カッシウス・ディオ『ローマ史』

カッシウス・ディオ『ローマ史』(正史 の史料)。扱う年は166年 〜 229年、出来事158件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年166年 〜 229年
出来事の数出来事158件・地図に置いた124件
著者Cassius Dio
原題Ῥωμαϊκὰ (Cassius Dio, Roman History)

地域の内訳: 南ヨーロッパ 89 · 西アジア 53 · 西ヨーロッパ 11 · エジプト・北アフリカ 5

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
166年 〜 167年Pannoniaランゴバルド人とオビイ人6千がイステル(ドナウ)を渡ったが、騎兵と歩兵に完敗し、マルコマンニ人はパンノニア総督イアリウス・バッススに使節を送って誓約し和睦した72(71).3.1
169年 〜 170年ゲルマン人がライン川を越えてイタリアまで侵入し被害を出した。マルクスはポンペイアヌスとペルティナクスを派遣して撃退し、ペルティナクスは名を上げた72(71).3.2
171年 〜 172年Dacia (province)アスティンギ人が族長ラウスとラプトゥスに率いられ家族を連れてダキアに来て金と土地を求めた。拒まれるとコストボキ人を征服してダキアを荒らしたが、ラクリンギ人が妻子を預かっていたクレメンスを奇襲して大勝した72(71).12
172年 〜 173年Pannoniaマルクスはパンノニアに留まって蛮族の使節を引見した。クァディ人は和睦し(捕虜1万3千を返還)、バタワリイ人の少年部族とは同盟を結んだが、市場への出入りは許さなかった72(71).11
172年 〜 173年Ravennaイタリアに入植させた蛮族がラヴェンナで蜂起して市を占拠した。マルクスはその後二度と蛮族をイタリアに入れず、既に定住した者も追放した72(71).11
172年 〜 173年Pannoniaマルコマンニ人が一戦に勝ち、近衛隊長マルクス・ウィンデクスが戦死した。マルクスは彼に像を3体建て、敵を破った後「ゲルマニクス」の称号を受けた72(71).3.5
172年エジプトの牧人(ブコロイ)が反乱を起こし、司祭イシドロスの指揮下でエジプト人を扇動した72(71).4.1
172年Alexandriaブコロイはローマ軍を破ってアレクサンドリアをほぼ陥落させたが、シリアから来たカッシウスが彼らを分断して鎮めた72(71).4.2
172年クァディ人がローマ軍を包囲し、軍は渇きと暑さに苦しんだ。突然の豪雨と雹・雷が起きてローマは救われた(エジプトの魔術師アルヌピス説/キリスト教徒軍団説)72(71).8
172年豪雨の勝利の後、マルクスは兵士たちから7度目のインペラトルとして歓呼された。元老院の慣例に反してこれを贈り物として受け、報告書を送った72(71).10
173年 〜 174年凍結したイステル川の上でローマ軍がイアジュゲス人を破った。盾に足を乗せて滑りを防ぎ、レスリングのように戦った72(71).7
174年 〜 175年Pannoniaマルコマンニ人が条件を全て果たすと、マルクスは国境の中立地帯の半分を返し、交易の場所と日を定め、人質を交換した72(71).15
175年イアジュゲス人の敗北後、ザンティクス王が嘆願者としてマルクスの前に出てクァディ・マルコマンニ人と同じ条約を結び、捕虜10万を返還し騎兵8千を提供した72(71).16
175年Syria (Roman province)シリアでカッシウスが反乱を起こした。マルクスは驚き、息子コンモドゥスをローマから呼び寄せて成人の服を着せた。ファウスティナの唆しがあったという72(71).22.1
175年Syria (Roman province)マルクス死亡の誤報を受けてカッシウスはただちに皇帝を宣言した。真実を知った後もタウルス山脈以南を素早く掌握した72(71).23.1
175年Pannoniaマルクスは兵士たちにカッシウスの反乱を告げる演説をし、怒るのではなく運命を嘆き、カッシウスを赦すと語った72(71).24
175年カッシウスは徒歩のところを百人隊長アントニウスに斬られて死に、首は皇帝のもとに送られた(反乱は3か月6日)72(71).27.2
175年マルクスはカッシウスの切られた首を見ようとせず、埋葬を命じた72(71).28
175年 〜 176年皇后ファウスティナが死去した。痛風のためとも、カッシウスとの共謀が露見するのを避けた死ともいう72(71).29
176年Athenaeマルクスはアテナイで秘儀に入門し、アテナイ人に恩恵を施し、あらゆる学問の教師に国家が俸給を支払う職を設けた72(71).31.3
176年Romaマルクスはローマに戻って演説し、8アウレウスを叫ぶ群衆に1人800セステルティウスを与え、45年分の国庫債務証書をフォルムで焼却した72(71).32
177年Smyrna地震で大きく破壊されたスミュルナなど多くの都市に金銭を下賜し、再建を法務官級の元老院議員に任せた72(71).32.3
177年Romaスキタイ(北方)の情勢が再び切迫したため、マルクスは息子コンモドゥスを急ぎクリスピナと結婚させた72(71).33.1
178年Romaマルクスはベローナ神殿で血染めの槍を投げる儀式を行った後に出征し、パテルヌスに大軍を与えて前線に送り、10度目のインペラトルとして歓呼された72(71).33.3
179年イアジュゲス人の使節が協約の一部免除を求め、一部が認められた。ブリ人とともに、マルクスが最後まで戦うことの保証を求めた72(71).18
179年クァディ人は砦の監視に耐えかね、セムノネス人の地へ集団移住を試みたが、マルクスが道を塞いで阻止した72(71).20
180年マルクスが死去した(3月17日)。医師たちがコンモドゥスに取り入るため殺したと伝えられる。臨終の合言葉は「昇る太陽のもとへ行け、私はもう沈みつつある」72(71).33
180年コンモドゥスは後見人たちの助言を退け、蛮族と休戦して急いでローマに戻った73(72).1.2
180年マルコマンニ人が飢饉と人口減少で使節を送ると、コンモドゥスは容易に滅ぼせたにもかかわらず和睦した。逃亡者と捕虜の返還、軍の提供、月に一度の百人隊長立ち会いの会合が定められた73(72).2
180年Dacia (province)コンモドゥスはブリ人に和平を許し、人質と捕虜を受け取り、ダキア国境の5マイルの帯を空けることを誓わせた。追われた1万2千のダキア人はサビニアヌスが宥めた73(72).3
181年Romaコンモドゥスはローマに来て元老院で些細な話を並べ立て、父を泥から救ったと大言した73(72).4.2
182年Roma円形闘技場の入口で、ルキッラの愛人クラウディウス・ポンペイアヌスが短剣でコンモドゥスを狙い「これは元老院が送る剣だ」と言った。ルキッラの企てで、暗殺は失敗した73(72).4.4
182年 〜 183年Capreaeコンモドゥスはクリスピナを姦通の罪で、ルキッラを暗殺謀議の罪でカプリ島に流し、後に処刑した73(72).4.6
182年 〜 183年コンモドゥスは学識・武勇・兄弟愛で知られたクィンティリウス兄弟のコンディアヌスとマクシムスを、一人の息子とともに殺した73(72).5.3
183年 〜 185年Romaコンモドゥスはサルウィウス・ユリアヌス、タルテニウス・パテルヌス、ある貴婦人など多くの人を殺した。ユリアヌスは大軍を握りながら反乱を企てなかった73(72).5.1
183年Syria (Roman province)マクシムスの息子セクストゥス・コンディアヌスはシリアで死刑の知らせを聞き、ウサギの血を吐いて死んだふりをし、羊の死体を身代わりに焼かせて逃走した。後に偽者も現れた73(72).6.1
183年 〜 184年Mallus (Mallos)ディオはキリキアの総督である父に従い、マッロスのアンピロコスの夢託宣所で、セクストゥスが描いた絵(少年が2匹の蛇を絞め、ライオンが鹿を追う絵)の意味を知った73(72).7.1
184年Dacia (province)ダキアの向こうの蛮族との戦争。後にセウェルスと争うアルビヌスとニゲルが名声を得た73(72).8.1
184年Britannia (province)ブリタンニアの諸部族が防壁を越えて略奪し、ある将軍とその部隊を全滅させた。驚いたコンモドゥスはウルピウス・マルケッルスを派遣した73(72).8.2
185年Romaブリタンニア軍団は1,500人の槍兵をイタリアに送ってペレンニスを告発し、コンモドゥスは近衛隊長を彼らに引き渡した73(72).9.2
185年Roma近衛隊長ペレンニスは兵士たちに殴り殺され、妻子と姉妹まで殺された73(72).9.4
189年 〜 190年Romaローマで疫病が流行した。1日に2千人が死ぬ日もあり、毒針で人に感染させる犯罪者が帝国中で暗躍した73(72).14.3
190年Roma飢饉の際、サーカスで少女に率いられた子供たちの叫びから暴動が起き、怯えたコンモドゥスはクレアンデルとその息子を殺させ、群衆は遺体を引きずり回した73(72).13.6
190年Emesaユリウス・アレクサンデルは夜に暗殺者たちを始末し、故郷エメサの敵も殺した後、蛮族のもとへ逃げたが少年の愛人のせいで追いつかれ、自決した73(72).14.2
191年 〜 192年Romaコンモドゥスはローマを「コロニア・コンモディアナ」、軍団を「コンモドゥス軍団」と改名し、ヘラクレスを自称し、12か月の名まで自分の称号に改めた73(72).15.2
191年Romaコンモドゥス死去の前兆。平和の神殿付近の夜間の火災が広がり、宮殿の一部と国家記録の大半が焼失した73(72).24.1
192年Romaコンモドゥスは円形闘技場で14日連続の見世物を催し、初日には1人で熊100頭を射殺した。ディオら元老院議員が見守った73(72).18.1
192年Romaラエトゥス、エクレクトス、マルキアは毒殺に失敗すると、運動選手ナルキッソスに浴槽でコンモドゥスを絞殺させた(在位12年9か月14日)73(72).22.5
193年Romaペルティナクスはひそかに近衛隊の兵営へ行き、1人1万2千セステルティウスを約束し、夜の元老院で「兵士たちは私を皇帝と呼ぶが、辞退する」と宣言した。元老院は心から彼を推戴した74(73).1
193年Romaペルティナクスが皇帝、コンモドゥスが公敵と宣言された。遺体を引き裂こうとした群衆は、既に埋葬されたと聞かされて像を壊すにとどまった74(73).2
193年Roma国庫には100万セステルティウスしかなかった。ペルティナクスはコンモドゥスの祖先の品・武器・家具・寵臣を売って近衛隊に約束した金を払い、市民には1人100デナリウスを与えた74(73).5
193年Roma近衛隊とラエトゥスが執政官ファルコを皇帝に立てようと陰謀を企てた。ペルティナクスは穀物視察から戻って元老院に知らせ、ファルコの命を助けた74(73).8
193年Roma兵士200人が宮殿に乱入した。ペルティナクスは説得に出て殺され、エクレクトスだけが傍で戦って死んだ(67歳近く、在位87日)74(73).10
193年Roma近衛隊の兵営前で帝国の競売が行われた。ユリアヌスが1人2万5千セステルティウスを提示してスルピキアヌスに勝ち、皇帝として受け入れられた74(73).11
193年Romaサーカスで群衆が昼夜ユリアヌスを非難し、シリアのニゲルに救いを叫んだ74(73).13.5
193年3人の司令官、セウェルス(パンノニア)、ニゲル(シリア)、アルビヌス(ブリタンニア)が各3個軍団で覇権を狙った。ユリアヌスの祭祀の際、太陽の周りに3つの星が現れる予兆があった74(73).14.3
193年セウェルスはアルビヌスにカエサルの称号を送って懐柔し、ビュザンティオンを除くヨーロッパを掌握したままローマへ進軍した。精鋭600人を昼夜側に置いた74(73).15
193年Romaユリアヌスは元老院にセウェルスを公敵と宣言させ、郊外に防壁を築いて都市を陣営に変えた(象とミセヌムの水兵を動員)74(73).16.1
193年Ravennaセウェルスはイタリアに達し、戦わずにラヴェンナを手に入れた74(73).16.5
193年Roma兵士たちはペルティナクス殺害者を逮捕し、元老院はユリアヌスに死刑を宣告してセウェルスを皇帝に推戴した。ユリアヌスは宮殿で殺された(在位66日)74(73).17
193年Romaセウェルスはローマに入る前に、ペルティナクスを殺した近衛兵を包囲して武器と馬を奪い、ローマから追放した75(74).1
193年Romaセウェルスは城門まで騎兵の服装で、その後は徒歩で市民服に着替えて入城した。都市は花と月桂樹で飾られ、全軍が武装行進した75(74).1.3
193年Romaセウェルスはフォルムでペルティナクスの蝋像の葬儀を行って神格化した。マルス広場の3層の火葬壇に火が点けられると、鷲が舞い上がった75(74).4
193年 〜 194年Perinthusセウェルスとニゲルの戦争が始まった。ニゲルはビュザンティオンからペリントスへ進軍したが、不吉な予兆によりビュザンティオンへ引き返した75(74).6.3
193年 〜 196年Byzantiumビュザンティオンは3年間、世界の軍に包囲されながら持ちこたえた。潜水夫が錨綱を切って敵船を引き寄せるなど巧みな防御を行った75(74).12.1
194年Cyzicusセウェルスの将軍たちはキュジコス近郊でニゲルの副官アエミリアヌスを破り、殺した75(74).6.4
194年Nicaea (Bithynia)ニカイアとキオスの間の狭い道で大会戦が起きた。カンディドゥスがまず勝ったがニゲルが現れて逆転し、カンディドゥスが再び兵を返して優勢となった75(74).6.4
194年Issusキリキア門近くのイッソスで大会戦が起きた。ニゲル軍が優勢だったが、嵐が顔を打ち、ウァレリアヌスが背後を突いて敗走した75(74).7.1
194年Issusこの戦いは戦争最大の惨事で、ニゲル軍2万が戦死した75(74).8.1
194年Antioch on the Orontesアンティオキアが陥落し、ニゲルはユーフラテスへ逃げる途中、追手に首を斬られた。首はビュザンティオンへ送られ、竿に掲げられた75(74).8.3
194年セウェルスはニゲルに加担した都市と個人を罰した。元老院議員は殺さず、財産没収と島流しとし、彼らがニゲルに与えた額の4倍を徴収した75(74).8.4
195年 〜 196年Byzantium飢えたビュザンティオンの住民が嵐に乗じて船で逃れたが、ローマ軍が海上で虐殺した。海は死体と残骸で覆われた75(74).13.2
195年セウェルスはユーフラテスを渡って敵地に入り、渇きと砂嵐で兵をほぼ失いかけたが、自ら水を飲んで士気を保った75(75).2.1
195年Nisibisセウェルスはニシビスに駐屯し、将軍たちを送ってオスロエネ、アディアベネ、アラブの地を略奪させた75(75).2.3
195年Nisibisセウェルスはニシビスに地位を与え、騎士身分の総督に委ねた。シリアの防壁を加えたと誇ったが、ディオは終わりなき戦争の原因になったと批判した75(75).3.2
196年Byzantiumビュザンティオンが降伏した。軍人と官吏は処刑され、都市は独立を奪われてペリントスに従属させられ、城壁は取り壊された(ディオは崩れた城壁を自分で見た)75(74).14
196年Romaサトゥルナリア直前の最後の競馬で、群衆が一斉に「いつまでこんな目に遭い、いつまで戦争をするのか」と叫んだ。空の火や銀色の雨などの不吉な予兆が現れた76(75).4.2
196年学校教師ヌメリアヌスが元老院議員を装ってガリアで軍を集め、アルビヌスの騎兵を殺し、7千万セステルティウスをセウェルスに送った76(76).5.1
196年 〜 197年アルビヌスは先の戦いでセウェルスの将軍ルプスを破り、多くの兵を殺した76(76).6.2
197年Lugdunum (Lyon)セウェルスとアルビヌスはルグドゥヌム近郊で各15万の兵力で決戦した。両指導者とも戦場に立った76(76).6.1
197年Lugdunum (Lyon)アルビヌス軍の右翼の罠(隠した溝)にセウェルス軍が落ちて大敗寸前となった。セウェルスは馬を失い、剣を抜いて兵を立て直し、ラエトゥスの騎兵が決着をつけた76(76).6.6
197年Lugdunum (Lyon)アルビヌスはローヌ川沿いの家に隠れ、包囲されると自決した。セウェルスは首を竿に掲げてローマへ送った76(76).7.3
197年Romaセウェルスはスッラ、マリウス、アウグストゥスの苛烈さを称え、コンモドゥスを弁護する演説をした後、アルビヌス派35人を釈放し、29人(ペルティナクスの義父スルピキアヌスを含む)を死刑にした76(76).8
197年 〜 198年Britannia (province)カレドニアが約束を守らずマイアタイを助けようとすると、セウェルスが他の戦争に専念する間にルプスが大金でマイアタイに平和を買い、捕虜数人を取り戻した76(75).5.4
197年 〜 198年Nisibisセウェルスのパルティア遠征。パルティアがメソポタミアを占領し、ラエトゥスがニシビスの包囲から救った。セウェルスはニシビスで巨大な猪を見た76(75).9.1
198年セウェルスはユーフラテスで船を建造し、一部は乗船し、一部は川岸に沿って行軍した76(75).9.3
198年Seleucia on the Tigrisセウェルスはパルティア軍が放棄したセレウキアとバビロンを手に入れた76(75).9.3
198年Babylonバビロンもまた放棄されたままセウェルスの手に渡った76(75).9.3
198年Ctesiphonセウェルスはクテシフォンを占領して略奪・虐殺を行い、捕虜は10万に上った。ウォロガエススは追撃せず、補給不足で撤退した76(75).9.4
198年Hatraセウェルスはメソポタミアを横断してハトラを攻撃したが、攻城兵器が焼かれ多くの兵を失って撤退した76(75).10.1
198年 〜 202年Tyanaプラウティアヌスがタウアナで病んだとき、その兵士たちが皇帝の随行員の入室を阻んだ。皇帝が彼に頭を押さえられていたことを示す逸話76(75).15.4
199年Hatraセウェルスは食糧と攻城兵器を大量に用意してハトラを再攻撃したが、アラブ騎兵とビチューメン(ナフサ)攻撃で攻城兵器と兵を大量に失った76(75).11
199年Hatra城壁の一部が崩れて兵士が突入しようとすると、セウェルスは退却の合図を鳴らした。翌日再び攻撃を命じたがヨーロッパ出身の兵士が拒み、シリア兵だけが犠牲になった76(75).12.1
199年20日間の包囲の後、パレスチナへ行ってポンペイウスの霊に祭祀を行った76(75).13.1
199年 〜 200年Alexandriaセウェルスはナイル川を遡ってエジプトを視察し、神殿の秘書を回収し、アレクサンドロスの墓を封鎖した76(75).13.2
202年Romaセウェルス即位10周年。市民と近衛隊に在位年数に応じた金貨を与え、アントニヌスとプラウティッラの婚礼を行い、7日間にわたり猛獣700頭を狩る見世物を催した77(76).1.1
203年 〜 204年Vesuviusウェスウィウス火山が激しく噴火し、轟音はディオがイタリアで暮らすカプアまで聞こえた。まもなくプラウティアヌスが失脚した77(76).2.1
205年Romaアントニヌスが仕組んだ陰謀の告発で呼び出されたプラウティアヌスは宮殿で殺された。遺体は通りに投げ捨てられた後、セウェルスの命で埋葬された77(76).4.5
205年Liparaプラウティアヌスの子プラウティッラとプラウティウスはリパラ島に流された(カラカラの時に処刑)77(76).6.3
205年 〜 207年ブラは600人の盗賊団で2年間イタリアを略奪して捕まらなかったが、ある騎士の愛人のおかげで洞窟で逮捕された。「なぜ盗賊になった」「お前はなぜ近衛隊長なのか」77(76).10.1
208年Britannia (province)セウェルスは息子たちの放蕩と軍団の怠惰を見て、帰れないと知りつつブリタンニア遠征に出発した77(76).11.1
209年Caledonia (region)セウェルスはカレドニアに侵入し、森を伐り沼を埋めて進軍したが、敵は羊の群れを餌に置いて消耗させ、5万人が死んだ77(76).13.1
210年Britannia (province)セウェルスは島の果てまで行って夏至・冬至の日照を観測して戻り、ブリトン人は領土のかなりの部分を差し出す条件で和睦した77(76).13.4
210年Caledonia (region)カレドニアとの休戦協議へ向かう道で、アントニヌスが父の背後で剣を抜こうとしたが、一行の叫びで止まった。セウェルスは息子を罰さなかった77(76).14.4
211年Britannia (province)ブリトン人が再び反乱し、カレドニアがマイアタイに合流すると、セウェルスは自ら戦う準備をしていたが、2月4日に病死した。アントニヌスの助けがあったともいう77(76).15.2
211年Britannia (province)アントニヌスは敵と和睦して領土を空け、要塞を放棄した。パピニアヌスを解任し、エウオドス、カストル、プラウティッラらを殺した78(77).1.1
211年Romaアントニヌスは和解を装って弟ゲタを母の部屋に呼び寄せ、百人隊長たちに母の腕の中でゲタを殺させた(22歳9か月)78(77).2.2
211年 〜 212年Romaアントニヌスは兵営へ駆けつけて兵士たちに約束を浴びせた後、ゲタ派の解放奴隷と兵士約2万人(男女)を宮殿で殺し、パピニアヌスら名士を殺害した78(77).4.1
213年アラマンニ人遠征。気に入った土地ごとに自分の名で砦や都市を建てるよう命じ、傭兵として招集した若者たちを盾の合図で包囲して虐殺した78(77).13.4
213年ゲルマンのケンニ人との戦争。捕虜になった女たちは売られると自決し、子も殺した。ケンニ人は大金を受け取って敗北を認めた78(77).14.1
214年Ilium/Troiaアントニヌスはトラキアを通り、危険を冒してヘレスポントスを渡り、アキレウスの墓で祭祀と武装競走を行い、兵士に金を与え、像を建てた78(77).16.7
214年Pergamumアントニヌスはペルガモンに着き、「アウソニアの獣がテレポスの地に入る」という詩句を神託だと喜び、多数を処刑した78(77).16.8
214年 〜 215年Nicomediaアントニヌスはニコメディアで越冬中にマケドニア式ファランクスを訓練し、アルメニア・パルティア遠征用に分解式の攻城兵器2基を作らせた78(77).18.1
215年パルティア遠征の口実。ウォロガエススがティリダテスとアンティオコス(キュニコス派哲学者を装うキリキア人)の引き渡しを拒んだ78(77).19.1
215年Antioch on the Orontesアントニヌスはアンティオキアで贅沢に暮らし、元老院が無力だと叱る書簡を送った。「私には武器と兵士がある」78(77).20.1
215年Armenia (region)パルティア王は恐れてティリダテスとアンティオコスを引き渡し、遠征は解散された。アルメニアに送られた解放奴隷出身の将軍テオクリトスは大敗した78(77).21.1
215年 〜 216年Alexandriaアントニヌスはアレクサンドリアに来て、郊外で出迎えた有力市民を歓待するふりをして宴を開いて殺し、全軍を市内に放って虐殺させた78(77).22.2
215年 〜 216年Alexandria虐殺は昼夜を問わず都市中で続き、死者数は元老院に隠された。外国人や随員も犠牲になり、神殿も略奪された78(77).22.3
215年 〜 216年Alexandriaアントニヌスはセラピス神殿から虐殺を指揮し、兄弟殺しに使った剣を神に捧げた。アレクサンドリアの見世物と共同食事を廃止し、都市を横壁で分断した78(77).23.3
216年パルティア遠征。アルタバノスが娘を与えなかったという口実だったが、実はパルティア王国を狙っていた79(78).1.1
216年Arbela (Assyria)アントニヌスはメディア一帯を奇襲で略奪し、要塞をいくつも破壊してアルベラを得、パルティア王墓を暴いて遺骨をまき散らした。パルティアは戦わなかった79(78).1.1
217年Carrhae4月8日、エデッサからカルラエへ向かう道中でアントニヌスが用を足しに馬から降りたとき、マルティアリスが短剣で刺し、護衛の将校たちがとどめを刺した79(78).5.4
217年Antioch on the Orontesアンティオキアにいたユリア・ドムナは息子の死の知らせに胸を打ち、乳癌が再発して絶食により死んだ79(78).23.1
217年アントニヌスの死後2日の空白を置き、4日目(セウェルスの誕生日)にメソポタミアの兵士たちがマクリヌスを皇帝に推戴した79(78).11
217年Antioch on the Orontesアンティオキアで父に会うため兵士たちの間を通っていたディアドゥメニアヌスが、兵士たちによってカエサルと宣言され、アントニヌスの名も受けた79(78).19
217年Romaウルカナリアの日、雷が円形闘技場を撃って上層も競技場内も全て燃え、水道管を空にしても消せなかった。同じ日にテヴェレ川が氾濫した79(78).25.2
217年Nisibisアルタバノスがメソポタミアに侵入した。マクリヌスはニシビスへ進軍する途中、水源をめぐる争いから始まった戦闘で敗れ、陣営は荷運び人たちに救われた79(78).26
217年 〜 218年マクリヌスはアルタバノスと側近に贈り物と金で2億セステルティウスを与えて平和を買った。元老院には全容を知らせず、戦勝の祭祀を受けた79(78).27.1
218年Armenia (region)アルメニア王ティリダテスはマクリヌスが送った王冠を受け、カラカラが11か月拘束していた母と戦利品を返還されて戦争は終結した79(78).27.4
218年Emesa5月16日の明け方、マエサの一族は13歳のアウィトゥスをカラカラの庶子と偽って兵営に連れて行き、兵士たちに反乱を起こさせた79(79).31
218年Emesa近衛隊長ユリアヌスが兵営を攻撃したが、新兵たちは将校を殺して偽アントニヌスに投降した79(79).32
218年Apamea (Syria)マクリヌスはアパメアのアルバ軍団のもとへ行き、9歳の息子を共同皇帝に立て、1人4千セステルティウスを配った。反乱軍の頭が偽者と知ってアンティオキアへ退却した79(79).34
218年エジプト総督バシリアヌスは偽アントニヌスの使者を殺した。マクリヌス敗北の知らせで暴動が起き、民間人と兵士が多数死に、バシリアヌスは逃げてブルンディシウム近郊で捕まった79(79).35
218年Antioch on the Orontes6月8日、アンティオキア人の村(都市から24マイル)でマクリヌスが敗れた。近衛隊が優勢だったが、マエサとソアエミアスが逃げる兵を立て直して逆転した79(79).37
218年Antioch on the Orontes敗れたマクリヌスは頭と髭を剃り、夜に馬でアンティオキアを脱出し、アイガイ、カッパドキア、ガラティア、ビテュニアを経た79(79).39
218年Chalcedonマクリヌスはカルケドンで金を求めて正体が露見し逮捕された。百人隊長アウレリウス・ケルススが捕らえ、カッパドキアまで引き立てた79(79).39
218年Zeugmaゼウグマを通過していたマクリヌスの息子が百人隊長クラウディウス・ポッリオに逮捕された79(79).40
218年マクリヌスはアンティオキア入城前に百人隊長マルキアヌス・タウルスに斬首された。遺体は偽アントニヌスが通りかかって嘲るまで埋葬されなかった79(79).40
218年Antioch on the Orontesアウィトゥス(偽アントニヌス)は勝利の翌日にアンティオキアへ入り、略奪を防ぐ代償として兵士に2千セステルティウスずつを約束し、元老院にマクリヌスを中傷する書簡を送った80(79).1.1
218年 〜 219年Cyprus (island)エラガバルスはシリア、アラビア、キプロスでマクリヌス側の人物を処刑した。キプロス総督クラウディウス・アッタロスはコマゾンの恨みのために死んだ80(79).3.5
219年Nicomediaエラガバルスはアンティオキアに数か月滞在した後、ビテュニア(ニコメディア)へ行って冬を越し、この冬にガンニスを自ら刺し殺した80(79).3.1
219年Cyzicusニコメディアでの越冬中、キュジコス駐屯艦隊に反乱を企てた平民など、複数の軍団に反乱の試みがあった。ディオはペルガモン総督のとき自ら調査した80(79).7.3
219年Thraciaエラガバルスは越冬後、トラキア、モエシア、二つのパンノニアを経てイタリアへ行き、死ぬまで留まった。マクリヌスの書簡のため、自分を侮辱した者たちに報復しなかった80(79).3.2
219年 〜 220年Romaエラガバルス崇拝。神をユピテルより上に置き、自ら祭司となって割礼と豚肉の禁忌を守り、「アッシリア人」と呼ばれた80(79).11.1
220年Romaエラガバルスはコルネリア・パウラと結婚し(宴・剣闘・虎51頭の屠殺)、その後離婚して、ウェスタ女神官アクィリア・セウェラと同棲した80(79).9.1
220年 〜 221年Romaエラガバルスは神エラガバルの妻としてカルタゴのウラニアを呼び寄せて宮殿に置き、婚礼の贈り物を集めた80(79).12
221年Romaエラガバルスは従弟バッシアヌスを元老院に連れて来て、マエサとソアエミアスを両脇に置いて養子とし、神の命だとしてアレクサンデルと改名させた80(79).17.2
221年 〜 222年Thraciaアレクサンドロス大王に似た霊がイステル川岸に現れ、テュルソスを持つ男400人の行列とともにモエシアとトラキアを昼間に通ってビュザンティオンまで進んだ。役人も兵士も止めなかった80(79).18.1
221年 〜 222年Chalcedonアレクサンドロスの霊は船でカルケドン領に上陸し、夜の儀式を行って木馬を埋め、姿を消した80(79).18.3
222年Romaエラガバルスがアレクサンデルを害そうとして近衛隊の騒動が起きた。兵営で箱に隠れて逃げようとして見つかり、18歳で殺された。母も共に死に、遺体は引きずられてテヴェレ川に投げ込まれた80(79).20.2
222年Romaアレクサンデルはただちに皇帝となり、ドミティウス・ウルピアヌスに近衛隊と帝国の業務を任せた80(80).1.1
223年Romaウルピアヌスはフラウィアヌスとクレストゥスを殺してその地位を継いだが、まもなく夜に近衛隊に攻撃され、宮殿へ逃げたが殺された80(80).2.2
223年Romaウルピアヌスの生前、市民と近衛隊が些細なことで3日間市街戦を行った。兵士たちが建物に放火しようとすると、市民が和睦した80(80).2.3
226年 〜 229年Hatraペルシアのアルタクセルクセスは三度の戦いでパルティアを破り、王アルタバノスを殺した後、ハトラを攻撃した。城壁を崩したが伏兵に兵を失い、メディアへ向かった80(80).3.2
226年 〜 229年Armenia (region)アルタクセルクセスはメディアとパルティアのかなりの部分を得た後、アルメニアへ行って原住民、メディア人、アルタバノスの息子たちに敗れた。逃げたか、より大きな遠征を準備している80(80).3.3
226年 〜 229年Mesopotamia (region)メソポタミア駐屯軍が司令官フラウィウス・ヘラクレオを殺した。軍紀が崩壊し、一部の兵士はペルシアに合流した80(80).4.2
229年アレクサンデルはディオを二度目の執政官とし、近衛隊の脅威のため任期をローマの外、イタリア国内で過ごさせた80(80).5.1
229年ディオは足の病を理由に免職を願い出て、余生を過ごすつもりで故郷(ビテュニア)へ帰るべく去った。書はこの詩句で結ばれる80(80).5.2

原文のライセンスと出典

Cassius Dio, Roman History, tr. Earnest Cary (Loeb, 1927); text by Bill Thayer, LacusCurtius

PD (Loeb Cary 1927, LacusCurtius 명시)

https://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/home.html

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