『パキュメレス歴史』

『パキュメレス歴史』(正史 の史料)。扱う年は1255年 〜 1308年、出来事164件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年1255年 〜 1308年
出来事の数出来事164件・地図に置いた61件

地域の内訳: 南ヨーロッパ 110 · 西アジア 50 · 西ヨーロッパ 2

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1255年 〜 1308年Mysiaミュシアの地で略奪品をかき集める記述。この行だけでは誰の行為か不明(ムザロンのムザロヌム所領と関係があるらしい)。L1243-L1244
1255年 〜 1308年Constantinopolisコンスタンティノープルを包囲・占領する計画。成功すればそこでローマ皇帝として宣言されるという構想(主体はこの行の文脈では確認できず)。L2488-L2489
1255年 〜 1308年urbs (콘스탄티노폴리스 추정)ラテン人が守る都市を攻撃しようという提案があっても、兵士たちは動じなかった。L2578-L2579
1255年 〜 1308年隠れていた者が見つかり、不名誉のうちに捕らえられた。「大事は短い間に容易く終わった」。L2692-L2693
1255年 〜 1308年Ganos (Ganum mons)夜、敵を避けて皇帝はガノス山に登った。供の者たちを置き去りにし、各自に生き延びる道を探させた。L209-217
1255年 〜 1308年Constantinopolisミカエルの息子ヨアンネスが人質として引き渡された。その母は協定を結ぶためコンスタンティノープルへ向かった。L701-704
1255年 〜 1308年Nicaeaニカイアの牢獄に戦争捕虜が収容されていた。混乱の中、敵が入り込んだと見なされた箇所。次の行は未確認。L963-968
1255年 〜 1282年皇帝はオレスティア遠征を準備し、ジェノヴァ人の傲慢を挫くことにした。L13-19
1255年 〜 1282年Constantinopolis皇帝は勅令でジェノヴァ人との交易(染料・羊毛の取引)を禁じた。L84-91
1255年 〜 1282年Constantinopolisジェノヴァの船が皇帝に無断でコンスタンティノープルの沖を通ると、皇帝は怒り、ジェノヴァ人を屈服させる方法を探した。L152-158
1255年 〜 1282年Constantinopolisジェノヴァの水夫が口論の末に一人を殺すと、皇帝はジェノヴァ人にその者(漕ぎ手)を引き渡すよう求めた。L413-421
1255年 〜 1282年Constantinopolis皇帝はマヌエル・ムザロンに、ジェノヴァ人を一人残らず直ちに殺すよう命じ、軍は家々を捜索する準備をした。L453-458
1255年 〜 1282年コンスタンティヌスとの婚姻と譲渡の約束(メセンブリアの引き渡し)が破れ、再び争いになった。L519-525
1255年 〜 1282年Jerusalem皇帝はヨセフ・カタルスをパレスチナへ送り、総主教たちの間で皇帝を陥れる工作を進めさせ、スルタンを動かそうとした。L582-588
1255年 〜 1282年コンスタンティヌス側の勢力が強まると、皇帝は大規模な徴兵で対抗した。L868-874
1255年 〜 1282年ラカナスはブルガリア王の軍を破り、王を殺した。その後、都市を次々と奪った。L951-960
1255年 〜 1308年七月十二日、ボスポロス海峡を渡って皇帝のもとへ向かった。リクニア修道院で歓迎を受けて宿泊した。part11 L1050-1051
1255年 〜 1308年同年、皇帝アンドロニコスが東方から戻った。part11 L1865-1866
1255年 〜 1308年まもなくアンナ夫人が死去した。夫が東方から都に戻った後、皇帝のもとに訃報が届いた。part11 L2026-2027
1255年 〜 1308年プルサに滞在していた皇帝のもとに、ペスファの情勢の知らせが届いた。皇帝はニコラオスの後を継いだマルティヌスに使節を送った。part11 L2376-2377
1255年 〜 1308年obsessa arx (성채 이름 없음)包囲された敵の城塞の中で敵将が捕らえられたという知らせが、皇帝の陣営全体に広がった。L73-74
1255年 〜 1308年Constantinopolis (궁전 벽)皇帝は、この勝利と凱旋行列の全過程を宮殿の壁に描かせるよう命じた。神に感謝するための記念としてである。 判定保留L229-230
1255年 〜 1308年Constantinopolis (Blachernae palace)皇帝はブラケルナイ宮殿の高い所に立ち、捕虜が一人ずつ連行されていく凱旋行列を見た。L241-244
1255年 〜 1308年皇帝は若く勢いのあるヨアンネスを婚姻によって自らの一族に結びつけようとした。L466-469
1255年 〜 1308年Constantinopolisラゾイ(ラジ)の使節が伝えたところによると、ヨアンネスはコンスタンティノープルへ行き、皇帝の娘と結婚することを誓った。L561-565
1255年 〜 1308年Lopadium皇帝の召喚を受けてロパディオンへ赴いた人々は、皇帝に歓迎され、もてなしを受けた。L627-631
1255年 〜 1308年ノガの要請と皇帝の頼みに応じて、蛮族の軍勢が自国を出て、ヨアンネスの領地へ攻め入る構えで待機した。L683-687
1255年 〜 1308年皇帝たちを乗せた船は突然天候が悪化し、荒波に揺さぶられて沈没寸前まで追い込まれた。L846-850
1255年 〜 1308年Thessalonicaテッサロニキに滞在していたアウグストゥスのもとを離れ、アンドロニコスの下へ行った。本文では主語が不明確。part_20 줄 106~112
1255年 〜 1308年ブルガリアのミカエルのもとに使節が送られた。ミカエルはトルノヴォの外をさまよい、首都に入ることができなかった。part_20 줄 267~274
1255年 〜 1308年Constantinopleラゾイ族の君主イオアニスが死去。妻エウドキアは息子を連れて首都へ向かった。part_20 줄 431~436
1255年 〜 1308年総主教はセルビアとの同盟を思いとどまらせた。part_20 줄 918~921
1255年 〜 1308年Thessalonicaテッサロニキの縁談相手が婚姻前に死去。皇帝は都市の返還を求めたが、セバストクラトルたちは引き延ばした。part_20 줄 969~976
1255年 〜 1308年ヴェネツィア側は抵当財産の大部分を皇帝に引き渡す交渉をした。part_20 줄 1057~1061
1255年 〜 1308年ミカエル9世の東方遠征。軍はクレタからカリポリスへ渡り、将軍の命令を無視した。part_20 줄 1928~1933
1255年 〜 1308年皇帝軍同士の内戦のような戦い。皇帝に忠誠を誓った者同士、ローマ人と蛮族が争った。part_20 줄 2405~2411
1255年 〜 1308年Constantinopleアンドロニコスはヴェネツィア艦隊による首都への挑発を止めず、反撃を遅らせた。part_20 줄 2530~2534
1255年 〜 1308年ノガイ勢力。同じ家系のトゥクタイスが古い権利を取り戻そうと遠征し、ノガスは戦いに敗れた。part_20 줄 172~179
1255年 〜 1308年ツァカスは軍を率いてブルガリアを攻め服属させようとし、オスペンティストラブスと手を組んだ。part_20 줄 206~213
1255年 〜 1261年Nicaeaニカイア近郊での戦いと敗北。敵が城門の真下まで迫った。L47–48
1255年 〜 1308年カタロニア艦隊との海戦が続いた。敵船を阻止し、迎え撃ちながら戦いを続けた。줄 245–247
1255年 〜 1308年Adrianople側近およそ150名を率いてアドリアノポリのミカエル皇帝を訪ね、表向きは見舞いと称した。줄 1445–1447
1255年 〜 1308年皇帝はジェノヴァ人に金を支払い、艦隊指揮官(navarch)を一人送ってくれるよう頼んだ。줄 1764–1765
1255年 〜 1308年皇帝側の艦隊は敵船を拿捕し、乗組員ごと曳航した。翌日、護送された。줄 2169–2172
1255年 〜 1308年市全体で忠誠の誓い(iuramenti)を再び行う儀式が繰り返された。줄 2430–2431
1255年 〜 1308年Adrianople高い場所から降りようとした人々を下の警備兵が止めると、アドリアノポリの住民が駆けつけて警備兵に加勢した。줄 2667–2671
1255年 〜 1308年Hebrus最近の戦勝で大胆になったアモガバリ勢力により、マリツァ川(ヘブロス)のこちら側の地域は略奪の恐怖から逃れられなかった。l.57-58
1255年 〜 1308年カタロニア人が占拠しているという城。皇帝側は条件を伝えるため使節を送ることにした。l.159-160
1255年 〜 1308年トゥルコプリは別の場所に砦を築いた。アラン人クツィンパクシスが来て、ローマ人に大きな損害を与えた。l.591-592
1255年 〜 1308年マクレノスは、ローマ人に忠実なアモガバリ60人を選び、救援に送った。l.839-840
1255年 〜 1308年褒賞を約束すればトルコ人を説得して戦わせられると信じた。ペルシア人は同盟者だった。l.1101-1102
1255年 〜 1308年Madytosマディトス。長い飢えで弱ったところを奇襲され陥落し、多くの殺戮があった(前出)。l.1657-1659
1255年 〜 1308年Callipolisカリポリス。守備兵はわずかしか残っていないとの報告があり、城塞を攻める機会をうかがった。l.1771-1772
1255年 〜 1308年アモガバリとの和約を思いとどまらせるために人を送った。ジェノヴァ人は、必要な理由から交渉に引き込まれていると答えた。l.2504-2505
1258年テオドロス2世が死去。息子のヨハネス4世が幼くして帝位を継いだ。part_01.txt:L791-792
1258年ムザロンが幼いヨハネス4世の後見役となった。part_01.txt:L793-794
1258年軍が反乱を起こし、ムザロンを殺害した。part_01.txt:L796
1258年 〜 1261年内戦と殲滅戦の兆候を示す措置が、すでにその時点で実行されていた。L342
1258年 〜 1261年Nicaea教会問題で皇帝が耳を貸さなかったため、[ある人物]がニカイアの門の方へ歩いて出て行った。L1285
1259年アカイア公がローマ人(ニカイア側)に捕らえられた。part_01.txt:L808
1259年ミカエル・デスポテスがローマ人を破り、カエサルを捕らえた。章の冒頭の文だけを読んだもので、事実関係は未確認。part_01.txt:L808-809
1259年パライオロゴスは即位式で交わした約束を破り、皇帝として即位した。part_01.txt:L857-858
1259年 〜 1262年ブルガリア王妃イレネ(テオドロス・ラスカリスの娘)が夫にミカエルの領地への侵入をけしかけた。ブルガリアが新たな動きを準備。part04 L37-40
1259年アカイア公はローマの将軍たちに捕らえられた。イオアンネス・ノトゥスの裏切りによるものである(編者注の要約)。part_14.txt:L1044-1045
1259年1259年9月、ミカエルが権力を握った。大公・専制君主の称号を経て、年末に共同皇帝となった。part_16.txt:L1161-1164
1260年 〜 1261年皇帝はコンスタンティノープル奪回を準備しながら、セリンブリアを陥落させた。part_01.txt:L864-865
1260年 〜 1261年皇帝がガラタ城塞を攻撃した。part_01.txt:L870
1261年Constantinopleローマ人がその都市(コンスタンティノープル)を取り戻した。part_01.txt:L876
1261年 〜 1264年Constantinopolisコンスタンティノープルに来たイタリア人の使節団に、皇帝は休戦を許した。L984
1261年Constantinopolis都市が皇帝の権力に戻ったのち、相手側は妻と息子を送って和平を協議させた。L1042
1261年 〜 1264年皇帝は奪ったばかりのセリンブリアへ渡り、都市の占領を計画したが、中止した。L1271
1261年 〜 1282年約19か月の間に教会の高位聖職者が数名、相次いで死去した。ヨアンネス・ベッコスを含む。L1876
1261年 〜 1265年城塞が陥落すれば都市をラテン人に引き渡さねばならないと考え、双方が最後の力を振り絞って戦った。L2013
1261年 〜 1282年損害と非難を恐れた包囲側は、包囲を解いて攻撃をやめた。L2064
1261年 〜 1282年「ブルガリア人殺し」バシレイオス・ブルガロクトヌスの墓が発見され皇帝に報告された。皇帝は感動し、贈り物と歌い手を送った。L2120
1261年 〜 1282年Nicaea皇帝はスルタンの家族(妻と子)を保護の名目でニカイアに送った。L2569
1261年 〜 1282年皇帝は新たに勢力を伸ばしたトカロイ族を恩恵で引き留め、敵対を防ごうとした。L2632
1261年 〜 1282年ミカエル・デスポテスは、叔父と父が武力で得た土地を奪われたので、それを取り戻そうとした。L2895
1261年ラテン勢力はダフヌシアを攻撃中、コンスタンティノープル陥落の報を聞いて驚き、散り散りになった。part04 L455-456
1261年Constantinopolisミカエルは武力で取り戻した都市の戦利品のうち皇帝の取り分を充て、庶民の取り分は先送りにした。part04 L1188-1191
1261年 〜 1262年Constantinopolisミカエルはジェノヴァ・ヴェネツィア・ピサの人々を懐柔して捕らえようとし、従わなければ武装解除しようとした。part04 L1486-1489
1261年Constantinopolisミカエルは老総大主教を説得してコンスタンティノープルに来させ、そこで自分が再び戴冠することを望んだ。part04 L2016-2017
1261年 〜 1262年ミカエルはヨアンネスの姉妹をローマ人と結婚させず、ラテン貴族に与えた。反乱の口実を断つため。part04 L2643-2645
1261年 〜 1265年Constantinopolis皇帝は都の防衛のため、外の兵力を都の内に入れ、軽装兵を多く配置した。皇帝直属の騎兵は出撃に備えて待機させた。part_05 L115–120
1261年 〜 1262年皇帝の命令により、まだ幼い子供(ヨハネス4世ラスカリス)の目を潰すことになった。子供は事情を知らない。part_05 L362–367
1261年 〜 1263年皇帝のもとを離れる者たちは、皇帝の衣装を着た者を皇帝として奉じると表明した。皇帝は激怒した。part_05 L534–539
1262年 〜 1267年ボードゥアンがシャルルのもとへ逃げたという知らせに、ミカエルは驚いた。シャルルと婚姻関係を結ぶという話(主語は推定)。part04 L1581-1584
1262年 〜 1264年山上の要塞は地形のおかげで包囲軍を長く持ちこたえた。包囲の膠着。part_05 L716–721
1262年 〜 1264年人質を取って安全な帰還を保証し、偽の「ヨハネス・ラスカリス」を見捨てれば褒賞を与えると提案した。part_05 L803–806
1262年 〜 1269年皇帝側の三段櫂船がラテン支配の島々をいくつか奪還し、守備隊を置いた。ナクソス占領の報も届いた。part_05 L1266–1269
1262年 〜 1264年マクレノスはペロポネソスでビザンツ側が奪ったものを公(プリンキプス)に引き渡し、皇帝に逆らうつもりだと告発した。エウロギアが兄弟に知らせた。part_05 L1464–1465
1263年 〜 1266年Sicilia教皇はフランス王の弟シャルルを立て、教皇が反逆者と背教者と断じた者たちから王国を奪わせた。part_05 L5–10
1265年 〜 1266年パキメレスら四名の一行は7月25日に船に乗り、二日後に島に着いて総大主教を訪ねた。裁判の被告に会いに行く途中。L543–550
1266年皇帝は最多得票の一人を総大主教に立てた。12月8日。名はこの行にはない。L1801–1802
1266年 〜 1270年Pannoniaシャルルの勝利の後、ミカエル8世はパンノニア(ハンガリー王室)に使節を送ることにした。L2530–2536
1267年Constantinople1267年5月25日、コンスタンティノープルでほぼ皆既に近い日食が見えた(12分間隠れた)。part_16.txt:L339-343
1267年日食の直前、ゲルマノス3世が解任され、後任にヨセフが選ばれた。part_16.txt:L344-346
1268年Antiochバビロン(マムルーク)のスルタンがアンティオキアを占領して破壊した。その後もイタリア人との敵対的な戦争は続いた。2121–2124
1272年Orvietoグレゴリウス10世はオルヴィエートで、皇帝ミカエル8世に宛てた書簡を書いた。part_16.txt:L46-47
1273年 〜 1274年Constantinople皇帝側は、聖餐の儀式でラテン人と交わり、教皇の名を唱えることに同意する条件を書き記した。ラテン人が都市を握っている間は彼らを助けないという但し書き付き。part09 L161
1273年 〜 1274年Constantinopleシャルルの脅威が去ったので、皇帝はラテン遠征を延期してもよいと考えた。教会の分裂を唱える側の口実が消えたという箇所。part09 L809
1273年1273年、その集まりで、ホロボロスは皇帝の寵愛を失った。part_16.txt:L48-49
1273年Romeグレゴリウス10世はローマを発ち、フランス方面へ向かった。part_16.txt:L292-294
1273年Proconnesusアルセニオスはプロコネソスで死去した。死の前に遺体を動かすなと言ったかどうかをめぐって争いが起きた。2050–2053
1274年 〜 1275年Rome使節団は船でローマへ行き、教皇のもとに着いて任務を報告した。part09 L1516
1274年 〜 1275年Constantinople使節が和解を伝えると、総主教の罷免と教皇の名の公開朗読が続いた。part09 L1555
1274年 〜 1275年Constantinople教会で副助祭が教皇を公式に呼び上げ、グレゴリウス10世を使徒座の首座司教にして普遍の教皇と宣言した。part09 L1620
1274年Lyonギリシア教会とラテン教会の和解の過程。注に登場する人物がリヨン公会議に出席した(編者注)。part_14.txt:L1921-1922
1274年Lyonリヨンで、グレゴリウス10世が主宰する世界公会議が開かれた(ギリシア側との和解が議論された)。part_16.txt:L295-296
1275年 〜 1282年皇帝はデスポテス・ヨアンネスに東方の兵とスキタイの補助兵を与え、イリュリア人とトリバロイ人の地を経て、ペネイオス川の向こうのギリシア本土へ進ませ、デスポテス・ミカエルと戦わせた。part_05 L1274–1279
1275年Constantinopleヴェックスは聖霊降臨の日にコンスタンティノープル総主教として叙階された。part_16.txt:L219-220
1276年 〜 1281年Constantinople皇帝は教皇に使節を送り、シャルル・ダンジューの計画を密かに探らせた。part09 L2286
1276年 〜 1281年Rome使節が講和の成立を伝えると、教皇庁ではシャルルが脅しながら教皇を説得している様子が見えた。part09 L2328
1280年 〜 1292年皇帝はブルガリア王テルテルとの同盟を再び結んだ。テルテルは、アサンが退いた後に王位についた者である。938–939
1281年Orvietoマルティヌス4世はオルヴィエートで、ミカエル8世を標的とする憲章を公布した。part_16.txt:L2859-2861
1281年 〜 1282年Cyzicusミカエル皇帝はペルガモンで持ちこたえられず、キュジコスへ向かった。L2281–2283
1281年 〜 1282年ブルガリア王スペンティストラブスが、娘と以前の婚姻の件で動いた(冒頭のみ確認)。L2936–2937
1282年Allageアラゲは、皇帝が生涯を終える場所として神が定めた地だと記している。 判定保留L905-909
1282年十一月、和約の文書がすべて整ったという知らせが届いたが、皇帝は重い病のため会見が延期された。L956-960
1282年ミカエル8世パレオロゴスは十二月十一日の聖金曜日(パラスケウェ)に死去し、印章が予告したことが現実となった。L1104-1106
1282年 〜 1308年皇帝はプロトヴェスティアリオスのタルカニオテスに軍を与え、西の陸路へ送り出した。デメトリアスまで進軍せよとの命令である。1388–1390
1282年 〜 1285年Constantinopleコンスタンティノープルで、皇帝に対抗して民衆を扇動し、カルロを排除しようとする陰謀があった。カルロは存命であった。1502–1503
1282年 〜 1292年ブルガリア王テルテルは皇帝と仲違いした。息子オスペンティストラボスと婚約させるため、娘を家に連れ戻していた。1584–1586
1282年 〜 1308年Rhaidestos嵐に流された船がライデストスの海岸に着き、乗っていた逃亡者、すなわち皇帝の臣下たちが引き渡された。1681–1683
1282年 〜 1308年スキタイ(クマン)の集団およそ10万人がドナウ川の向こうから出て、ブルガリアを通り、外郭の峠に陣取った。マケドニアとトラキアの略奪が懸念された。1882–1887
1282年 〜 1308年Constantinopleミカエル8世の遺骸をセリュンブリアから移し、ブルガリア人殺し(バシレイオス2世)の墓の向かいに安置した。2925–2928
1282年Pegaeミカエル皇帝は病から回復したが、なおペガエに留まった。L2899–2900
1282年Sicilyミカエルはシチリア王と同盟し、アンジュー家のシャルルとの戦争に加わった。L2413–2414
1282年 〜 1308年Philadelphiaアリシラスはカルマニ軍とともにフィラデルフィアを厳重に包囲し、城壁周辺の砦を複数陥落・制圧した。part22:L389
1282年 〜 1308年翌日また戦闘が始まった。アラン人はイタリア人の傲慢な侮辱に耐えられなかった。part22:L456
1282年 〜 1308年ブルガリア出身の指揮官クラニスラブスは、ラカナスとの争いに巻き込まれた(ミカエル皇帝に関する文の一部のみ確認)。part22:L588
1282年 〜 1308年Philadelphiaフィラデルフィアの包囲が解け、四方から大きな歓声が上がった(結果は歓声に見合わなかったという編者の評を含む)。part22:L659
1282年 〜 1308年Philadelphiaドゥーカス皇帝は、フィラデルフィアの前にあった旧市街を武装部隊と城壁で攻略した(前後の一部のみ確認)。part22:L882
1282年 〜 1308年Magnesia大将軍はマグネシアの攻囲を開始し、攻城機と塔を設置した。part22:L1141
1282年 〜 1308年Cenchreaeペルシア(トルコ)の大軍が、ケグレイスに閉じ込められた庶民の集団を包囲した。part22:L1243
1282年 〜 1308年若きミカエル皇帝(アウグストゥス)はその地域でトルコ人とアモガバロスと戦ったが、成果は乏しかった。part22:L1284
1282年 〜 1308年Sozopolisローマ軍が西部に集結したが、ブルガリア軍がソゾポリス近くに現れたという報せがあった。part22:L1332
1282年 〜 1308年Adrianopolisブルガリアの一団が再び武装し、アドリアノポリ近郊の農村に押し寄せた。part22:L1357
1282年 〜 1308年Trapezusトレビゾンドのラゾイ君主アレクシオスがジェノヴァ人と戦った(原因の箇所は今回は読んでいない)。part22:L1427
1282年 〜 1308年同じ戦争の中で火が燃え広がり、ジェノヴァ側のガレー船12隻が焼かれた。損害はジェノヴァ側の方が大きい(港名は未確認)。part22:L1484
1283年Constantinople総主教ヨセフは三月に死去し、聖バシレイオス修道院に葬られた。236–236
1283年 〜 1289年Constantinople前総主教アタナシオスは1月15日の夕方、皇帝に謁見しに行った。L934–935
1289年Constantinople修道士アタナシオスをサルディス司教に定め、皇帝の告解師として発表した。698–699
1289年Tripoliアラブ人(アエティオペス)が先にトリポリを攻略して占領した。シリアの災厄の一節である。2121–2125
1289年Constantinopleアタナシオスは司教と修道士を伴って出て、皇帝を迎えた。総主教復帰の場面。L1288–1289
1294年 〜 1297年Constantinopleアンドロニコス2世の長男ミカエルと、シャルル・ダンジューの孫娘カテリーナとの婚約交渉。イタリアの使節セル・ピエトロが代表として来た。前夜から婚礼の儀式が始まった。p19 줄 483–486
1294年 〜 1295年アンナが退けられた後、トマスは息子から全権を得た。シャルルの孫フィリップに娘を嫁がせ、領地の一部を持参金として与えた。p19 줄 725–729
1294年 〜 1299年Constantinopleジェノヴァとヴェネツィアの対立が頂点に達し、互いの憎悪は激しかった。p19 줄 1938–1939
1296年Constantinopleヴェネツィアのガレー船75隻がヘレスポントス海峡を渡り、日曜日に奇襲的にコンスタンティノープルへ到着した。p19 줄 2098–2100
1296年Constantinopleジェノヴァ船とヴェネツィア船が互いに追い、追われる海上追撃戦となった。ヴェネツィア船が接近した。p19 줄 2130–2134
1296年Constantinople12月末、口論が武力衝突に発展した。ジェノヴァ人は興奮して武装し、市内の人々を襲おうとした。p19 줄 2284–2288
1302年 〜 1304年アトマンはその城砦を包囲し、周辺に兵を配置して囲んだ。line 18
1302年 〜 1304年夏、皇帝の艦隊約10隻。マルレが指揮し、タソス方面へ送られた。line 33
1302年 〜 1304年捕らえられた者たちを殺害した — 包囲の記述(前後は未確認)。line 61
1302年 〜 1304年Mpyrigerius はジェノヴァへ連行されたが、脱出した。line 99
1302年 〜 1304年Nicaeaアトマンはニカイアを狙う — ニカイア近郊への圧迫(162行と関連)。line 160
1302年 〜 1304年皇帝は教会財産の返還問題について総主教と協議した。line 172
1302年 〜 1304年チャルムパンタネから、トカロイの部隊数千人が皇帝の支援に送られた。line 504
1302年 〜 1304年トルコ勢力と Mpyrigerius・Pharenda・Gidas は敵対 — 交戦の記述。line 525
1302年 〜 1304年将軍は軍をテッサリアへ動かした。line 542
1302年Nicomedia7月27日、バフェウム近郊(ニコメディア付近)で敗北 — 行為者は行に記載なし。줄 2727–2729 (1.4 c.25)
1306年Galataガラタのジェノヴァ人は、カタルーニャ人がローマ人と戦う準備をしていると皇帝に知らせたが、皇帝は信じなかった。줄 3776–3779 (c.번호 미확인)
1307年Perinthus5月28日、ペリントスを力ずくで陥落させ、住民を殺害 — 主体は前の行(4036–4037)「auctis copiis regiones Romanas incursant」と同じ一団と見られるが、名前はない。줄 4036–4040 (c.번호 미확인)
1307年 〜 1308年Callipoliアンドロニコス皇帝は、使節を通じてカタルーニャ人との和平交渉をガリポリで行った。줄 4172–4173 (c.번호 미확인)

原文のライセンスと出典

원문: Georgius Pachymeres (Corpus Scriptorum Historiae Byzantinae, Bonn 판, 그리스어+라틴어 역). archive.org OCR(djvu.txt) 그대로, 글자 교정 없음.

퍼블릭 도메인 (19세기 판, archive.org 스캔)

https://archive.org/details/corpusscriptorum17niebuoft

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