、二本の欅の傍らに棺を造る | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 2年 단락19 |
| 657年 | 飛鳥 | 三年七月、飛鳥寺の西に須弥山の形を作り、盂蘭盆会を開き、耽羅の人々をもてなす | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 3年 단락26 |
| 658年 | 齶田 | 四年四月、阿倍臣が船百八十隻で蝦夷を討つと、齶田・ヌシロの二郡の蝦夷は恐れて降伏を請う | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 4年 단락33 |
| 658年 | 牟婁 | 四年十一月、有間皇子が蘇我赤兄の家で高い所に登って謀反を議論するが、不吉な兆しを見て止める | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 4年 단락48 |
| 658年 | 紀溫湯 | 有間皇子と守君大石らが捕らえられ、紀温湯(むろ)へ護送される | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 4年 단락49 |
| 660年 | 渡嶋 | 六年三月、阿倍臣が蝦夷六十人を船に乗せて大河に至ると、渡嶋の蝦夷千余人が浜辺に陣を張る | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 6年 단락90 |
| 660年 | 百濟 | 七月、高句麗僧の道顕が伝えた『日本世紀』によると、新羅の春秋が唐の蘇定方の力を借りて百済を攻め滅ぼしたという | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 6年 단락97 |
| 660年 | 百濟 | 九月、百済が達率の沙弥覚従らを遣わし、新羅が唐と手を組んで百済を倒したと奏上する | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 6年 단락104 |
| 660年 | 難波 | 十二月、天皇が難波宮に行幸し、福信が求めた救援軍を送るため、軍器を整えて筑紫へ向かおうとする | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 6年 단락107 |
| 661年 | 博多 | 七年(661)三月、船が娜大津に至り、磐瀬の行宮に泊まり、名を長津と改める | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 7年 단락117 |
| 661年 | 朝倉 | 五月、天皇が朝倉橘広庭宮に移るが、宮の木を切ったので神が怒り、殿舎が崩れる 伝承 | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 7年 단락121 |
| 661年 | 十月、斉明天皇の喪が海を渡って帰り、皇太子がある港に停泊して悲しむ | 日本書紀 卷第廿六 斉明紀 7年 단락133 | |
| 661年 | 百濟 | 九月、皇太子が長津宮で百済王子の豊璋に官位を与え、多臣蔵敷の妹を妻として与える | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 前紀(斉明 7年) 단락8 |
| 662年 | 百濟 | 天智元年(662)5月、阿曇比邏夫らが170隻の船で豊璋を百済国に送り、王位を継がせた。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 1年 단락20 |
| 662年 | 州柔 | 12月、百済王の豊璋と福信らが、州柔城の立地について Saino Muraji や Hatsui no Takutsu と協議した。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 1年 단락22 |
| 663年 | 新羅 | 2年(663)3月、上毛野稚子を前将軍とし、軍を送って新羅を攻めさせた。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 2年 단락28 |
| 663年 | 新羅 | 6月、上毛野稚子らが新羅の沙鼻と岐奴江の二城を奪った。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 2年 단락30 |
| 663年 | 白村江 | 8月、敵将が州柔城に至って王城を囲み、唐の将軍が戦船170隻を白村江に並べた。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 2年 단락33 |
| 663年 | 白村江 | 8月27日、日本水軍の先鋒が唐水軍と戦ったが不利となって退き、唐は陣を堅く守った。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 2年 단락34 |
| 663年 | 白村江 | 8月28日、日本の諸将は百済王と様子を確かめず先を争って攻め、大敗した(白村江の戦い)。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 2年 단락35 |
| 663年 | 州柔 | 9月、百済の州柔城が唐に降伏し、人々は百済の名がここで途絶えたと言った。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 2年 단락36 |
| 664年 | 對馬 | 天智3年、この年、対馬・壱岐・筑紫に防人と烽火を置き、筑紫に水を貯める大きな堤(水城)を築いた。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 3年 단락55 |
| 665年 | 長門 | 4年8月、達率の答㶱春初を派遣して長門国に城を築かせ、憶礼福留らを筑紫に遣わして大野・基の二城を築かせた。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 4年 단락61 |
| 667年 | 近江 | 6年3月、都を近江に遷した。民は望まず、諫める者や火事が多かった。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 6年 단락82 |
| 667年 | 對馬 | 6年11月、大和の高安城・讃岐の屋嶋城・対馬の金田城を築いた。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 6年 단락89 |
| 669年 | 8年10月、天皇は東宮大皇弟を藤原内大臣の邸に遣わし、大織冠と大臣位を授け、藤原の姓を賜った。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 8年 단락149 | |
| 671年 | 近江 | 10年4月、新台に楼を置き、初めて鐘と太鼓で時刻を知らせた。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 10年 단락182 |
| 671年 | 吉野 | 10年10月、東宮が天皇に拝謁し、吉野で仏道を修めたいと請うた。天皇は許し、東宮は吉野に入った。 | 日本書紀 卷第廿七 天智紀 10年 단락199 |
| 672年 | 美濃 | 壬申年(672)6月、天武は村国男依らに美濃へ行って兵を集めるよう命じた(壬申の乱)。 | 日本書紀 卷第廿八 天武紀 1年 단락19 |
| 672年 | 菟田 | 同日、菟田の阿騎に至った。大伴マクタらが吉野宮から追って来た。 | 日本書紀 卷第廿八 天武紀 1年 단락23 |
| 672年 | 伊勢 | 山を越えて伊勢の鈴鹿に至り、国司の三宅石床らが出迎えた。 | 日本書紀 卷第廿八 天武紀 1年 단락27 |
| 672年 | 不破 | 天武が不破に着き、まず高市皇子を不破に遣わして軍を監督させ、東海・東山の兵を起こした。 | 日本書紀 卷第廿八 天武紀 1年 단락30 |
| 672年 | 不破 | 天武は皇后を残して不破に入り、尾張国司の小子部鉏鉤が二万の兵を率いて帰順した。 | 日本書紀 卷第廿八 天武紀 1年 단락38 |
| 672年 | 犬上 | 近江朝の山部王と蘇賀果安らが数万の兵で不破を襲おうと、犬上川のほとりに駐屯した。 | 日本書紀 卷第廿八 天武紀 1年 단락48 |
| 672年 | 奈良 | 大伴吹負将軍は近江の将・大野果安と乃楽山で戦い、敗れた。 | 日本書紀 卷第廿八 天武紀 1年 단락53 |
| 672年 | 瀬田 | 大友皇子と群臣は瀬田の橋の西に大陣を構えたが、先鋒が Ono no Wakaomi の突撃で崩れた(瀬田の戦い)。 | 日本書紀 卷第廿八 天武紀 1年 단락64 |
| 672年 | 粟津 | 大友皇子と左右大臣はかろうじて身一つで逃れ、村国男依らは粟津の丘の下に陣を張った。 | 日本書紀 卷第廿八 天武紀 1年 단락66 |
| 672年 | 箸陵 | 三輪高市麻呂らが箸陵で戦い、近江軍を大きく破った。 | 日本書紀 卷第廿八 天武紀 1年 단락78 |
| 672年 | 不破 | 将軍たちは不破宮へ行き、大友皇子の首を陣の前に差し出した。 | 日本書紀 卷第廿八 天武紀 1年 단락85 |
| 673年 | 飛鳥 | 天武2年(673)2月、天皇は壇を設けて飛鳥浄御原宮で即位した。 | 日本書紀 卷第廿九 天武紀 2年 단락2 |
| 676年 | 5年(676)、新城に都を置こうとしたが、田畑が荒れていたため、ついに遷都できなかった。 | 日本書紀 卷第廿九 天武紀 5年 단락142 | |
| 678年 | 筑紫 | 7年(678)12月、筑紫国で大地震があり、地面が幅二丈、長さ三千余丈にわたって裂け、家屋が倒壊した。 | 日本書紀 卷第廿九 天武紀 7年 단락183 |
| 682年 | 11年(682)3月、三野王らを遣わして新城の地形を見させ、都としようとした。 | 日本書紀 卷第廿九 天武紀 11年 단락333 | |
| 684年 | 13年(684)10月、詔によって諸氏の姓を改め、八色の姓(真人・朝臣など)を定めた。 | 日本書紀 卷第廿九 天武紀 13年 단락431 | |
| 684年 | 13年10月、寅の刻ごろ大地震があり、山が崩れ、川が湧き、官司・民家・寺塔が倒壊した。 | 日本書紀 卷第廿九 天武紀 13年 단락435 | |
| 686年 | 難波 | 朱鳥元年(686)正月、難波の大蔵省で火災が起き、宮室がすべて焼けた。 | 日本書紀 卷第廿九 天武紀下 朱鳥元年(天武 15年) 단락509 |
| 686年 | 9月、天武天皇が崩御し、皇后が称制した。 | 日本書紀 卷第三十 持統紀 称制前紀 단락10 | |
| 686年 | 10月、大津皇子は謀反の罪により死を賜った。詔して連座した者を赦した。 | 日本書紀 卷第三十 持統紀 称制前紀 단락16 | |
| 687年 | 武藏 | 持統元年(687)4月、筑紫大宰が帰化した新羅の僧尼と民二十二人を献じたので、武蔵国に住まわせた。 | 日本書紀 卷第三十 持統紀 1年 단락32 |
| 687年 | 10月、皇太子が公卿・百官・国司・国造・民を率いて、初めて大内陵を築いた。 | 日本書紀 卷第三十 持統紀 1年 단락43 | |
| 689年 | 陸奧 | 持統3年(689)正月、陸奥国優嗜曇郡城養の蝦夷、脂利古男が剃髪して僧となることを願い、許された。 | 日本書紀 卷第三十 持統紀 3年 단락71 |
| 689年 | 新城 | 9月、石上麻呂らを筑紫に遣わして位記を授け、新城を監督させた。 | 日本書紀 卷第三十 持統紀 3年 단락108 |
| 690年 | 筑後 | 持統4年(690)10月、筑後の大伴部博麻に詔して、百済救援の役で唐軍に捕らえられた功を褒めた。 | 日本書紀 卷第三十 持統紀 4年 단락157 |
| 692年 | 伊勢 | 6年(692)2月、3月3日に伊勢へ行幸する旨の詔が出された。 | 日本書紀 卷第三十 持統紀 6年 단락216 |
| 692年 | 紀伊 | 5月、阿胡行宮に滞在中、紀伊国牟婁郡の阿古志海部河瀬麻呂の兄弟が十年の調役を免ぜられた。 | 日本書紀 卷第三十 持統紀 6年 단락231 |
| 692年 | 大隅 | 閏5月、詔によって筑紫大宰のトネに、僧を大隅と阿多に遣わして仏教を伝えさせ、郭務悰を遣わすよう命じた。 | 日本書紀 卷第三十 持統紀 6年 단락242 |
| — | 淡路 | 伊弉諾尊と伊弉冉尊が子を生むとき、まず淡路洲を胞(えな)とした(ゆえに淡路洲)。続いて大日本豊秋津洲・伊予之二名洲などを生んだ(国生み、本文以前の異伝) | 日本書紀 卷第一 神代紀 단락13 |
| — | 出雲 | スサノオが天から出雲国の簸川の上流に降り、泣く声をたどって老夫婦に会う(八岐大蛇退治譚の始まり) 虚構 | 日本書紀 卷第一 神代紀 단락45 |
| — | アマテラスがアメノワカヒコに、わが子孫が治めるべき豊葦原の中つ国に荒ぶる神がいるかもしれないと案じ、先に行って平定せよと命じる 虚構 | 日本書紀 卷第二 神代紀 단락2 | |
| — | 天の神々がフツヌシとタケミカヅチを遣わして葦原中国を平定させるが、天には悪神アマツミカボシがいると語られる 虚構 | 日本書紀 卷第二 神代紀 단락3 | |
| — | 天孫が大山祇神の娘カシツヒメと結ばれ、一夜で懐妊して四人の子を産む | 日本書紀 卷第二 神代紀 단락6 | |
| — | 兄ホノスソリは海の幸、弟ホホデミは山の幸を得ていたが、道具を取り替えたところ、どちらも何も得られなかった(海幸山幸) | 日本書紀 卷第二 神代紀 단락10 |
원문 전사: 위키문고(zh.wikisource.org) 기여자들, CC BY-SA 4.0 (원저는 퍼블릭 도메인)
PD(PD-old 표기)
https://zh.wikisource.org/wiki/日本書紀