日本後紀(正史 の史料)。扱う年は792年 〜 833年、出来事108件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。
| 区分 | 正史 |
|---|---|
| 視点 | 内側の視点 |
| 扱う年 | 792年 〜 833年 |
| 出来事の数 | 出来事108件・地図に置いた95件 |
| 著者 | 藤原緒嗣·藤原冬嗣 등 칙찬 |
| 原題 | 日本後紀 |
地域の内訳: 日本 95 · 中国 13
| 年 | 場所 | 出来事 | 原文の位置 |
|---|---|---|---|
| 792年 | 陸奥国 | 陸奥国の報告:斯波村の蝦夷、胆沢公阿奴志が使者を遣わし帰順を請うたが、伊治村の俘虜らが道を塞いでいると訴えた。朝廷は以後、夷の使者に例の下賜品を与えぬよう命じた。 | 日本後紀 卷1 |
| 792年 | 伊勢国 | 伊勢国:失火で焼失した天照大神宮を再建させる。 | 日本後紀 卷1 |
| 792年 | 陸奥国 | 朝廷は夷爾散南公阿破蘇の入朝の意志を喜び、途中の国から精鋭三百騎を選んで国境で迎え、威勢を示すよう命じた。 | 日本後紀 卷1 |
| 792年 | 長岡京 | 長岡京の朝堂院で、陸奥の蝦夷阿波蘇・隠賀と猟師荒嶋に饗宴を催し、阿波蘇・隠賀には第一等の官爵を授けた。 | 日本後紀 卷1 |
| 793年 | 平安京 | 大納言藤原小黒麻呂・左大弁紀古佐美らを遣わし、山背国葛野郡宇太村の地を視察させた。遷都のため(新宮の造営が始まる)。 | 日本後紀 卷2 |
| 793年 | 平安京 | 参議壱志濃王らを遣わし、賀茂大神に遷都を告げさせた。 | 日本後紀 卷2 |
| 793年 | 平安京 | 五位以上・諸司主典以上の者に役夫を出させ、新都の宮城を築かせた。 | 日本後紀 卷2 |
| 793年 | 平安京 | 菅野真道・藤原葛野麻呂らを遣わし、新都の宅地を分け与えさせた。 | 日本後紀 卷2 |
| 794年 | 長岡京 | 正月朔日、朝賀を廃した(宮殿を取り壊し始めたばかり)。同日、征夷大将軍大伴弟麻呂に節刀を賜った。 | 日本後紀 卷2 |
| 794年 | 陸奥国 | 副将軍坂上田村麻呂以下が蝦夷を攻めた。 | 日本後紀 卷2 |
| 794年 | 陸奥国 | 征夷将軍大伴弟麻呂が報告:斬首四百五十七級、俘虜百五十人、馬八十五匹、焼いた村七十五か所。 | 日本後紀 卷3 |
| 794年 | 平安京 | 詔により山背国を山城国と改め、新都を平安京と称した(近江の古津は大津と改称)。 | 日本後紀 卷3 |
| 795年 | 吉弥侯部真麻呂父子を殺害した俘囚大伴部阿■良らの妻子・親族六十六人を日向国へ移した。 | 日本後紀 卷3 | |
| 795年 | 出羽国 | 出羽国の報告:渤海使定琳らの六十八人が蝦夷の地の志理波村に漂着し、略奪された。越後国へ移し、慣例どおりに供給せよと命じた。 | 日本後紀 卷4 |
| 796年 | 平安京 | 渤海国が使者を遣わし方物を献上した。王は先王の死去を告げる啓を奉った。 | 日本後紀 卷4 |
| 796年 | 御長真人広岳らが渤海より帰国し、渤海王の啓を伝えた。定琳らの生還に謝意を表し、交隣を請うものである。 | 日本後紀 卷5 | |
| 796年 | 陸奥国 | 相模・武蔵など八国の民九千人を陸奥国伊治城へ移し置いた。 | 日本後紀 卷5 |
| 797年 | 平安京 | 地震と暴風:左右京の坊門や民家が多く倒壊した。 | 日本後紀 卷6 |
| 797年 | 陸奥国 | 従四位下坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じた(副将軍らを付す)。 | 日本後紀 卷6 |
| 798年 | 遣渤海使内蔵賀茂麻呂が辞去すると、渤海王に宛てた璽書を下された。 | 日本後紀 卷7 | |
| 798年 | 平安京 | 帰化した唐人嵩山忌寸道光らが貧しいので、事情に応じて稲を下賜せよと命じた。 | 日本後紀 卷7 |
| 799年 | 平安京 | 豊楽院が未完成のため、大極殿の前に仮の殿舎を設け、天皇が臨御して渤海使大昌泰らと宴を催した。 | 日本後紀 卷8 |
| 799年 | 隠岐国 | 先に渤海に赴いた内蔵賀茂麻呂らが、帰国途中の夜の海で灯火を頼りに隠岐国智夫郡に着いたと報告し、その地の神に幣帛を請うた。 伝承 | 日本後紀 卷8 |
| 799年 | 三河国 | 小舟に乗った一人が三河国に漂着した。唐人たちは崑崙人と呼び、綿の種と見えるものを持っていた。川原寺に住まわせた。 | 日本後紀 卷8 |
| 799年 | 滋野船代らが渤海より帰国。渤海王の啓は、使節の往還を半紀(六年)に縮めるよう求めた願いが聞き入れられたことへの謝意を表す。 | 日本後紀 卷8 | |
| 800年 | 駿河国 | 駿河国の報告:三月十四日から四月十八日まで、富士山の頂が自ら燃え、昼は煙で暗く、夜は火光が天を照らし、雷のような音がして、灰が雨のように降った。 | 日本後紀 卷9 |
| 800年 | 陸奥国 | 征夷大将軍坂上田村麻呂を遣わし、諸国の夷俘を検校させた。 | 日本後紀 卷9 |
| 801年 | 藤原葛野麻呂を遣唐大使、石川道益を副使とした。 | 日本後紀 卷10 | |
| 801年 | 陸奥国 | 征夷大将軍坂上田村麻呂らが報告:夷賊を討って服属させた(原文は「云々」で省略)。 | 日本後紀 卷10 |
| 801年 | 陸奥国 | 詔:陸奥の蝦夷が代々国境を侵し民を害したので、田村麻呂らを遣わして平定した。田村麻呂を従三位に昇叙する。 | 日本後紀 卷10 |
| 802年 | 胆沢城 | 官軍の討伐により土地が広がったので、駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の浪人四千人を陸奥国胆沢城に配置せよと命じた。 | 日本後紀 卷10 |
| 802年 | 胆沢城 | 造胆沢城使田村麻呂が報告:夷の大墓公阿弖利為と盤具公母礼が、同族五百余人を率いて降伏した。 | 日本後紀 卷10 |
| 802年 | 胆沢城 | 陸奥国胆沢城造営の使者田村麻呂が、大墓公の二人を連れて入京した。 | 日本後紀 卷10 |
| 802年 | 河内国 | 大墓公阿弖利為・盤具公母礼を河内国植山で斬った。将軍たちは帰して配下を呼び寄せるべきと提案したが、公卿は「虎を養って禍を残すことになる」と反対した。 | 日本後紀 卷10 |
| 803年 | 遣唐大使藤原葛野麻呂・副使石川道益らは辞去し、節刀を受けた。 | 日本後紀 卷11 | |
| 803年 | 難波津 | 葛野麻呂の報告:難波津で乗船し十六日に出発したが、暴風雨で船が壊れ、明経請益豊村家永が海に落ちて行方不明となり、溺死者は数えきれない。 | 日本後紀 卷11 |
| 804年 | 陸奥国 | 武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥から糒一万四千三百十五斛、米九千六百八十五斛を陸奥国小田郡の中山柵へ運ばせた。蝦夷征討のためである。 | 日本後紀 卷12 |
| 804年 | 陸奥国 | 坂上田村麻呂を再び征夷大将軍とし、百済王教雲・佐伯社屋・道嶋御楯を副とした。軍監八人、軍曹二十四人。 | 日本後紀 卷12 |
| 804年 | 平安京 | 豪雨と大風。中院の西楼が倒れ、神泉苑の左右の楼が壊れた。天皇は「朕に不利なのか」と嘆いた。 | 日本後紀 卷12 |
| 804年 | 兵部少丞大伴岑万里を新羅に遣わした。七月初めに出航した遣唐使四隻のうち二隻は風に押し戻され、二隻は行方不明であるため、新羅に漂着していないか探させるためである。 | 日本後紀 卷12 | |
| 805年 | 対馬国 | 遣唐使第一船が対馬島下県郡に着いた。大使藤原葛野麻呂の報告:昨年七月六日、肥前国松浦郡田浦から出帆した。第三・第四船とは連絡が途絶えた。八月十日、福州長渓県の赤岸鎮に着いた。 | 日本後紀 卷12 |
| 805年 | 松浦 | 遣唐使第二船の判官菅原清公が肥前国松浦郡鹿嶋に着き、駅馬で上奏した。 | 日本後紀 卷12 |
| 805年 | 松浦 | 大宰府の報告:遣唐使第三船は松浦郡の庇良嶋から出帆したが、すぐに南風に遭い、遠い島に漂着した。船は浸水し、岩の間で損壊した。朝廷は船員が職務を怠ったとして、叱責を命じた。 | 日本後紀 卷13 |
| 805年 | 平安京 | 入唐求法僧最澄を殿舎に召して悔過読経をさせた。最澄は唐の仏像を献上した。 | 日本後紀 卷13 |
| 806年 | 平安京 | 山城国葛野郡の宇太野を山陵の地とした。服喪により百官は喪服を着た。西北の二つの山で火が起きた。 | 日本後紀 卷13 |
| 806年 | 平安京 | 桓武天皇を山城国紀伊郡の柏原山陵に葬った。諱は山部、天宗高紹天皇の長子。前史が欠けているので、その一生を記す。 | 日本後紀 卷13 |
| 806年 | 平安京 | 平城天皇が大極殿で即位し、年号を大同と改めた。史官は、即位の翌年を待たずに改元したのは礼に反すると評した。 | 日本後紀 卷14 |
| 807年 | 大宰府 | 大唐から受けた綵幣を香椎宮に奉らせるため使者を遣わした(遣唐使帰還への報い)。 | 日本後紀 卷15 |
| 807年 | 平安京 | 蔭子藤原宗成が中務卿伊予親王に不軌をそそのかした。大納言藤原雄友がこれを聞き、右大臣藤原内麻呂に知らせた。親王は先に宗成の教唆を申し出て、宗成は左近府に拘禁された(伊予親王事件の発端)。 | 日本後紀 卷16 |
| 808年 | 平安京 | 疫病で死者が多く、京中の骸骨を集めて埋葬し、諸大寺と畿内七道諸国に大般若経を読ませ、病人に米と塩を与えた。 | 日本後紀 卷16 |
| 808年 | 平安京 | 疫病のため騎射を停止した。大同元年の洪水被害と、昨年来の疫病の流行で倒れた者が多いため、被害七分以上の戸の未納の正税を免除した。 | 日本後紀 卷17 |
| 809年 | 平安京 | 平城天皇は風病のため政務を執りがたく、皇太弟に譲位する詔を下した。 | 日本後紀 卷17 |
| 809年 | 平安京 | 皇太弟(嵯峨天皇)が禅位を受けて大極殿で即位した。 | 日本後紀 卷18 |
| 809年 | 平城京 | 太上天皇は水路を双船に乗って平城へ行幸した。宮殿がまだ完成せず、故右大臣大中臣清麻呂の邸宅に仮の住まいをとった。 | 日本後紀 卷18 |
| 809年 | 平城京 | 畿内諸国から工匠と役夫二千五百人を雇い、平城宮を造営させた。 | 日本後紀 卷18 |
| 810年 | 平城京 | 太上天皇の命により平城への遷都を図り、田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上を造宮使とした(薬子の変の始まり)。 | 日本後紀 卷20 |
| 810年 | 平城京 | 太上天皇は大和国添上郡の越田村に至り、前途が甲兵に阻まれていることを知って引き返し、剃髪して入道した。藤原薬子は自殺した。 | 日本後紀 卷20 |
| 810年 | 越前国 | 越前介阿倍清継・権少掾百済王愛筌らは、太上天皇が伊勢へ行幸するとの話を聞いて軍を起こして呼応し、新任の介登美藤津を捕らえた。取り調べで罪を認めた。 | 日本後紀 卷20 |
| 810年 | 平安京 | 渤海が使者を遣わし方物を献上した。王は先帝(桓武)の崩御を弔い、天皇の即位を祝う啓を奉った。 | 日本後紀 卷20 |
| 810年 | 陸奥国の報告:渡嶋の狄二百余人が気仙郡に来着したが、管轄外のため帰そうとすると、冬で海を渡りにくいとして春まで留まることを請うた。許可し、衣糧を与えた。 | 日本後紀 卷20 | |
| 811年 | 平安京 | 渤海使高南容が帰国した。渤海王に宛てた書を下し、善隣を称えた。船を取り替え、副使が護送するようにした。 | 日本後紀 卷21 |
| 811年 | 陸奥国 | 文室綿麻呂を征夷将軍とし、大伴今人・佐伯耳麻呂・坂上鷹養を副とした。 | 日本後紀 卷21 |
| 811年 | 平安京 | 大納言坂上田村麻呂が粟田の別業で薨じた。享年五十四。延暦二十三年に征夷大将軍となり功績を立てたと記す。 | 日本後紀 卷21 |
| 811年 | 出羽国 | 将軍に下した勅:俘軍一千人を吉弥侯部於夜志閇らに預け、弊伊村を襲わせること、また陸奥・出羽両国の俘軍各一千人を八・九月の間に左右に展開させる方策を協議して奏上せよ。 | 日本後紀 卷21 |
| 811年 | 大宰府 | 大宰府の報告:新羅人金巴兄・金乗弟・金小巴の三人は、米を運搬中に海賊に遭い、仲間が全員死んだと述べ、帰国を望んだ。同じ船で送り返すことを請い、許された。 | 日本後紀 卷21 |
| 811年 | 林東人らが渤海より帰国し報告:国王の啓が慣例に合わないため受け取らずに帰った。録事上毛野嗣益の乗る第二船は離れ離れになり、行方が分からない。 | 日本後紀 卷21 | |
| 811年 | 陸奥国 | 将軍の上奏に応じた勅:捕獲・帰順した者が少なくないので、蝦夷は中国に移住させ、俘囚は現地に安置せよ。新たに捕らえた夷も上京させるが、壮健な者は徒歩とし、弱い者には馬を与えよ。 | 日本後紀 卷21 |
| 811年 | 陸奥国 | 征夷将軍文室綿麻呂が報告:官軍が一挙に敵を残らず平定したので、鎮兵を減らすべきである。志波城は川辺にあり水害が多いので移転すべきである。宝亀五年以来三十八年に及ぶ辺境の争いについても述べた。 | 日本後紀 卷21 |
| 812年 | 対馬国 | 対馬島の報告:新羅船三隻が西海に浮かび、一隻が下県郡の佐須浦に着いた。乗員を殺し、四人を捕らえた。毎夜、新羅の方角に火が見えるため、長門・石見・出雲に要害を守るよう通告した。 | 日本後紀 卷22 |
| 812年 | 平安京 | 神泉苑に行幸して花を愛で、文人たちに詩を作らせた。花宴の始まり。 | 日本後紀 卷22 |
| 812年 | 漂流してきた新羅人清漢波らを、本人の希望どおりに帰国させた。 | 日本後紀 卷22 | |
| 813年 | 肥前国 | 大宰府の報告:新羅人百十人が五隻で小近嶋に来て、土着の者と戦い、九人が死に百一人が捕らえられた。帰化を望む者は慣例どおりに扱い、帰国を望む者は送り返せと命じた。 | 日本後紀 卷23 |
| 814年 | 出雲国 | 夷の第一等遠胆沢公母志に外従五位下を授けた。出雲の謀反の俘囚を討伐した功による。 | 日本後紀 卷23 |
| 814年 | 出雲国 | 出雲国の意宇・出雲・神門三郡の未納の一六万束を免除した。俘囚の乱があったためである。 | 日本後紀 卷23 |
| 814年 | 博多 | 大宰府の報告:新羅人辛波古知ら二十六人が筑前国博多津に漂着し、風化を慕って来たという。 | 日本後紀 卷24 |
| 814年 | 胆沢城 | 陸奥国の報告:胆沢・徳丹の二城は国府から遠く、塞の外に孤立しており、城下と津軽の狄俘は不測の事態があり得るので、糒と塩を前もって備蓄することを請い、許された。 | 日本後紀 卷24 |
| 815年 | 平安京 | 五位以上の者と渤海使を召して宴を催し、女楽を奏でた。 | 日本後紀 卷24 |
| 815年 | 渤海使王孝廉らは海上で大風に遭って引き返したが、船が壊れて再び使えなくなった。 | 日本後紀 卷24 | |
| 816年 | 平安京 | 渤海副使高景秀以下に夏服を与え、渤海王に宛てた書を下した。昨年、孝廉の帰路に船が壊れ、孝廉が病で死んだことを伝えるものである。 | 日本後紀 卷25 |
| 816年 | 平安京 | 夜の大風が羅城門を倒した。京中と諸国も大きな被害を受けた。 | 日本後紀 卷25 |
| 816年 | 上総国 | 公卿の報告:上総国夷隅郡の官物(穎五十七万余束)と正倉六十棟が焼失した。税長は逃げて自殺し、新任の守・介に弁償させた。 | 日本後紀 卷25 |
| 816年 | 大宰府 | 大宰府の報告:新羅人清石珍ら百八十人が帰化した。衣服と旅費を与え、船で入京させよと命じた。 | 日本後紀 卷25 |
| 817年 | 陸奥国 | 陸奥国の報告:反乱した俘囚吉弥侯部於夜志閇ら六十一人をすべて捕らえた。妻子を呼び寄せるため、身は城の下に留め置いてほしいとの請いを許した。 | 日本後紀 卷26 |
| 818年 | 武蔵国 | 相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野などの国で地震。山が崩れ、谷が埋まること数里、圧死した民は数えきれない。八月に使者を遣わして巡察し、救済した。 | 日本後紀 卷27 |
| 819年 | 平安京 | 大唐越州の人周光輪・言升則らが新羅人の船に乗って来て唐の消息を尋ねた。答えて、元和十一年、圓州の節度使李師道が反乱を起こし五十万の兵を率い、天子は諸道の兵を送って討伐したが勝てなかった、と述べた。 | 日本後紀 卷27 |
| 819年 | 平安京 | 渤海が使者を遣わし方物を献上した。王の仁秀が啓を奉った。 | 日本後紀 卷27 |
| 820年 | 平安京 | 渤海王に宛てた書を下した。先の使者感徳らは船が漂流して来られなかったので、船一隻を特に遣わしたことを記す。 | 日本後紀 卷28 |
| 820年 | 駿河国 | 遠江・駿河に配置されていた新羅人約七百人が反乱し、人を殺し家に火を放った。両国の軍は勝てず、伊豆国の穀物を盗んで船で海へ出たため、相模・武蔵など七国の軍を送って追討し、ことごとく平定した。 | 日本後紀 卷28 |
| 821年 | 讃岐国 | 讃岐国が、満濃池の堤の修築は工事が大きく人手が足りず完成しないと報告し、当地出身の僧空海を別当に任じるよう請うた。許可した。 | 日本後紀 卷29 |
| 822年 | 平安京 | 豊楽殿で五位以上の官人と蕃客を饗宴する。渤海使の王文矩らが打毬をし、賞として綿二百屯が懸けられる。 | 日本後紀 卷30 |
| 822年 | 伝灯大法師最澄が五十四歳で卒去する。延暦末に入唐して台州で天台宗を学び、帰国後に広く宗を広めたと記す。 | 日本後紀 卷30 | |
| 823年 | 平安京 | 嵯峨天皇が冷然院に移り、皇太子への譲位の意向を藤原冬嗣に伝える。冬嗣は太上天皇の負担を理由に諫めるが、天皇は意を翻さない。 | 日本後紀 卷30 |
| 823年 | 平安京 | 淳和天皇が東宮から内裏に移る。先に常世王が固辞したため、正良親王を皇太子に立てる。 | 日本後紀 卷31 |
| 823年 | 加賀国 | 加賀国が、渤海入覲使一行百一人の到着を報告する。 | 日本後紀 卷31 |
| 824年 | 平安京 | 詔により、弘仁十五年を天長元年と改元する。 | 日本後紀 卷32 |
| 824年 | 陸奥国 | 新羅人の辛良・金貴・賀良・水白ら五十四人を陸奥国に安置し、法に従って賦役を免じ、乗田を以て口分田を班給する。 | 日本後紀 卷32 |
| 824年 | 平安京 | 平城太上天皇を楊柳陵に葬る。史臣は、度量は深いが猜忌心が強く、即位の初めに兄弟とその母を処罰したことは苛酷な刑罰だったと評した。 | 日本後紀 卷32 |
| 825年 | 隠岐国 | 隠岐国が駅馬で上奏する。渤海使高承祖ら計百三人が到着した。 | 日本後紀 卷33 |
| 826年 | 右大臣藤原緒嗣が奏上する。天長元年の上表では渤海の入朝を一紀(十二年)に一度と定めたが、霊仙の言を借りてその期限を破っているので、送り返すべきだと言った。これに対し、天皇の譲位の美談を海外に知らせるべきだという反論もあった。 | 日本後紀 卷34 | |
| 827年 | 平安京 | 旱魃により、少僧都空海が仏舎利を内裏に請じて礼拝・灌浴を行うと、雨が降った。 | 日本後紀 卷35 |
| 827年 | 平城京 | 地震。東大寺の盧舎那大仏を堅固にする旨を佐保山陵に告げさせ、参議藤原愛発らを遣わす。 | 日本後紀 卷35 |
| 828年 | 但馬国 | 但馬国が駅馬で報告する。渤海人百余人が到着した。(射礼の日の記事) | 日本後紀 卷36 |
| 828年 | 平安京 | 大雨により京中の道路が冠水し、河川が決壊し、山崩れが起きて人も物も多く流される。左右京に賑恤の使者を遣わす。 | 日本後紀 卷36 |
| 829年 | 平安京 | 勅。諸国に疫癘が流行し民が早死するので、出家の功徳により僧百人を得度させ、災いを防がせる。 | 日本後紀 卷37 |
| 830年 | 秋田城 | 出羽国の駅伝報告。鎮秋田城介藤原行則の妾の話では、辰刻に大地震があり、城郭・官舎・四天王寺の仏像などがことごとく崩れ、百姓十五人が圧死し、百余人が負傷した。地が裂け、秋田河が干上がった。 | 日本後紀 卷38 |
| 831年 | 平安京 | 地震(同日、無品基良親王薨去。大僧都空海の上表の記事が続く)。 | 日本後紀 卷39 |
| 832年 | 平安京 | 勅。去年秋の不作で諸国が飢え、今年も疫病と旱魃が続き火災まで起きたので、畿内七道諸国で七日間、経王を転読させる。 | 日本後紀 卷40 |
| 833年 | 平安京 | 淳和天皇が譲位のために西院に遷御する。同日巳刻に大地震があり、続いて皇太子に譲位する。 | 日本後紀 卷40 |
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