スフランツェス『年代記』

スフランツェス『年代記』(正史 の史料)。扱う年は1415年 〜 1477年、出来事78件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年1415年 〜 1477年
出来事の数出来事78件・地図に置いた68件
著者Georgius Phrantzes
原題Georgius Phrantzes, Chronicon (Bonn 1838)

地域の内訳: 南ヨーロッパ 41 · 西アジア 36 · 東ヨーロッパ・ロシア 1

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1415年メフメト1世が死去し、その息子ムラトが帝位を継ぐ(本文「Mortuo Mehemete…Amurates…imperium capessivit」)。Lib.I cap.31 (줄 2898–2900)
1419年Constantinopleヨハネス8世がモンフェッラート侯の娘ソフィアと結婚し、ハギア・ソフィアで戴冠する。Lib.I cap.36 (줄 3534–3554)
1420年Geliboluヨハネス8世がペロポネソスからムスタファを連れてカリポリスに着き、彼を西(ヨーロッパ側)のスルタンに立てる。Lib.I cap.38 (줄 3674–3676)
1422年Constantinopleムラト2世が軍を送り、6月8日にコンスタンティノポリスを包囲する。6月15日に本人が到着して攻撃するが、9月6日に成果なく撤退する。Lib.I cap.39 (줄 3737–3763)
1422年Constantinopolisオスマンの先遣軍が6月10日にコンスタンティノポリスを取り囲み、封鎖を始める。Cananus, Narratio (p.459)
1422年Constantinopolisムラトの本隊が到着し、命令で城壁の外に土の堤(agger)を築く。Cananus, Narratio (p.460~461)
1422年Constantinopolis8月24日、オスマンの大規模な攻撃が撃退される(オスマン側の死傷は千余、守備側は負傷100未満・死者30以下)。Cananus, Narratio (p.479)
1423年Isthmus of Corinthトゥラハンがペロポネソスの地峡のヘクサミリオン(陸の城壁)を陥とし、アルバニア系の兵を多数殺す。Lib.I cap.40 (줄 3778–3779)
1423年Hungaryヨハネス8世がハンガリーへ出発し(11月15日)、弟コンスタンティノスを都に残して代理とする。Lib.I 말미 (줄 3805–3806)
1425年Constantinople皇帝マヌエル2世が7月21日に死去する。死の2日前に修道士に叙され、パントクラトール修道院に葬られる。Lib.I 말미 (줄 3899–3905)
1426年Constantinople皇后ソフィアが夫ヨハネス8世のもとを去り、故郷(モンフェッラート)へ帰る。Lib.I 말미 (줄 3952–3956)
1427年Constantinopleヨハネス8世がトレビゾンドのコムネノス家の公女と結婚し、皇后(アウグスタ)と宣言される。Lib.II 서두 (줄 3987–3989)
1427年Peloponnesusヨハネス8世が弟コンスタンティノスとともに都を出て、12月26日にペロポネソスに着く。Lib.II 서두 (줄 3990–3991)
1428年Corinthヨハネス8世がコリントスで三段櫂船に乗り、コンスタンティノポリスへ向けて出発する。Bonn p.131
1429年Mistraデスポテス・アンドロニコスが死去し、ミストラのパントクラトール修道院に葬られる。Bonn p.134
1429年Ioanninaカルロ・トッコ(Carolus)がヨアニナで死去する。Bonn p.154
1429年Glarentza皇后テオドラ・スタメリが死去し、グラレンツァの教会に仮に安置される。Bonn p.155
1430年Patrasスフランツェスがパトラスの住民に捕らえられる(捕虜となる)。Bonn p.155
1430年Patrasスフランツェスがパトラスの長官(praefectura Patrensi)に任じられる。Bonn p.157
1430年Ioanninaオスマンのベイレルベイ、シナンがヨアニナと隣接地域を占領する。Bonn p.157
1430年Thessalonica (Langada)ムラトの軍がランガダ(テッサロニキ門側)に到着したという知らせが都に伝わる。Anagnostes, Narratio (p.492)
1430年Thessalonicaオスマン軍が真夜中に外壁へ忍び寄り、下を掘って崩そうとする。Anagnostes, Narratio (p.498)
1432年Kalavryta兄弟のコンスタンティノス(カラブリタ一帯)とトマス(グラレンツァ)が領地を交換する。Bonn p.158
1435年Athensアテネとテーバイの領主アントニオス・ラザリス・コムネノスが死去する。Bonn p.159
1435年Thebesトゥラハンがテーバイを数日で陥とす。Bonn p.160
1436年 〜 1437年Constantinopleパラスポンデュリスの娘ゾエがコンスタンティノポリスに入り、デメトリオスと結婚する。Bonn p.161
1436年 〜 1437年コンスタンティノスと弟のテオドロス、トマスとの間で戦いが再発する(使者派遣の後「bellum exarsit」)。Bonn p.162
1438年Veniceヨハネス8世一行がヴェネツィアに到着する(2月8日午後2時)。Bonn p.181
1438年Veniceヨハネス8世一行がヴェネツィアから船でフェラーラへ向けて出発する。Bonn p.187
1443年Constantinopleデメトリオスが軍を率いてコンスタンティノポリスを包囲する。Bonn p.194
1443年Constantinopleデスポテス・コンスタンティノスがコンスタンティノポリスを発ってペロポネソスへ向かう。Bonn p.196
1444年Varnaハンガリー王(ヴァルナの戦い)がオスマン軍に敗れて戦死する。Bonn p.197
1446年Spartaスフランツェスがスパルタ一帯の長官(praefectura)に任じられる。Bonn p.200
1446年Hexamilion (Isthmus of Corinth)ムラト(アメラス)の軍がコリントス地峡の城壁ヘクサミリオンを攻めて陥とす(12月10日)。Bonn p.202
1446年Patrasヘクサミリオン陥落の後、ムラトの軍がパトラスを占領して焼く。Bonn p.203
1448年Selymbriaデスポテス・テオドロスが疫病でセリュンブリアで死去し、コンスタンティノポリスに移されて葬られる。Bonn p.203
1448年Constantinople皇帝ヨハネス8世が死去する(10月31日)。Bonn p.203
1449年Spartaコンスタンティノスがスパルタで帝冠(augustalis corona)を受ける。Bonn p.205
1451年オスマンのスルタン、ムラト2世が死去する。Bonn p.210
1452年Constantinopleメフメト2世が大軍を率いて到着し、コンスタンティノポリスを包囲する。Bonn p.237
1453年Galataオスマン軍はガラタ背後の丘に道を通し、油を塗った台の上で船を引いて越えさせ、港に降ろす。III.4 (조각 줄 17)
1453年Constantinopleオスマン軍は長さ100フィート・幅50フィートの橋を架け、その上に攻城塔を載せ、船を横付けして港側の城壁を攻め始める。III.4 (조각 줄 48)
1453年Constantinople皇帝は会議を開き、城壁の区域を指揮官たちに割り当てる。テオフィロス・パライオロゴスにはセリュンブリア門付近を任せる。III.4 (조각 줄 80)
1453年Constantinopleヴェネツィア人ジャコモ・コッコが船3隻(ギリシア火の装置)で夜襲を試みたが失敗する。青年40人が死に、オスマン側が翌朝全員を処刑する。これを受けて皇帝は捕虜のトルコ人260人を処刑させる。ヴェネツィア人とジェノヴァ人の間に争いが生じる。III.4 (조각 줄 183)
1453年Constantinopleオスマン側の大型ヘレポリス(攻城塔)が聖テオドロスの丘(ガラタの向かい)から、港口にいたキリスト教側の主力船1隻を焼いて沈める。その前に船はガラタの方へ退いていた。III.4 (조각 줄 266)
1453年Constantinopleメフメトは命令(5月27日夕:断食と沐浴)を出した後、翌日の夕方に兵に演説する。都を3日間兵のものにすると約束する。III.5 (조각 줄 590)
1453年Constantinople二番鶏の頃、合図なしに総攻撃が始まる。ヘレポリス・梯子・船から同時に攻め、2時間近く激戦となる。III.7 (조각 줄 909)
1453年Constantinopleジェノヴァの指揮官ジュスティニアーニは右足に矢を受けて持ち場を離れ、ガラタへ渡ってそこで死ぬ。指揮官の離脱で兵が動揺する。III.7 (조각 줄 1015)
1453年Constantinopleイェニチェリのハサン(Chasanes)が約30人を率いて城壁をよじ登り、守備兵を押しのける。ハサンは石に打たれて倒れる。その後オスマン軍が城壁を占領し、外壁を捨てた守備兵は門に殺到して都市内へ押し込まれる。III.7 (조각 줄 1067)
1453年Constantinopleオスマン軍は聖ロマノス門の近くに大きなヘレポリスを立てて城壁を崩し、その裂け目から初めて都に入る。III.8 (조각 줄 1129)
1453年Constantinopleクレタの水夫たちが塔二つで持ちこたえたが、船と荷物を持って出ることを許すという約束を受けて降りる。説得に時間がかかる。III.8 (조각 줄 1154)
1453年Constantinopleオスマン軍が都市全体を掌握する。原文は陥落の時刻を3日目の2時半と記す。III.8 (조각 줄 1164)
1453年Constantinople陥落の後、略奪と捕虜狩りが行われる。女性と聖職者が教会から引きずり出され、聖物の破壊と略奪が続く(原文の叙述)。III.8 (조각 줄 1165)
1453年Constantinople皇帝(原文 imperator・dominus meus)が戦死する。遺体は皇帝用の長靴と金の鷲の飾りで確認され、皇帝の礼で葬られる。原文は生涯を49年3か月20日と記す。III.9 (조각 줄 1261)
1453年Constantinopleノタラス大公が金・宝石などの財宝をメフメトに差し出して命乞いする。メフメトはその場で牢に入れ、翌日再び呼び出して問いただし叱責する。III.9 (조각 줄 1273)
1453年Constantinopleメフメトはノタラスと息子二人を広場(「乾いた丘の広場」)で処刑する。息子たちを先に殺し、その後ノタラス本人を処刑する。III.9 (조각 줄 1352)
1453年Constantinopleメフメトはアリ・パシャを塔に閉じ込め、数日後に殺す。原文によれば理由は都への攻撃を諫めたためである。III.9 (조각 줄 1360)
1453年Constantinopleメフメトは勝利を祝い、隠れていた人々に家に戻って以前のように自分たちの習慣と宗教で暮らすよう布告する。総主教も選ばせる。III.11 (조각 줄 1680)
1453年Constantinople主教と聖職者たちが学者ゲオルギオス・スコラリオス(当時は平信徒)を総主教に選ぶ。名はゲンナディオスに改められる。メフメトは総主教の杖(pedum)を授ける。III.11 (조각 줄 1700)
1453年Constantinopleメフメトはカッファ・トレビゾンド・シノペ・アスプロカストロンから移住者を連れてきて都を再び満たす(原文のトルコ語「surgunides」)。III.11 (조각 줄 1829)
1453年Sparta著者フランツェス本人がオスマン側に捕らえられて売られ、ペロポネソスのスパルタへ移される。妻子も捕らえられて売られる。メフメトが大金を払って子どもたちを買い取ったという(原文)。IV.1 (조각 줄 1875)
1453年Peloponnesusペロポネソスのアルバニア人が支配者に反乱を起こし、マヌエル・カンタクゼノスを専制君主に立てる。Lib.IV cap.XIV §14 (p.383)
1453年Peloponnesusトゥラハンの息子アメラスが軍を率いて来てアルバニア人を攻め、弱らせ、捕虜を連れて帰る。Lib.IV cap.XIV §14 (p.383)
1455年Athenaeオスマン君主(アメラス表記)の軍がアテネを占領する。Lib.IV cap.XIV (p.385)
1458年Corinthus5月15日、君主がペロポネソスに入り、コリントス攻略を命じ、自らは中部を荒らしながら進む。Lib.IV cap.XV (p.387)
1458年Corinthusコリントスの指揮官二人が戦わずに都市を明け渡す(8月6日)。Lib.IV cap.XV (p.387~388)
1460年Spartaスパルタの専制君主デメトリオスが君主の前に出て降伏し、スパルタが引き渡される。Lib.IV cap.XVI (p.395)
1460年Corcyra専制君主トマスがコルキラ(コルフ)から船でアンコーナへ渡る。Lib.IV cap.XIX (p.411)
1462年Naupactusアメラスが侵入し、ナフパクトスの向かいのアイトリア地方一帯を占領する(ヴェネツィア側の反撃あり)。Lib.IV cap.XIX (p.413)
1463年 〜 1464年Monembasiaヴェネツィアがモネンヴァシアを手に入れる(守りを怠ったためと本文は書く)。Lib.IV cap.XX (p.415)
1466年Crua(Krujë)オスマン側がアルバニア遠征を行い、指導者スカンデルベグ側を破って全土を占領・荒廃させ、クルヤの近くに城を築く。Lib.IV cap.XXII (p.426)
1466年Imbrosヴェネツィア艦隊司令官カペッロがインブロス島を占領する。Lib.IV cap.XXII (p.426)
1466年Athenaeカペッロが再びアテネに来て、都市全体を掌握する。Lib.IV cap.XXII (p.426)
1466年Patraeアメラスがパトラス近くでヴェネツィア側の軍を敗走させ、艦隊の指揮官を捕らえて殺す(8月の敗戦)。Lib.IV cap.XXII (p.427)
1470年Euboea君主がエウボイアを攻め、7月12日に町(oppidum)を占領する。周辺の地も降伏する。Lib.IV cap.XXIII (p.448)
1475年Caffa(Feodosiya)オスマンの艦隊と軍が黒海北岸の大都市カッファを占領する。Lib.IV cap.XXIII (p.451)
1476年Valachia君主がワラキアへ遠征したが勝てずに帰る(本文は、勝者というより敗者に近い姿で帰ったと書く)。Lib.IV cap.XXIII (p.451)
1477年Naupactus君主が大軍を送り、ナフパクトスの占領と「聖なるマウラ」への攻撃を狙ったが、失敗して手ぶらで帰る。Lib.IV cap.XXIII (p.452)

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