マレー年代記(スジャラ・ムラユ)

マレー年代記(スジャラ・ムラユ)(正史 の史料)。扱う年は1267年 〜 1528年、出来事73件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年1267年 〜 1528年
出来事の数出来事73件・地図に置いた49件
著者미상 (투운 스리 라나 편찬 전승; 영역 Leyden 1821)
原題Sejarah Melayu (Sulalatus Salatin)

地域の内訳: 東南アジア 64

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1267年 〜 1297年PASAIマラ・シルは、メッカから来た修行者からイスラームを受け入れ、サムドラの王マリク・アル=サリフとなった。Leyden 1821 p.68
1297年 〜 1350年PASAIパサイ王マリク・アッ=ザーヒルは弟マリク・アル=マンスールと忠臣たちを宴に招き、捕らえて投獄した。Leyden 1821 p.79
1299年Singapura (Tamasak)タマサクの海岸でサン・ニラ・ウタマはライオンに似た獣を見て、そこに定住し、シンガプラと名付けて王となった(スリ・トリ・ブアナ)。Leyden 1821 p.45
1347年 〜 1362年Singapura (Tamasak)マジャパヒトがシンガプラに百隻の艦隊を送り上陸戦となったが、シンガプラは屈せず、ジャワ軍は退いた。Leyden 1821 p.53
1375年 〜 1389年Singapura (Tamasak)テンギリ(サワラ)の群れがシンガプラの海岸を襲い多くが死んだが、少年がバナナの茎の防壁で防いだ。少年は後に殺された。Leyden 1821 p.84
1398年Singapura (Tamasak)反逆した財務官サン・ランジュナ・タパが城門を開け、ジャワ軍がシンガプラを攻め落として虐殺した。Leyden 1821 p.86
1398年 〜 1400年Moarイスカンダル・シャーはシンガプラから逃れ、ムアルに着いた。Leyden 1821 p.86
1400年 〜 1402年Malacaイスカンダル・シャーはムアルを去り、ベルタム川のほとりでマラッカの木の下で狩りをしていると、白い鹿が犬を追い払うのを見て、マラッカに都を建てた。Leyden 1821 p.89
1414年 〜 1445年Malaca王は夢で預言者を見て、ジェッダから来た船の人物マフドゥム・アブドゥル・アジーズのもとで改宗し、ムハンマド・シャーの名を受けた。宰相以下の民もこれに従った。Leyden 1821 p.93
1446年Malacaラジャ・カシムがスリ・ナラ・ディラジャとともに夜、象に乗って宮殿を襲い、ラカン王と異母兄アブ・シャヒドを殺してムザッファル・シャーとして即位した。Leyden 1821 p.115
1446年 〜 1459年Malacaムザッファル・シャーは法典(キターブ・ウンダン・ウンダン)を編纂させた。Leyden 1821 p.118
1446年 〜 1456年Siam (Ayutthaya)シャム王がマラッカに服属の書簡を求めたが拒否され、将軍アウィ・チャクリが陸路でパハンまで進軍した。Leyden 1821 p.121
1446年 〜 1456年Moarマラッカはケラン住民を妻子ともども集め、シャム軍と戦った。シャム軍は退き、荷を捨てた場所から籐が生えたため、地名は「ロタン・シャム(シャムの籐)」となった。Leyden 1821 p.124
1446年 〜 1456年Batu Pahatシャムの将軍アビディチュの軍がバトゥ・パハトに至ると、トゥン・オマルが単身偵察に出た。宰相が松明の木を大軍に見せかけると、シャム軍は退いた。Leyden 1821 p.131
1446年 〜 1459年Siam (Ayutthaya)マラッカ遠征の直前、シャムの王子チャオ・パンダンが、マラッカのサイイド・アラブが放った神通の矢で血を吐いて死に、遠征は取りやめとなった。Leyden 1821 p.132
1459年Malacaムザッファル・シャーは四十二年の在位ののち没し、息子アブドゥッラーが二十七歳でマンスール・シャーとして即位した。Leyden 1821 p.134
1459年 〜 1477年Pahang (Pura)マンスール・シャーは宰相パドゥカ・ラジャを派遣してパハンを攻め、大王デワ・スーラを追い出した。Leyden 1821 p.135
1459年 〜 1477年Pahang (Pura)スリ・ヴィジャヤ・ディラジャが森へ逃げたデワ・スーラを捕らえ、その功でパハンに駐留し、王の儀礼を許された。Leyden 1821 p.139
1459年 〜 1477年Siam (Ayutthaya)マラッカの使節トゥン・テラニとジャナ・ペトラがシャムへ行き、書簡を奉じて和を結んだ。Leyden 1821 p.147
1459年 〜 1477年Majapahit (Trowulan)マンスール・シャーはマジャパヒトへ行き、ベタラの娘カンドラ・キラナと結婚し、インドラギリとシアンタンの領地を得た。Leyden 1821 p.169
1459年 〜 1477年Malacaハン・トゥアが暴れるジャワ人を殺し、マンスール・シャーは彼にラクサマナの名を授けた。Leyden 1821 p.162
1459年 〜 1477年Malaca中国皇帝は針を満載した船と書簡をマラッカに送り、友好を求めた。Leyden 1821 p.173
1459年 〜 1477年CHINAマラッカの使節トゥン・プルパティ・プティはサゴの粒を積んで中国の宮廷に行き、皇帝を感嘆させた。Leyden 1821 p.174
1459年 〜 1477年Malaca中国の王女ハン・リ・ポーが侍女五百人とともにマラッカに到着し、イスラームに改宗してマンスール・シャーの王妃となった。Leyden 1821 p.179
1459年 〜 1477年Burné (Brunei)中国へ向かうトゥン・テラニ一行は嵐に流されブルネイに着き、王の前で書簡の文言を説明した。Leyden 1821 p.180
1459年 〜 1477年Malaca宮女と通じたハン・カストゥリが宮殿に立てこもったが、釈放されていたハン・トゥアが決闘の末に彼を殺し、ラクサマナの地位についた。Leyden 1821 p.190
1459年 〜 1477年Malaca新宮が焼け、宝物は三分の二しか救えなかった。サン・ニラ・ウタマの獅子の玉座も狙われた。Leyden 1821 p.198
1459年 〜 1477年Malacaマカッサルのサマロコが二百隻で、ジャワ・シャム・マレー半島の沿岸を略奪すると、ラクサマナはマラッカ沖で迎え撃って戦った。Leyden 1821 p.200
1459年 〜 1477年PASAIマンスール・シャーはパサイへ使節を送り、天国と地獄は永遠かという神学問答を求めた。Leyden 1821 p.208
1459年 〜 1477年PASAIマラッカ軍は追放されたパサイのスルタン・ザイヌル・アービディンを復位させるためパサイを攻めた。一度は押し返されたが、トゥン・ハムザの突撃で勝利した。Leyden 1821 p.218
1471年CHAMPAコーチの王がチャンパの大臣を買収して城門を開けさせ、バル城が陥落した。ポゴポ王は死に、王子インドラ・ブラフマーはマラッカへ逃げた。Leyden 1821 p.211
1477年Malacaマンスール・シャーは病に倒れ、フセイン(アラウッディン)を後継に指名して没した。Leyden 1821 p.221
1477年 〜 1488年Malacaアラウッディン・シャーは盗賊の装いで夜の巡回に出て、盗賊五人を追って斬り、治安引き締めのきっかけとなった。Leyden 1821 p.222
1477年 〜 1488年HARUハルの王はパサイと争い、将軍スリ・インドラを送ってタンジュン・トゥアンからジュグラまでのマラッカ沿岸を略奪させた。Leyden 1821 p.226
1477年 〜 1488年ARANGプロ・アラン沖で、スリ・ヴィジャヤ・ディラジャとトゥン・イスップの突撃がハルの百隻の艦隊を打ち破った。Leyden 1821 p.227
1477年 〜 1488年HARUマラッカの艦隊はドゥングンでハルの艦隊を破り、ハルの王が和睦を求め、パドゥカ・トゥアンがこれに応じた。Leyden 1821 p.230
1477年 〜 1488年Tringanoパハンのスルタンの教唆を受けたスリ・アグラ・ディラジャは、テレンガヌでトゥン・テラニを殺すため人を雇った。Leyden 1821 p.231
1477年 〜 1488年Pahang (Pura)ラクサマナは使節としてパハンへ行き、スルタンの面前でトゥン・テラニ殺害を問いただした。Leyden 1821 p.234
1477年 〜 1488年SIAKシアクの王はマラッカに知らせず人を殺したため、ラクサマナが行って叱責し、謝罪の書簡を持ち帰った。Leyden 1821 p.236
1488年Malacaアラウッディン・シャーの死後、ラジャ・ムダがスルタン・マハムード・シャーとして即位した。Leyden 1821 p.239
1488年 〜 1511年MANJパドゥカ・トゥアンは十隻でマンジュンを攻め、ブルアスを経てペラクまで服属させた。Leyden 1821 p.265
1488年 〜 1511年Calantan (Kelantan)スリ・マハ・ラジャは服属を拒んだクランタンを攻め、砦を陥落させて三人の王女をマラッカへ連れ帰った。Leyden 1821 p.265
1488年 〜 1511年LEDANGマフムードはグヌン・レダン(オフィル山)の王女に求婚の使者を送ったが、王女は黄金の階段、王の血など不可能な条件を出した。Leyden 1821 p.276
1488年 〜 1511年Indragiriマラッカで冷遇されたインドラギリの王子ナラシンガがインドラギリへ逃げ、王となった。Leyden 1821 p.283
1488年 〜 1511年Silan seaクリンで布を仕入れて帰るナーホダの船が、嵐もないのにセイロン沖で沈み、彼は救命艇でセイロンに着いた。Leyden 1821 p.285
1488年 〜 1511年Malacaラクサマナのハン・トゥアが死に、婿のコジャ・ハッサンが後を継いだ。Leyden 1821 p.286
1488年 〜 1511年Pahang (Pura)ナーホダが香水売りの老婆の助けを借りて、パハンの宰相の娘トゥン・テジャをひそかに連れ出し、船に乗せた。Leyden 1821 p.299
1488年 〜 1511年KIANパハンのスルタンはプロ・キアンまで追ったが、ナーホダの弓に阻まれ、マラッカの船は逃げ去った。Leyden 1821 p.300
1488年 〜 1511年Pahang (Pura)ラクサマナ・コジャ・ハッサンはパハンで象使いを買収し、スルタンの象カピニャンを船に積んでマラッカへ運んだ。Leyden 1821 p.305
1488年 〜 1511年Pahang (Pura)シャムに属するリゴール王がパハンを攻めると、マラッカの宰相が援軍を送り、共に撃退した。Leyden 1821 p.317
1488年 〜 1511年Pataniシャムの王子チャウ・スリ・バンサがコタ・メリゲを攻め、イスラームに改宗し、漁師パタニの名にちなんでパタニの都を建てた。Leyden 1821 p.319
1509年Malacaゴアから来たフェリンギ(ポルトガル)船がマラッカに来て交易し、宰相スリ・マハ・ラジャを義父とした。帰国後、その豊かさを報告した。Leyden 1821 p.324
1509年 〜 1510年Malacaポルトガル兵二千人が上陸すると、トゥン・ハッサンがアモク(狂戦士)となって迎え撃ち、撃退した。Leyden 1821 p.325
1510年Malacaマフムードはラジャ・ムデリアルの讒言を信じ、宰相スリ・マハ・ラジャと息子、兄弟、婿を処刑した。Leyden 1821 p.340
1510年 〜 1511年Malacaマフムードは悔恨の末に息子アフマドを即位させ、マラッカの上の山地へ退いた。Leyden 1821 p.349
1511年Malacaアルブケルケが四十三隻で来てマラッカを砲撃し上陸した。アフマドは象に乗って迎え撃った。Leyden 1821 p.352
1511年Malaca第二次の交戦でマラッカ軍は崩れ、ポルトガル軍は空になった城塞に入り、マラッカは陥落した。Leyden 1821 p.357
1511年 〜 1512年Pagohアフマドはムアル上流のパゴーへ退き、マフムードはバトゥ・ハンパルに砦を築いた。Leyden 1821 p.357
1511年 〜 1512年Pagohポルトガルがパゴーを攻め落とし、アフマドは川上のパナリカン川へさらに退いた。Leyden 1821 p.358
1512年Pahang (Pura)アフマドとマフムードはパハンへ行き、アブドゥル・ジャミルの歓待を受けた。マフムードは娘をパハンのスルタンに嫁がせた。Leyden 1821 p.358
1512年 〜 1513年BINTANマフムードはビンタンへ行き、アフマドはコペに町を建てた。Leyden 1821 p.358
1513年BINTAN下々の者と遊び、老臣を軽んじたアフマドは、マフムードが下男を使って密かに殺させた。Leyden 1821 p.359
1513年 〜 1528年BINTANマフムードは息子ラジャ・ムザッファルを王に立て、シャム・セリムに学ばせた。Leyden 1821 p.359
1513年 〜 1520年BINTANアフマドに忠誠を尽くしたトゥン・アリはマフムードへの臣従を拒み、マフムードに殺された。Leyden 1821 p.361
—GANGGA伝説によれば、インド系の王スーランは中国征服の途上、ガンガ・ナガラ(ディンディン川、ペラ近郊)を攻め落とし、城主を殺した。Leyden 1821 p.9
—GLANGスーランはグラン・キウ(ジョホール川上流)で、シャム式の名を持つ王チュランと象の上で戦い、矢で倒して城塞に入った。(伝説)Leyden 1821 p.13
—Singapura (Tamasak)スーラン軍がタマサク(シンガプラ一帯)に至ると、中国は錆びた針を積んだ船を送り、中国は遠いと偽って引き返させた。(伝説)Leyden 1821 p.13
—Palembangスーランの息子(チトラム・シャー)、サン・サプルバがパレンバンのセガンタン山に現れ、アレクサンドロスの末裔だと名乗った。Leyden 1821 p.20
—Palembangサン・サプルバとパレンバンの君主ダマン・ルバル・ダウンが王と臣民の誓約を結び、サン・サプルバがパレンバン王となった。Leyden 1821 p.24
—Palembang中国皇帝の使節の十隻の船が来ると、サン・サプルバは娘のスリ・デウィを中国へ嫁がせた。Leyden 1821 p.29
—TJPサン・サプルバはパレンバンを離れ、南へ六日間航海してタンジュン・プラに着き、歓迎された。Leyden 1821 p.29
—BINTANビンタンの女王の使者がスンダ海峡でサン・サプルバを迎え、ビンタンへ招いた。息子のサン・ニラ・ウタマは女王の婿とされた。Leyden 1821 p.35
—MENANGサン・サプルバはクアンタン川をさかのぼり、メナンカバウで大蛇を退治し、その地の王に推戴された。Leyden 1821 p.39

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