北史 本紀

北史 本紀(正史 の史料)。扱う年は386年 〜 618年、出来事199件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年386年 〜 618年
出来事の数出来事199件・地図に置いた117件
著者李延壽
原題北史 本紀 (卷1~12)

地域の内訳: 中国 198 · 朝鮮半島 1

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
386年牛川拓跋珪(道武帝)が代王に即位し、天に祭祀を行い、年号を立て、牛川で大会を開いた。北史 卷1 登國元年
386年高柳劉顯側の窟咄が南の境界を圧迫したため、後燕(慕容垂)の賀驎軍と高柳で合流し、窟咄を大破した。北史 卷1 登國元年
391年鐵歧山衛辰が子の直力鞮を派遣して南部を攻めると、鉄歧山の南で大破し、衛辰父子は逃走した。北史 卷1 登國6年
393年薛幹衛辰の子屈丐を匿って引き渡さない薛幹部を南征し、城を屠った。北史 卷1 登國8年
395年參合陂参合陂で後燕の慕容宝の侵攻軍を大破し、王公以下の文武の将数千人を捕らえた。北史 卷1 登國10年
396年馬邑皇帝は六郡四十余万を率いて馬邑から南下し、句注を越えて後燕征討に出た。北史 卷1 皇始元年
396年晉陽陽曲に続いて晋陽を見下ろすと、後燕の并州牧慕容農は城を捨てて逃げ、并州が平定された。北史 卷1 皇始元年
397年信都騎兵を率いて信都を包囲し、その夜慕容鳳は中山へ逃げ、翌日城は降伏した。北史 卷1 皇始2年
397年钜鹿鉅鹿の柏肆塢に駐屯していた夜、慕容宝が全軍で夜襲をかけたが、奇陣で迎え撃って大破した。北史 卷1 皇始2年
397年新市新市で賀驎を義台塢の戦いで大破し、投降者二万余り。ついで中山が平定された。北史 卷1 皇始2年
398年鄴鄴に至り宮城を巡って、定都の意志を持ち、行台を設けた。北史 卷1 天興元年
398年平城平城に遷都し、宮殿を造り、宗廟と社稷を建て始めた。北史 卷1 天興元年
398年平城天文殿で璽綬を受けて皇帝に即位し、大赦と改元を行い、五行では土徳と定めた。北史 卷1 天興元年
399年高車の雑種三十余部を、三路に分かれた軍が一斉に合流して撃破した。北史 卷1 天興2年
402年乾壁姚興が乾壁を陥落させると、自ら西征して蒙坑を越え、姚興の救援軍を大破した。北史 卷1 天興5年
409年平城清河王拓跋紹が反乱を起こし、道武帝は平城の天安殿で崩御した(三十九歳)。北史 卷1 天賜6年
410年牛川長孫嵩の軍が大漠から帰還中、柔然に牛川で包囲され、明元帝は北伐に出た。北史 卷1 永興2年
416年滑臺宋の劉裕の部将王仲徳が、魏の兗州刺史尉建が放棄した滑台に入った。北史 卷1 泰常元年
418年龍城長孫道生が北燕の馮跋を襲撃し、龍城まで至って一万余戸を移して帰還した。北史 卷1 泰常3年
422年滑臺奚斤の軍が黄河を渡って宋の滑台を攻めたが陥落させられず、増援を要請した。北史 卷1 泰常7年
423年武牢宋の毛徳祖が守っていた武牢は、長い包囲と水の断絶の末に崩れた。北史 卷1 泰常8年
424年盛樂柔然の騎兵六万が雲中に入り盛楽を陥落させ、太武帝は軽騎兵で討伐した。北史 卷2 始光元年
427年統萬赫連昌を大破し統万城に入り、宮人と財宝を大量に奪った。北史 卷2 始光4年
428年安定奚斤が安定に進軍、安頡が出撃して赫連昌を捕らえた。(残党は赫連定を立てて平涼へ逃れた。)北史 卷2 神䴥元年
429年栗水砂漠で輜重を捨て、軽騎兵で栗水まで追撃すると、柔然は西へ逃げた。北史 卷2 神䴥2年
430年洛陽安頡が黄河を渡り、宋が守っていた洛陽を陥落させた。(続いて武牢も平定。)北史 卷2 神䴥3年
430年平涼平涼を包囲すると、赫連定の弟の赫連社が降伏し、長安などの守将は逃げ去って関中が平定された。北史 卷2 神䴥3年
431年赫連定は北へ沮渠蒙遜を襲撃しようとして、吐谷渾の慕璝に捕らえられた。北史 卷2 神䴥4年
432年和龍和龍に至り塹壕を掘って包囲した(北燕の馮弘を攻略)。北史 卷2 延和元年
439年姑臧姑臧を包囲した末、北涼の沮渠牧犍が文武五千人を率いて軍門で降伏し、二十余万の戸口を収めた。北史 卷2 太延5年
442年鄯善酒泉王沮渠無諱が流沙を越えて鄯善を占拠した。北史 卷2 太平真君3年
443年仇池仇池を陥落させた(後に氐・羌が楊文徳を立てて再び包囲した)。北史 卷2 太平真君4年
445年鄯善萬度歸が軽騎で鄯善に至り、王の真達を捕らえて京師へ送った。北史 卷2 太平真君6年
446年東雍東雍で河東の蜀の薛永宗を捕らえて殺した。男女老若すべてが水に飛び込んで死んだ。北史 卷2 太平真君7年
446年諸州で沙門を穴に埋め仏像を壊すよう命じた(太武帝の廃仏)。北史 卷2 太平真君7年
448年焉耆萬度歸が焉耆を大破、王の鳩屍卑那は亀茲へ逃げた。北史 卷2 太平真君9年
450年懸瓠南征中、皇帝の車駕が懸瓠の征伐に出た。北史 卷2 太平真君11年
450年瓜步山淮を渡り長江北岸の瓜歩山に行宮を設けた。宋の文帝が和平と通婚を求めた。北史 卷2 太平真君11年
452年中常侍宗愛の謀反により、太武帝は永安宮で崩御した(四十五歳)。北史 卷2 正平2年
458年碣石山遼西の黄山宮で碣石山に登り、海を眺め、山頂で群臣と宴を開いた。北史 卷2 太安4年
467年呂梁尉元が呂梁の東で宋の張永・沈攸之を大破した。北史 卷2 皇興元年
469年東陽東陽が陥落し、宋の沈文秀が捕らえられた。北史 卷2 皇興3年
470年曼頭山長孫観が曼頭山で吐谷渾の什寅を大破した。北史 卷2 皇興4年
471年献文帝が太子(孝文帝)に璽綬を渡して帝位を譲り、太上皇帝となった。北史 卷2 皇興5年
493年平城歩兵・騎兵三十余万を率いて平城を発ち、南伐に出た(洛陽での遷都論議へとつながる)。北史 卷3 太和17年
493年洛陽洛陽で群臣が馬前にひれ伏し南伐の中止を請うたので中止し、遷都計画を論じた。北史 卷3 太和17年
493年洛陽穆亮・李沖・董爵に洛陽(洛京)の造営を始めさせた。北史 卷3 太和17年
493年鄴鄴の西に造った宮殿が完成し、そこへ移り住んだ。北史 卷3 太和17年
494年平城平城宮に戻り、朝堂で遷都に際して残る者と移る者を分けた。北史 卷3 太和18年
494年懸瓠南伐の途上、懸瓠(豫州)に至った。北史 卷3 太和18年
495年鐘離淮水の南を回って鐘離に行幸した(斉軍三千を捕らえて放した)。北史 卷3 太和19年
495年洛陽六宮と文武の官員がみな洛陽へ移った。北史 卷3 太和19年
497年長安長安に行幸して未央殿・阿房宮・昆明池を巡覧した。北史 卷3 太和21年
497年新野南伐の途上、新野に至り、赭陽攻略は諸将に任せた。北史 卷3 太和21年
498年鄧城南斉の崔慧景・蕭衍の軍を鄧城で大破した。北史 卷3 太和22年
499年谷塘原南伐中、孝文帝は谷塘原の行宮で三十三歳で崩御した。北史 卷3 太和23年
500年壽春南斉の豫州刺史裴叔業が寿春を挙げて北魏に帰順した。北史 卷4 景明元年
504年義陽元英が義陽で梁の馬仙琕を破り、義陽を陥落させた。北史 卷4 正始元年
504年漢中行梁州事の夏侯道遷が漢中を挙げて北魏に降伏した。北史 卷4 正始元年
505年劍閣邢巒の統軍王足が西へ梁軍を繰り返し破り、剣閣へ入った。北史 卷4 正始2年
506年鐘離邢巒が淮南で梁軍を大破し、鐘離を攻撃した。北史 卷4 正始3年
507年鐘離鐘離に大水が出て、中山王元英が大敗して引き返した。北史 卷4 正始4年
508年信都冀州刺史京兆王元愉が冀州を挙げて反乱(後に李平が信都を陥落させた)。北史 卷4 永平元年
508年懸瓠邢巒が懸瓠を陥落させ、反乱の首謀者白早生を斬り、梁の将らを捕らえた。北史 卷4 永平元年
514年益州高肇を大将軍・平蜀大都督とし、歩騎十五万で益州を西から攻めさせた。北史 卷4 延昌3年
516年硤石崔亮・李平らが梁の将趙祖悦の守る硤石を陥落させ、彼を斬って全軍を捕らえた。北史 卷4 熙平元年
524年沃野沃野鎮の人破六韓抜陵が鎮将を殺して反乱を起こした(六鎮の乱の始まり)。北史 卷4 正光5年
524年秦州秦州の人莫折大提が城を奪って秦王を名乗り、刺史李彦を殺した。北史 卷4 正光5年
525年彭城徐州刺史元法僧が城を奪って宋王を名乗り、梁に帰順して子を梁に送った。北史 卷4 孝昌元年
526年博野葛栄が博野の白牛邏で光陽王元深・章武王元融の軍を破り、元融が戦死した。北史 卷4 孝昌2年
526年幽州杜洛周が幽州を陥落させ、刺史王延年と行台常景を捕らえた。北史 卷4 孝昌2年
527年冀州葛栄が冀州を陥落させ、刺史元孚を捕らえた。北史 卷4 孝昌3年
528年陶渚爾朱栄が陶渚で霊太后と幼い皇帝、丞相の高陽王元雍ら公卿二千人を殺した(河陰の変)。北史 卷5 永安元年
528年滏口爾朱栄が騎兵七千で滏口において葛栄を攻めて捕らえ、河北の五州が平定された。北史 卷5 永安元年
529年濟南上党王元天穆が済南で邢杲を大破し、邢杲が降伏した。北史 卷5 永安2年
529年洛陽梁の後援を受けた北海王元顥が洛陽に入り、皇帝は北へ避難した。北史 卷5 永安2年
530年安定爾朱天光が安定で萬俟醜奴・蕭宝夤を撃ち、捕らえて関中が平定された。北史 卷5 永安3年
530年晉陽爾朱兆が洛陽を襲撃し、孝荘帝を晋陽へ移した。北史 卷5 永安3年
531年信都勃海王高歓が信都で爾朱氏を討つと称して挙兵した。北史 卷5 普泰元年
531年信都高歓の軍が信都に至ると、高幹・封隆之が城門を開いて迎え、冀州を手中に収めた。北史 卷6 普泰元年
532年韓陵高歓が韓陵で爾朱天光らを撃破した。北史 卷5 普泰2年
532年鄴高歓は土山と地下道による攻撃の末に鄴城を陥落させ、拠点とした。北史 卷6 普泰2年(永熙元年 표기)
532年晉陽爾朱兆を北伐した後、高歓は晋陽が四方を塞がれた要衝だとして、大丞相府を置いて定住した。北史 卷6 永熙元年
533年赤洪嶺竇泰が爾朱兆の本拠を奇襲し、赤洪嶺まで追撃して破ると、爾朱兆は自害した。北史 卷6 永熙2年
534年河橋孝武帝が六郡十余万の軍を率いて河橋に駐屯し、高歓と対峙した。北史 卷5 永熙3年
534年長安孝武帝は西へ逃れ、宇文泰の出迎えを受けて長安に入った。北史 卷5 永熙3年
534年鄴高歓が元善見(孝静帝)を立てて鄴に遷都し、魏は東西に分裂した。北史 卷5 永熙3年
534年鄴東魏の孝静帝が即位し、車駕を北の鄴へ移した。北史 卷5 東魏天平元年
534年洛陽孝武帝が長安へ逃れた後、高歓が洛陽に入り永寧寺に滞在した。北史 卷6 永熙3年
534年略陽宇文泰が略陽一帯で侯莫陳悦の軍を大破し、悦は逃げる途中、牽屯山で死んだ。北史 卷9 永熙3年
535年雲陽谷高歓が雲陽谷の山胡・劉蠡升(自称天子)を襲撃して大破した。北史 卷6 天平2年
536年夏州高歓が一万騎で西魏の夏州を襲撃し、刺史費也頭賀抜俄弥突を捕らえ、五千戸を移住させた。北史 卷6 天平3年
537年沙苑勃海王高歓が西征に出たが、沙苑で敗北した。北史 卷5 東魏天平4年
537年小關宇文泰が小関で高歓の部将竇泰を奇襲し、全軍を捕らえ、竇泰を斬った。北史 卷9 大統3年
537年弘農宇文泰が弘農を攻めて陥落させ、東魏の陝州刺史李徽伯と八千の兵を捕らえた。北史 卷9 大統3年
538年洛陽東魏の侯景らが洛陽を包囲すると、文帝と宇文泰が東へ出征した。北史 卷5 大統4年
542年玉壁高歓が西魏の王思政の守る玉壁城を包囲したが、西軍は出てこず、大雪で兵が死んだため十一月に撤退した。北史 卷6 興和4年
543年邙山高歓が邙山で西魏軍を大破し、恒農まで追撃した。北史 卷5 東魏武定元年
546年玉壁高歓が韋孝寛の守る玉壁を五十日攻めたが陥落させられず、七万人が死んで塚を成し、病を得て引き返した。北史 卷6 武定4年
547年潁川東魏の司徒侯景が潁川で河南六州を挙げて西魏に帰順した。北史 卷5 大統13年
547年晉陽高歓が晋陽で五十二歳で没した(発喪は六月)。北史 卷6 武定5年
548年渦陽高嶽らが渦陽で侯景を大破し、五万余人を捕らえまたは斬った。北史 卷5 東魏武定6年
548年黎陽高澄が南の黎陽に至り、武牢で黄河を渡って洛陽を経て太行を越え、晋陽へ戻った。北史 卷6 武定6年
549年建康侯景が梁の建業(建康)を陥落させた。北史 卷5 東魏武定7年
549年潁川高澄が潁川を攻めて陥落させ、西魏の大将軍王思政らを捕らえた。北史 卷5 東魏武定7年
549年安陸楊忠が随州を陥落させ、安陸で梁の馬岫を包囲した。北史 卷9 大統15年
550年東魏の孝静帝が斉王高洋に帝位を譲った(北斉の建国、天保元年)。北史 卷5 東魏武定8年
550年鄴高洋(文宣帝)が南郊で即位して北斉を建て、改元した。(原文は続けて鄴下の適作の献上を記す。)北史 卷7 天保元年
551年南鄭達奚武が散関を出て南鄭(梁州)を攻めに向かった。北史 卷9 大統17年
552年代郡文宣帝が代郡で庫莫奚を直接攻めて大破し、捕虜を山東の民とした。北史 卷7 天保3年
553年成都大将軍尉遅迥が成都を陥落させ、剣南が平定された。北史 卷5 西魏廢帝2年
553年平州平州に至り、長塹方面へ向かい、徒歩で山を越えて契丹を大破した。北史 卷7 天保4年
553年馬邑突厥を討って蠕蠕の庫提を廃し、阿那瓌の子の菴羅辰を馬邑川に置き、突厥の降伏を受けた。北史 卷7 天保4年
553年姑臧宇文泰が精鋭騎兵三万で隴を越え金城河を渡って姑臧に至ると、吐谷渾は恐れて方物を献じた。北史 卷9 西魏廢帝2年
554年石樓山胡を大いに破って十二歳以上の男子をすべて殺し、石楼を平定した。北史 卷7 天保5年
554年黃瓜堆蠕蠕の数万騎に黄瓜堆で囲まれたが、包囲を破って追撃し、三万余りを捕らえた。北史 卷7 天保5年
554年江陵于謹が江陵を陥落させ、梁の元帝を殺し、百官・民十余万を奴隷として連れ帰った。北史 卷9 西魏恭帝元年
555年夏首清河王高岳が長江を渡り夏首を陥落させ、梁の陸法和が降伏を請うた。北史 卷7 天保6年
555年懷朔軽騎五千で懐朔鎮において蠕蠕を追いつき大破し、沃野まで至った。北史 卷7 天保6年
556年西魏の恭帝が北周に禅譲した(西魏滅亡)。北史 卷5 西魏恭帝3年
556年鍾山蕭軌らが鍾山の西で梁軍と戦ったが、長雨に敗れ、将軍らは全滅した。北史 卷7 天保7年
556年雲陽宇文泰は雲陽で病にかかり、宇文護に後事を託し、十月に雲陽宮で死んだ。北史 卷9 西魏恭帝3年
559年晉陽文宣帝が晋陽宮の徳陽堂で三十一歳で急逝した。北史 卷7 天保10年
559年洮陽賀蘭祥が吐谷渾の洮陽・洪和の二城を陥落させた。北史 卷9 明帝武成元年
560年晉陽高演(孝昭帝)が晋陽の宣徳殿で即位した。北史 卷7 皇建元年
561年晉陽孝昭帝が晋陽宮で二十七歳で崩御し、長広王高湛を呼んで後を継がせた。北史 卷7 皇建2年
563年并州北周の楊忠が突厥十余万とともに三路で攻め込み、并州を圧迫した。北史 卷8 河清2年
564年晉陽晋陽城の西で戦い、段韶が北周・突厥軍を大破し、辺境まで追撃した。北史 卷8 河清3年
564年軹關婁睿が軹関で北周軍を大破し、楊摽を捕らえた。北史 卷8 河清3年
564年洛陽段韶が尉遅迥らを大破し、洛陽の包囲を解いた。北史 卷8 河清3年
564年洛陽尉遅迥が洛陽を包囲し、宇文憲は芒山に、宇文護は陝州に駐屯した(第一次北斉征伐)。北史 卷10 保定4年
564年洛陽北斉軍が黄河を渡って明け方に洛陽へ迫ると周軍は散り、王雄が戦死して撤退した。北史 卷10 保定4年
567年沌口衛公宇文直らが沌口で陳の淳于量・呉明徹と戦い、敗れた。北史 卷10 天和2年
571年龍門斉公宇文憲が龍門で黄河を渡り、斛律光を華谷へ退け、新たに築かれた五城を陥落させた。北史 卷10 天和6年
572年武帝は大総宰の宇文護とその子宇文会らを殺し、親政を始めた。北史 卷10 建德元年
573年呂梁陳の呉明徹と呂梁の南で戦い、北斉軍は大敗し、秦・涇・和・合の四州を失った。北史 卷8 武平4年
573年壽陽陳の呉明徹が寿陽を陥落させた。北史 卷8 武平4年
574年仏教と道教を禁じ、経典と仏像を破壊し、僧侶と道士を還俗させた(北周の廃仏)。北史 卷10 建德3年
575年洛陽北周軍が洛川に入って芒山に駐屯し洛城を圧迫、火船で浮橋を焼き、河橋が断たれた。北史 卷8 武平6年
575年河陰武帝は六郡を率いて北斉の河陰大城を陥落させたが、子城を抜けず、病を得て九月に撤退した。北史 卷10 建德4年
576年晉州北周軍が晋州を攻撃した(後主は狩りの最中)。北史 卷8 武平7年
576年晉州北周の武帝が晋州救援に来て、城南の戦いで斉軍を大破し、後主は軍を捨てて先に逃げた。北史 卷8 武平7年
576年晉陽安徳王高延宗が晋陽で即位して戦ったが、周軍に大敗して捕らえられた。北史 卷8 武平7年
576年晉州晋州刺史崔嵩が内応し、明け方に城に登って晋州を陥落させた。北史 卷10 建德5年
576年晉州晋州の前での決戦で北斉軍は大崩れし、軍需物資が数百里にわたり積み上がった。北史 卷10 建德5年
576年并州武帝は晋陽で昼夜戦い、高延宗を捕らえて并州が平定された。北史 卷10 建德5年
577年鄴周軍が迫ると、幼主は鄴から東へ逃げた。北史 卷8 承光元年
577年青州太上皇(後主)が青州南の鄧村で周将尉暹綱に捕らえられ鄴へ護送され、北斉は滅びた。北史 卷8 承光元年
577年鄴鄴を包囲して大破し平定した(北斉の首都陥落)。北史 卷10 建德6年
577年青州尉勤が青州で北斉の後主と太子恒を捕らえた。北史 卷10 建德6年
577年呂梁陳の呉明徹が呂梁を攻めると、梁士彦は戦ったが不利となり徐州へ退いた。北史 卷10 建德6年
578年呂梁王軌が呂梁で陳軍を大破し、呉明徹らを捕らえ、三万余人を斬りまたは捕虜とした。北史 卷10 宣政元年
578年雲陽北伐中に皇帝は病にかかり雲陽宮に留まった(六月に崩御)。北史 卷10 宣政元年
579年洛陽山東の諸州の兵を動員して洛陽宮を造らせた(常時四万人)。北史 卷10 大象元年
579年壽陽韋孝寬が寿陽、宇文亮が黄城、梁士彦が広陵を陥落させ、江北が平定された。北史 卷10 大象元年
580年鄴相州総管尉遅迥が交替を拒んで挙兵し、楊堅の執権に反発した。北史 卷10 大象2年
580年鄴韋孝寛が鄴で尉遅迥を破ると、迥は自殺し、相州が平定された。北史 卷10 大象2年
580年益州梁睿が王謙を破って斬り、益州が平定された。北史 卷10 大象2年
581年北周の静帝が隋に禅譲した(北周滅亡)。北史 卷10 大定元年
581年青海元諧が青海で吐谷渾を破り、降伏させた。北史 卷11 開皇元年
582年馬邑李充が馬邑で突厥を撃破した。北史 卷11 開皇2年
583年大興城新しい都・大興城に喪服で入った。北史 卷11 開皇3年
583年涼州竇栄定が涼州で突厥と吐谷渾を破った。北史 卷11 開皇3年
587年江陵後梁を廃して江陵を恩赦し、蕭琮を柱国・莒国公とした。北史 卷11 開皇7年
588年六合晋王楊広は六合へ、秦王は襄陽へ、楊素は信州へ出て陳を討った。総勢五十一万八千(九十総管)。北史 卷11 開皇8年
589年建康賀若弼が蔣山で陳軍を破り、韓擒が建業に入って陳主叔宝を捕らえ、陳を平定した。北史 卷11 開皇9年
590年會稽婺州・会稽・蘇州など江南各地で、天子や大都督を称する反乱が起き、楊素が平定した。北史 卷11 開皇10年
598年漢王楊諒を元帥に、水陸三十万を送って高句麗を征伐したが、九月に疫病が流行して撤退した。北史 卷11 開皇18年
600年太子楊勇とその子らを庶人に落とし、十一月に楊広を太子とした。北史 卷11 開皇20年
604年仁壽宮仁寿宮で病が重くなった文帝は群臣と別れを告げ、七月丁未に六十四歳で崩御した。北史 卷11 仁壽4年
604年并州并州総管漢王楊諒が挙兵すると、楊素がこれを平定した。北史 卷12 仁壽4年
605年洛陽楊素・楊達・宇文愷に東京(洛陽)の造営を命じ、予州の民を移して住まわせた。北史 卷12 大業元年
605年板渚河南の男女七百万人を動員して通済渠を掘り、板渚で黄河の水を引いて淮水に通じさせた。北史 卷12 大業元年
605年江都皇帝は龍舟に乗って江都へ行幸し、数百隻が二百里余り続いた。北史 卷12 大業元年
606年洛陽伊闕から儀仗を整えて東京に入り、端門で大赦を行った。北史 卷12 大業2年
607年榆林楡林郡の城の東に大天幕を張り、啓民可汗と部族三千五百人を宴でもてなした。北史 卷12 大業3年
607年榆林成年男子百余万人を動員して楡林から紫河まで長城を築いた。二十日で工事を打ち切ったが、死者は十人のうち五、六人に及んだ。北史 卷12 大業3年
608年涿郡河北の男女百余万人を動員して永済渠を掘り、沁水から黄河へ、北は涿郡まで通じさせた。北史 卷12 大業4年
609年大鬥拔谷大鬥抜谷の険しい道で風雨・霙に遭い、後宮と離れ、兵の大半が凍死した。北史 卷12 大業5年
609年張掖張掖に至り高昌王と会い、ついで西域の地を受けて西海などの四郡を設置した。北史 卷12 大業5年
610年洛陽弥勒仏を自称する盗賊数十人が建国門から入り反乱を企てたが、斉王楊暕に斬られた。北史 卷12 大業6年
611年涿郡江都から龍舟で通済渠に入り、涿郡へ行幸した(高句麗遠征の準備)。北史 卷12 大業7年
611年大水で山東・河南の三十余郡が水没し、民は互いに奴隷として売られた。高句麗への徴発とともに盗賊が起こった。北史 卷12 大業7年
612年涿郡高句麗遠征軍が涿郡に集結した(総勢百十三万、補給は倍)。北史 卷12 大業8年
612年遼東皇帝は遼水を渡り、東岸で大戦して破り、遼東城を包囲した。北史 卷12 大業8年
612年薩水宇文述・薛世雄らが薩水で敗れ(別動の九軍が崩れて引き返した)、七月に撤退した。北史 卷12 大業8年
613年平壤皇帝は遼を渡り、宇文述・楊義臣を平壌城へ向かわせた(第二次遠征)。北史 卷12 大業9年
613年黎陽礼部尚書楊玄感が黎陽で反乱を起こした(遠征軍の補給を担当中)。続いて東都を圧迫した。北史 卷12 大業9年
613年閿鄉宇文述らが閿郷で楊玄感を破って斬り、反乱が平定された。北史 卷12 大業9年
614年高句麗が降伏を請い、斛斯政を縛って送ってくると、煬帝は大いに喜んだ(第三次遠征終了)。北史 卷12 大業10年
615年雁門始畢可汗が数十万の騎兵で雁門を包囲し、皇帝は包囲された(九月に解かれた)。北史 卷12 大業11年
616年江都皇帝は江都宮へ行幸し、以後戻らなかった。北史 卷12 大業12年
617年樂壽竇建徳が河間の楽寿に壇を築き、長楽王を称した。北史 卷12 大業13年
617年興洛倉李密・翟譲らが興洛倉を陥落させ、以後倉を開いて民衆に分け、その数は数十万に達した。北史 卷12 大業13年
617年太原唐公李淵が太原で義兵を挙げた。北史 卷12 大業13年
617年霍邑霍邑で唐公が宋老生を破って斬り、長安への道を開いた。北史 卷12 大業13年
617年大興城唐公が京師大興城に入り、煬帝を太上皇に、代王侑を立てた。北史 卷12 大業13年
618年江都宇文化及が江都宮で太上皇(煬帝)を殺害した。北史 卷12 義寧2年
618年恭帝が唐の李淵に禅譲した(隋滅亡)。北史 卷12 義寧2年

原文のライセンスと出典

北史 — 中文維基文庫(zh.wikisource.org) 編者, CC BY-SA 4.0 (원저작 PD). 대목 나누기·정리: 지도 프로젝트

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