日本文徳天皇実録

日本文徳天皇実録(正史 の史料)。扱う年は850年 〜 858年、出来事63件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年850年 〜 858年
出来事の数出来事63件・地図に置いた61件
著者藤原基經 등 (칙찬)
原題日本文德天皇實錄

地域の内訳: 日本 60 · 中国 2

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
850年Heian-kyo (Kyoto)三月己亥、仁明天皇が清涼殿で崩御する。皇太子道康(文徳)が神璽と宝剣を受け、東宮の阿院に移る。日本文德天皇實錄 卷第一 「嘉祥三年」 3月
850年Fukakusa (Kyoto)三月癸卯、遺詔により倹約して仁明天皇を深草山陵に葬る。日本文德天皇實錄 卷第一 「嘉祥三年」 3月
850年Saga (Kyoto)三月乙巳、嵯峨山陵で暴風雷雨により樹木が倒れ、中納言阿倍安人を遣わして検分させる。日本文德天皇實錄 卷第一 「嘉祥三年」 3月
850年Ise五月、島江王らを伊勢大神宮に遣わして斎内親王(斎宮)を迎えさせる。日本文德天皇實錄 卷第一 「嘉祥三年」 5月
850年Heian-kyo (Kyoto)五月辛巳、嵯峨太皇太后橘嘉智子が崩御する。翌日、深谷山に薄葬する。日本文德天皇實錄 卷第一 「嘉祥三年」 5月
850年Heian-kyo (Kyoto)四月甲子、文徳天皇が大極殿で即位する。前日癸亥には深草山陵に即位を告げる。日本文德天皇實錄 卷第一 「嘉祥三年」 4月
850年Dewa六月甲戌、出羽国が「境が蝦夷と接して常に騒がしい」として陰陽師一人の配置を請い、許される。日本文德天皇實錄 卷第一 「嘉祥三年」 6月
850年Ise八月癸丑、楠王らを伊勢大神宮に遣わし、安子内親王が斎王となったことを告げる。日本文德天皇實錄 卷第二 「嘉祥三年」 8月
850年Heian-kyo (Kyoto)七月己亥、大雨で大極殿の前の龍尾道十二丈が水に崩れる。日本文德天皇實錄 卷第二 「嘉祥三年」 7月
850年Settsu九月壬午、宮主卜部雄貞らを摂津国に遣わし八十嶋祭を行う。同日、摂津で白亀を得て献上する。日本文德天皇實錄 卷第二 「嘉祥三年」 9月
850年Dewa十月庚申、出羽国が大地が大きく裂け山の裾が位置を変え、圧死者が多いと報告する。日本文德天皇實錄 卷第二 「嘉祥三年」 10月
850年Heian-kyo (Kyoto)十一月戊戌、惟仁親王(後の清和天皇)を皇太子に立てる。日本文德天皇實錄 卷第二 「嘉祥三年」 11月
851年Heian-kyo (Kyoto)二月丙辰、先帝が休まれた清涼殿を移して嘉祥寺の仏堂とする。今上がそのまま用いるに忍びなかったため。日本文德天皇實錄 卷第三 「仁壽元年」 2月
851年Heian-kyo (Kyoto)四月庚午、仁寿と改元する。即位初年に白亀・甘露の瑞祥を理由とした。日本文德天皇實錄 卷第三 「仁壽元年」 4月
851年Heian-kyo (Kyoto)八月甲寅、洪水の被害を受けた京師の人々に検非違使を遣わして穀を配る。先に己酉に大雨があった。日本文德天皇實錄 卷第三 「仁壽元年」 8月
851年Heian-kyo (Kyoto)八月乙丑、伊勢の斎内親王が賀茂川で禊をし、同日野宮に入る。大嘗祭の準備である。日本文德天皇實錄 卷第三 「仁壽元年」 8月
851年Heian-kyo (Kyoto)十月甲子、天皇が賀茂川に行幸し、大嘗祭に先立つ禊事を大規模に行う。日本文德天皇實錄 卷第三 「仁壽元年」 10月
851年Heian-kyo (Kyoto)十一月辛卯、大嘗祭として八省院で祭祀を行い、続いて豊楽院で宴を催す。日本文德天皇實錄 卷第三 「仁壽元年」 11月
852年Heian-kyo (Kyoto)二月丁巳の夕、西の空に長さ五丈ほどの彗星が現れる(観測地は京と推定)。日本文德天皇實錄 卷第四 「仁壽二年」 2月
852年Heian-kyo (Kyoto)閏八月己卯、先に乙亥の大風(家屋が飛び樹木が抜けた)の被害を受けた京の人々に、廩院の米を分け与える。日本文德天皇實錄 卷第四 「仁壽二年」 8月(閏)
852年Ise九月庚子、斎内親王が伊勢大神宮に入る。天皇が大極殿に出て見送り、阿倍安人が長奉送使を務める。日本文德天皇實錄 卷第四 「仁壽二年」 9月
853年Heian-kyo (Kyoto)二月、京と畿外に疱瘡が広がり死者が多い。天平九年・弘仁五年以後で三度目である。日本文德天皇實錄 卷第五 「仁壽三年」 2月
853年Heian-kyo (Kyoto)四月乙酉、疱瘡が広がって民が死ぬため賀茂祭を停止し、使者を遣わして事情を奏上させる。日本文德天皇實錄 卷第五 「仁壽三年」 4月
853年Dazaifu五月壬寅、大宰府に詔して観音寺・弥勒寺・四王院・香椎廟・管内の国分寺で大般若経を読ませる。日本文德天皇實錄 卷第五 「仁壽三年」 5月
853年Heian-kyo (Kyoto)八月、西京で火災があり、百八十余戸に延焼する。日本文德天皇實錄 卷第五 「仁壽三年」 8月
853年Dazaifu九月辛丑、大宰府に穀三万八千七百余石を出し、管内の疱瘡の患者を賑恤させる。日本文德天皇實錄 卷第五 「仁壽三年」 9月
854年Ise七月庚戌、伊勢大神宮に風雨を止めるよう前もって祈請する。同日、暴風で家屋が飛び洪水が溢れる。日本文德天皇實錄 卷第六 「齊衡元年」 7月
854年Mutsu四月壬午、陸奥国が凶作・兵士の逃亡・虎のような群盗により変事の兆しがあるとして援兵千人を請い、許される。日本文德天皇實錄 卷第六 「齊衡元年」 4月
854年Mutsu五月戊戌、陸奥国に穀一万石を出し、俘夷を賑恤させる。日本文德天皇實錄 卷第六 「齊衡元年」 5月
854年Heian-kyo (Kyoto)七月乙巳、備前国が穀を断った優婆塞一人を献上する。信天院に置くと人々が集まり、聖人と呼ぶ。日本文德天皇實錄 卷第六 「齊衡元年」 7月
854年Iwami十一月晦日(辛亥)、石見国が醴泉を献上したとして、仁寿四年を斉衡と改元する詔。日本文德天皇實錄 卷第六 「齊衡元年」 11月
855年Mutsu一月、陸奥国が遠方の俘囚らが刀を抜いて互いに殺傷したと報告し、援兵二千人を請い、許される。後の戊申の追加二千人の請願には、勅により近省(キンセイ)の兵から千人だけを選ぶよう命じる。日本文德天皇實錄 卷第七 「齊衡二年」 1月
855年Heian-kyo (Kyoto)二月、東北に長い星(彗星)が現れる(観測地は京と推定)。日本文德天皇實錄 卷第七 「齊衡二年」 2月
855年Heian-kyo (Kyoto)二月丁卯、右大臣藤原良房らに続日本後紀の編修を命じる詔。日本文德天皇實錄 卷第七 「齊衡二年」 2月
855年Dazaifu四月丙午、大宰府が駅馬で「日向守の嗣峰王が病を発して追捕使の田口房富を殺そうとした」と報告し、官爵を剥奪する。日本文德天皇實錄 卷第七 「齊衡二年」 4月(閏)
855年Nara (Todaiji)五月庚子、東大寺が毘盧舎那大仏の頭が自ら地に落ちたと奏上する。日本文德天皇實錄 卷第七 「齊衡二年」 5月
855年Nara (Todaiji)六月甲申、参議藤原氏宗を東大寺に遣わし、大仏の頭が落ちた様子を見させる。日本文德天皇實錄 卷第七 「齊衡二年」 6月
855年Heijo-kyo (Saho)七月戊申、源勝と清原滝雄を聖武の佐保山陵に遣わし、大仏が五月二十三日に崩れたことを告げ、再び鋳造すると誓う。日本文德天皇實錄 卷第七 「齊衡二年」 7月
855年Dazaifu七月丙寅、大宰府が入唐留学僧円載の上表を伝え献上する。日本文德天皇實錄 卷第七 「齊衡二年」 7月
855年Usa Hachiman (Buzen)九月壬子、少納言利見王を宇佐(豊前国)の八幡大菩薩宮に遣わし、大仏の改鋳を告げさせる。(宇佐は地名辞典にないため所在は不明。)日本文德天皇實錄 卷第七 「齊衡二年」 9月
855年Yamazaki-tsu (Settsu/Yamashiro)十月癸巳、山崎津で火災があり、三百余戸が焼ける。日本文德天皇實錄 卷第七 「齊衡二年」 10月
855年Dewa十月甲午、出羽国の困窮した民一万九千余人の負担を免じる。日本文德天皇實錄 卷第七 「齊衡二年」 10月
856年Dazaifu三月壬子、大宰府が新羅人三十人が漂着したので食糧を与えて送り返したと報告する。日本文德天皇實錄 卷第八 「齊衡三年」 3月
856年Heian-kyo (Kyoto)三月戊午、河岸にあって水に削られる山城国葛野郡の月読社を、松尾の南の山へ移す。日本文德天皇實錄 卷第八 「齊衡三年」 3月
856年Heian-kyo (Kyoto)三月、地震が頻発し、京と城の南で家屋が倒れ仏塔が傾く。日本文德天皇實錄 卷第八 「齊衡三年」 3月
856年Etchu七月辛亥、越中国が旱魃を報告する(後の庚申に若狭国も旱魃を報告)。日本文德天皇實錄 卷第八 「齊衡三年」 7月
856年Katano十一月辛酉、阿倍安人を後田原山陵に遣わし、今月二十五日に河内国交野の野で昊天を祀ると告げさせる。甲子には圜丘の祭祀を行う。日本文德天皇實錄 卷第八 「齊衡三年」 11月
856年Oarai (Hitachi)十二月戊戌、常陸国が鹿島郡大洗磯崎に神が新たに降りたと報告する。塩を焼く人が夜の海に光を見て、奇異な石二つを見つける。 虚構日本文德天皇實錄 卷第八 「齊衡三年」 12月
857年Heian-kyo (Kyoto)一月、暦博士大春日真野麻呂が、大衍暦は唐の暦と食い違うとして五紀暦により新しい暦を作ることを請い、許される。日本文德天皇實錄 卷第八 「天安元年」 1月
857年Heian-kyo (Kyoto)二月丁亥、藤原良房を太政大臣、源信を左大臣、藤原良相を右大臣に任じる。日本文德天皇實錄 卷第九 「天安元年」 2月
857年Heian-kyo (Kyoto)二月己丑、美作の白鹿と常陸の連理の木を瑞祥として、天安と改元する。日本文德天皇實錄 卷第九 「天安元年」 2月
857年Heian-kyo (Kyoto)三月癸丑、京の南の群盗を捕らえるため、左右近衛・兵衛・検非違使を遣わす。日本文德天皇實錄 卷第九 「天安元年」 3月
857年Osaka-no-seki (Otsu)四月庚寅、近江国の逢坂・大石・竜花の三所に関を新たに置き、国司と健児を配置する(逢坂は旧関)。日本文德天皇實錄 卷第九 「天安元年」 4月
857年Heian-kyo (Kyoto)五月乙丑の末、長雨が止まず洪水が溢れ、道や橋が途絶え堤が決壊する(五月丙辰にも京中の水が溢れる)。日本文德天皇實錄 卷第九 「天安元年」 5月
857年Tsushima六月庚寅、大宰府が駅馬で「対馬の上県郡義主長卜部川知麻呂・下県郡義大領Atai no Uranushiら三百人ばかりが、守立野正岑の館を囲み、火矢で正岑と従者十人・防人六人を殺した」と報告する。日本文德天皇實錄 卷第九 「天安元年」 6月
857年Tsushima七月辛亥、大宰府に制して、対馬の賊徒に脅されて加わったり獄中で死んだ無罪の者の妻子を赦すよう命じる。日本文德天皇實錄 卷第九 「天安元年」 7月
858年Tsushima二月庚申、立野正岑を殺し官舎と民家を焼いた対馬の者たちを刑官に下し、罪を取り調べさせる。日本文德天皇實錄 卷第十 「天安二年」 2月(閏)
858年Higo (Kikuchi)二月丙辰、肥後国が菊池城院の兵庫の鼓が自ら鳴ったと報告する(翌日にも鳴る)。日本文德天皇實錄 卷第十 「天安二年」 2月(閏)
858年Heian-kyo (Kyoto)四月庚子、今月壬辰から己亥まで続いた雨がようやく止む(五月壬午の大洪水の前の長雨)。日本文德天皇實錄 卷第十 「天安二年」 4月
858年Heian-kyo (Kyoto)五月壬午、大雨で洪水が溢れ、洞窟川の水が冷然院に入り、左右京が水害を受けて溺死者が多い。日本文德天皇實錄 卷第十 「天安二年」 5月
858年Dazaifu六月丁未、大宰府が五月一日の大風と豪雨で官舎がすべて壊れ、九国二道が損なわれたと報告する(同日、菊池城の兵庫も焼ける)。日本文德天皇實錄 卷第十 「天安二年」 6月
858年Heian-kyo (Kyoto)八月乙卯、文徳天皇が神生殿で崩御する。先に辛亥の夜に急に病に伏し、壬子に病が重くなり言葉を発せなくなる。日本文德天皇實錄 卷第十 「天安二年」 8月
858年Heian-kyo (Kyoto)九月甲子、夜、大行皇帝を田邑山陵に葬る。先に庚申に山城国葛野郡田邑郷の摩訶羅岡を山陵の地と定めた。日本文德天皇實錄 卷第十 「天安二年」 9月

原文のライセンスと出典

원문 전사: 위키문고(zh.wikisource.org) 기여자들, CC BY-SA 4.0 (원저는 퍼블릭 도메인)

PD-old(본문)·위키 CC BY-SA 4.0

https://zh.wikisource.org/wiki/日本文德天皇實錄

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