リウィウス『ローマ建国以来の歴史』

リウィウス『ローマ建国以来の歴史』(正史 の史料)。扱う年は紀元前750年 〜 紀元前167年、出来事300件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年紀元前750年 〜 紀元前167年
出来事の数出来事300件・地図に置いた260件
著者Titus Livius
原題Ab Urbe Condita

地域の内訳: 南ヨーロッパ 242 · 西アジア 15 · エジプト・北アフリカ 11 · 西ヨーロッパ 2

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
紀元前750年 〜 紀元前740年Romeロムルスは敵将から奪った武具を羊飼いたちが神聖視する樫の木に掛け、ユピテル神殿の敷地を定めた 伝承1.10
紀元前750年 〜 紀元前740年Antemnae最初の喚声と突撃で敵は崩れ、都市(アンテムナエ)が占領された 伝承1.11
紀元前749年 〜 紀元前745年Romeサビニ軍とのローマ市内の戦闘中、ユピテルの名において戦列を止め戦いを再開せよとの叫びが上がった 虚構1.12
紀元前670年 〜 紀元前650年Alba Longaファキアリスがトゥルス王に、アルバ人の代表と条約を結ぶよう命じられるかを問う儀礼(ホラティウス兄弟とクリアティウス兄弟の決闘前) 伝承1.24
紀元前670年 〜 紀元前650年Alba Longaホラティウスは最後のクリアティウスをすでに倒していた — アルバ軍が兄弟を助けよと叫んでいる間に 虚構1.25
紀元前665年 〜 紀元前650年Alba Longaローマ軍がアルバ・ロンガの城門に入った時、占領された都市の騒乱と恐怖はなかった 伝承1.29
紀元前640年 〜 紀元前620年Politoriumアンクスは全軍を動員して会戦に勝ち、莫大な戦利品を携えて帰還し、ラティウム人数千がローマに編入された 伝承1.33
紀元前610年 〜 紀元前600年Collatiaコッラティア降伏の手続き:王が使節に都市を引き渡すのかと問う儀礼 伝承1.38
紀元前530年 〜 紀元前515年Gabiiガビイを強襲でも包囲でも落とせず(城壁の下での敗北後)、策略で近づいた 伝承1.53
紀元前510年Collatiaセクストゥスは死の脅しにも屈しないルクレティアを、名誉を傷つけるとの脅迫で屈服させた(王政崩壊の発端) 虚構1.58
紀元前509年Romeケントゥリア民会で執政官2人が選ばれ、タルクィニウスは城門が閉ざされて入市できず追放が決議され、王の息子たちは陣営から追い出された 伝承1.60
紀元前509年ローマ軍とエトルリア軍(ウェイイとタルクィニイ)が互角に対峙し、両軍とも右翼は勝ち左翼は敗れた 判定保留2.6
紀元前509年戦いの後、タルクィニウスとエトルリア軍は恐慌に陥り、ウェイイとタルクィニイの両軍は夜に撤退した 判定保留2.7
紀元前508年Romeポルセンナのローマ封鎖中、ムキウスは自由なローマが封鎖されるのを恥辱と考え、行動に出た 虚構2.12
紀元前508年Janiculumポルセンナはムキウスの胆力に感嘆して心変わりし、条約へと傾いた(ヤニクルム包囲) 伝承2.13
紀元前506年Ariciaエトルリア軍がアリキアを奇襲すると、ラテン都市とクマエの援軍でアリキアは士気を得た 判定保留2.14
紀元前503年Pometia攻城具(ウィネア)が焼かれ、包囲兵の多くが死傷し、執政官の一人が危うく死ぬところだった 判定保留2.17
紀元前501年Romeローマで初めて独裁官が立てられ、斧を携えた護衛を見た市民は大いに恐れ、命令により従順になった 判定保留2.18
紀元前496年Lake Regillus独裁官は神の助けを求め、戦闘中にカストル神殿を誓願し、先頭で突撃する者に褒賞を約束した 伝承2.20
紀元前495年Pometia軍団はスエッサ・ポメティアへ進軍し、数日で占領して兵士に略奪を許した 判定保留2.25
紀元前494年Sacred Mount元老院はアエクイ人との戦争再開を口実に、軍団を市外へ行軍させるよう命じた(平民の分離の局面) 判定保留2.32
紀元前493年Corioliコリオリ包囲中、ローマ軍は城内の者たちにだけ気を取られていて… 判定保留2.33
紀元前491年 〜 紀元前488年Circeiiコリオラヌス(ウォルスキ側)がキルケイイを攻撃してローマ人入植者を追い出し、自由都市としてウォルスキに引き渡した 伝承2.39
紀元前488年Romeウェトゥリアとウォルムニアがコリオラヌスに訴え、アエクイ人がアッティウス・トゥッリウスの指揮をもはや受けず、連合軍の指揮を巡る争いが生じた 虚構2.40
紀元前479年カエソは軍を率いてアエクイ領へ越え、略奪した 判定保留2.48
紀元前476年Janiculumエトルリア軍は夜にティベリス川を渡ってセルウィリウスの陣営を襲ったが大敗し、かろうじてヤニクルムにたどり着いた 判定保留2.51
紀元前468年Antium数日の包囲の末アンティウムが降伏した — 包囲軍の格別の努力よりも、先の敗戦と兵力の損耗のためである 判定保留2.65
紀元前466年Algidusファビウス執政官は、かつてアエクイから平和をもたらしたのと同じ右手で、今度はアエクイに戦争をもたらすと言った 虚構3.2
紀元前463年Rome神々の怒りで疫病に苦しむローマは、同盟者の救援要請に、好転すれば助けると答えた 虚構3.6
紀元前460年Romeヘルドニウスは奴隷たちに自由を叫びつつカピトリウムを占拠した 判定保留3.15
紀元前460年Romeトゥスクルムの軍団とともに秩序正しくカピトリウムの丘を登り、占拠者に立ち向かった 判定保留3.18
紀元前459年Tusculumアエクイは精鋭を先頭に夜襲でトゥスクルムの城塞を占領し、残りは待機させた 判定保留3.23
紀元前458年Rome夜明け前、独裁官(キンキンナトゥス)が広場で騎兵長官を任命した 判定保留3.27
紀元前458年Algidusアエクイが包囲されまいと備えているうちに、包囲されている側が先に戦闘を始めた 判定保留3.28
紀元前454年Athensソロンの法を写し、他のギリシア諸国の制度・慣習・法を調べるため、使節がアテナイに派遣された 伝承3.31
紀元前451年Romeアテナイに赴いた委員3人が、遠い使節の報いとして席に着いた — ギリシアの法に通じているという理由で 伝承3.33
紀元前449年Algidus一方の軍はエレトゥムでサビニに、他方はアルギドゥスでアエクイに撃破された 判定保留3.42
紀元前449年Sacred Mount軍はアウェンティヌスを離れ、ノメンタナ(旧フィクルネア)街道に出て聖山に陣を張り、祖先の節度にならった 判定保留3.52
紀元前444年Romeローマ建国310年(紀元前444年)に執政官権限を持つ軍団司令官(軍事トリブヌス)制が始まった 判定保留4.7
紀元前442年Ardeaアルデア使節が古い同盟と新たに更新した条約を挙げ、ほぼ壊滅した都市の救援を求めた 伝承4.9
紀元前439年Romeキンキンナトゥスを独裁官に指名すべきだとの主張 — マエリウス事件への対応 判定保留4.13
紀元前437年Fidenaeコッスはウェイイ王を討ち、首を槍に刺して敵を恐慌に陥れ潰走させた 伝承4.19
紀元前435年Fidenaeエトルリア軍はフィデナエに追い込まれ、独裁官は包囲の防壁を築いた 伝承4.22
紀元前431年独裁官が柵を壊して敵陣内に戦いを持ち込むと、敵は武器を捨てて降伏した 伝承4.29
紀元前426年Fidenae独裁官は騎兵長官と騎兵を呼び、左翼を督励した(フィデナエの戦い) 伝承4.33
紀元前426年Fidenaeフィデナエ市内の殺戮は戦闘時より大きく、ついに武器を捨てて降伏し命乞いをした 伝承4.34
紀元前421年Cumae当時ギリシア人が占めていたクマエがカンパニア人に占領された4.44
紀元前418年Labici独裁官は占領した敵陣の戦利品を兵士に与えた 判定保留4.47
紀元前405年Veiiウェイイ戦争の宣戦案が可決され、軍事トリブヌスたちは志願兵中心の軍を率いて進軍した4.60
紀元前405年Veiiウェイイ包囲の直後、エトルリア全国会議がウォルトゥムナ神殿で開かれたが決定できなかった 伝承4.61
紀元前396年Veii独裁官は準備を終え、元老院決議に従ってウェイイ占領時の誓願(ユノ神殿)を行った 伝承5.19
紀元前396年Veii独裁官は兵士に武装を命じ、ピュティアのアポロの名においてウェイイを破壊しに行くと祈った 伝承5.21
紀元前396年Veiiユノ像は無事アウェンティヌス(永遠の住まい)へ移され、カミルスが後に神殿を奉献した 虚構5.22
紀元前394年Falerii防壁工事を妨げる敵を破り、ファリスキは恐慌に陥って散り散りになった 伝承5.26
紀元前394年Faleriiローマの信義と指揮官の正義感が広場と元老院で称えられ、それに応じてファレリイに使節が送られた 伝承5.27
紀元前391年Clusiumガリア人はワインと果実に誘われてアルプスを越え、エトルリア近くの土地を占領した 伝承5.33
紀元前391年Ticinusアルプスを越えたガリア人がティキヌス川付近でエトルリア軍を破った 伝承5.34
紀元前390年Allia側面からの喚声が聞こえると予備隊と残りの軍がたちまち逃げ、ローマ軍は崩れてウェイイとローマへ散った5.38
紀元前390年Romeガリア軍が市内で都市の破壊にかかったが、全員がその熱意に満ちていたわけではなかった 伝承5.42
紀元前390年Romeガリア軍は開けた市街を占領したが、少数の守備隊が城砦とカピトリウムで撃退した 伝承5.44
紀元前390年Ardeaカミルスの追放を撤回し独裁官に任命する法がクリア民会で可決された(アルデアを出発する前) 伝承5.46
紀元前390年Rome包囲と戦争の最大の害は両陣営を襲った飢饉であり、ガリア軍には疫病も広がった 伝承5.48
紀元前390年Romeカミルスは祖国を敵から取り戻し、独裁官として凱旋するように市内へ戻り、兵士たちが冗談を投げかけた 虚構5.49
紀元前389年ウォルスキを征服したカミルスはアエクイに進軍し、ボラで奇襲して最初の突撃で陣営を占領した6.2
紀元前389年Sutriumスートリウム包囲下で少数の防衛者は労苦と不眠で疲れ果て、もう持ちこたえられなかった6.3
紀元前386年Nepeteスートリウム奪還後、軍はエトルリアに渡ったネペテへ進軍した6.9
紀元前386年Nepeteネペテの人々はローマとの同盟より降伏の条件を忠実に守り、堀を埋める柴の束を集めた6.10
紀元前382年Praeneste元老院と民会の決議でプラエネステに宣戦し、プラエネステはウォルスキと合流して翌年…を強襲した6.22
紀元前380年Praeneste二つの陣営と敵の九都市を占領し、プラエネステの降伏を受けて帰還した6.29
紀元前377年Satricumサトリクムに合流して陣を張ったラテン人とウォルスキに対し、三つの軍の徴募が成った6.32
紀元前367年Anioガリアの蛮族数千が戦闘で、さらに多くが陣営占領時に死んだ6.42
紀元前361年Ferentinumローマ軍はヘルニキ人の都市フェレンティヌムを占領したが、帰路でティブルが城門を閉ざした7.9
紀元前361年Anio若いマンリウスは持ち場を離れ、独裁官の命令なしには戦わないと述べつつガリア人との一騎討ちを願い出た7.10
紀元前360年Tibur独裁官は執政官軍をティブル牽制に残し、すべての若者に軍事宣誓をさせた7.11
紀元前359年Romeティブルの軍は真夜中の静けさの中、ローマ市へ向けて進軍した7.12
紀元前356年Romeマルキウス・ルティルスが平民出身初の独裁官に指名された7.17
紀元前346年Satricum降伏した4000人は執政官の凱旋行列で鎖につながれて引かれたのち、売られて大金となった7.27
紀元前343年Capua二度目の戦闘でカンパニア軍は敗れ、城壁内へ追い込まれた7.29
紀元前343年Capua降伏した者たちを見捨てることはできないという名誉の問題から、ローマはサムニウムへ使節を送ることを決議した7.31
紀元前343年Mount Gaurus戦闘は長く続き、サムニウム軍旗の周りで大殺戮となったが、どこでも逃げなかった7.33
紀元前343年Saticulaコルネリウスは谷間に閉じ込められ、デキウスは分遣隊を率いて高地を占領する案を出した7.34
紀元前343年Suessulaサムニウム軍は急いで逃げ、盾4万枚以上を捨てた7.37
紀元前341年Privernum執政官はプリウェルヌムへ進軍してただちに交戦し、敵を大した苦労なく撃破した8.1
紀元前340年Vesuviusラテン軍との戦いは、勇気のほかローマ軍と変わるところがなく、内戦のようであった8.8
紀元前340年Vesuviusデキウスは同僚が吉兆を得たなら良いと言い、定められた陣形で戦闘に臨んだ8.9
紀元前340年Vesuvius戦闘の後ラテン軍の陣営が占領され、カンパニア人を中心に多くが死んだ8.10
紀元前338年Pedum戦闘中、市民の出撃は撃退され、ペドゥムは強襲で占領された8.13
紀元前334年Calesアウソニア人は酒と宴に酔って眠っているところを奇襲され、都市ごと占領された8.16
紀元前332年Paestumエペイロスのアレクサンドロスがパエストゥム近くに上陸すると、サムニウムとルカニアは連合したが会戦で敗れた8.17
紀元前329年Privernumプリウェルヌムが強襲で陥落してウィトルウィウスが生け捕られたとする伝承と、伝令杖を持って降伏したとする伝承に分かれる8.20
紀元前327年Palaepolisパライポリスの人カリラオスがプブリリウス・ピロのもとを訪れ、城壁(防御施設)を引き渡すと明かした8.25
紀元前326年Palaepolisニンピウスはサムニウム司令官を説得し、ローマの戦力がパライポリスとサムニウムに分散した隙を突かせた8.26
紀元前324年軍が完全に回復すると交戦し、サムニウム軍を完全に撃破して潰走させた8.36
紀元前321年Caudine Forksサムニウム軍は羊飼いに変装した兵士10人をカラティアに送り、ローマ執政官をおびき寄せた9.2
紀元前321年Caudine Forksローマ陣営は多数の突破の試みが失敗し極度の窮乏に至って、降伏の使節を送った9.4
紀元前321年Caudine Forks執政官たちがまず、ほとんど半裸でくびきの下をくぐらねばならなかった9.6
紀元前320年Luceriaルケリアの前に陣を張ったサムニウム軍は、包囲された者たちがもう持ちこたえられなくなり、全軍を集めることになった9.13
紀元前320年Luceriaパピリウスが包囲を続けるとあらゆる補給路が断たれ、サムニウム軍の立場は苦しくなった9.15
紀元前316年Saticula両陣営が攻撃されても独裁官が容易に包囲されない位置を選び、兵士を冷静に保った9.21
紀元前315年Saticula独裁官はサティクラの陥落が戦争の性格を変えると見て、包囲をさらに強めた9.22
紀元前314年Soraソラは夜明けに執政官が現れた時にはすでに陥落しており、夜の殺戮を生き延びた者たちの降伏を受け入れた9.24
紀元前313年Fregellaeサムニウム軍がフレゲラエの城塞を占領したとの報で、ボウィアヌム包囲を解いてフレゲラエへ引き返した9.28
紀元前310年Sutriumローマでこうしたことが起きている間、エトルリア軍はスートリウムの包囲を続けた9.35
紀元前310年Ciminian Forest敗走する敵を追ったローマ軍は広く略奪し、戦利品を満載して陣営に帰った9.36
紀元前310年Pompeii艦隊司令官コルネリウスはローマ艦隊をカンパニアへ導き、ポンペイに停泊した9.38
紀元前310年Lake Vadimoエトルリアでの成功とともに、ウンブリア軍は交戦で当初の勢いを保てなかった9.39
紀元前307年Allifae翌日の早朝サムニウム軍が降伏を申し出、一人につき衣一枚のみで送り出す条件で受け入れられた9.42
紀元前306年敵の中央を突破して空の陣営に進み焼き払った。マルキウス軍は炎を見て士気を得た9.43
紀元前302年Thuriaeスパルタのクレオニュモスの艦隊がイタリア沿岸に来て、サレントゥム地方のトゥリアエを占領した10.2
紀元前302年独裁官は出陣し、一度の戦闘でマルシ人を破った10.3
紀元前298年Carseoliアエクイコリ人の土地カルセオリに植民市が建設された10.13
紀元前297年Maleventum交戦に誘い込んで撃破し、逃げた者が戦死者より多かった(戦死約2000)10.15
紀元前296年ウォルムニウスは自ら一つの門を攻め、アッピウスは勝利のベッローナを繰り返し呼んで兵を励ました10.19
紀元前295年Sentinum両軍は互角で、エトルリアとウンブリアが加わっていればローマが負けたほどであった10.27
紀元前295年Sentinumデキウスは敵の軍旗と武具に死を撒き、自分の死に場所がガリア人とサムニウム人の死に場所にもなるよう誓願した10.28
紀元前295年Romeファビウスはエトルリアをデキウス軍に任せ、軍団を率いてローマに戻り、ガリア・エトルリア・サムニウムに対する凱旋式を行った10.30
紀元前295年Perusia執政官が軍を引くとペルシアが再び敵対し、サムニウム軍がウェスキアとフォルミアエを略奪した10.31
紀元前294年Luceria戦闘は一進一退で決着がつかず、ついに敗北に慣れないローマ軍がより不利になった10.35
紀元前294年Luceria執政官は手を挙げ、ローマ軍が持ちこたえればユピテル・スタトル神殿を建てると大声で誓願した10.36
紀元前294年ポストゥミウスについての伝承は分かれる。クラウディウスによれば、サムニウムの諸都市を取った後アプリアで敗れ負傷した10.37
紀元前293年Aquiloniaサムニウムの指揮官たちは最も恐ろしい言葉で誓わせ、戦場に出る誓いを取った10.38
紀元前293年Amiternumサムニウム軍が迷信的な儀式と秘密の計画に没頭している間に、カルウィリウスがアミテルヌムを強襲で占領した10.39
紀元前293年Aquilonia戦闘を生き延びた歩兵は陣営かアクィロニアへ、貴族と騎兵はボウィアヌムへ逃げた10.41
紀元前293年Cominium二人の執政官は合意し、占領した都市を兵士の略奪に委ねた10.44
紀元前219年Saguntumローマでこうしたことが進む間、サグントゥム包囲は全力で圧迫された21.7
紀元前219年Saguntum崩れた城壁の裂け目から武装した縦隊が市内に入った21.11
紀元前219年Saguntumアルコはサグントゥム人に隠れて夜、ハンニバルのもとへ渡り交渉を試みた21.12
紀元前218年Carthageサグントゥムとエブロ川の論争をやめよと言われ、ローマ使節はトガの裾をつかんで戦争を持ってきたと宣言した21.18
紀元前218年Iliberriハンニバルは軍が弛緩しないようピレネーを越え、イリベリ人の町に陣を張った21.24
紀元前218年Rhoneハンニバルはアルプスへ直行せず、左のトリカスティニ人の方へ折れた21.31
紀元前218年Rhoneスキピオは戦闘隊形で空になった敵陣に到着し、ただちに交戦する構えであった21.32
紀元前218年Ticinus橋が完成するとローマ軍はインスブレス領で渡り、ハンニバルの陣営から5マイルの地点に陣を張った21.45
紀元前218年Trebiaセンプロニウスはヌミディア軍の攻撃に対し全騎兵を出動させた21.54
紀元前218年Trebia敗走兵の一部は川へ向かって流れにさらわれ、あるいはためらううちに捕らえられた21.56
紀元前218年Cissaハスドルバルは敗戦を正確に知る前に、上陸するローマ軍を迎えるため歩兵8千・騎兵1千でエブロ川を渡った21.61
紀元前217年Ariminumフラミニウスはローマではなくアリミヌムで執政官職に就いた21.63
紀元前217年Arretiumハンニバルはローマ軍の陣営を左に置いてファエスラエ方面へ進軍し、エトルリア中部を荒らした22.3
紀元前217年Lake Trasimene兵士たちはたまたま入り交じり、各自の勇気の導くままに前でも後ろでも位置を取って戦闘に没頭した22.5
紀元前217年トラシメヌスの報でウンブリアへ進軍したローマ騎兵が包囲され、ハンニバルに捕らえられた22.8
紀元前217年Tibur独裁官はフルウィウス・フラックスから執政官軍を引き継ぎ、サビニ領を通ってティブルへ行軍した22.12
紀元前217年Telesiaハンニバルはヒルピニからサムニウムへ渡り、ベネウェントゥムの地を荒らしてテレシアの町を占領した22.13
紀元前217年Volturnusハンニバルがウォルトゥルヌス川に陣を張り、カンパニアが燃える間、ファビウスは行軍を続けた22.14
紀元前217年ハンニバルは隘路を通過した全軍を率いてアッリファエの地に陣を張った22.17
紀元前217年Onusaローマ艦隊はオヌサに上陸して町を占領・略奪し、ノウァ・カルタゴへ進んだ22.20
紀元前217年Saguntumカルタゴがケルティベリア戦争に拘束されている間、スキピオ兄弟はエブロ川を渡り、まっすぐサグントゥムへ行軍した22.22
紀元前217年一部の著者は、両軍が正規の隊形で衝突しカルタゴ軍が最初の衝突で敗走したと伝える(伝承は一致しない)22.24
紀元前216年Cannae執政官たちは道を探りながらカルタゴ軍を追ってカンナエに着き、敵を見て二つの陣営を築いた22.44
紀元前216年Cannae喚声が上がると補助兵が飛び出し、軽装歩兵から戦闘が始まった22.47
紀元前216年Cannaeレントゥルスは執政官に、自らの死で戦いをさらに不吉なものにしないよう懇願した22.49
紀元前216年Cannaeカンナエの戦いはアッリア川の敗戦に劣らず有名だが、敵の消極性のおかげで結果は深刻さが少なかった22.50
紀元前216年Cannaeハンニバルが小さい陣営を降伏させた後、大きい陣営の負傷者と怯えた者たちも同じ条件で陣営を敵に引き渡した22.52
紀元前216年Rome報告では両執政官と二つの執政官軍がすべて失われ、ローマは衝撃を受けた22.54
紀元前216年Compsaカンナエの勝利とローマ陣営の略奪の直後、ハンニバルはアプリアを離れサムニウムへ移動した23.1
紀元前216年Capuaカプアで親ローマのデキウス・マギウスが、カルタゴの友ではなくカンパニア人と呼ばれる資格もないと糾弾された23.10
紀元前216年Neapolisローマの法務官が近づくとハンニバルは驚いて領土を離れ、ネアポリス近くの海岸へ下った23.15
紀元前216年Nolaノラの戦いは、戦争全体の中で結果が最も重要な交戦の一つとされる23.16
紀元前216年Acerraeアケラエを略奪・放火したハンニバルは、独裁官がカプアへ進軍するとの報でカシリヌムへ向かった23.17
紀元前215年Peteliaブルッティウムのペテリアが数か月の包囲の末、ハンニバルの副将ヒミルコに陥落した23.30
紀元前215年ハンニバルはフィリッポスと友好条約を結んだ:王が艦隊でイタリアに侵攻するという条件23.33
紀元前215年Cumaeハンニバルはカンパニア人の懇願に応じ、攻城装備を整えてクマエへ引き返し、周辺を徹底的に荒廃させた23.36
紀元前215年Sardiniaホストゥスは若者らしい性急さで交戦して敗走し、サルディニア人3000人が戦死した23.40
紀元前215年Nolaノラの人々の激励の喚声でローマ軍の士気が上がり、敵は四方から退いた23.46
紀元前215年Crotonハンニバルはクロトンの市民に、ブルッティウム人の入植を受け入れる条件で降伏するよう説得した24.3
紀元前214年Beneventumグラックスが先にベネウェントゥムに入り、ハンノがカロル川岸に陣を張って略奪しているとの報で町を出て陣営を築いた24.14
紀元前214年Nolaハンニバルはネアポリスの領土を荒らしたのち、陣営をノラに移した24.17
紀元前214年Casilinumファビウスは、カンパニア人2000とハンニバルの兵700が守るカシリヌム付近に陣営を築いた24.19
紀元前214年Syracuseアッピウスが送ったシラクサ使節がマルケッルスのもとに来て和平の条件を説明した24.27
紀元前214年Oricumラエウィヌスはオリクムで兵を降ろして艦船を帰し、王の軍を避けて川から離れて行軍した24.40
紀元前214年戦利品の大半はガリア人のものとなり、ガリアの首領二人が戦死した(ムンダの戦い)24.42
紀元前213年Syracuse事情を知ったローマ軍はレオンティノイの陣営を撤収し、シラクサへ行軍した24.33
紀元前213年Megara Hyblaeaヘロルムとヘルベッソスが降伏し、メガラは強襲・略奪されたのち完全に破壊され、シラクサに恐怖を与えた24.35
紀元前213年Syracuseカルタゴ軍船55隻がシラクサの大港に入り、ローマ軍船30隻も上陸した24.36
紀元前212年Tarentumヌミディア騎兵が少数で野を略奪しているとの噂が同時にタレントゥムに広まった25.9
紀元前212年Tarentumタレントゥムは海上補給が断たれ、包囲軍のほうがむしろ飢える立場にあった25.11
紀元前212年Beneventum敵1万人以上が死に、7000人が捕虜となり、荷車と家畜をすべて鹵獲した25.14
紀元前212年Herdonea夜通し配置を終えた後、夜明けに戦闘へ出陣した(ヘルドネア)25.21
紀元前212年Syracuseアクラディナへ進む前に、マルケッルスは…を決意した(エピポライ・ヘクサピュロン一帯)25.24
紀元前212年Syracuseナソス占領、アクラディナの一区画の占領、モエリクスの帰順の報で、マルケッルスは退却の合図を吹かせた25.30
紀元前211年ハスドルバルがエブロ川を渡ったとの知らせが届き、新任司令官の戦闘合図が上がった25.37
紀元前211年Capuaフルウィウスとクラウディウスは指揮権を保ち、カプアが陥落するまで包囲を続けるよう命じられた26.1
紀元前211年Capuaこれがカプアが降伏する前の最後の戦闘であった26.6
紀元前211年Romeフルウィウス・フラックスはカペナ門を通り、市内を横切ってコッリナ門の外に陣営を築いた26.10
紀元前211年Anio翌日ハンニバルはアニオ川を渡り、全軍を率いて戦闘に臨んだ26.11
紀元前211年Capuaカプア人の処刑などの措置の大半は、フルウィウスの単独の指示で執行された26.16
紀元前210年Emporiaeスキピオはティベリス河口から五段櫂船30隻でエトルリア沿岸に沿い、ガリア湾を渡ってヒスパニアへ向かった26.19
紀元前210年Anticyraアンティキュラが降伏してアイトリア人に引き渡され、戦利品は条約どおりローマのものとなった26.26
紀元前210年Agrigentum短期間に20の都市が密かに降伏し、6が強襲で陥落し、40が条件付きで降伏した26.40
紀元前209年Carthago Nova城塞が降伏するまで、市内で出会った成人男子はすべて殺戮された26.46
紀元前209年Carthago Nova港で輸送船63隻と穀物・武器・青銅などが鹵獲された26.47
紀元前209年Tarentumタレントゥムが陥落すると、ハンニバルは、ローマにもハンニバルがいる、我々も同じ手口で失ったと言った27.16
紀元前208年Baeculaハスドルバルはローマ軍の戦列を見て、ヌミディア騎兵とバレアレス・アフリカの軽装歩兵を低地へ出した27.18
紀元前208年Tagusハスドルバルは軍資金を確保して象を先に出し、敗残兵を集めてタグス川の方へ行軍した27.19
紀元前208年Venusia騎兵43人が戦闘と追撃で死に、18人が捕虜となった27.27
紀元前208年Salapia不意の奇襲のため一時は互角の戦いとなり、ヌミディア軍が来ると恐慌が起きた(サラピア)27.28
紀元前208年Sicyonスルピキウスの艦隊はシキュオンとコリントスの間に錨を下ろし、その肥沃な土地を略奪した27.31
紀元前207年Grumentum撤退を急いだハンニバルは全軍を戦闘隊形で出陣させた27.41
紀元前207年Placentiaハスドルバルはプラケンティア包囲を解き、ガリア・ヌミディア騎兵6人をハンニバルのもとへ送った27.43
紀元前207年Metaurusメタウルスでは敵がすでに陣営の前に戦闘隊形で並んでおり、ハスドルバルは古い盾と痩せた馬を見てローマ軍の増援を疑い、戦闘が遅れた27.47
紀元前207年Metaurusメタウルスの戦いでハスドルバルは戦死し、敵5万6~7千が死に、敵に捕らわれていたローマ市民4000余りが戻されて損失を一部慰めた27.49
紀元前207年Rome一人の執政官は戦車に乗ったが、真の凱旋は馬に乗ったもう一人の執政官(ネロ)のものだという評28.9

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原文のライセンスと出典

원문·영역(Canon Roberts): Perseus Digital Library, Tufts University, CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/) — 대목 나누기·정리: 이 프로젝트

CC-BY-SA 4.0 (Perseus) / PD 번역(1929 이전) / Perseus 편집 CC-BY-SA 4.0

https://github.com/PerseusDL (Perseus Digital Library, Tufts University)

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