フランク王国年代記

フランク王国年代記(正史 の史料)。扱う年は741年 〜 829年、出来事193件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年741年 〜 829年
出来事の数出来事193件・地図に置いた127件
著者저자 미상(궁정 연대기 · 801년 이후는 단일본, 741~801은 원본판과 아인하르트판 개정본 병기)
原題Annales regni Francorum (Annales Laurissenses maiores et Einhardi)

地域の内訳: 西ヨーロッパ 163 · 南ヨーロッパ 28 · 西アジア 2

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
741年Laonカール・マルテルが死去し、三人の息子(カールマン・ピピン・グリフォ)が残る。グリフォはラン(ラウドゥヌム)の町を奪い、兄弟に宣戦布告する。二人の兄は軍を集めてランを包囲し、グリフォの降伏を受けるARF(Einhard판) a.741, Kurze 1895 p.3
741年Neufchateauカールマンはグリフォをアルデンヌ近くのノヴォカステルムに幽閉する(カールマンがローマへ去るまでそこに留め置かれたと伝えられる)ARF(Einhard판) a.741, Kurze 1895 p.3
742年Lochesカールマンとピピンは、アキタニア公フナルドゥスを討つため軍を率いてアキタニアに入り、ルカスという城を占領するARF(Einhard판) a.742, Kurze 1895 p.3
742年帰途、二人の兄弟はヴェトゥス・ピクタウィスという所でフランク王国を互いに分け合うARF(Einhard판) a.742, Kurze 1895 p.5
742年同年、カールマンはフランク連合から離反したアラマンニアに軍を入れ、火と剣で荒廃させるARF(Einhard판) a.742, Kurze 1895 p.5
743年カールマンとピピンは連合してバイエルン公オディロを討とうとし、戦いを交えてその軍を打ち破るARF(Einhard판) a.743, Kurze 1895 p.5
743年その後カールマンは単独でザクセンに行き、ホーゼブルク城とその中のザクセンの首長テオデリクスの降伏を受けるARF(Einhard판) a.743, Kurze 1895 p.5
744年二人の兄弟は力を合わせてザクセンに入り、先のテオデリクスの降伏を改めて受けるARF(Einhard판) a.744, Kurze 1895 p.5
746年Soracteカールマンはローマへ行き、俗世の栄光を捨てて修道服を着け、ソラクテ山に聖シルウェステル修道院を建てるARF(Einhard판) a.746, Kurze 1895 p.7
746年Casinumその後まもなくカールマンはソラクテ修道院を去り、カシヌム城のそばの聖ベネディクトゥス修道院に来て、修道服を授けられるARF(Einhard판) a.746, Kurze 1895 p.7
747年Ohrumピピンに従いたくない弟グリフォはザクセンへ逃げ、ザクセン軍を集めてオーカー川のほとりのオルハイムに陣を張るARF(Einhard판) a.747, Kurze 1895 p.7
747年Schoningenピピンはフランク軍を率いてテューリンゲンを通ってザクセンに入り、ミサ川のほとりのスカハニンギに陣を張る。戦闘はなく、約束を交わして別れるARF(Einhard판) a.747, Kurze 1895 p.7
748年グリフォはザクセンを信用できず、バイエルンへ行って軍を集め、公国を奪い、タシロとヒルトルードを服従させる。知らせを聞いたピピンは大軍を率いてバイエルンへ行き、グリフォを捕らえ、タシロを公として復位させるARF(Einhard판) a.748, Kurze 1895 p.7
749年 〜 750年Romeヴュルツブルク司教ブルハルドゥスと司祭フルラドゥスが、王権について助言を求めてローマの教皇ザカリアスのもとに遣わされる。教皇は、実権を握る者を王と呼ぶ方がよいとし、ピピンを王に立てることを許すARF(Einhard판) a.749, Kurze 1895 p.9
750年 〜 751年Soissons教皇の承認を得て、ピピンはフランクの王と呼ばれ、大司教ボニファティウスの油注ぎを受け、フランクの慣習どおりソワソンで王座に就く。名ばかりの王ヒルデリクスは剃髪されて修道院に送られるARF(Einhard판) a.750, Kurze 1895 p.11
753年 〜 754年ピピンは大軍を率いてザクセンに入り、頑強に抵抗するザクセン人を追い払い、ヴェーザー川のほとりのリミまで進む。この遠征でヒルデガリウス大司教がイベルク山で死ぬARF(Einhard판) a.753, Kurze 1895 p.11
753年 〜 754年教皇ステファヌスがカリシアクス別荘にピピンを訪ね、ロンゴバルドからの自分とローマ教会の保護を求める。すでに修道士となっていたカールマンも院長の命を受けて来ており、教皇の要請に反対しようとしたARF(Einhard판) a.753, Kurze 1895 p.11
754年防衛の確約を得た教皇ステファヌスは、ピピンとその二人の息子カールとカールマンに油を注いで王位を授け、冬もフランクに留まるARF(Einhard판) a.754, Kurze 1895 p.13
754年マインツ大司教ボニファティウスは、フリジアで福音を説いている最中に異教徒に殺され、殉教するARF(Einhard판) a.754, Kurze 1895 p.13
755年ピピンは聖ペテロの正義を求めてロンゴバルド王に要求するため、軍とともにイタリアに入る。アルプスの要路(クルーサ)を塞いだロンゴバルドと激しく戦った末、フランク全軍が越えるARF(Einhard판) a.755, Kurze 1895 p.13
755年Paviaロンゴバルド王アイストゥルフは抵抗できず、パヴィアでピピンに包囲される。人質四十人を受け取ってようやく包囲を解くARF(Einhard판) a.755, Kurze 1895 p.13
755年Vienne修道士カールマンは王妃ベルトラーダとともにヴィエンヌに留まっていたが、王がイタリアから戻る前に熱病で死ぬ。遺体は修道院へ移されるARF(Einhard판) a.755, Kurze 1895 p.13
756年Paviaアイストゥルフが約束を破ると、ピピンは再びイタリアに入り、パヴィアに閉じこもった彼を包囲して履行を強いる。ラヴェンナ・ペンタポリス・総督領を聖ペテロに引き渡すARF(Einhard판) a.756, Kurze 1895 p.15
757年Compiegneビザンツ皇帝コンスタンティヌスが送ったオルガンなどの贈り物がコンピエーニュに届く。総会で、バイエルン公タシロが臣従の誓いと忠誠の誓約をするARF(Einhard판) a.757, Kurze 1895 p.15
758年ピピンはザクセンを攻め、防壁を突破して多くの敵を殺し、毎年の総会に馬を献上するという約束を取りつける(原文OCRの馬の数「CCO」は判読が不確か)ARF(Einhard판) a.758, Kurze 1895 p.17
760年アキタニア公ワイファルが教会財産の返還を拒むと、ピピンはアキタニアに攻め込み陣を張る。ワイファルは戦わず、服従と人質を約束するARF(Einhard판) a.760, Kurze 1895 p.19
761年Chalonワイファルは軍をカルヴィロまで送り、フランクの領地を略奪させる。デュリアで総会を開いていたピピンはアキタニアに攻め込み、ブルボン・カンティリアなど数々の城塞を奪うARF(Einhard판) a.761, Kurze 1895 p.19
761年Limogesピピンはリモビカス(リモージュ)の町まで進んで引き返す。この遠征には長男のカールが同行したARF(Einhard판) a.761, Kurze 1895 p.21
762年Bourgesピピンは再びアキタニアに入り、ビトゥリカス(ブールジュ)の市とトアルキス城を占領するARF(Einhard판) a.762, Kurze 1895 p.21
763年Cahorsピピンはネヴェールで総会を開き、再びアキタニアを攻めてカドゥルキア(カオール)の町まで至り、リモージュを経て帰還する。この遠征中、バイエルン公タシロは仮病を使って帰国し、二度と王の前に出ないと誓うARF(Einhard판) a.763, Kurze 1895 p.21
764年Wormsアキタニア戦争と、タシロの離反によるバイエルン戦争の板挟みになったピピンは、ヴォルムスで総会を開き、その年の遠征を延期する。六月四日、昼の第六時に日食ARF(Einhard판) a.764, Kurze 1895 p.23
766年Orleansピピンはオルレアンで会議を開き、アキタニアに入る。ワイファルが壊したアルゲントマグム城を再建し、そことビトゥリガにフランクの守備隊を置くARF(Einhard판) a.766, Kurze 1895 p.25
767年Gentilly東西の教会が三位一体と聖像の問題で割れると、ピピンはゼンティリーで会議を開き、この件について教会会議(シノドス)を開くARF(Einhard판) a.767, Kurze 1895 p.25
767年Toulouseクリスマスの後、ピピンはアキタニアに進み、ナルボンヌを経てトゥルーズを攻めて占領し、アルビとガバルダンの地域の降伏を受けるARF(Einhard판) a.767, Kurze 1895 p.25
767年Bourges八月、ピピンはビトゥリカに来て、フランクの慣習どおり野外で総会を開き、ガロンヌ川へ行ってスコラリア・トリンナ・ペトロキアなどの城塞と洞窟を奪う。ビトゥリカで冬とクリスマスを過ごすARF(Einhard판) a.767, Kurze 1895 p.25
768年Saintesピピンはサントンス(サントニカ)市に進軍し、ワイファルの母・妹・姪を捕らえ、丁重に扱わせる。ガロンヌ川へ行くと、エロヴィクスがワイファルの妹とともにモンテスという所で降伏するARF(Einhard판) a.768, Kurze 1895 p.27
768年ワイファルはペトラゴリクス(ペリグー)の領内で殺され、これでアキタニア戦争は終わったとみなされる。ピピンはサントンスへ戻るARF(Einhard판) a.768, Kurze 1895 p.27
768年病のピピンはトゥールの聖マルティヌスの墓で祈り、パリに至り、九月二十四日に死去。サン=ドニ大聖堂に葬られるARF(Einhard판) a.768, Kurze 1895 p.27
768年Noyonピピンの二人の息子が、全フランクの同意により王となる。カールはノヴィオムス(ノワイヨン)で王権の標章を受けるARF(Einhard판) a.768, Kurze 1895 p.29
768年Soissonsカールマンはソワソンで王権の標章を受けるARF(Einhard판) a.768, Kurze 1895 p.29
769年アキタニアでは、フナルドゥスが王権を狙って反乱を扇動する。カール王は軍を率いてエゴリスマ(アングレーム)で兵を集め追撃するが取り逃がす。フナルドゥスはガスコーニュ公ルプスのもとに逃げるが、脅しに屈したルプスに引き渡されるARF(Einhard판) a.769, Kurze 1895 p.29
769年王はドルドーニュ川のほとりにフロンシアクム城を建てる。使者がフナルドゥスを連れてくると帰還する。クリスマスはデュリアで、復活祭はリエージュの聖ランベルトゥスのもとで過ごすARF(Einhard판) a.769, Kurze 1895 p.31
771年カールマンは十二月四日にサルモンティアクム別荘で死去し、カールはカルボナクムに行って兄の司祭・伯・側近を迎え入れる。カールマンの妻と息子は一部の貴族とともにイタリアへ去るARF(Einhard판) a.771, Kurze 1895 p.33
772年Marsbergヴォルムスの総会の後、カールはザクセンに攻め込み、初戦でエレスブルク城を奪い、ザクセン人がイルミンスールと呼んだ偶像を倒す。三日間の滞在中に水が涸れたが、正午に山のそばの谷から水が湧き出たと伝えられるARF(Einhard판) a.772, Kurze 1895 p.35
773年Geneva教皇ハドリアヌスの救援要請に応えて、カールはロンゴバルド征伐を決意し、全フランク軍とブルグンドのジュネーヴ(ローヌ川のほとり)に集結するARF(Einhard판) a.773, Kurze 1895 p.35
773年Pavia軍を二つに分け、一方は叔父ベルナルドゥスがモンス・ヨウィス(大サン・ベルナール峠)からイタリアに入り、もう一方はカール自身がモンス・キニシウス(モン・スニ峠)を通ってアルプスを越える。抵抗できないデシデリウス王を逃走させ、ティキヌム(パヴィア)に閉じ込めて冬の間中包囲するARF(Einhard판) a.773, Kurze 1895 p.37
774年カールがイタリアにいる隙に、ザクセン人は隣接するヘッセンの国境を火と剣で略奪するARF(Einhard판) a.774, Kurze 1895 p.37
775年Dortmundデュリアの総会の後、カールはライン川を渡ってザクセンに入り、最初の攻撃でシギブルク城を奪う。ザクセン人が壊したエレスブルクを再建し、フランクの守備隊を置くARF(Einhard판) a.775, Kurze 1895 p.41
775年ヴェーザー川のブルネスベルクで、渡河を阻もうとしたザクセンの大軍は、最初の交戦で追い払われ、多くが戦死するARF(Einhard판) a.775, Kurze 1895 p.41
775年ヴェーザー川のほとりに残されたフランクの分遣隊は、クリドベキで油断しているところをザクセン人の策略に襲われ、かなりの被害を受けたが、見張りの抵抗によってザクセン人は退いた。知らせを聞いた王は急ぎ逃げる者を追撃し、大きく打ち破るARF(Einhard판) a.775, Kurze 1895 p.43
776年フリウリ公フロオドガウドゥスが反乱を企てると、カールは急いでイタリアに向かい、彼を殺す。反乱した都市を取り戻し、フランクの伯を置いて、同じ速さで帰還するARF(Einhard판) a.776, Kurze 1895 p.45
776年Marsbergアルプスを越えたばかりの王のもとに、ザクセン人がエレスブルクを陥落させてフランクの守備隊を追い出し、シギブルクを包囲したが守備隊の出撃でリッペ川まで追い返されたという知らせが届くARF(Einhard판) a.776, Kurze 1895 p.45
776年Lippspringeヴォルムスの総会の後、カールは電光石火でザクセンへ向かい、リッペ川の水源で許しを請うザクセンの大軍に会い、赦して洗礼を受けさせる。人質を取り、エレスブルクを復旧し、リッペ川のほとりに新たに城を築いて守備隊を置くARF(Einhard판) a.776, Kurze 1895 p.47
777年Paderbornカールは、ノヴィオマグムで復活祭を過ごした後、パーダーボルンで総会を開くためザクセンへ行く。ザクセンの指導者たちが来て服従し、多くの者が洗礼を受けるが、ヴィドゥキントはデンマーク王シグフリドのもとへ逃げる。スペインからはサラセン人イブン・アル=アラビーが来て降伏するARF(Einhard판) a.777, Kurze 1895 p.49
778年ザクセン人がライン川まで攻め込み、ディウティアからモーゼル川との合流点までの村々を火と剣で荒廃させる。アーヘン(アクイスグラヌム)でその知らせを聞いた王は、東フランク・アラマンの軍を送り、ヘッセン地方のアーデルナッハ川で待ち伏せさせて大いに打ち破らせるARF(Einhard판) a.778, Kurze 1895 p.53
779年Compiegne春にカールはヘリスタルからコンピエーニュへ移り、その帰途、スポレート公ヒルディブランドゥスが大きな贈り物を携えて出迎えるARF(Einhard판) a.779, Kurze 1895 p.53
779年デュリアの総会の後、カールはリッペハムからライン川を渡り、ブオホルトという所で、むなしい希望にすがって抵抗するザクセン人を追い払う。ヴェストファーレン地方を服従させ、ヴェーザー川のほとりのミミドゥッリで数日陣を張り、アングラリ族とオストファーレン族から人質と誓約を受けるARF(Einhard판) a.779, Kurze 1895 p.55
780年カールは大軍を率いてザクセンに入り、エレスブルクを経てリッペの水源で数日過ごす。そこからオバクルー、オルハイムで東ザクセン人の多くに洗礼を受けさせる。エルベ川とオラ川の合流点に陣を張り、エルベのこちら側のザクセン人と向こう側のスラヴ人の事柄を処理するARF(Einhard판) a.780, Kurze 1895 p.57
780年Paviaローマ巡礼を決意したカールは、妻子とともにイタリアへ行き、クリスマスをティキヌムで過ごすARF(Einhard판) a.780, Kurze 1895 p.57
781年Romeカールはローマで復活祭を過ごす。教皇ハドリアヌスは息子ピピンに洗礼を授けて王に油を注ぎ、ルドヴィクスにも油を注いで冠を授ける。ピピンはイタリア王、ルドヴィクスはアキタニア王となるARF(Einhard판) a.781, Kurze 1895 p.57
781年Wormsローマで取り決められた教皇と王の使節がタシロを説得すると、バイエルン公はヴォルムスで王のもとに来て誓い、人質十二名を差し出す。しかしまもなく約束を破る。王はカリシアクスで冬とクリスマス、復活祭を過ごすARF(Einhard판) a.781, Kurze 1895 p.59
782年Cologne初夏、カールはケルンでライン川を渡り、リッペの水源に数日陣を張って総会を開く。デンマーク王シグフリドと、フンの指導者カガンとイグルスの使節を引見するARF(Einhard판) a.782, Kurze 1895 p.59
782年ヴィドゥキントの扇動で集まったザクセン軍が、フランクの使節を攻撃し、ズンテル山のそばのヴェーザー川の岸で大敗する。使節二名(アダルギスとゲイロ)、伯四名など貴族約二十名が戦死するARF(Einhard판) a.782, Kurze 1895 p.63
782年Verden王はザクセン指導者たちにヴィドゥキントを引き渡すよう求めるが果たせない。そこで加担した者約四千人を、アッラー川のほとりのフェルデンで一日のうちに斬首する(原文OCRの数値「quattuor milia」は判読が不確か)ARF(Einhard판) a.782, Kurze 1895 p.65
783年Thionville妻のヒルデガルディス王妃が四月三十日に死去する。王はテオドネヴィラで冬を過ごした直後であったARF(Einhard판) a.783, Kurze 1895 p.65
783年カールはテオトメリで、ザクセン軍と戦ってほぼ全滅させる。パーダーボルンに退いて増援を待ち、ヴェストファーレン境界のハーゼ川のほとりに集まったザクセン軍を再び打ち破る。ヴェーザーを経てエルベまで荒廃させるARF(Einhard판) a.783, Kurze 1895 p.65
783年Herstalカールは伯ラドルフの娘ファストラーダと結婚する。同年、母ベルトラーダが七月十二日に死去する。王はヘリスタルで冬とクリスマス、復活祭を過ごすARF(Einhard판) a.783, Kurze 1895 p.67
784年カールはリッペハムからライン川を渡ってヴェストファーレンを荒らし、ヴェーザー川のほとりのフクルビに陣を張る。しかし洪水で北進を阻まれたため、テューリンゲンに進路を変え、エルベとザーレの間の東ザクセンの野を焼き払う。ヴェストファーレンの防衛は息子カールに任せるARF(Einhard판) a.784, Kurze 1895 p.67
784年息子のカールは、リッペ川のほとりのドライエンの地でザクセン軍と遭遇し、騎兵戦の末に勝利して、ヴォルムスの父のもとに戻るARF(Einhard판) a.784, Kurze 1895 p.69
784年Marsbergカールは再び軍を集めてザクセンへ行く。リッペ付近で略奪するが、冬の寒さと洪水でそれ以上進めず、エレスブルクで冬を越すARF(Einhard판) a.784, Kurze 1895 p.69
785年Marsberg妻子をエレスブルクに呼び寄せ、守備隊を置いたカールは、機動力のある軍で冬の間中ザクセンの村々を荒らし回り、略奪して、ザクセンに大きな損害を与えるARF(Einhard판) a.785, Kurze 1895 p.69
785年Paderborn冬が終わり補給が届くと、カールはパーダーボルンで定例の総会を開いた後、バルデンガウへ行くARF(Einhard판) a.785, Kurze 1895 p.69
785年Attignyバルデンガウで、ヴィドゥキントとアッビオがエルベ川の向こうにいると聞いたカールが説得すると、安全を保証された二人は王の使者アマルウィヌスの導きでアティニャクの別荘に来て洗礼を受けるARF(Einhard판) a.785, Kurze 1895 p.71
785年同年、ライン川の向こうの東フランクで、ハルドラドゥス伯が主導した大きな反逆の陰謀が起こるが、すぐに発覚し、首謀者は失明させられるか流刑に処されるARF(Einhard판) a.785, Kurze 1895 p.71
786年Florence厳しい冬にイタリアに入ったカールは、トスカーナのフロレンティア(フィレンツェ)でクリスマスを過ごし、急いでローマへ向かうARF(Einhard판) a.786, Kurze 1895 p.73
787年Capuaベネヴェントゥム公アリキスは、カールの進軍の知らせに息子ロムアルドを送って和平を求めるが、自身は軍を率いてカプアに陣を張る。王が先に動くと、サレルヌムへ退き、二人の息子を差し出して服従を約束する。王は戦争を止め、次男グリモアルドを人質として受け取るARF(Einhard판) a.787, Kurze 1895 p.75
787年Romeバイエルン公タシロの使節が教皇に和解の仲介を求めるが、王が権限の確認を求めると、使節は答える権限がないという。教皇は約束を破る者は破門すると宣言し、話は立ち消えとなる。王は使徒の墓に参り、フランクへ戻るARF(Einhard판) a.787, Kurze 1895 p.77
787年Augsburgヴォルムスの総会の後、カールは軍を三つに分けてバイエルンへ向かわせる。息子ピピンはイタリア軍を率いてトリデンティナ渓谷を通り、東フランク・ザクセンの軍はドナウ川沿い、カール自身はレヒ川のほとり、アウグスタ郊外に陣を張る。包囲されたタシロが来て許しを請い、人質を差し出すARF(Einhard판) a.787, Kurze 1895 p.79
788年Ingelheimインゲルハイムの総会で、タシロは妻にそそのかされてフンを引き入れた反逆罪でバイエルン人たちに告発され、満場一致で死刑を宣告される。しかし王は慈悲により修道院送りに減刑する。息子テオドも剃髪され、連座したバイエルン人は流刑となるARF(Einhard판) a.788, Kurze 1895 p.81
788年フン族は軍を二つに分けて、フリウリの辺境とバイエルンを攻めるが、両所で敗れ、大きな損失を出して退く。報復のため、より大きな兵力でバイエルンに来るが、最初の交戦で打ち破られ、ドナウを渡ろうとして多くが溺死するARF(Einhard판) a.788, Kurze 1895 p.83
788年ビザンツ皇帝コンスタンティヌスは、娘との婚約が断られたことに怒り、シチリア総督テオドルスを送ってベネヴェントの領土を略奪させる。新しい公グリモアルドとスポレート公ヒルディブランドゥスがカラブリアでこれを迎え撃ち、大勝するARF(Einhard판) a.788, Kurze 1895 p.83
789年Cologneヴィルツィのスラヴ人を懲らしめるため、カールはケルンでライン川を渡り、ザクセンを通ってエルベ川に二本の橋を架けて渡り、ヴィルツィの地を荒らす。ドラゴヴィトゥスが人質と忠誠の誓いを差し出して降伏し、他のスラヴの首長も屈服するARF(Einhard판) a.789, Kurze 1895 p.85
790年Wormsこの年は軍事遠征はなく、カールはヴォルムスに留まってフン族の使節を迎え、自分の使節をその首長に送る。国境問題の論争は後のフン族戦争の種となる。ヴォルムスの宮殿は夜の火事で焼けたが、王はそこでクリスマスと復活祭を過ごすARF(Einhard판) a.790, Kurze 1895 p.37
791年カールはヴォルムスを発ち、バイエルンでフン族に報復するため、軍を二つに分ける。一方は伯テオデリクスと従者メギンフリドゥスのもと、ドナウ川の北岸を進み、自分は南岸を進む。バイエルンとフンの境界であるエンス川に最初の陣を張り、三日間祈った後、フンに宣戦を布告するARF(Einhard판) a.791, Kurze 1895 p.89
791年フン族の防御施設(カンプ川のほとり、コマゲヌス近くのクーメオベルク山の要塞)を破って破壊し、火と剣で荒廃させる。王はアラボ川に至り、パンノニアの一部を席巻してバイエルンへ帰還する。この軍には馬の疫病が流行し、十頭のうち一頭しか残らなかったと伝えられるARF(Einhard판) a.791, Kurze 1895 p.89
791年Regensburgカールはレーゲンスブルク(レギヌム)で冬を越し、クリスマスと復活祭を過ごすARF(Einhard판) a.791, Kurze 1895 p.91
792年Seuピレネー山脈の山頂の町ウルゲルの司教フェリクスは、トレドの司教エリパンドゥスの問いに答えて、キリストは養子であると主張する。レーゲンスブルク宮廷の司教会議で誤りが証明され、ローマに送られて、サン・ピエトロ大聖堂で異端を撤回するARF(Einhard판) a.792, Kurze 1895 p.91
792年Regensburg王がレーゲンスブルクで夏を過ごす間、長男ピピンとファストラーダ王妃の残虐さに耐えられないフランク人たちが王殺しを企てる。ロンゴバルドのファルドゥルフがこれを密告し、首謀者は斬首か絞首刑に処されるARF(Einhard판) a.792, Kurze 1895 p.91
793年カールがパンノニアを再び攻めようとしたとき、伯テオデリクスがフリジアを通って率いた軍が、ヴェーザー川のほとりのフリウストリの地でザクセン人に迎え撃たれて全滅したとの知らせが届くARF(Einhard판) a.793, Kurze 1895 p.93
793年ラダンティアとアルクモナ川の間で、ドナウとライン川を舟運で結ぶ運河を掘り始め、秋の間ずっと働くが、雨と沼のために昼に掘った土が夜に崩れ落ち、失敗に終わるARF(Einhard판) a.793, Kurze 1895 p.93
793年サラセン人がセプティマニアに攻め込み、辺境の守備隊や伯と戦い、多くのフランク人を殺して勝利を収めて帰る。この知らせと、ザクセン全域での反乱の知らせを受けて、カールはフランクへ帰還するARF(Einhard판) a.793, Kurze 1895 p.95
794年Frankfurt初夏にカールはフランクフルトで総会を開き、王国全体の司教会議を招集する。教皇の使節も出席したこの会議で、フェリクスの異端を断罪し、第七回公会議(第二ニカイア公会議)を無効と宣言する。王妃ファストラーダはそこで死に、マインツの聖アルバヌスのそばに埋葬されるARF(Einhard판) a.794, Kurze 1895 p.95
794年王は軍を二つに分けてザクセンへ進軍する。自身は南から、息子カールはケルンでライン川を渡って西から進む。シントフェルトの野に陣を張ったザクセン人は戦いを諦め、人質と誓いを差し出して降伏するARF(Einhard판) a.794, Kurze 1895 p.97
795年カールはマインツの向かいのマイン川のほとりのクプフェシュタイン別荘で総会を開き、ザクセンに入って、その領土のほぼ全域を席巻し荒廃させるARF(Einhard판) a.795, Kurze 1895 p.97
795年Bardowickカールがバルデンガウのバルデンヴィークでスラヴ人を待つ間、アボトリトの王ヴィトゥジヌスがエルベ川を渡る途中でザクセンの伏兵に殺されたとの知らせが届く。怒った王はザクセンの地をさらに荒らすARF(Einhard판) a.795, Kurze 1895 p.97
796年Romeハドリアヌスが死去し、レオが教皇位に就く。使節として聖ペテロの鍵とローマ市の旗を王に送り、ローマ人から忠誠の誓いを受ける高貴な使節を求める。アンギルベルトゥスが派遣され、フリウリ公エリクスは、フン族の王宮リング(ring)から得た宝の一部を聖ペテロに送るARF(Einhard판) a.796, Kurze 1895 p.99
796年ピピンはイタリア・バイエルン軍を率いてパンノニアでフン族をティサ川の向こうへ追い払い、リングと呼ばれたフンの王宮を完全に破壊する。財宝の大半を奪い、アーヘンの父のもとへ運ぶARF(Einhard판) a.796, Kurze 1895 p.99
797年Barcelonaバルセロナ(バルキノナ)を奪っていたサラセン人ザトゥスが、フランクとサラセンの間で立場を変えていたが、夏の初めに自ら進んでアーヘンの王のもとに来て、その都市を明け渡すARF(Einhard판) a.797, Kurze 1895 p.101
797年Huescaバルセロナを手にした王は、息子ルドヴィクスを軍とともにスペインへ送ってオスカを包囲させ、自身はエルベ川とヴェーザー川の間のザクセンを大洋まで掃討するARF(Einhard판) a.797, Kurze 1895 p.101
798年王の使節を殺して傲慢になったエルベ川の向こうのザクセン人がアボトリトに攻め込むが、アボトリト公トラスコがスヴェンタナで迎え撃ち、大勝する(最初の交戦で戦士四千が倒れた。王の使節エブリスが証言する)ARF(Einhard판) a.798, Kurze 1895 p.105
798年Lisbonスペイン王ハデフォンスゥスの使節がアーヘンに来て、オリシポナ(リスボン)を占領して得た戦利品(ムーア人七人、騾馬と鎧)を王に献じるARF(Einhard판) a.798, Kurze 1895 p.105
799年Rome行列の最中、ローマ人が仕掛けた待ち伏せに遭った教皇レオは落馬し、目をえぐられ舌を切られたと伝えられる。夜に城壁から脱出し、スポレート公ウィニギスに救出されてスポレートへ運ばれるARF(Einhard판) a.799, Kurze 1895 p.107
799年Paderborn知らせを聞いた王はザクセン遠征を続け、リッペハムの総会の後パーダーボルンに至り、教皇の来訪を待つ。教皇が来て手厚く迎えられ、数日滞在した後、王の使節とともにローマへ戻るARF(Einhard판) a.799, Kurze 1895 p.107
799年Rijekaバイエルンの総督ゲロルドゥスはフン族との戦いで戦死し、フリウリ公エリクスはリブルニアのタルサティカ市で住民の待ち伏せに遭い殺されるARF(Einhard판) a.799, Kurze 1895 p.109
800年SaintRiquier三月中旬、カールはアーヘンを発って大洋の海岸を巡視し、ノルマンの海賊に備えて艦隊と守備隊を置く。センツーロ(サン=リキエ)で復活祭を過ごすARF(Einhard판) a.800, Kurze 1895 p.111
800年Toursルーアンでセーヌ川を渡ったカールは、トゥールの聖マルティヌスの墓に祈りに行く。妻リウトガルディスの病のためそこに留まるうち、王妃は六月四日に死去し、そこに葬られるARF(Einhard판) a.800, Kurze 1895 p.111
800年Mainz八月初め、カールはマインツに来て総会を開き、イタリア遠征を宣言する。その後、軍とともにラヴェンナへ行く。ラヴェンナに七日滞在した後、息子ピピンを軍とともにベネヴェントゥムの地へ送り、自身はアンコーナまで行ってローマへ向かうARF(Einhard판) a.800, Kurze 1895 p.111
800年Romeノメントゥムで出迎えた教皇レオの案内で、カールは十一月二十四日にローマに入城する。聖ペテロ大聖堂の階段で聖職者たちに迎えられるARF(Einhard판) a.800, Kurze 1895 p.113
800年Romeクリスマスのミサで教皇レオがカールの頭に冠を載せると、ローマ人たちは「カロルス・アウグストゥス……ローマ人の皇帝」と歓呼する。教皇は昔の君主のように彼を崇め、カールはパトリキウスの称号を捨て、皇帝・アウグストゥスと呼ばれるARF(Einhard판) a.801(=성탄 800), Kurze 1895 p.113
802年Aachenコンスタンティノープルの皇后エイレーネーは、平和を確定するため使節レオを送る。皇帝もアンビアーニ司教イェッセとヘルムガウドゥス伯をコンスタンティノープルに送る。復活祭は三月二十七日にアーヘンで過ごすARF a.802, Kurze 1895 p.117
802年Luceraベネヴェントゥム公グリモアルドは、ルケリアで守備隊長を務めていたスポレート伯ウィニギスを包囲して降伏させ、丁重に扱うARF a.802, Kurze 1895 p.117
803年BadNeustadtコンスタンティノープルから帰った使節とともに、ニケフォロス皇帝の使節(司教ミカエル・修道院長ペトルス・カリストゥス)がドイツのザーレ川のほとりのザルツで皇帝と会い、平和条約の文書を受け取って帰る。エイレーネーは使節の到着後に退位させられるARF a.803, Kurze 1895 p.118
804年Schleswig皇帝は、エルベ川の向こうのビハモディに住むザクセン人を妻子とともにフランクの地へ移し、その土地をアボトリトに与える。デンマーク王ゴドフリドゥスは艦隊と騎兵を率いてスリエストルプまで来るが、会見を恐れて使節を通じてのみ意向を伝えるARF a.804, Kurze 1895 p.118
805年皇帝は息子カールを軍とともにボヘミアのスラヴ人の地に送り、国全体を荒らし、指導者レコを殺す。カールは、ボヘミアの森のカンプで皇帝と合流するARF a.805, Kurze 1895 p.120
806年Thionvilleクリスマスの直後、ヴェネツィアの総督ウィレリとベアトゥス、ザラの総督パウルス、司教ドナトゥスとダルマティアの使節が大きな贈り物を携えて皇帝のもとに来る。ヴェネツィアとダルマティアの統治の秩序が定まるARF a.806, Kurze 1895 p.120
806年Thionville皇帝はフランクの貴族たちとともに、三人の息子の間の平和と、王国を三つの分け前に分けることを協議して誓いによって確定し、教皇レオの署名を得るため、アインハルドゥスを通じて文書を送る。教皇はそれを読んで同意し、自ら署名するARF a.806, Kurze 1895 p.121
806年Nijmegen皇帝はテオドニスヴィラからモーゼル川・ライン川に沿ってノヴィオマグムへ行き、四旬節と復活祭(四月十二日)を過ごすARF a.806, Kurze 1895 p.121
806年皇帝は息子カールをエルベ川のほとりのソルブ人(ソラブ人)の地に送る。指導者ミリドゥオクスが死に、ザーレ川のほとりとエルベのそばに二つの城が建てられるARF a.806, Kurze 1895 p.121
807年皇帝は厩番ブルカルドゥスを艦隊とともにコルシカに送る。ムーア人はサルデーニャでサルデ人に三千を失い、コルシカの港の海戦でも敗れて船十三隻を失うARF a.807, Kurze 1895 p.124
808年デンマーク王ゴドフリドゥスがアボトリトに軍を率いて侵入すると、皇帝は息子カールをフランク・ザクセン軍とともにエルベ川へ送る。ゴドフリドゥスは海岸に数日陣を張り、スラヴの城いくつかを陥落させた後、大きな損失を出して退く。トラスコ公を追い出し、ゴデラーイブスを欺いて捕らえ絞首刑に処す。カールはエルベ川に橋を架け、軍を渡らせてリーノネスとスメルディンゴスの地を略奪して帰るARF a.808, Kurze 1895 p.125
808年ゴドフリドゥスは帰国する前に、大洋沿岸の交易港レリクを破壊し、商人たちを移住させるARF a.808, Kurze 1895 p.126
808年Schleswigゴドフリドゥスは艦隊を解散し、スリエストルプの港に来て数日留まる。ザクセンに面する国境を、エイデル川の北岸に沿う防壁で塞ぐことを決めるARF a.808, Kurze 1895 p.126
809年Tortosa西方では、ルドヴィクス王が軍とともにスペインに入り、エブロ川のほとりのデルトサを包囲するが、容易に落ちないので包囲を解き、無事にアキタニアへ帰還するARF a.809, Kurze 1895 p.127
809年Aachen皇帝は十一月にアーヘンで聖霊の発出に関する問題の公会議を開き、ヴォルムスの司教ベルナリウスとコルビー修道院長アダルハルドゥスを教皇レオのもとへ遣わすARF a.809, Kurze 1895 p.129
809年Itzehoeデンマーク王の傲慢に対抗して、エルベ川の向こうに都市を築こうとしていたとき、アボトリト公トラスコがレリクの交易地でゴドフリドゥスの手下に殺される。エグベルトゥス伯が三月十五日頃、シュトゥリア川のほとりのエセスフェルトの土地を占領し、築き始めるARF a.809, Kurze 1895 p.129
810年ノルマンの船二百隻がフリジアに上陸して沿岸の島々を荒らし、フリジア人と三度戦って勝ち、銀百ポンドを奪って去ったという知らせが皇帝に届く。皇帝は軍を集めさせ、ライン川を渡ってリッペハムで兵の到着を待つ。その間にカールの象が突然死ぬARF a.810, Kurze 1895 p.131
810年皇帝はアッラー川がヴェーザー川に合流する所に陣を張り、ゴドフリドゥスの挑戦を待つ。だが、ゴドフリドゥスが手下に殺されたこと、艦隊が帰ったこと、ホブオキ城がヴィルキに落とされたこと、イタリア王ピピンが七月八日に死んだことの知らせが届くARF a.810, Kurze 1895 p.131
811年フランクとデンマークの十二人の貴族がエイデル川のほとりで互いに誓いを交わし、平和を確定する。デンマーク側からは、ヘミングス王の兄弟であるハンキンやアンガンテオらが出るARF a.811, Kurze 1895 p.134
811年Istanbul平和を確定するため、皇帝はバーゼル司教ハイドー、トゥール伯フーゴ、フリウリのアイオをコンスタンティノープルに送るARF a.811, Kurze 1895 p.133
812年デンマーク王ヘミングスが死ぬと、シグフリドとアヌロが王位を争い、戦いで二人とも死ぬ。勝ったアヌロ側は、弟ヘリオルドとレギンフリドを王に立てる(戦死者の数は、OCRで損傷した原文「XDCCCCXL」)ARF a.812, Kurze 1895 p.136
812年ニケフォロス皇帝がモエシアでブルガール人と戦って死に、婿のミカエルが皇帝となる。コンスタンティノープルでカール皇帝の使節を迎えて送り返し、平和を確定するARF a.812, Kurze 1895 p.136
812年Aachenアーヘンの教会で、ミカエルの使節は条約文を受け取り、ギリシア語で賛美し、皇帝をバシレウスと呼ぶ。帰路、ローマの聖ペテロ大聖堂で教皇レオからも同じ条約文を受け取るARF a.812, Kurze 1895 p.136
813年Istanbul春、皇帝はトリーア司教アマルハリウスとノナントゥラ修道院長ペトルスを、ミカエル皇帝との平和を確定するためコンスタンティノープルへ送るARF a.813, Kurze 1895 p.137
814年Aachen皇帝カロルスは、アーヘンで冬を越す間、七十一歳頃の年一月二十八日に死去する(在位四十七年・イタリア征服四十三年・皇帝の称号十四年目)ARF a.814, Kurze 1895 p.140
814年Aachenアキタニアのテオドニス別荘で訃報を受けた息子ルドヴィクスは、三十日目にアーヘンに到着し、全フランクの合意と好意によって父を継ぐARF a.814, Kurze 1895 p.140
815年ルドヴィクス皇帝の命により、ザクセン・アボトリトの軍が、追われたデンマーク王ヘリオルドを助けるためエイデル川を越え、ノルマン人の地のシンレンディへ進軍し、七日目に海岸に陣を張る。ゴドフリドゥスの息子たちは二百隻の艦隊とともに島におり、交戦せず、近隣を荒らして人質四十人を取り、ザクセンへ帰るARF a.815, Kurze 1895 p.142
815年Paderbornパーダーボルンの総会で、皇帝は東方のスラヴの首長と使節を迎える。ローマで教皇レオを暗殺する陰謀があったとの知らせを受けて、甥でイタリア王のベルナルドゥスをローマに送るARF a.815, Kurze 1895 p.142
815年Romeローマ人は、病の教皇レオが建てた新しい農場を略奪・放火し、ローマに攻め込もうとする。ベルナルドゥス王はスポレート公ウィニギスを送って暴動を鎮圧させるARF a.815, Kurze 1895 p.143
816年ザクセンと東フランクの人々は、服従を拒む反抗的なソルブ人を討ちに行き、一つの町を陥落させる。反抗勢力は服従を約束し、静まるARF a.816, Kurze 1895 p.144
816年ガロンヌ川の向こう、ピレネー近くのバスコン人は、追放された公シギヴィンに導かれて全面的な反乱を起こすが、二度の遠征で手なずけられるARF a.816, Kurze 1895 p.144
816年Reims新しい教皇ステファヌスが急いで皇帝を訪ねてくると、皇帝はランスで迎える。ミサの後、教皇が皇帝に冠を授ける(十月)ARF a.816, Kurze 1895 p.144
817年Aachenサラゴサのサラセン王アブラズの子アブディラマンの使節が和平を求めて来る。コンピエーニュで引見され、まずアーヘンに行くよう命じられる。三か月拘留された後、送り返される。コンスタンティノープルの皇帝レオの使節もダルマティアの問題でアーヘンに来るARF a.817, Kurze 1895 p.145
817年Aachen六月のアーヘン総会で皇帝は長男ロタリウスに冠を授け、帝国の共同統治者とし、他の二人の息子をアキタニアとバイエルンの王に立てる。先に聖木曜日に木造の回廊が崩れ、軽傷を負ったがすぐに回復するARF a.817, Kurze 1895 p.146
817年Itzehoeスラオミルは、ケアドラグスと王権を分けよという命令に怒ってアボトリトの反乱を起こし、ゴドフリドゥスの息子たちと同盟する。その艦隊がエルベ川を遡ってエセスフェルト城に至り、シュトゥリア川岸を荒らすが、城攻めを諦めて退くARF a.817, Kurze 1895 p.147
817年Chalon甥でイタリア王のベルナルドゥスがアルプスの通路を塞いで反乱を企てているとの知らせに、皇帝は大軍を率いて急いでイタリアに入る。十二月にカビロヌムでベルナルドゥスが降伏し、加担者はすべてを白状するARF a.817, Kurze 1895 p.147
818年Vannesベルナルドゥス一派を処罰した皇帝は、大軍を率いてブリタニア(ブルターニュ)に攻め込み、ベネディスで総会を開き、反逆の要塞を奪って地方全体を容易に服従させる。王を自称したモルマヌスは皇帝軍に殺されるARF a.818, Kurze 1895 p.148
818年Angers遠征を終えた皇帝は軍を解散し、アンジェの町に戻る。病の王妃イルミンガルディスは到着の二日後の十月三日に死去するARF a.818, Kurze 1895 p.148
818年Herstal皇帝はルーアン・アミアン・カンブレーを経てヘリスタルに至る。ベネヴェントゥム公シコの使節がグリモアルド殺害の弁明と贈り物を持って来るほか、アボトリトやボルナ(グドゥスカン)、ティモキ族、下パンノニアのリウデヴィトゥスの使節も来るARF a.818, Kurze 1895 p.149
819年Aachenスラオミルはアーヘンに連行されて告発され、弁明できずに流刑となる。王国はトラスコの子ケアドラグスに与えられるARF a.819, Kurze 1895 p.150
819年Ingelheim七月にインゲルハイムで総会を開いた皇帝は、下パンノニア公リウデヴィトゥスの反乱のため、イタリア軍をパンノニアに送るが、成果なく帰還する。リウデヴィトゥスは使節として出した条件を拒まれると、近隣の部族を扇動して戦争の準備をするARF a.819, Kurze 1895 p.150
819年ダルマティアとリブルニアの公ボルナは、クルパ川のほとりへ来たリウデヴィトゥスを迎えたが、最初の交戦でグドゥスカンに見捨てられ、親衛隊のおかげで生き延びる。十二月、リウデヴィトゥスがダルマティアに侵入して略奪するが、ボルナのゲリラ戦で三千を失い、追い出されるARF a.819, Kurze 1895 p.151
819年フリウリ公の後を継いだバルドリクスはカランタニ地方に入り、ドラウ川に沿って行軍するリウデヴィトゥスの軍を少数で襲い、多くを殺してその地方から追い払うARF a.819, Kurze 1895 p.151
819年西方では、皇帝の息子ピピンが父の命により軍を率いてバスコニアに入り、反逆者を除き、地方全体を平定するARF a.819, Kurze 1895 p.152
820年Aachen一月のアーヘン総会で、リウデヴィトゥス問題のため三つの軍を送ることが決まる。バルキノナ伯ベラは決闘に敗れて死刑を宣告されるが、皇帝の慈悲で減刑され、ルーアンへの流刑となるARF a.820, Kurze 1895 p.152
820年春、三つの軍がリウデヴィトゥスに向けて出発する。イタリアからノリカ・アルプスを越え、カランタニ地方を通り、バイエルンと上パンノニアへ。中央の軍は三か所の抵抗を破ってドラウ川を渡るが、リウデヴィトゥスは山上の砦に閉じこもって応じない。軍は地方を火と剣で荒らして帰還するが、上パンノニアの軍は赤痢で大きな損害を受けるARF a.820, Kurze 1895 p.152
820年長雨と湿気のため、人と家畜の疫病がフランク王国全土に広がり、穀物は腐り、ワインは酸っぱくなるARF a.820, Kurze 1895 p.154
821年Aachen二月のアーヘン総会で、リウデヴィトゥス戦争を協議して三つの軍を編成し、スペイン辺境の問題も決める。五月のノヴィオマグム総会が指定されるARF a.821, Kurze 1895 p.154
821年復活祭の後、皇帝はマース川を舟で上り下りし、先に決めた王国の分割を読み直して、貴族たちの誓いによって確定する。教皇パスカリスの使節を接見するARF a.821, Kurze 1895 p.155
821年ダルマティアとリブルニアの公ボルナが死去し、甥のラダスクラブスが後を継ぐ。グラドの総大司教フォルトゥナトゥスはリウデヴィトゥスを扇動したとの告発を受け、イストリアに行った後、密かに舟で逃げ、イアデラ(ザダル)の総督に逃亡の理由を明かし、コンスタンティノープルに送られるARF a.821, Kurze 1895 p.155
821年Thionville十月中旬のテオドニス別荘の総会で、長男ロタリウスがフーゴ伯の娘イルミンガルディスと結婚する。教皇庁の使節も出席し、皇帝はベルナルドゥスの加担者とアダルハルドゥスを赦免し、名誉を回復させるARF a.821, Kurze 1895 p.156
822年Attigny八月のアティニャク総会で、皇帝は弟たちを無理に剃髪させたことと、甥のベルナルドゥスやアダルハルドゥスに関する件を、民衆の前で公に懺悔するARF a.822, Kurze 1895 p.158
822年Sisakイタリアから来た軍がパンノニアに入ると、リウデヴィトゥスはシスキア市を捨て、ダルマティアの大半を占めるソラブ人のもとへ逃げる。その首長の一人を騙して殺し、市を奪い、皇帝のもとへ行くと約束するARF a.822, Kurze 1895 p.158
822年Frankfurt秋の狩りの後、皇帝はライン川を渡り、フランクフルトで冬を越し、総会を開く。東方のスラヴ人(アボトリト・ソラブ・ヴィルツィ・ボヘミア・モラヴィアなど)、パンノニアのアバール人、ノルマン人(ヘリオルドとゴドフリドの息子たち)の使節を迎えるARF a.822, Kurze 1895 p.159
823年Frankfurt五月の総会で、ヴィルツィ王リウビの二人の息子ミレガストゥスとケアラドラグスが王位を争って皇帝の前に来る。民衆が好んだ弟が統治することに決まり、二人は贈り物と誓いの後に帰されるARF a.823, Kurze 1895 p.160
823年Romeイタリアで司法を執っていたロタリウスは、教皇パスカリスの求めでローマに行き、復活祭(四月五日)に聖ペテロ大聖堂で帝冠と皇帝・アウグストゥスの称号を受け、パヴィアを経て六月に父のもとへ戻るARF a.823, Kurze 1895 p.161
823年Compiegne十一月、皇帝がコンピエーニュの総会を定めて解散しようとしたとき、リウデヴィトゥスがソラブ人のもとを離れ、ダルマティアのボルナの甥リウデムフスルスのもとへ行ったが、その策略で殺されたとの知らせが届くARF a.823, Kurze 1895 p.161
823年Rome教皇庁の役人テオドルスと婿レオが、ラテラノ宮で目をえぐられた後に斬首された件(皇帝側に加担したため、あるいは教皇パスカリスの命によるとの疑い)が皇帝に伝わる。教皇は誓いによって無実を宣言し、殺害者はペテロの一族であり正当であると主張するARF a.823, Kurze 1895 p.161
823年Compiegne十一月一日、皇帝がコンピエーニュに到着する。アボトリトの指導者ケアドラグスが長い不在を弁明しに来て許され、贈り物を携えて帰る。デンマークからもヘリオルドが来て、ゴドフリドの息子たちに対抗する援助を求めるARF a.823, Kurze 1895 p.162
823年この年、アーヘン宮殿で地震があった。トゥール地方では十二歳の少女が十か月間断食した。ザクセンのピリフサジの地では、天からの火で二十三の村が焼けた。コムムの地の教会では聖母像が二日間輝いた。ひょうと雷の被害、大きな疫病と死者が続いたと伝えられるARF a.823, Kurze 1895 p.163
824年Aachenブルガール王が平和を求める使節を手紙とともに送ってきたが、皇帝は前例のないことだとして、バイエルンのマケルムスをブルガール王のもとに送り、事情を探らせるARF a.824, Kurze 1895 p.164
824年エブルスとアシナリウス伯がバスコン軍とともにパンプローナへ行き、帰路ピレネー山脈の尾根で山の民の裏切りによる待ち伏せに遭い、軍はほぼ全滅する。エブルスはコルドバに送られ、アシナリウスは親族であるとして釈放されるARF a.824, Kurze 1895 p.166
824年Rome教皇パスカリスが死去し、エウゲニウスが叙任されると、皇帝は八月中旬以降にロタリウスをローマに送り、新教皇とローマ人と事を決めさせる。ロタリウスはエウゲニウスに迎えられ、ローマの秩序を正すARF a.824, Kurze 1895 p.166
824年Rennes飢饉のため延期されていたブリタニア遠征を、皇帝は秋の初めに行う。全軍を集め、ブリタニアの国境のレドナスに至る。軍を三つに分け、二つを息子ピピンとルドヴィクスに与え、自身もブリタニアに入り、火と剣で荒廃させる。四十日余りかけて人質を取って帰るARF a.824, Kurze 1895 p.165
824年Rouen遠征を終えた皇帝は、妻が待つようにと言ったルーアンに十一月十七日に戻り、コンスタンティノープルのミカエル皇帝の使節と総大司教フォルトゥナトゥスを迎えるARF a.824, Kurze 1895 p.165
825年Aachen五月のアーヘン総会で、ブルガールの使節を接見する(ブルガールとフランクの国境問題を決める)。ブリトン人の首長とウィオマルクスが帰順し、皇帝は赦すが、彼は約束を破って隣人を略奪し、ランドベルトゥス伯の手下によって自宅で殺されるARF a.825, Kurze 1895 p.167
825年Aachen八月のアーヘン総会で、各地の使節とノルマン人の地のゴドフリドの息子たちの使節を接見し、彼らの求めた平和を十月に辺境で確定させるARF a.825, Kurze 1895 p.168
825年Nijmegen総会を終えた皇帝は長男とノヴィオマグムへ行き、次男ルドヴィクスをバイエルンへ送る。秋の狩りを終え、冬の初めにアーヘンへ戻るARF a.825, Kurze 1895 p.168
826年Aachen一月末のアーヘンで、皇帝は息子のアキタニア王ピピンとスペイン辺境の伯たちと会い、サラセンに対して西部の辺境を守る方法を協議して決めるARF a.826, Kurze 1895 p.169
826年Ingelheim五月中旬にアーヘンを発った皇帝は、六月初めにインゲルハイムで総会を開き、教皇庁の使節であるレオ司教・テオフィラクトゥス・オリーブ山修道院長ドミニクス、デンマークのゴドフリドの息子たち、アボトリトの首長たちの使節を接見するARF a.826, Kurze 1895 p.169
826年Mainzデンマーク王ヘリオルドは、妻と多くのデンマーク人とともに六月二十四日にマインツの聖アルバヌス教会で洗礼を受け、皇帝の贈り物を受けてフリジアへ帰り、そこで一つの伯領を受けるARF a.826, Kurze 1895 p.170
826年BadNeustadt秋の狩りの後、皇帝はライン川を渡ってザルカ別荘に行き、ナポリ(ネアポリス)の使節に会う。スペイン辺境のアイゾが逃げてアウソナに入り、ロタ市を破壊して、サラセン王アブディラマンの援助を得たとの知らせが届くARF a.826, Kurze 1895 p.170
826年Ingelheim十月中旬のインゲルハイム総会で、ケアドラグスとトゥングロが尋問される。トゥングロは息子を人質として差し出して帰され、ケアドラグスは留め置かれ、アボトリトの民の意思を問い、人質を取った後に復位させられるARF a.826, Kurze 1895 p.171
827年アイゾはサラセンの援助を頼みにスペイン辺境の守備隊に損害を与え、ベラの子ヴィレムンドゥスらが加わってケリタニアとヴァレンシアを略奪する。皇帝は事態を収拾するためエリサカル修道院長を送り、一方でバルキノナ伯ベルナルドゥスは最後まで抵抗するARF a.827, Kurze 1895 p.172
827年Zaragozaサラセン王アブディラマンがアイゾを助けるために送った軍がサラゴサに至る。皇帝はアキタニア王ピピンを大軍とともに送るが、指揮官たちが遅れ、アブー・マルワーンはバルキノナとゲルンダの野を荒らし、フランク軍が姿を見る前にサラゴサへ退くARF a.827, Kurze 1895 p.173
827年Compiegne皇帝は二つの総会を開く。一つはノイマーゲンで、デンマークのゴドフリドの息子ホリクスの偽りの約束のため。もう一つはコンピエーニュで、貢納を受け、スペイン辺境へ送る者たちに指示を与える。冬の初めまで、コンピエーニュやカリシアクスなどの宮殿に留まるARF a.827, Kurze 1895 p.173
827年ブルガール人は艦隊を使って、パンノニアに定住していたスラヴ人を火と剣で荒らし、ドラウ川へ追い立て、その指導者を追い出してブルガールの支配者を立てるARF a.827, Kurze 1895 p.173
828年Aachen二月のアーヘン総会で、スペイン辺境の指揮官たちの失策の軽重を判定して財産を没収し、フリウリ公バルドリクスは上パンノニアをブルガール軍に荒らされた責任を問われ、地位と辺境領を奪われる。辺境は四人の伯に分けられるARF a.828, Kurze 1895 p.174
828年Ingelheim六月、皇帝はインゲルハイムの別荘に来て数日総会を開き、二人の息子ロタリウスとピピンを軍とともにスペイン辺境へ送ることを協議するARF a.828, Kurze 1895 p.174
828年コルシカを預かるボニファキウス伯は、弟ベレハリウスらと小艦隊でコルシカとサルデーニャを回るが、海賊を見つけられず、アフリカへ渡る。ウティカとカルタゴの間に上陸し、急に集まった住民の群れを五度以上破り、アフリカの人々に大きな恐怖を与えるARF a.828, Kurze 1895 p.176
829年Aachenアーヘンの四旬節の夜、地震と大風が起こり、聖母礼拝堂(カペラ)の鉛の屋根を大きくはぎ取るARF a.829, Kurze 1895 p.176
829年Worms八月、皇帝はヴォルムスの総会に向かおうとするが、ノルマン人がエルベ川の向こうのザクセンを狙っているとの知らせを受け、全民をザクセンに集めさせる。七月中旬、ノヴァシウムでライン川を渡ろうとするが、虚報と知り、八月中旬にヴォルムスに来て総会を開き、貢納を受け、ローマやベネヴェントからの使節を接見するARF a.829, Kurze 1895 p.177
829年Frankfurt総会を終えた皇帝は、秋の狩りのためフランクフルトの別荘へ行くARF a.829, Kurze 1895 p.177
829年Aachen十一月十一日(聖マルティヌスのミサ)頃、皇帝はアーヘンに帰り、聖マルティヌスのミサ、聖アンデレの祝日(十一月三十日)、クリスマスを大いに喜んで過ごす(年代記の終わり)ARF a.829, Kurze 1895 p.178

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