頼山陽『日本外史』

頼山陽『日本外史』(正史 の史料)。扱う年は1108年 〜 1657年、出来事195件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年1108年 〜 1657年
出来事の数出来事195件・地図に置いた166件
著者賴山陽
原題日本外史

地域の内訳: 日本 153 · 中国 29 · 朝鮮半島 13

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1108年Izumo源義親(對馬守)が出雲で官吏を殺し貢賦を奪うと、平正盛が追討使として出て義親を討ち、首を斬って京の獄門に掛けた。part_01 L93
1156年Kyoto (白河殿)崇德上皇が兵を挙げて白河殿に拠ったが、源義朝・平清盛らが攻め落とし、上皇は出奔して捕らえられ讚岐に流された。part_01 L97
1156年Kyoto保元の乱。源義朝が選り抜きの精兵400で白河殿を襲った。平清盛も駆けつけた。卷之二 L120
1159年Kyoto藤原信賴・源義朝が500の兵で三條殿を囲んで火を放ち、上皇と主上を禁中に幽閉した。清盛は反撃して大內を攻め、信賴を斬った。part_01 L99
1159年Kyoto平治の乱。源義朝が500騎で夜に三条殿を囲んで焼いた。卷之二 L126
1177年Kyoto藤原成親らが鹿谷の山荘に集まり平氏打倒を謀ったが、行綱の密告で露見した。part_01 L109
1177年Kyoto叡山の僧兵が神輿を先頭に宮中へ押し寄せると、源頼政が待賢門を守って立ち向かった。卷之二 L140
1179年Kyoto清盛が數千騎で入京し、關白基房らを失脚させ官職を改めた。part_01 L119
1180年Uji以仁王方の宇治川の戦い。源兼綱らが死に、源頼政とその子仲綱が戦死、王は南へ逃れ流れ矢に当たって死んだ。part_01 L123
1180年Fukuhara清盛が都を福原に遷し、帝・三宮・百官を福原に移した。part_01 L123
1180年Izu源頼朝が以仁王の令旨を奉じて伊豆で挙兵したが、相模の大庭景親に追われた。part_01 L123
1180年Fujikawa平維盛の軍が富士川に進んだが、夜に水鳥の羽音に驚き、人馬が踏み合って逃げ、西へ引き返した。part_01 L125
1180年Uji以仁王の挙兵。源頼政が宇治橋の板を外し、平氏の追撃軍2万を阻んだ。卷之二 L144
1180年Ishibashiyama源頼朝が300騎で石橋山に陣を張ったが、翌日、大庭景親ら大庭方の大軍に敗れ、山中に隠れた。卷之二 L148
1180年Fujikawa富士川。平氏の西軍は夜に水鳥の飛び立つ音に驚いて崩れ、逃げ散った。卷之二 L156
1180年Ishibashiyama8月、頼朝が伊豆・相模の豪族を集めて石橋山に拠ったが、大庭景親と戦って敗走した。part_07.txt 줄 42 (卷之四)
1181年Rokuhara平清盛が病篤く六波羅で没した。享年64、遺言で源頼朝の首を墓前に掛けよと命じた。part_01 L131
1183年Kurikara源義仲が夜襲し、平維盛軍は大敗、忠度・知度らが戦死した。part_01 L133
1183年Kyoto平氏が帝・皇太后らを奉じて京を去り西国へ向かい、去り際に剣璽を携え邸宅に火を放った。part_01 L137
1183年Mizushima源義仲軍(足利義清らが先鋒)が水島城で平氏軍と戦ったが、日食で暗くなった隙に平氏軍が攻め、北国の兵は大敗し、首1,200余級を失った。part_01 L143
1183年Tonamiyama礪波山(倶利伽羅)。木曽義仲が平氏軍を南の谷へ追い込み、2万近くを殺した。卷之二 L164
1183年Kyoto7月、木曽義仲と源行家が北方の軍6万を分けて入京した。京の人々は再び白旗を見ることになろうとは思わなかったという。卷之二 L164
1184年Uji義経軍2万5千が宇治川東岸に至り、川を渡って義仲軍を破った。佐佐木高綱が先に渡った。part_01 L283
1184年Awazu義仲は粟津で馬が沼にはまって動けなくなり、矢に当たって死んだ(31歳)。兼平もその後自害した。part_01 L287
1184年Ichinotani範頼は東門を、義経は鵯越の断崖の道を迂回して西門側から奇襲した。城は陥落し、重衡は生け捕られ、宗盛は船で屋島へ逃れた。part_01 L289
1185年Dan-no-ura壇浦の海戦。平氏軍は大敗し、知盛・教経は自害、時子は帝を抱いて入水、宗盛は生け捕られた。part_01 L156
1185年Yashima義経が屋島を夜襲して平氏を追った。那須宗高が舟上の扇を射落とし(扇の的)、平氏軍は海上へ退いた。part_01 L299
1189年Koromogawa泰衡軍が衣川を襲った。弁慶らは戦死し、源義経は妻子を刺して自害した。卷之三 L11
1190年Kyoto11月、源頼朝が入京し六波羅に留まった。まず法皇に拝謁し、その日のうちに入朝した。卷之三 L17
1192年Kyoto7月、天皇が詔して源頼朝を征夷大将軍に任じた。卷之三 L17
1193年Fujino曽我兄弟の仇討ち。伊東祐成が弟とともに、狩りの宿営の夜、工藤祐経の家に入って斬り殺した。卷之三 L19
1199年Sagamigawa源頼朝が没した(53歳)。前年の相模川の橋の落成式で落馬してのち病んだ。卷之三 L21
1200年Kizaki梶原景時が一族を率いて西へ逃れる途中、狐崎で土地の豪族に皆殺しにされた。卷之三 L23
1213年Kamakura和田合戦。和田義盛が150騎を三手に分け、北条義時・大江広元の邸を攻め、将軍の御所へ駆けた。卷之三 L31
1213年Kamakura5月2日、和田義盛が挙兵したが北条方の軍に押され、義盛以下が討ち死にした。part_07.txt 줄 51 (卷之四)
1219年Kamakura1月、鶴岡参拝の最中に公暁が源実朝と源仲章を斬り殺した。源氏の正統は絶えた。卷之三 L33
1219年Kamakura (Tsurugaoka)正月、鶴岡八幡宮で実朝が甥の公暁に襲われて死んだ。part_07.txt 줄 55 (卷之四)
1221年Uji6月、北条泰時が宇治を攻めた。相手は僧1万を川岸に配した陣で、泰時は梅雨で増水した川を渡って押し進んだ。part_07.txt 줄 61 (卷之四)
1232年Kamakura貞永元年、泰時が三善康連と相談して「式目」50条を定め、裁判の基準とした。part_07.txt 줄 69 (卷之四)
1247年Kamakura北条時頼が三浦泰村を攻めた。泰村は頼朝の法華堂へ逃れ、三浦一族270余人が死んだ。part_07.txt 줄 73 (卷之四)
1274年Tsushima10月、元軍1万ほどが対馬を侵し、地頭の宗資国が戦死した。まもなく壱岐に移り、守護代の平景隆が戦死した。part_07.txt 줄 79 (卷之四)
1281年Shikanoshima7月、北条実政が草野七郎に軍船2隻を与えて志賀島で迎え撃たせ、敵20余級を斬首した。part_07.txt 줄 79 (卷之四)
1324年Tajimi9月、後醍醐側の日野資朝・俊基が美濃の土岐頼兼・多治見国長を誘ったが、幕府側が察知して二人を殺した(正中の変)。part_07.txt 줄 85 (卷之四)
1331年赤坂城楠正成が赤坂に城を築き、天皇を迎える準備をした。卷之五 · part_03 글자위치 5451
1331年笠置幕府軍(本文に十余万騎)が西上する前に笠置が陥落し、天皇は神器を奉じて逃れた。卷之五 · part_03 글자위치 5531
1331年Kasagiyama後醍醐天皇が笠置山に籠城したが城は陥落し、天皇は逃走ののち捕らえられた。part_07.txt 줄 89 (卷之四)
1332年隱岐北条高時が天皇を隠岐に遷した。本文に、その待遇は承久の時より厚かったとある。卷之五 · part_03 글자위치 6102
1333年Rokuhara足利高氏が南から六波羅探題を攻め、探題軍2万を破った。探題は新帝を奉じて逃れ、近江で死んだ。part_01 L192
1333年金剛山幕府側の大軍(本文に八十万と称す)が金剛山で楠正成を攻め、正成は千余人で防いだ。卷之五 · part_03 글자위치 7503
1333年名和港天皇が名和港に着き、名和氏に頼った(先の隠岐からの脱出の続き)。卷之五 · part_03 글자위치 8450
1333年六波羅諸将が六波羅を囲み、結城親光が降った。本文に、両探題は東へ逃れ近江で死んだとある。卷之五 · part_03 글자위치 9279
1333年生品祠(上野)新田義貞が上野の生品社の前に旗を立てて挙兵した(本文に150騎が従う)。卷之六 · part_03 글자위치 35096
1333年鎌倉新田義貞が鎌倉で軍を放って戦い、北条高時一族は殺された。卷之六 · part_03 글자위치 35961
1333年Akasaka2月、阿蘇時春が赤坂城を攻めた。本間資貞が先登し、城はついに落ちた。part_07.txt 줄 89 (卷之四)
1333年Kamakura (Inamuragasaki)新田義貞が精鋭を選んで稲村崎から入り、幕府に火を放って鎌倉が陥落した。高時は自害し、殉じた者は6,800余人。part_07.txt 줄 93 (卷之四)
1335年Kamakura北條時行が鎌倉を攻め、直義は防ぎきれず西へ走った。尊氏は東征して時行軍を破り鎌倉に入った。part_01 L196
1335年鎌倉北条時行が乱を起こして鎌倉を襲い、直義は敗走した。卷之六 · part_03 글자위치 36905
1335年竹下12月12日、義貞は義助に皇子を奉じて竹下へ向かわせ、自らは箱根を攻めた。卷之六 · part_03 글자위치 37872
1336年Minatogawa大友貞宗・大內弘世が兵船で来て、湊川で官軍を迎え撃ち大勝した。part_01 L202
1336年Kyoto新田義貞軍が四方から京を攻め、南門の門楼を焼いた。高師直らが出戦して防ぐと、義貞は叡山に引き返した。part_01 L206
1336年湊川楠正成が湊川の北の民家に入り、鎧を解いて11の槍傷を負って死んだ(本文に享年43)。卷之五 · part_03 글자위치 13188
1338年安部野高師直が来て攻めると、北畠顕家は20余騎で囲みを破ろうとして死んだ。卷之五 · part_03 글자위치 14305
1338年足羽義貞が諸軍で足羽を攻め、流れ矢に当たって自ら喉を突いて死んだ(享年38)。卷之六 · part_03 글자위치 44657
1348年四條畷北軍が四条畷に至ると楠正行が防ぎ、戦死した(本文に年24)。卷之五 · part_03 글자위치 15836
1352年男山楠正儀が一族の和田正忠らと兵7千で天皇を奉じ、男山に陣を置いた。卷之五 · part_03 글자위치 16601
1358年足利尊氏が癰(腫れ物)で没した、享年54。北朝は従一位左大臣を追贈し、義詮が征夷大将軍を継いだ。part_01 L226
1359年筑後河(筑後川)少弐頼尚が軍6万で攻め、菊池武光が8千で迎え、筑後川を挟んで戦った。懐良親王が負傷した。卷之五 · part_03 글자위치 17451
1391年Uchino明徳の乱。義満が内野に陣を敷き、山名氏清軍を大宮・内野一帯で破り、氏清は死んだ。part_01 L248
1392年Daikaku-ji後龜山天皇が大覚寺で神器を後小松天皇に譲り、南北朝が合一した。part_01 L250
1392年大覺寺(京)義満が法駕を整えて吉野を発ち大覚寺に留まり、後小松帝に神器を渡した(両統の交代)。卷之五 · part_03 글자위치 19400
1416年鎌倉上杉氏憲が兵を挙げて持氏を囲み、持氏は馬で逃れて憲基の邸に入った。卷之八 · part_03 글자위치 21923
1439年永安寺(鎌倉)持氏が永安寺の塔に火を放ち、妻とともに自害した。卷之八 · part_03 글자위치 24017
1441年京(赤松邸)赤松満祐が家に武装兵300を伏せて義教を招き、宴の最中に義教を殺した。卷之八 · part_03 글자위치 25653
1441年白旗城(播磨)山名持豊が播磨に入って諸砦を落とし、白旗城を先に攻めて城兵は散った。満祐と渥美は自害した。卷之八 · part_03 글자위치 26147
1467年 〜 1468年相國寺西陣の畠山政弘・義就が相国寺を取り、首級を車八両に載せて西陣へ送った。東陣・西陣が京で対峙した。卷之八 · part_03 글자위치 31529
1489年足利義尚が近江鉤の陣中で病死した(25歳)。卷之九 L55
1490年足利義政が薨じた。延徳2年1月。卷之九 L55
1491年伊豆 堀越北条長氏(のちの早雲)が今川の援兵を含む500人で夜に黄瀬川を渡り、堀越を焼いた。反逆した茶々丸は逃れ、成就院で自害した。卷之十 · part_04 줄 5
1493年明応の政変。畠山政長は義植討伐軍を率いて敗れ、家臣と別れの酒を酌み交わして自害した。卷之九 L57
1495年相模 小田原早雲が伊豆韮山での狩りを口実に箱根路を借り、のち兵を駆って入り小田原を奪った。上総方の大将は逃げた。卷之十 · part_04 줄 7
1507年Kyoto6月、細川政元が潔斎ののち浴室に入った夜、家臣の戸倉に刺されて死んだ。卷之九 L59
1518年相模 新井城早雲方が新井城を長く囲んだ末に落とし、三浦義同とその子を殺して相模をすべて手に入れた。卷之十 · part_04 줄 9
1519年伊豆 韮山早雲(北条早雲)が没した、享年88。子の氏綱が跡を継いだ。卷之十 · part_04 줄 9
1524年武蔵 江戸北条氏綱が江戸城を奪った。上杉朝興は河越の方へ逃れた。卷之十 · part_04 줄 11
1537年武蔵 河越(川越)氏綱が7月15日夜の戦いで上杉朝定を大破し、河越を得た。卷之十 · part_04 줄 11
1542年Azukizaka今川義元の軍が曽根塚で織田信秀を攻め、信秀が応戦した(兵力差は大きい)。卷之十三 · part_05.txt L5
1546年武蔵 河越(川越)北条氏康が兵約8千で、上杉憲政・朝定・足利晴氏の連合約8万を夜襲で破った。本文に「殺傷二萬餘人」。卷之十 · part_04 줄 21
1547年Inaba-yama (Gifu)信秀が斎藤秀龍の稲葉山を攻めて城下に火を放ったが、斎藤方の反撃で味方は大敗した。卷之十三 · part_05.txt L5
1553年山城 京都長尾景虎(のちの謙信)が2千の兵で北陸を経て入京し、まず宮中を訪ね、将軍足利義輝に謁見した。卷之十一 · part_04 줄 70
1555年信濃 川中島8月、謙信が8千騎で信州に入り、川中島で信玄と対峙した。本文に「終日十七合」とあり、一日中勝敗が入れ替わった。卷之十一 · part_04 줄 74
1555年Kiyosu信長が駆けつけ、謀反人の彦五郎を囲んで殺し、清洲を手に入れて居所を移した。卷之十三 · part_05.txt L9
1555年Itsukushima毛利元就が厳島で陶晴賢の軍を攻め、味方は柵を破って突入し、敵軍は大敗した。卷之十二 · part_05.txt L124
1560年Okehazama信長が山道を回って義元の本陣を奇襲した。大雨と霧の中、味方が太鼓を打ち鳴らして陣に躍り込んだ(義元は首を斬られた)。卷之十三 · part_05.txt L15
1560年桶狹間今川義元が4万騎で尾張を攻めた時、信長が暴風雨の中を間道から奇襲し、義元は討ち死にした。권18 · 永祿3년 5월 단락
1561年信濃 川中島川中島の大戦の終盤。謙信軍が信玄の本陣に押し入り、信玄が馬を捨てて逃げた場面。書は「信玄脫走」と短く記す。卷之十一 · part_04 줄 84
1564年Gifu (Inokuchi)信長が美濃・尾張を平定し、井口に移って岐阜と改名した。卷之十三 · part_05.txt L21
1566年Tomita-jo毛利元就が富田城を7年囲んで降伏させた(7月、尼子義久が降伏)。卷之十二 · part_05.txt L130
1568年Kyoto信長が京に入り、義昭を清水寺に留め、自らは東福寺に陣を置いた。卷之十三 · part_05.txt L23
1570年Tsuruga (Tenzutsu-jo)信長が朝倉義景の討伐で敦賀に至り、天筒城を一昼夜で落として皆殺しにした。卷之十三 · part_05.txt L29
1570年Anegawa秀吉が信長に従い、6月に姉川で浅井・朝倉を攻め、続いて横山を守った。卷之十五 · part_05.txt L186
1570年姊川信長3.5万・家康5千が、浅井長政(8千)・朝倉景健(1.5万)と姉川で戦い、これを破った。권18 · 元龜元年 6월 단락
1572年Mikatagahara (Hamamatsu)12月、武田信玄の軍4万が三方ヶ原に陣を置き、浜松城の外に火を放った(挑発)。卷之十九 · part_05.txt L61
1573年三河 (平谷 부근)信玄が上洛の途中で病が再発し、自らが起き上がれぬと悟って後事を託した。本文に「年五十三」。卷之十一 · part_04 줄 98
1573年Odani8月、朝倉氏が滅んだのち、秀吉が小谷城を攻めて落とし、浅井長政父子を捕らえた。卷之十五 · part_05.txt L186
1574年長島9月、長島の残党(一向一揆)が脱出を図ると、信長方は三城の男女2万人を焼き殺した(史料に「燔殺」)。권14 · 天正2년 9월 단락
1575年三河 長篠勝頼が1万5千で長篠城を囲んだ。本文によれば、鉄砲と馬防柵の攻撃を受けて武田の重臣が相次いで戦死し、軍は崩れた。卷之十一 · part_04 줄 102
1575年Nagashino信長・家康の連合軍が長篠で武田勝頼を破り、一日に58度戦って1万余の首を取った。卷之十九 · part_05.txt L76
1575年長篠5月21日の明け方、織田・徳川連合軍が鳶巣の方から火攻めと銃撃を始め、武田方の1万3千級を斬首した(史料)。권14 · 天正3년 5월 21일 단락
1576年安土信長が近江安土山に天守を築いた(7層、高さ7丈)。近畿11国の兵を動員し、丹羽長秀が築城を監督した。권14 · 天正4년 1월 단락
1580年Miki春、秀吉が三木城を落とし、別所長治を自害させて城内の兵を助けた。卷之十五 · part_05.txt L192
1580年大坂(石山)4月、大坂本願寺の法主光佐が衆を解散して紀伊鷺森へ退いた。和約ののち教団は降伏した。권14 · 天正8년 4월 단락
1581年Tottori7月、秀吉が5万の兵で鳥取城を攻め、秀長が丸山城を攻めて、両城とも食糧が尽きた。卷之十五 · part_05.txt L194
1582年甲斐 天目山勝頼が新府を捨てて天目山に逃れ、最後の戦いののち死んだ(37歳)。子の信勝(16歳)も共に死に、武田家は滅んだ。卷之十一 · part_04 줄 116
1582年山城 京都(本能寺, 본문에 장소 없음)織田信長が家臣の明智光秀に殺された(6月)。事件の場所は本文にない。卷之十一 · part_04 줄 120
1582年Tenmokuzan勝頼が逃れ、残兵とともに天目山に入ったが、織田軍に迫られて死に、首は信長に送られた。卷之十九 · part_05.txt L84
1582年Takamatsu (Bitchu)5月、秀吉が釜鼻岡に陣を移し、城の南に堤を築いて川の水を引いた(水攻め)。卷之十五 · part_05.txt L194
1582年Honno-ji (Kyoto)6月、明智光秀が丹波の兵で本能寺の信長を攻めて殺した。卷之十五 · part_05.txt L196
1582年Yamazaki山崎の戦いの直前、秀吉が天王山を望み、先に奪われては不利だと言った。敵の旗が上がると堀尾吉晴がこれを奪った。卷之十五 · part_05.txt L200
1582年天目山3月、勝頼父子が天目山で囲まれて捕らえられ、首を信長に献じた。武田氏は滅んだ。권14 · 天正10년 3월 단락
1582年本能寺6月の明け方、明智光秀が本能寺を囲んで襲った。信長は弓を射たのち火を放って自害した(史料に49歳)。권14 · 天正10년 6월 단락
1582年山崎6月、秀吉が後方を担い、山崎で光秀を破って誅した。권14 · 天正10년 6월 단락
1582年Kannagawa本能寺の変の報ののち、滝川一益が8千の兵で鉋川に陣を置いたが、北条氏直の全軍が続々と来て、不利に戦って退いた。part_07.txt 줄 3 (卷之十四)
1582年Kiyosu清洲で秀吉と会議し、三法師を信長の嫡孫として後継に立て、領地を分けた。part_07.txt 줄 3 (卷之十四)
1583年Shizugatake柴田方の佐久間盛政が夜に1万の兵で余呉湖の東を回り、明け方に岳麓に至って中川清秀の陣を攻めた。卷之十五 · part_05.txt L208
1583年Yanase2月、柴田勝家が柳瀬に出兵すると、秀吉が自ら出て迎え撃った。part_07.txt 줄 5 (卷之十四)
1583年Gifu4月、信孝が再び挙兵すると、秀吉が岐阜を囲み、信孝は敗れた。part_07.txt 줄 5 (卷之十四)
1583年Kitanoshō秀吉が北庄城を幾重にも囲むと、勝家は夜の宴ののち、妻(信長の妹)とともに自害した。part_07.txt 줄 7 (卷之十四)
1584年Komaki-Nagakute小牧・長久手。家康は二人の婿(池田・森)の敗北を見て「父(秀吉)を討て」と叫び、全軍を突撃させた。卷之二十 L186
1584年Nagakute4月、家康・信雄が秀吉方の池田信輝・森長可を長久手で奇襲して殺した。卷之十五 · part_05.txt L214
1584年Komaki信雄が家康と兵2万を合わせて小牧に陣を置き、秀吉は12万で犬山に駐屯した。part_07.txt 줄 9 (卷之十四)
1584年Kuwana11月、秀吉が8万で伊勢に入って対峙すると、信雄は和議に応じ、桑名城下で盟約した。part_07.txt 줄 11 (卷之十四)
1586年Jurakudai11月2日、家康が聚楽第に入り、秀吉主催の宴で諸侯とともに礼を行った。卷之二十 L206
1586年京(교토)京都に方広寺を建て、木造の大仏(高さ16丈)を造り、数万人を動員した。권15 · 天正14년 단락
1587年岩石城秀吉の養子秀勝が岩石城を攻め、蒲生氏郷・前田利家が補佐した。城が落ちたのち秋月種実が降伏した。권15 · 天正15년 4월 단락
1587年太平寺(薩摩)島津義久が剃髪し、近臣5~6人とともに泰平寺に出て降伏し、秀吉が引見した。권15 · 天正15년 5월 단락
1588年聚樂第後陽成天皇が聚楽第に行幸し、秀吉が文武百官を率いて供奉した。권15 · 天正16년 4월 단락
1590年Odawara小田原陥落ののち北条氏直が降伏し、翌日北条氏政が自害した。卷之二十 L220
1590年Edo8月1日、家康が軍を率いて江戸に入り、居を定めた。卷之二十 L220
1590年相模 小田原秀吉が25万を率いて来て、3月に山中城を落とし、4月に小田原を囲んだ。北条政権滅亡の始まり。卷之十 · part_04 줄 37
1590年小田原7月、北条氏直が城を出て降伏し、秀吉は使者4人を遣わして氏政に死を賜った。권15 · 天正18년 7월 단락
1590年Nirayama秀吉が北条氏を討つ際、信雄が兵1万5千で助け、韮山を攻めた。part_07.txt 줄 13 (卷之十四)
1592年Seoul4月、浮田秀家らが軍を率いて朝鮮に入った(文禄の役の開始)。卷之二十 L226
1592年 〜 1598年秀家らが朝鮮を再び攻めて明と戦い、勝敗は決しなかった。外征は前後7年続いた。卷之二十 · part_03 글자위치 1890
1592年釜山4月13日、小西行長が釜山に達し、釜山鎮の守将鄭撥(史料に「鄭撥」)を生け捕りにして陥落させた。권16 · 文祿元년 4월 13일 단락
1592年漢城(한양)加藤清正の軍が5月4日に漢城の南大門に着くと、門を守る兵の旗印はすべて小西方のものだった。권16 · 文祿元년 5월 단락
1592年平壤朝鮮側の尹斗寿・金命元が平壌を捨てて逃げ、小西が入城して、蓄えられた穀物10余万石を確保した。권16 · 文祿元년 6월 단락
1593年Pyongyang正月、明の李如松の大軍が平壌を落とし、小西行長は敗走した。卷之十二 · part_05.txt L154
1593年Byeokjegwan (Pyongyang–Seoul road)斥候の報告。李如松の軍が碧蹄館に至った(10余万騎)。続いて味方が6隊に分かれて迎え撃ち、明軍は大敗した(同じ節)。卷之十二 · part_05.txt L154
1593年Jinju6月、毛利秀元が諸将とともに晋州を攻めて落とした。卷之十二 · part_05.txt L154
1593年平壤(철수)明軍の李如松が平壌に迫ると、小西は夜にひそかに城を出て、凍った川を渡り鳳山へ向かった。권16 · 文祿2년 1월 단락
1593年碧蹄館小早川隆景が3万で碧蹄館に明軍を迎え、長く戦った。史料は明軍1万を斬首したと記す。권16 · 文祿2년 1~2월 단락
1593年晋州城6月、諸将が晋州城を落とし、城将の徐礼元・金千鎰らを殺し、6万余人を殺戮したのち城を壊した(史料の記述)。권16 · 文祿2년 6월 단락
1595年聚樂第(京)秀吉が伏見から京師へ使者を送り、聚楽第で秀次を詰問した。秀次はのちに殺された(本文後段に「秀次已被殺」)。卷之二十 · part_03 글자위치 625
1596年伏見9月3日、伏見で明の冊書を読むうち、「封爾爲日本國王」の一節で秀吉が顔色を変え、冕服を脱ぎ捨てて冊書を破り裂いた。권16 · 慶長元년 9월 2일 단락
1597年陸奥 会津秀吉が上杉景勝を越後から会津に移し、120万石を与えた。景勝は本来の収入をより大きく申告したが、削られた。卷之十一 · part_04 줄 124
1597年Ulsan12月、明軍が加藤清正を蔚山で囲み、翌年正月に救援が出動した(秀秋・秀元)。卷之十二 · part_05.txt L156
1597年巨濟8月、小西が伏兵を置いたのち元均(史料に「元鈞」)を追い、巨済に逃げたところを夜襲して斬首した。史料の記述で、通説(漆川梁海戦)とは異なる。권16(뒤쪽) · 慶長2년 8월 단락
1597年 〜 1598年蔚山城蔚山城が明軍に囲まれ(飲み水が絶たれ)たのち、加藤清正が船で救援し、城内外が門を開いて合撃して明軍は崩れた。권16(뒤쪽) · 慶長2년 12월~慶長3년 1월 단락
1597年泗川10月1日、明の董一元の連合軍が島津方の新寨を攻めた。島津義弘・忠恒が出て破り、3万余級を斬首した(史料)。권16(뒤쪽) · 慶長2년 10월 단락
1598年伏見城秀吉が諸将と誓いを交わし、十日余りののち城中で没した。遺命を石田三成・前田玄以に伝え、喪を秘した。卷之二十 · part_03 글자위치 2826
1598年豊臣秀吉が没した。以後、徳川家康の権勢が独り大きくなった。場所は本文にないため地図には置かない。卷之十一 · part_04 줄 124
1598年秀吉が没した(史料では8月13日)。臨終に「勿使我十萬兵爲海外鬼」と言い、享年63。권16(끝쪽) · 慶長3년 8월 13일 단락
1600年信濃 上田真田昌幸と幸村が上流を堰き止めて敵を誘い、水を切って落とし、徳川東軍3万を阻んで遅らせた。卷之十七 · part_04 줄 156
1600年美濃 関ヶ原関ヶ原の戦い。明け方ごろから両軍が大戦した(辰〜未の刻)。小早川秀秋が裏切り、大谷吉継は陣中で自害した。卷之十七 · part_04 줄 156
1600年Fushimi20日、宇喜多秀家・小早川ら10将が4万で攻めた。城内の兵は2,000(鳥居元忠ら)。8月初めに陥落した。part_07.txt 줄 142 (卷之廿一)
1600年Gifu池田輝政・福島正則らが川を渡って攻め、岐阜城が陥落した。秀信は降伏して高野山に逃れた。part_07.txt 줄 158 (卷之廿一)
1600年Sekigahara9月15日の明け方、東軍・西軍が関ヶ原で激突した。西軍側の4万余級を斬首(原文に「斬首四萬級」)、東軍の死傷は4,000未満。part_07.txt 줄 172 (卷之廿一)
1600年Kyoto (Rokujō-gawara)10月初め、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が六条河原で斬首された。長束正家の首は三条に梟された。part_07.txt 줄 182 (卷之廿一)
1603年Kyoto2月、天皇が家康を征夷大将軍に任じた。2月22日に入朝して拝命した。part_07.txt 줄 196 (卷之廿一)
1614年摂津 大坂徳川方が諸将を率いて大坂方を攻めた。大坂冬の陣の始まり(11月)。卷之十一 · part_04 줄 128
1614年Osaka Castle東軍およそ50万が大坂城を四方から囲んだ(冬の陣の包囲)。卷之廿二 · part_08 L5
1614年 〜 1615年Osaka Castle冬の陣の講和。堀を埋め、浪人を追放する条件で和議が成立した。卷之廿二 · part_08 L13
1614年Nijo Castle (Kyoto)大坂から送られた刺客が上京し、御車を狙い二条城を焼こうとしたが、捕らえられた。卷之廿二 · part_08 L3
1615年摂津 天王寺真田幸村が天王寺一帯の戦いで戦死した(46歳)。本文に「幸村終死之」。卷之十七 · part_04 줄 196
1615年摂津 大坂城大坂城落城ののち、豊臣秀頼が自害した(23歳)。母の淀殿ら数十人も殉じた。豊臣家は滅んだ。卷之十七 · part_04 줄 200
1615年Domyoji道明寺の戦い。大坂方の後藤基次が戦死した。卷之廿二 · part_08 L27
1615年Wakae若江の戦い。木村重成が戦死した。卷之廿二 · part_08 L27
1615年Osaka Castle大坂城は天守まで焼け落ちて陥落し、煙は天を衝いた。卷之廿二 · part_08 L37
1615年Osaka Castle豊臣秀頼・淀殿らが穀物蔵で自害した。卷之廿二 · part_08 L39
1615年Kyoto長宗我部盛親が京都の六条河原で斬首された。卷之廿二 · part_08 L41
1615年Sakai大野道見が堺の浦で磔にされた。卷之廿二 · part_08 L41
1615年Fushimi Castle伏見で諸侯を集め、新法令(武家諸法度、13か条)を発布した。卷之廿二 · part_08 L43
1615年全国の五畿七道に城郭の破却が命じられた。卷之廿二 · part_08 L45
1616年Sunpu Castle徳川家康が没し(駿府、75歳)、久能山に葬られた。卷之廿二 · part_08 L47
1617年Nikko家康の遺骸が日光に改葬され、新たな社殿が建てられた。卷之廿二 · part_08 L49
1619年Shinano Province福島正則の封地が没収され、配流先は信濃に改められた。卷之廿二 · part_08 L53
1622年Dewa Province本多正純が失脚し、出羽に配流された。卷之廿二 · part_08 L55
1623年Kyoto世子家光が京都に入り、将軍秀忠は上書して職を退いた。卷之廿二 · part_08 L57
1623年Bungo Province松平忠直が豊後荻原に配流され、剃髪して一伯と称した。卷之廿二 · part_08 L57
1626年Nijo Castle (Kyoto)天皇が二条城に行幸し、二人の将軍が宴を催した。卷之廿二 · part_08 L57
1632年徳川秀忠が没し(54歳)、増上寺に葬られた。卷之廿二 · part_08 L59
1637年Shimabara Castle島原の乱。旧小西家の残党がキリスト教を掲げて島原城を占拠した。卷之廿二 · part_08 L63
1638年Shimabara Castle島原の戦い。板倉重昌が戦死し、松平信綱が到着したのち城は陥落した。卷之廿二 · part_08 L65
1651年将軍家光が没し(48歳)、日光に葬られた。卷之廿二 · part_08 L65
1657年Edo明暦の大火(江戸)。日を越えても消えず、城郭・屋敷の大半が焼けた。卷之廿二 · part_08 L75

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