『マシュー・パリス大年代記』

『マシュー・パリス大年代記』(正史 の史料)。扱う年は1216年 〜 1259年、出来事277件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年1216年 〜 1259年
出来事の数出来事277件・地図に置いた113件
著者Matthew Paris
原題Chronica majora

地域の内訳: 西ヨーロッパ 235 · 南ヨーロッパ 26 · エジプト・北アフリカ 12 · 西アジア 4

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1216年Berkhamstedルイは12月6日(聖ニコラウスの日)にバークハムステッド城へ向かい、軍で取り囲んだ — 包囲の開始。part12 L10–14
1216年 〜 1217年Londonウィンチェスター伯サヘロは、自分と町のためにルイへ銀80マルクを支払い、聖燭節(2月2日)までの休戦を得た。ルイはロンドンへ戻った。part12 L182–185
1217年従者およそ24人が出撃し、敵3人を殺し、大勝して戻った。part12 L511–512
1217年騎士と歩兵の戦闘 — ペルシュ伯(Comes Perticensis)が戦死し、病院の庭の外に埋葬された。同じ節には他の戦死者も出てくる。part12 L1386–1387
1217年ヘンリー王とルイの間で和解(協定)が結ばれた。part12 L1907–1909
1217年ルイがイングランドを去った後、教皇使節は各州に調査官を送り、ルイ側についた者を探し出して聖職禄を剥奪し、一部はローマへ送らせた。part12 L2045–2049
1218年ロバート・デ・ガウジ側の城を8日ほど包囲した。リンカーン司教らが仲裁し、司教が城内の食糧代として100ポンドをロバートに支払うことで和睦した。part12 L2232–2236
1218年Damiettaダミエッタの塔の占領 — キリスト教軍がスルタンの黄色い旗を倒して奪った(欄外見出し「Capture of the tower」)。part12 L2670–2673
1219年Damiettaダミエッタ包囲の後、ムスリム軍はスルタンとアラピニとともに大軍で逆襲し、キリスト教徒が開いておいた場所を占領した。海と川の間の最初の陣営は、神の助けで守られた。part12 L3316–3318
1219年Damiettaキリスト教側(チュートン騎士団・フリジア人・伯・男爵など)が不信心者たちを敗走させた。part12 L3442
1219年Damiettaダミエッタの市民は、長い包囲・剣・飢え・疫病にひどく苦しんだ。スルタンは市民のために、キリスト教徒と和睦して死を免れさせると約束したが、この箇所で文が途切れる。part12 L3866–3870
1219年Damietta諸聖人の日の後の日曜の夜、誰かが侵入したが、陣営の歩哨の叫びで見つかり、捕虜になるか殺された。史料は捕虜100余名と数える(主語はOCRで損傷)。part12 L4061–4064
1220年Londonヘンリー3世はウェストミンスターで二度目の戴冠を受け、カンタベリー大司教スティーブンが司式した。本文は、それ以前にマールボローでウィンチェスター司教ピーターの監督下にあったと記す。1220 섹션 · 339–344행
1221年攻城機で城壁と建物が崩されると、城内の人々が出てきて2月8日に王に降伏した。王は捕虜を縛り、裁きを待たせた。同じ頃、アルベマール伯がヨーク大司教ウォルターの護送を受けて王のもとに来た。1221 섹션 · 624–632행
1221年ウェールズ王ロエリヌス(Loelinus)は大軍で「ブエト」という城を包囲した。城主レジナルド・デ・ブラウシアが王に救援を求めると、王が出撃し、ウェールズ軍は逃げ、包囲は解かれた。続いて王はモンテム・ゴメリクム方面へ進み、ウェールズの家畜の群れを含む財産を手当たり次第に奪った。1221 섹션 · 863–871행
1221年Damiettaバビロンのスルタンは大軍を率いてダミエッタからさほど遠くない所に陣を張り、川の二筋にまたがる橋を架けた。1221 섹션 · 958–962행
1222年Damiettaダミエッタを失ったことを知らせる手紙。差出人はフィリップ・デ・アルベネイオ、宛先はチェスター伯ラヌルフ。1222 섹션 · 1167–1171행
1222年Damiettaエルサレム王はダミエッタに着き、軍を集めた。聖ペテロ・パウロの祝日の後、川と陸から進軍してスルタンの軍と対峙し、敵は彼の前から逃げ去った。1222 섹션 · 1283–1290행
1222年Damietta八年の休戦を得る代わりに、十字軍はダミエッタをスルタンに返すことに同意した。エルサレム王、教皇使節、公爵など主要人物は人質として残り、誓いと人質が条件を保証した。1222 섹션 · 1221–1226행 · 1361–1377행
1223年フィリップ2世が死去すると、ヘンリー3世は大司教と三人の司教を送り、すでに戴冠していたルイに、ノルマンディーなど大陸の領地の返還を求めた。以前の和平でルイが誓った条件を根拠とした。1223 섹션 · 1882–1890행
1224年Bedfordヘンリー3世はノーサンプトンでポワトゥー支援を協議中に計画を変え、ベッドフォード城を包囲した。三日間、城内の騎士たちに三度降伏を勧めた。その城には『H[enricus]』が幽閉されていた。1224 섹션 · 2806–2814행
1224年Bergerac主語不明の人物(本文は「rex」)が、長い包囲の末に「レグラ」と呼ばれる城と町を奪い、「サンクティ・マカリイ」村も得た。ブレジュラック城も包囲し、その領主を再び忠誠へ戻した。1224 섹션 · 3108–3116행
1226年Durhamダラム司教リチャード・デ・マリスコが5月1日に死去した。在任は約9年。遺体はダラム教会に運ばれ、そこに埋葬された。Luard 줄 591–607
1226年Avignonフランス王ルイ8世がアヴィニョンを包囲した。Luard 줄 779–788
1226年Avignonアヴィニョン包囲が長引き、食糧が尽き、人も馬も多く死んだ。本文は、トゥールーズ伯が周辺の穀物や家畜を運び去ったためだと記す。Luard 줄 844–859
1226年フランス王ルイ8世が11月8日に死去した(編者による訂正。本文は9月とする)。包囲は解かれ、遺体はパリへ運ばれた。本文はこの包囲で2万2千人余りが死んだと記す(1024〜1027行)。Luard 줄 1018–1030
1226年フォークス・デ・ブロテは、ベッドフォードで流刑中に毒入りの魚を食べて死んでいるのが見つかった(欄外見出しは判読不完全、人物の特定は暫定)。Luard 줄 1209–1219
1229年Rome教皇グレゴリウス9世は皇帝フリードリヒ2世に対して戦争を起こした。part_15.txt 줄 757
1229年(主語は未確認)皇帝と十年間の休戦(treugae decennales)を結び、聖地を血を流さずに引き渡した。part_15.txt 줄 1343
1230年教皇と皇帝は、平和の形が整うまで休戦(treugae)を結んだ。part_15.txt 줄 2896
1230年イングランド王ヘンリー3世は軍を率いてブルターニュへ渡った。part_15.txt 줄 2927
1232年ヒューバートは教会の平和(聖域)を求め、メリトンの参事会員たちのもとに身を隠した。part_16 줄 1317
1232年二つの州の人々が、ヒューバートのいる礼拝堂(capella)を取り囲み、誰にも食べ物を届けさせなかった。part_16 줄 1667~1669
1233年Worcesterヘンリー3世は即位17年目のクリスマス宮廷をウースターで開いた。ウィンチェスター司教ピーターの助言によるものと言われている。part_16 줄 2568~2570
1233年王は疑わしい貴族たちに人質を求め、8月初めの期限までに引き渡すよう命じた。part_16 줄 3030~3034
1233年王は約束を破ったとみなした貴族たちの村々を焼き、狩猟場の柵を壊し、城を包囲した。part_16 줄 3102~3106
1233年Cardiffワリン・バセットはカーディフ城の包囲・攻撃中に死去した。part_16 줄 3187~3189
1233年マーシャルに対する不信の宣言(diffidatio)と、ある城の包囲。part_16 줄 3257
1233年Devizes元イングランド裁判官ヒューバートは、デヴィゼスの教会から武装した友人たちに引きずり出され、ウェールズへ連れて行かれ、王の敵と合流した(10月30日)。part_16 줄 3579~3582
1234年Shrewsburyマーシャル伯とノルバリア領主レオリヌスは軍を集め、王の領地の奥深くまで侵入し、ウェールズ境からシュロップシャーまで火と剣で根こそぎ破壊した。シュルーズベリーの町にも言及される。part17 l.572–573
1234年望みを挫かれた者たちは、ウェールズ境で数えきれないほどのポワトゥー兵が死ぬのを見て、前例のない裏切りの手紙を書いた — 手紙の相手と結果はこの箇所にはない。part17 l.647–647
1234年王とリチャード・マーシャル伯の間で休戦(treuga)が結ばれた。part17 l.843–844
1234年Canterburyカンタベリー・クライスト・チャーチで選ばれたエドマンドは、ロンドン司教ロジャーによって大司教として叙階された。part17 l.1197–1198
1234年Limerick有名なアイルランドの都市リムリックは四日間の包囲の末に陥落し、市民は忠誠の誓いを立てた(攻撃の主体は前の行(1345行)にあるが、読んでいない)。part17 l.1347–1347
1234年マーシャルを殺すために大金を受け取った者たちは、和解より野戦を望み、マーシャルは武装した部下を率いて迎え撃った。part17 l.1516–1516
1234年休戦が終わると、フランス王は大軍を集め、ブルターニュ伯の城を包囲した。以前、イングランド王は伯に騎士60名とウェールズ兵2,000名を送り、城を堅固にしていた。part17 l.2989–2992
1234年Rome教皇が集めた軍と皇帝軍がローマ周辺で対峙した — 皇帝はローマ人の攻撃を防ぐため大軍を集めた。戦闘の結果はこの箇所にはない。part17 l.3564–3566
1234年Herefordヘレフォード司教ヒュー・フォリオットが死去し、ラルフ・デ・メイドストーンがその後を継いだ。part17 l.3611–3611
1234年Palma(Majorca)同じ年、マヨルカ島が占領された — ミノルカ島とは区別され、アフリカとマルセイユの間にあると説明される。part17 l.3627–3627
1235年Lincolnリンカーン司教ヒュー・デ・ウェルズが死去した — 本文は彼を「修道士の迫害者」と評する。part17 l.3677–3678
1235年St Albansセント・オールバンズ修道院長ウィリアムが死去した — 二十年三か月余り統治したとされる。part17 l.3768–3769
1236年Westminsterヘンリー3世とエレノア(アリエノラ)の婚礼がウェストミンスターで挙行された(聖ファビアヌスと聖セバスティアヌスの祝日、1月20日)。L1814–1817
1236年Winchesterヘンリー3世は在位20年目にウィンチェスターで宮廷(curia)を開いた。L1698–1702
1236年複数の大貴族が武装し、フランス王国に対して戦争を起こそうとした。L3469–3472
1236年Ceutaジェノヴァ人は、ピサ人・マルセイユ人の協力とアラゴン王の助けを得て、スペインの大都市セウタ(Cepta)を不意に襲った。L3512–3516
1236年Córdobaコルドバはすでに陥落し、セウタもまもなく奪われようとしていたので、キリスト教徒は希望を得、サラセン人は恐怖に震えた — 特にアフリカの王が。L3539–3543
1236年シモン・ド・モンフォールとペトルス・デ・リバリスの件で王の怒りを買ったリチャード・スアードは、捕らえられて投獄されたが、まもなく釈放された。12–13
1236年ユダヤ人への大虐殺が起きた(場所は本文にない)。15–16
1236年騒動が大きくなり、市民が学生と若い貴族を殺した。113–115
1236年イングランド北部に大雨が降り、川や池があふれて、橋や水車が壊れた。597–598
1236年Norwichノリッジ司教トマス・デ・ブランドヴィルが死去した。602
1237年Cordobaカスティリャ王アムフルスス(Amfulsus)は、復活祭週の火曜日にコルドバを陥落させ、キリスト教徒に引き渡した。910
1237年王ジャン・ド・ブリエンヌと、ドミニコ会修道院長ヨルダンが死去した。1344–1345
1237年修道士たちをエジプトのヤコブ派総大主教のもとへ派遣すると、総大主教は教会との一致に戻ると答えた。1867
1237年Antiochテンプル騎士団が、アンティオキア北方の城砦を包囲するため天幕を張った。2264
1237年Cortenuova皇帝がミラノ軍に川を渡ってくるよう呼びかけ、コルテヌオーヴァで戦闘が始まった。2466
1237年Cortenuova皇帝はミラノ軍の旗車(カロッチョ)を奪い、ヴェネツィア総督の息子をはじめ数名の貴族を殺した。司教は戦死するか捕虜になった。2520
1237年Milan戦闘の後、皇帝は町の周囲の道と通路を厳重に警備させ、出入りする者を阻んだ。2524
1238年Londonヘンリー3世はウェストミンスターで宮廷を開き、主顕節の翌日(木曜日)に誰かを婚約させた — 相手は「彫刻窓の外」とあるが(本文が乱れている)。part_20.txt 줄 2723–2726
1238年1238年1月19日頃、強風と雨をともなう大きな暴風雨と雷鳴が起きた。part_20.txt 줄 2785–2787
1238年Rome教皇は、大司教エドマンドとの司教選出をめぐる争いで、ロチェスター修道士側の勝訴とした — 所有権も占有権も。part_20.txt 줄 3320–3324
1238年コンスタンティノープル皇帝バルドウィン2世が追放され、イングランドに来た。part_20.txt 줄 3366–3370
1238年復活祭の直後、イングランド王は皇帝を助けてイタリアの反乱を鎮圧するため軍を送った — ヘンリー・ド・トラブルヴィル指揮、ジョン・マンセルが同行。part_20.txt 줄 3647–3651
1238年ヴァランス選出司教ヴァレンティヌスは、イングランドにこれ以上とどまる気がなく、海を渡った。part_20.txt 줄 3693–3697
1238年1238年、タタール(モンゴル)人が自らの地を離れ、北方の地域を荒らした。part_20.txt 줄 3796–3798
1238年Brixia皇帝はブレシア攻略に乗り出した — 援軍として来た者たちとの絡みの箇所(OCRで乱れている)。줄 28–33
1238年皇帝は市民側の条件案をことごとく厚かましく退け、市民が共に守ろうとしていたものを要求した。줄 284–288
1238年捕らえられた者が自白した。ウィリアムが派遣され、暗殺者のように王を殺そうとしたのだという。줄 404–411
1238年コンスタンティノープルの皇帝バルドゥイヌスは、反乱者を討つためギリシアの地へ出発した。줄 1737–1739
1238年チェスターの司教アレクサンデルが聖ステファノの日に死去した。줄 1800–1803
1238年ロベールは世俗の腕(フランス王の支援)を得て、異端者たちを火刑に処した。本文は彼らを「Bugari」と呼ぶ。줄 1892–1896
1239年London教皇使節がイングランドの司教たちをロンドンに召集し、教会の件を協議させ、黒衣修道会の規定を定めた。줄 2156–2160
1239年Sardinia皇帝がイタリアで冬を過ごしていた間に、地中海の島サルデーニャが彼に帰属した。ピサ近くの島である。줄 2314–2318
1239年マリアム(エングラン・ド・クシーの娘)と結婚し、聖霊降臨祭に婚礼を挙げた。줄 2543–2546
1239年四旬節に教皇は皇帝フリードリヒを破門した。皇帝の無礼な言葉が積み重なった後のことである。줄 2668–2708
1239年皇帝はカシノの修道士たちを自分たちの館から追い出した。衣を裂かれた修道士たちが教皇に訴え、山は難攻不落と言われていた。줄 3016–3021
1239年皇帝は厳粛に破門された。教皇の書簡が使節を通じて皇帝に対して送られた(本文835–838行)。835–838
1239年Milan教皇は皇帝に対抗してミラノ人を助けた。ミラノ人は教皇の助けによって勇気づけられた(本文1091–1092行)。1091–1092
1239年包囲された者たちは使節に慈悲を乞うた。町と財産は差し出すので命だけは助けてほしいと頼んだ(本文1126–1129行)。1126–1129
1239年教皇軍の指揮官たちが土地をより容易に手に入れようとしたとき、われわれがシリアで捕らえられたという一節(本文1297–1298行、主語は不確か)。1297–1298
1239年皇帝はローマ人と同盟を結んだ。本文はこれが「われわれを通じ、彼の命令によって」行われたと述べる(本文1416–1418行)。1416–1418
1239年Rome教皇は命令を出し、十字軍の誓約者(crucesignati)が海外へ出発することを禁じた。L74–77
1239年Alemannia教皇はドイツ(アレマニア)の諸侯に書簡を送り、皇帝に対して蜂起するよう命じた。L322–327
1239年Ferrara市民たちは皇帝の陣営を取り囲み、フェラーラを包囲・封鎖した(教皇使節が励ました)。L381–384
1239年Rome教皇とローマ教皇庁は、フランス王の弟ロベールを皇帝に選出した(対立皇帝の選出)。L543–544
1239年 〜 1240年皇帝は書簡で、十字軍の誓約者たちに海を渡らず待つよう勧めた。L748–752
1239年皇帝は、教皇の枝の主日の処分は不当だとして、枢機卿たちに一般公会議の招集を求める書簡を送った。L1155–1156
1240年Winchester王はウィンチェスターでクリスマスを過ごし、バルドウィン・デ・リパリスに騎士の帯を授けて、デヴォン伯領を与えた。804–808
1240年4月1日、シモン・ド・モンフォールは王のもとを訪れ、聖地巡礼の費用を得るために領地を売った。1222–1226
1240年北ウェールズの君主リウェリン(レオリヌス)が4月11日に死去した。1285–1289
1240年Londonサリー伯ウィリアム・デ・ワレンヌは、ロンドンで病に倒れ、5月27日に死去した。1540–1541
1240年Norwich王はノーリッジで、イングランドで守られる慣習をアイルランドでも布告し遵守させよという命令書を出した(8月30日付。本文の末尾のみ読んだ)。1606–1610
1240年リンカーン伯ジョン・ド・レイシーが長患いの末、7月22日に死去した。2974–2982
1240年St Albansコーンウォール伯リチャードは十字軍の準備を終え、セント・オールバンズ修道院に立ち寄って祈りを求めた。3507–3514
1240年リウェリンの二人の息子の間の戦争が、4月11日から聖ミカエル祭(9月29日)まで、ウェールズ各地で続いた。3809–3813
1240年Hertfordハートフォードでは、巡回裁判官たちが6月24日から一か月間の審理を開いた。4035–4040
1240年Soissyカンタベリー大司教エドマンドがソワシーで死去した。part_02 줄 1256–1260
1240年皇帝は教皇と結んだ休戦(treuga)を守らず、退いた。part_02 줄 1318–1320
1240年Francia茨の冠(Corona Domini spinea)がコンスタンティノープルからフランスへ移された。part_02 줄 1354–1361
1240年タタール(モンゴル)が東方の多くの地を荒らし、すでにキリスト教徒を震え上がらせていた。part_02 줄 1403–1405
1240年Londonロンドン:王が念入りに建てさせた石造りの塔が、地震のような揺れで震えた。part_02 줄 1621–1623
1240年 〜 1241年タタール人たちが住処から躍り出た — 西方の勢力と対峙するだろうという箇所。part_03 줄 125
1240年 〜 1241年Faenzaファエンツァの長期包囲(diuturna obsidio)。part_03 줄 423
1240年 〜 1241年Acreアクレ(アエオン)到着の頃 — 到着の15日前からの情勢。敵の兵力の多くが退いた。part_03 줄 1442~1443
1240年 〜 1241年Acreクラックの領主ナゼルと休戦(treuga)を取り決めた。part_03 줄 1444~1445
1240年 〜 1241年Jerusalemエルサレムの町がキリスト教徒の手に戻った — 休戦条項にあるベツレヘム・ベタニアなどの地も共に。part_03 줄 1612~1613
1240年 〜 1241年Acreアクレ包囲の記述 — 休戦を守った者たちが苦しめられ、包囲された家の中に閉じ込められた(包囲の主体は本文では不明)。part_03 줄 3207
1240年「新しい神殿(Novi Templi)」教会が奉献された。part_09 줄 88
1241年Englandユダヤ人たちは、二回の期限内に2万マルクの多額の身代金を支払うよう強制された。支払わなければ追放などの罰が科された。part_02 줄 2103–2106
1241年Irelandウォルター・デ・レイシーが死去した。アイルランドで最も優れた貴族と紹介されており、視力を失った後のことである。part_02 줄 2412–2415
1241年Rome教皇は重病で、すでに死んだか、死にかけている状態。part_03 줄 2766~2768
1241年 〜 1243年Rome教皇選出をめぐり、枢機卿たちの間に大分裂(schisma)が起きた。part_03 줄 3022~3023
1241年Rome高位聖職者たちが死去した — 二人のローマ教皇と枢機卿を含む。part_03 줄 3650~3651
1241年イングランド出身のイサベラ皇后が、出産の危険の中で死去した。part_03 줄 3697~3699
1241年 〜 1242年Londonヘンリー3世の治世第26年 — クリスマスをロンドンの大宮殿で過ごした。part_03 줄 3821~3822
1241年Hungaryデンマークとハンガリーの王は、タタールが荒廃させた土地にキリスト教徒の民を入植させた。L1539–1541
1242年ワーウィック伯も死去した。줄 865
1242年皇帝の息子ヘンリーの死。줄 867
1242年ウィリアム・デ・マリスコの捕獲。줄 951
1242年マーガレット・ビセットもまた同年に死去した。줄 1212
1242年包囲 — 休戦を破棄して戦争が再開された(本文が短く詳細は不明)。줄 1350
1242年フランス王との和平を3年以内に改められれば(pax reformari)、という条件付きの和解。줄 1729
1242年去るにあたって、町に火を放つよう命じた(jussit succendi civitatem)。줄 2420
1242年5年間の休戦(treugas quinquennes) — 見出し「Truce for」。줄 2805
1242年リチャード・デ・バーグの死(見出し「Deaths of」)。줄 3274
1243年包囲(見出し「Siege of」) — 本文が短く詳細は不明。줄 3536
1243年アランデル伯(ハランデル)が5月7日に死去した(nonis Maii)。줄 3943
1243年ケント伯ハーバート・デ・バーグが、天寿を全うして死去した(plenus dierum)。줄 3954
1243年ヘンリー3世は、イングランドにほぼ着いた船を引き返させた — ガスコーニュ(Wasconienses)の紛争で急遽呼び戻された。Luard IV p.245 · 줄 104–109
1243年Bardneyカンタベリーの修道会とリンカーン司教が、バードニー修道院長の解任をめぐって激しく争った。Luard IV p.245 · 줄 114–116
1243年枢機卿シニバルドが教皇に選ばれ、インノケンティウス4世と名乗った(洗礼者ヨハネの誕生日の頃)。Luard IV p.256 · 줄 762–767
1243年Biterbium (Viterbo)皇帝はヴィテルボ(Biterbium)と周辺の地を失った — ローマ人とヴィテルボ人が城砦の守りを互いに分担した。Luard IV p.267 · 줄 1526–1552
1243年皇帝側の兵の多くが戦死し、皇帝側の騎士一人が弩の矢に射られて死んだ。Luard IV p.267 · 줄 1561–1564
1243年Hungaryタタール王の使節と通訳が、ハンガリー王のもとを二度訪れた。Luard IV · 줄 2037–2039
1244年Rome枢機卿ジョン・コロンナが、聖燭節の八日目にローマで死去した — 教皇と皇帝の争いをあおった人物。Luard IV · 줄 2759–2767
1244年Parisフランス王はパリで海外の領主たちを召集して演説した — イングランドに領地を持つノルマン人は、イングランド王の命令で領地を失った。Luard IV · 줄 2814–2820
1244年London (Tower)ウェールズ王子グリフィン(リウェリンの息子)がロンドン塔から落ちて死去した(3月1日)。Luard IV · 줄 3426–3432
1244年カンタベリー司教に選ばれたボニファスが、追放されたウィンチェスター司教ウィリアムに慰めの手紙を書いた。Luard IV · 줄 3499–3506
1244年Hungaryハンガリー王はタタールに追われ、皇帝に助けを求めに行った。Luard IV · 줄 3563–3566
1244年Constantinopleコンスタンティノープル皇帝バルドウィン2世は、ギリシア人の迫害を逃れ、皇帝フリードリヒ2世に助けを求めた。Luard IV · 줄 3615–3620
1244年London1244年、ロンドンで大会議を招集した王は金銭的援助を求めた(この行には王の名がない)。줄 3313~3315
1244年ウェールズの慣習を取り入れた和平文書で、デイヴィッドは十字架に手を置いて誓った(891行「pax」)。줄 986~1026
1244年フランス王が病に倒れると、王は聖十字架・茨の冠・槍の聖遺物を体に当て、回復すれば十字軍に出ると誓った。part_07 L1668
1244年 〜 1245年伯の弟アンセルムスがクリスマスの三日前に死去した — 子を残さずに死んだ兄弟が次々と続いた。lines 3912-3914
1244年 〜 1245年ダマスカスは「裏切りのバビロニア人とその同盟者ホラズム人」によって占領された — 聖ミカエル祭の週(9月末〜10月初め)。part_09 줄 485–489
1245年Montgomery四旬節にモンゴメリーで、イングランド軍はウェールズ人300余名を殺した。城主は怯えたふりをして退き、背後に伏兵を置いた。part_07 L2321
1245年公会議の召集令が司教たちに届くと、多くの者が旅立ちの支度をした。王の用件を口実に残る者もおり、病人や老人も残った。part_07 L2691
1245年Lyon同じ頃、フィリップがリヨン大司教の座に就いた(文が途切れており、教皇の好意に関する部分は欠けている)。part_07 L3499
1245年プロヴァンス伯の死を聞いたイングランド王は、伯の遺言の後に施しと祈りを捧げた。lines 3465-3469
1246年Londonヘンリー3世は在位30年(1246年)、ロンドンでクリスマスを過ごし、王国の貴族を召集した。part_09 줄 638–640
1246年ヘンリー3世の母であり、元イングランド王妃であるイザベラ(アングレーム伯夫人)が死去した。L438–441
1246年Lyonイングランドの使節たちは、リヨン公会議で課税などへの不満を訴えたことを回想する。L75–79
1246年イングランドの貴族数名が死去し、その死は王国にとって損失と見なされた。L2037–2039
1246年テオバルドと五人が反逆罪で捕らえられ、そこでさらに二十人が逮捕された。L1274–1278
1247年Winchesterヘンリー3世王はウィンチェスターでクリスマスを祝った。L2176–2178
1247年London2月13日、イングランド各地で地震が起き、特にロンドンで激しかった。L3041–3043
1247年Poitiersフランス人がポワトゥーの荒らしを始めた — イングランド王の庇護下にあった住民は、裏切り者として嘲笑された。500–501
1247年St Davidsリンカーンの助祭トマス(通称ウェールズ人)は、最も貧しい司教座であるセント・デイヴィッズの選出に同意した。1767–1769
1247年同じ月に伯爵夫人M.・デ・フェラリスが死去し、伯の息子ウィリアムが父を継いで伯となった。2227–2230
1247年教皇は、後援権を暴力で奪われた教会への聖職禄の授与を停止し、それを容認した王にも不満を述べた。2270–2275
1248年多くの貴族がフランス王とともにエルサレム遠征に出ようとし、騎士や家臣も十字架を受けた。L2924–2927
1248年飢えた包囲都市の市民が城門を開き、皇帝側の包囲軍に突撃した。タデウスは「ネズミが穴から出てきた」と嘲った。L3661–3666
1248年Sevillaカスティーリャ王フェルディナンド3世がセビリア(Sibilla)を陥落させた。part_24 줄 332
1248年11月24日、潮が普段の境界を越えて上がり、近隣の土地に取り返しのつかない被害をもたらした。風のせいだと言われた。part_24 줄 621
1248年Alemanniaいくつかの地方で大火。アレマニアでは町や村が灰燼に帰した。part_24 줄 932
1248年Holmノルウェーのホルム・ベネディクト会修道院は貧しくなり、修道士たちが散り散りになってほぼ崩壊した。part_24 줄 1354
1248年Englandイングランドで地震。バース司教の報告によれば、建物の壁が崩れ、石が落ちた。part_24 줄 1584
1249年 〜 1250年Damietta十字軍の誓願者アンデグラウィウス・デ・ドリンギア(人物不詳)が、ダミエッタで聖地にて死去した。lines 1243-1245
1249年Apuliaフリードリヒ2世は毒(ピエトロ・デッラ・ヴィーニャが用意したもの)を避け、アプーリアへ戻った。part_24 줄 2950
1249年Englandルーアン大司教(フランシスコ会士)がイングランドに来て、王の恩恵により古来の収入(reditus)を取り戻した。part_24 줄 3195
1249年Bolognaフリードリヒの息子エンツィオが、ボローニャ軍の奇襲を受けて捕虜となった。part_24 줄 3557
1249年教皇は誠実な平和案(honestam pacis formam)を受け入れなかった。提案者は前の行が損傷しているため不明。part_24 줄 3587
1249年Yorkヨーク参事会長ウォルター・ド・カークハムが、ヨークでダラム司教として聖別された。part_24 줄 3912
1249年タタールの改宗の知らせが王に伝えられた。182
1250年公然と十字架を受けていなかった多くの貴族が、教皇庁の罠を恐れて、ひそかに聖地遠征を誓った。958-962
1250年遠征中のフランス王に救援が間に合わず、十字軍の企ては水泡に帰した。1237-1240
1250年十字軍の高位の貴族たちは、王の意に反して待たずにエルサレム遠征への出発を決めた。3114-3118
1250年聖職者ベラルドゥス・デ・ニンファは、教皇庁の武装の権限を後ろ盾に、リチャード伯のために十字軍の献金を不当な方法で集めた。3852-3855
1250年Al Mansurahスルタンが軍勢を駆り立ててキリスト教軍に攻め込み、アル・マンスーラで最も残酷な戦いが起こった。part_26 L215-218
1250年フランス王が捕らえられた。「フランスの大いなる恥辱」。part_26 L548-551
1250年Damietta釈放される条件として、ダミエッタをサラセン人に返すことに同意した。part_26 L811-816
1250年Damiettaダミエッタでキリスト教徒が斬首された。part_26 L849-851
1250年サラセンの軍勢がスルタンに対して反乱を起こした。part_26 L902-904
1250年スルタンが突然死んだ。サラセン人の間では、彼の傲慢さと欺瞞によって憎悪が募っていたという一節の後のことである。part_26 L1053-1056
1250年Acre休戦が終わると、敵はアコの包囲を準備した。part_26 L1466-1469
1250年St Albans聖ルチアの祝日に、セントオールバンズ近郊で地震が起きた。part_26 L2274-2278
1250年フリードリヒ2世が死去した。遺言状は移されており、シトー会の修道服をまとって死んだという伝承も記されている。L278-279
1251年アレッポとバビロンのスルタンは金銭欲から、身代金と引き替えにフランス王を解放した。part_26 L3154-3156
1251年Londonロンドンで大きな議会が開かれた。王はバースのヘンリーを追い詰め、貴族たちは王に反抗しかねない勢いであった。L778-788
1251年St Albansセントオールバンズ近くの敬虔な寡婦セシリア・ド・サンフォードが死去。彼女は王の妹ジョーンの師であった。L1520-1522

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原文のライセンスと出典

원문: Matthaei Parisiensis Chronica Majora (H. R. Luard 편, Rolls Series, London 1872-83). archive.org OCR(djvu.txt) 그대로, 글자 교정 없음.

퍼블릭 도메인 (19세기 판, archive.org 스캔)

https://archive.org/details/matthiparisien02pari

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