プロコピオス『戦史』

プロコピオス『戦史』(正史 の史料)。扱う年は408年 〜 553年、出来事204件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点内側の視点
扱う年408年 〜 553年
出来事の数出来事204件・地図に置いた148件
著者프로코피우스(카이사레아)
原題Προκοπίου Καισαρέως ὑπὲρ τῶν πολέμων λόγοι

地域の内訳: 南ヨーロッパ 138 · 西アジア 43 · エジプト・北アフリカ 22 · 西ヨーロッパ 1

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
408年Constantinopolisビュザンティオンで死の床にあるアルカディウスが、幼い息子テオドシウスのために帝国の将来をどう図るか思い悩む。1.2.1
409年Hispaniaマイオティス湖畔で飢えたヴァンダル人は、ゲルマン(フランク)の地とライン川へ移り、ゴディギスクロスに率いられてヒスパニアに定住する。3.3.2
439年Carthagoヴァンダル人はローマ人からリビアを奪い占領する。捕らえた敵を奴隷のように監禁し、その中には後に皇帝となるマルキアヌスもいた。3.4.1–3.4.3
455年Romaガイセリックが大艦隊でイタリアに上陸しローマを占領する。マクシムスは石で打たれて死ぬ。3.5.1
465年 〜 469年ペルシア王ペロズが国境をめぐってエフタライト(白フン)と戦争を起こし、大軍を率いて進軍する。1.3.1
468年皇帝レオは、ヴァンダル懲罰のため約十万の兵と東方全海域の艦隊を集める。バシリスコスの遠征。3.6.1
484年ペロズは盟約を破り、全ペルシア軍と同盟軍を集めてエフタライトへの再遠征を行う。息子カバデスだけを残し、他の息子約三十人を連れていく。1.4.9
496年カバデスが女性の共有を定める法を作ると、ペルシア人が蜂起して彼を廃位・投獄し、ペロズの兄弟ブラセスを王に立てる。1.5.1
502年Amidaカバデスはエフタライト王に負った借金のため、アナスタシウスに金を借りることを頼むが拒まれ、アミダを包囲する。1.7.3
503年Amidaアナスタシウス皇帝はアミダ包囲の知らせを受けて、アレオビンドゥスらの四将軍が率いる救援軍を派遣する。1.8.1
503年 〜 504年Amidaローマ軍が冬にアミダに到着して包囲する。力で落とせず、飢えさせて降伏させようとする。1.9.1
518年Constantinopolisアナスタシウスが死去し、ユスティヌスが帝位を継ぐ。カバデスは自分の死後に誰が王位に就くかを案じる。1.11.1–1.11.2
524年 〜 525年Iberiaカスピ海の関門近くに住むイベリア人の問題で、カバデスはローマ帝国に侵攻できない。イベリアの一部はラジカ方面へ分かれる。1.12.2–1.12.4
525年キリスト教徒のエチオピア王ヘレステアイオスが紅海を渡ってホメリタイを懲らしめようとする。1.20.1
526年Ravennaテオドリックの死後、八歳の孫アタラリックが王位を継ぎ、母アマラスンタが摂政となった。5.2.1
527年 〜 528年ユスティニアヌスがベリサリウスに、ニシビス側のペルシア国境に近いミンドゥオスに要塞を築かせる。1.13.2
530年Daraダラの戦いの直前、ニシビスから一万のペルシア軍が合流すると、ベリサリウスとヘルモゲネスはペルシア司令官ミッラネスに和平を勧める書簡を送る。1.14.1
530年Satalaカバデスがローマ領アルメニアへ別働隊を送る。ペルサルメニア人・スニタイ人・サビロイのフン三千人。司令官メルメロエス。1.15.2–1.15.3
530年 〜 531年ダラで敗れたペルシアが退かないので、ルフィヌスがカバデスに会い、ローマ側の抗議と和平を伝える。1.16.1
530年Carthagoヒルデリク王は戦争に弱く、従兄弟のホアメルが指揮するが、ムーア人に敗れ、ゲリメルが権力を握る。3.9.1–3.9.6
531年春、アザレテスが騎兵一万五千でローマ領を侵し、サラセンのアラムンダロスが同行する。今回はメソポタミア以外の道を通る。1.17.1
531年Kallinikonアラムンダロスの助言でアザレテスがユーフラテスを渡って進軍し、ベリサリウスが追撃してカリニクムの戦いとなる。1.18.13–1.18.16
531年ユスティニアヌスはペルシアを牽制するため、エチオピア人(アクスム)とホメリタイ(ヒムヤル)との同盟を考える。1.19.1
531年Constantinopolisヘルモゲネスの和平使節が失敗し、ベリサリウスは指揮権を奪われてビュザンティオンへ召還される。1.21.2
532年ローマの使節がティグリス川岸でホスロエスと会い「永久の平和」を結ぶ。場所は不明(川岸)。1.22.17
532年Constantinopolisビュザンティオンで青派と緑派が突然大暴動を起こす(ニカの反乱)。1.24.1
532年Constantinopolisベリサリウスとムンドスが兵を率いて競技場へ押し寄せた群衆を攻撃し鎮圧する。暴動は終わる。1.24.40–1.24.52
532年 〜 533年Constantinopolis皇帝はベリサリウスを東方総司令官に再任し、リビア(ヴァンダル)遠征へ送る。ペルシアは和平を後悔する。1.26.1–1.26.3
533年Constantinopolisユスティニアヌスがヴァンダル遠征を公表するが、多くの者がレオの遠征失敗を思い出して反対する。3.10.2
533年Caralisサルディニアのゴダスへの支援部隊四百(キュリロス指揮)と、カルタゴ遠征軍の歩兵一万・騎兵五千が編成される。3.11.1
533年Constantinopolis七年目の夏至の頃、総督の船団が宮殿前の海岸に停泊する。総大主教エピファニオスが祈り、出航する。3.12.2
533年Syracusaeベリサリウスが島(シチリア)に上陸するが、ヴァンダルの情報がなく悩み、シラクサから偵察する。3.14.3
533年海岸近くに寄せ、錨を下ろして上陸すべきか評議する。アルケラオスが発言する。3.15.1–3.15.2
533年上陸の翌日、果物を略奪した兵士を厳しく罰し、住民への暴力を禁じる訓示を行う。3.16.1
533年Carthagoベリサリウスがカルタゴ方面へ進軍し、副官ヨハネス(アルメニア人)に護衛三百を任せる。3.17.1
533年ゲリメルは従兄弟ギバムンドゥスを二千とともに左翼へ送り、アンマタスと自身を三方から包囲しようとする。3.18.1
533年ローマ軍がデキモン近くに至り、三十五スタディオン離れて柵の陣を張る。ベリサリウスが訓示する。3.19.1
533年Carthagoベリサリウスがカルタゴに入城する。市民は城門を開き、夜通し灯火を掲げる。3.20.1
533年Carthagoベリサリウスは、ゲリメルが貴族たちを接待していた「デルフィカ」宮殿で昼食をとる。3.21.2–3.21.5
533年ゲリメルがリビアの農民に財物をばらまき、ローマ人殺害をけしかけ、懸賞金を出す。3.23.1
533年Caralisゲリメルの弟ザゾがサルディニアのカラリス港に上陸し、町を占領して反乱者ゴダスを殺す。3.24.1
533年Bulla Regiaゲリメルがカルタゴから四日行程のブラ平原でヴァンダル全員とムーア人の援兵を集める。3.25.1
533年Carthagoゲリメルはカルタゴに迫り、水道橋を断って陣を敷いたが、やがて退いた。4.1.2
533年ベリサリウスは騎兵を先に送り、翌日歩兵とともに後を追った。トリカマルムの戦いへの進軍(場所不明)。4.2.3
533年ゲリメルとツァゾは訓示の後、ヴァンダル兵を送り出して川岸に布陣させた。トリカマルムの戦い(場所不明)。4.3.1
533年勝利の後、ローマ軍は混乱して略奪に走り、ベリサリウスは夜間の反撃を懸念した。4.4.1
534年Carthagoベリサリウスはカルタゴに戻り、ヴァンダル人を集めてコンスタンティノープルへ送る準備をした。キュリロスはツァゾの首を持ってサルデーニャへ向かった。4.5.2–4.5.5
534年ファラスは冬の包囲に疲れ、パプア山の登攀を試みたが、ムーア人に阻まれ大きな損害を受けた。4.6.1–4.6.4
534年三か月の包囲の末に冬が終わり、ゲリメルは飢えと苦しみの中で降伏交渉を始めた。4.7.1–4.7.6
534年Constantinopolisベリサリウスはゲリメルとヴァンダル人を連れてコンスタンティノープルに到着した。六百年の間、将軍に与えられなかった凱旋の栄誉である。4.9.1
534年テオダハドはトゥスキアの土地を大きく奪った貪欲な人物として紹介される。5.3.1
535年Carthagoソロモンがリビアの軍を引き継いだ。ムーア人が蜂起してビザキウムとヌミディアの兵を殺し、略奪を始めたとの知らせが届いた。4.10.1
535年ソロモンはルフィヌスとアイガンの件を聞き、ムーアの指導者たちに警告の書簡を送った。4.11.1
535年ムーア人は総動員して再びビザキウムを略奪した。ソロモンはカルタゴから急ぎ出撃した。4.12.1–4.12.2
535年Aurasiusアウラシウスのムーア人イアウダスが三万を超える兵でヌミディアを略奪した。アルティアスはケントゥリアイを守った。4.13.1
535年Ravennaトゥスキア人の告発により、アマラスンタはテオダハドを尋問した。5.4.1
535年 〜 536年Salona皇帝は在位九年目にゴート戦争を決め、ムンドゥスをダルマティアのサローナへ送るよう命じた。5.5.1–5.5.2
535年Ravennaペトルスの圧力に怯えたテオダハドは秘密会談を行い、シチリアの割譲に同意した。5.6.1
535年Salonaゴート軍がダルマティアのサローナに近づくと、ムンドゥスの息子マウリキオスが偵察中に交戦した。5.7.2
535年Syracusaeベリサリウスはシラクサとパノルモスに守備隊を置き、メッサナからレギウムへ渡った。現地の人々が帰順した。5.8.1
536年Carthago同じころイタリアではベリサリウスがシチリアを容易に占領したが、カルタゴでは軍が反乱を起こした。4.14.1
536年Bulla Regia反乱軍はカルタゴを略奪し、ブラの平原でストツァスを僭主に立て、八千人でカルタゴへ進軍した。4.15.1
536年Neapolis包囲されたナポリの人々がローマのテオダハドに救援を求めたが、テオダハドは応じなかった。5.9.8–5.9.9
536年Neapolisベリサリウスは四百人を選んで入城計画を立てた。マグヌスとエンネスが指揮し、水道の水路から入る。5.10.3–5.10.8
536年Ravennaローマ近郊のゴート人は、テオダハドの無気力に不信を抱き、ウィティギスを王に擁立した。5.11.6
536年Romaベリサリウスはアシナリア門からローマに入り、ゴート人はフラミニア門から撤退した。六十年ぶりにローマがローマ人の手に戻った。5.14.14
537年Carthago皇帝は甥のゲルマヌスをリビアに派遣した。シュンマコスとドムニコスが同行した。4.16.1–4.16.2
537年反乱軍は疲れ果てて陣を払い、ヌミディアへ退いた。ゲルマヌスが追撃した。4.17.1–4.17.2
537年Carthagoテオドロスの護衛兵マクシミヌスが暴動を企てた。4.18.1–4.18.4
537年テオドリックの死後、フランク人はテューリンゲンを征服し、ゴートの地に介入した。5.13.1
537年ゴート人ピッツァスは、サムニウム海岸の半分をベリサリウスに献上した。5.15.1
537年Perusiaベリサリウスはローマの防御を固め、コンスタンティヌスとベサスをトゥスキアへ送って占領させた。5.16.1–5.16.2
537年Romaゴートの総動員の知らせに、ベリサリウスは思い悩んだ。テヴェレ川のミルウィウス橋で迎え撃つ。5.17.11–5.17.14
537年Romaゴート人は橋の塔の門を容易に破って渡り、ベリサリウスの騎兵千と交戦した。5.18.1–5.18.2
537年Romaゴート人はローマの包囲を始め、六か所に柵を築いた。ローマは各門に守備兵を配置した。5.19.1
537年Roma包囲十八日目の朝、ゴート人は攻城塔と槌で城壁を攻めた。ベリサリウスは笑みを浮かべて兵を安心させた。5.22.1–5.22.2
537年Romaベリサリウスは皇帝に書簡を送り、ローマは確保したが兵が散らばっていると述べて増援を求めた。5.24.1
537年Neapolisベリサリウスは妻子と不要な召使いをナポリへ疎開させた。5.25.2
537年Ravennaウィティギスはラヴェンナに連れて来た元老院議員全員を殺すよう命じた。一部は逃げ延びた。5.26.1
537年Portusポルトゥスが陥落し、二十日後にマルティヌスとヴァレリアヌスが騎兵千六百を率いて到着した。5.27.1
537年Romaローマ軍は連勝に酔って総力戦を望んだが、ベリサリウスは小規模な出撃にこだわった。5.28.2
537年Romaウィティギスはゴート人全員を武装させ、ネロの平原一帯で決戦の準備をした。5.29.1–5.29.2
537年Romaローマ軍は全面戦を避け、騎兵の奇襲で蛮族を破った。ベッサスの活躍である。6.1.3
537年Tarracinaエウタリオスが兵の給与を携えてタラキナに到着し、ベリサリウスは護衛百人を送った。6.2.1–6.2.2
537年Roma夏至のころローマで飢饉と疫病が起き、ゴート人は戦闘を避けて持久戦を選んだ。6.3.1
537年Neapolisベリサリウスは著者プロコピオスをナポリへ送り、穀物船と兵を集めさせた。6.4.1
537年Hydruntumコンスタンティノープルから、イサウリア人三千がナポリ港に、ヨハネス麾下のトラキア騎兵八百がヒドルントゥムに到着した。6.5.1
538年Roma蛮族は疫病と飢えで戦争を諦め、撤退の方法を話し合った。6.6.1
538年Ostiaイサウリアの艦隊がローマの港に、ヨハネスの軍がオスティアに到着し、敵の妨害なく防柵が築かれた。6.7.1
538年Romaベリサリウスとコンスタンティヌスは、プレシディオスの一件で不和になった。6.8.1
538年Romaゴート人はピンチアナ門近くの水道を通って夜間に潜入を試みた。6.9.2
538年ヨハネスは騎兵二千を率いてピケヌムを略奪し、ウィティギスの叔父ウリタイオスを殺した。6.10.1
538年Clusiumウィティギスは軍を率いてラヴェンナ方面へ向かい、クルシウムなどに守備隊を置いた。6.11.1
538年Ariminumウィティギスは全軍でアリミヌムを包囲し、車輪付きの攻城櫓を城壁に寄せた。6.12.1
538年Romaベリサリウスは夏至のころ、ローマには少数だけを残してウィティギスの陣営へ出撃した。6.13.1
538年Firmumベリサリウスとナルセスの軍はフィルムム付近で合流し、リミニ救援作戦を協議した。6.16.1
538年Ariminumゴート人はリミニの陣を捨てて逃走し、イルディゲルが陣営を接収、ベリサリウスが入城した。6.18.1–6.18.2
538年Urbinumベリサリウスはペラニオスをウルビウェントゥムへ送り、自らはウルビヌムを攻撃した。6.19.1
538年Urbinum冬至のころウルビヌムを占領した。アウクシムムは直ちに包囲するには不利と判断された。6.20.1
539年ホスロエスはベリサリウスのイタリア征服の知らせを聞き、平和を破る口実を探し、アラムンダロスに争いの種を作らせる。2.1.1–2.1.3
539年ゴート王ウィティギスがリグリアの司祭二人をホスロエスに送り、ローマ侵攻を促す。2.2.1–2.2.4
539年アルメニアのパランギオンのシメオネスが殺され、その争いからアルメニアに騒擾が起きる。2.3.1
539年彗星が現れる。初めは背の高い人ほどだったが、次第に大きくなる。2.4.1
539年Carthago十三年目、ゲルマヌスを召還し、ソロモンに再びリビアの全権を委ねた。4.19.1
539年ソロモンはトゥマルで包囲・籠城した敵と対峙した。水の乏しい不利な地形での長期対峙である。4.20.1–4.20.3
539年Mediolanumウライアスがメディオラヌムを包囲した。マルティヌスとウリアリスはポー川での渡河をめぐって足止めされた。6.21.1
539年Mediolanum春、ベリサリウスはメディオラヌム陥落の報を聞いて嘆き、ウリアリスとの面会を禁じた。6.22.2–6.22.4
539年Auximumベリサリウスはアウクシムムとパウスラを先に攻めることにし、キプリアノスとユスティヌスをパウスラへ送った。6.23.1–6.23.2
539年Ticinumフランクのテウデベルトは、ゴートもローマも疲弊したと見てイタリアに介入し、侵攻した。6.25.1
539年Auximumテウデベルトはイタリアから退き、アウクシムムのゴート人は救援の望みを失って交渉に入った。6.26.1
539年Auximumベリサリウスは泉の水源を汚染する計画でアウクシムムを圧迫した。6.27.2
540年十三年目の終わり頃、春にホスロエスが大軍を率いてローマ領へ侵攻し、ユーフラテスを右手に見ながら永久の平和を破る。2.5.1
540年Hierapolis皇帝が東方の指揮権を二つに分け、ユーフラテス西岸をブゼスに任せた直後、ホスロエスはヒエラポリスへ進軍する。2.6.2–2.6.4
540年Beroeaホスロエスは金銭を受け取ってベロイアへ行き、メガスはアンティオキアへ急ぐ。2.7.1
540年Antiochia ad Orontemホスロエスは全軍を率いてアンティオキアへ進軍する。市民の一部は逃げ、レバノン守備隊の指揮官たちが到着する。2.8.1
540年Antiochia ad Orontemホスロエスはローマの使節に「神は善いものに悪いものを混ぜて与える」と演説する。 伝承2.9.1
540年Seleucia Pieriaホスロエスはアンティオキアから百三十スタディオンの港セレウキア・ピエリアに来て、海で一人沐浴し、太陽に供犠する。2.11.1
540年Chalcis ad Belumカルキスに着くと身代金を要求し、包囲すると脅す。2.12.1–2.12.2
540年Edessa皇帝の和平批准書を受け取ったホスロエスは人質を解放するが、エデッサ側の事情で撤退の準備をする。2.13.3–2.13.6
540年Ctesiphonクテシフォンから一日行程の場所に新しい町を建て、「ホスロエスのアンティオキア」と名付けて捕虜を移住させる。2.14.1
540年Ravennaアウクシムム陥落の後、ベリサリウスはラヴェンナを包囲し、ポー川沿岸を押さえて補給を断った。6.28.1–6.28.2
540年Ravenna皇帝の使節がポー川を境に分割する和平案を示した。ウィティギスは受け入れたが、ベリサリウスは拒んだ。6.29.1–6.29.3
540年Ravenna一部の指揮官がベリサリウスを皇帝に讒訴し、皇帝はペルシアとの戦争を理由に急いで彼を召還した。6.30.1–6.30.3
540年Constantinopolisベリサリウスはウィティギスとゴートの貴族、財宝を連れてコンスタンティノープルに到着し、皇帝は喜んで迎えた。7.1.1–7.1.2
541年Colchisラジ人の要請により、ホスロエスはコルキス(ラジカ)へ軍を送る。2.15.1
541年ベリサリウスがメソポタミアで軍を集め、ペルシア方面へ偵察隊を送る。2.16.1
541年Petraホスロエスとペルシア軍がイベリアを通り、ラジカ国境で森を切り開いて道を作る。2.17.3–2.17.4
541年Nisibisベリサリウスがダラからニシビスへ進軍する。2.18.1
541年ベリサリウスは一日行程進み、ペルシアの要塞シサウラノンを攻撃する。守備は騎兵八百。2.19.2–2.19.6
541年Pelusium疫病が広がり人類がほぼ絶えるほどになる。ペルシウムが発生地として述べられる。2.22.6
541年Ticinumゴート軍のエラリクはルギイ族の出身で、大きな勢力を振るった。7.2.1
541年Veronaゴート人はトティラを王に立てた。皇帝の叱責を受けて指揮官たちはラヴェンナに集まり、ヴェローナ攻略の準備をした。7.3.3
542年Sergiopolis春、ホスロエスはユーフラテスを右手に見ながら三度目の侵攻を行う。セルギオポリスの司教カンディドスは恐れて対応しない。2.20.1–2.20.2
542年Europosベリサリウスがエウロポスに陣を張ると、ホスロエスは使者アバンダネスを偵察に送る。2.21.1
542年Constantinopolisビュザンティオンでの疫病は四か月続き、ピークは三か月。一日に五千から一万人以上が死ぬ。2.23.1
542年Veronaトティラは五千を率いてローマ軍に接近し、アルタバゼスが指揮官たちに訓示した。7.4.1
542年Florentiaトティラは配下の将三人を送り、フィレンツェでユスティヌスを包囲させた。7.5.1
542年Beneventumトティラはケセナとペトラの要塞を奪い、カンパニアとサムニウムへ南下してベネヴェントゥムを容易に占領した。7.6.1
542年Syracusaeマクシミヌスはシチリアのシラクサで足止めされ、ナポリのコノンは包囲されて救援を求めた。7.7.1
543年ホスロエスはアダルビガノンへ行き、交渉によって神殿近くからアルメニア方面への侵攻を探る。2.24.2–2.24.3
543年テオドシオポリスから八日行程のドゥビオス地方で、商人の多い場所で事件が起きる。2.25.1
543年Leptis十七年目、キュロスとセルギウス(バッコスの息子)がペンタポリスとトリポリスの総督となった。ムーアの使節を欺いた事件である。4.21.1
543年Neapolisトティラはナポリを占領し、飢えた市民のために配給を調整するなど人道的な措置を取った。7.8.1
544年Edessa翌年ホスロエスはメソポタミアを四度目に侵攻し、エデッサ攻略を目的とする。2.26.3–2.26.4
544年Edessaエデッサ市民がペルシアの土塁の下に坑道を掘って火をつけようとする。2.27.1
544年Carthagoソロモンが死に、甥のセルギウスがリビアの指揮権を引き継いだ。誰もが彼の統治を嫌った。4.22.1
544年ムーア人アンタラスとストツァスがビザキウムに集結すると、ヨハネスは兵を召集した。4.23.1
544年Salonaベリサリウスは二度目のイタリア遠征に出発し、トラキアを経由して援軍を募った。7.10.1–7.10.2
544年Ravennaベリサリウスは艦隊でラヴェンナに到着し、集めたゴートとローマの兵に訓示した。7.11.1
545年将軍ユストゥスとペラニオスが死去し、五年間の休戦が成立する。2.28.11
545年Carthago皇帝は軍事経験のない長老アレオビンドスをリビアの総司令官として派遣した。4.24.1
545年Carthago二か月後、ゴンタリスが僭主として反乱を起こし、ヌミディアとビザキウムの兵をカルタゴへ連れて行った。4.25.1
545年Carthagoゴンタリスは城門の警備を利用してアレオビンドスを殺した。4.26.1–4.26.4
545年ゴンタリスはアレオビンドスの首をアンタラスに送り、約束を破った。4.27.1
545年Ravennaベリサリウスはヨハネスをコンスタンティノープルへ送り、兵力と資金の増援を求めた。7.12.1
545年Romaトティラはローマに迫って包囲し、農民は傷つけず税だけを徴収すると宣言した。7.13.1
546年Carthago宴席でアルタバネスがゴンタリスを殺した。僭主となって三十六日目(十九年目)のことである。4.28.6
546年Portusベリサリウスはヴァレンティヌスとフォカスをポルトゥスへ送り、守りを固めさせた。7.15.1
546年Placentiaゴートに包囲されたプラケンティア(ピアチェンツァ)の住民は、飢えに耐えかねて禁忌の食べ物まで口にした。7.16.2–7.16.3
546年Romaペラギウスはトティラに休戦を求めたが無駄に終わり、ローマの飢饉はさらに悪化した。7.17.1
546年Epidamnヨハネスとイサクの軍がエピダムノスでベリサリウスと合流した。7.18.1
546年Portusベリサリウスは包囲されたローマへ食料を運び入れるため、二隻の船を結んで櫓船にするなどの策を考えた。7.19.3–7.19.7
546年Romaベッサスは穀物を転売して防備を怠り、イサウリアの守備兵がトティラに城門を開いて、ローマは陥落した(十二月十七日)。7.20.1–7.20.4
547年Lucaniaトゥリアヌスはルカニアの農民を集めて狭い道を守り、略奪を防いだ。7.22.1
547年Romaベリサリウスは少数の守備だけを残してローマに入り、崩れた城壁を急ぎ修復した。大胆な再占領である。7.24.2–7.24.7
547年Romaヨハネスはアケロンティス要塞を包囲していたが、トティラがローマの城壁を攻撃中と聞き、勇敢な救援を試みた。7.26.2
548年Petraホスロエスはラジカ遠征のため、ペトラ城に木材と精鋭三百を送る。2.29.1–2.29.3
548年Perusiaトティラが送った軍がペルージアの城を包囲し、食糧が不足した。7.25.1
548年Constantinopolis皇帝はパクリオスとセルギウスを先にイタリアへ送り、新たな遠征軍の準備を進めた。7.27.2
548年Krotonベリサリウスはタレントゥム方面、三日月形の湾にあるクロトンの防衛に力を注いだ。7.28.2–7.28.4
548年Epidamnスラヴ軍がイステル川を渡り、イリュリア全域をエピダムノスまで略奪した。7.29.1
548年Hydruntumアントニナはコンスタンティノープルへ向かい、ヴァレリアヌスはヒドルントゥムでベリサリウスと合流した。7.30.2
548年Constantinopolisアルタバネスを中心に、ユスティニアヌス暗殺の陰謀が企てられた。7.31.1–7.31.2
548年Britanniaバルニ族とブリタニア島の兵のあいだで戦争が起きた。8.20.1
549年Phasisメルメロエスがイベリアの境を越え、パシス川を右手に見ながら進軍する。2.30.1
549年ゲピディ族とランゴバルド族は隣人同士の不和の末、日を決めて決戦に臨むことにした。7.34.1
549年Constantinopolisベリサリウスは五年ぶりにイタリアからコンスタンティノープルへ戻った。陸には上陸できず、海岸の要塞に立ち寄っただけだった。7.35.1
550年Romaトティラがローマを包囲した。ディオゲネスが率いる精鋭三千が守ったが、イサウリア人が門を開けた。7.36.1
550年スラヴ人三千がイステル川を渡り、ヘブロス川を越えた後、二手に分かれた。7.38.1
550年Rhegionゴート人はレギウムの要塞を攻めたが守備軍に撃退された。トティラは一部を残して移動した。7.39.1–7.39.2
550年Serdicaゲルマヌスがサルディカで軍を集めている間に、スラヴの大軍がイステル川を渡ってナイッソスまで進出した。7.40.1
551年Colchisコリアネスのペルシア軍がヒッピス川岸に陣取ると、グバゼスとダギステウスがローマ・ラジの連合軍で迎え撃った。8.8.1
551年ラジ人はダギステウスを裏切り、親ペルシア派だと皇帝に讒訴した。8.9.1
551年アプサギアの要塞チビレでは、総督テルデテスがグバゼスに不満を抱き、ペルシアと内通した。8.10.1–8.10.2
551年Petraペトラ城をめぐり、ベッサス率いるローマ軍とペルシアの守備隊が攻防を演じ、ローマ軍が城を陥落させた。8.11.11
551年Petraローマ軍はペトラの城砦(アクロポリス)のペルシア軍を包囲し、降伏を説得したが拒まれた。8.12.1
551年Phasisメルメロエスは冬の後、ペトラ救援を急いだが、事態を知ると進路を変え、パシス以外の方角へ向かった。8.13.2–8.13.7
551年高い岩山の都市アルカイオポリスがメルメロエスの攻撃を受けた。8.14.1–8.14.3
551年Constantinopolisコンスタンティノープルでの長い交渉の末、ホスロウの使節イスディグスナスはユスティニアヌスと五年間の休戦に合意した。8.15.1
551年キュトリグル人に捕らえられていたローマ人数万人が混乱に乗じて脱出した。8.19.2
551年Salona皇帝はベリサリウスを厚遇したが、イタリアへはナルセスを派遣した。8.21.6–8.21.8
551年Anconトティラは船四十七隻を送ってアンコーナを包囲した。指揮官はスキプアル、ギバル、グンドゥルフである。8.23.1
551年シチリアではリベリオスに代わってアルタバネスが全軍を率い、残るゴートの要塞を包囲した。8.24.1
552年Colchisグバゼスはホスロウの暗殺計画を知って親ローマに転じたが、多くのラジ人はローマ兵の横暴に憤った。8.16.2
552年Constantinopolisインドから来た修道士たちは、皇帝に絹を自ら作ると約束した。ペルシアへの依存を断つためである。8.17.1
552年Salonaヨハネスはサローナでナルセスを待ち、ナルセスはフン族のため遅れた。その間にトティラはローマを立て直した。8.22.1
552年Kroton皇帝はテルモピュライの守備隊をイタリアへ送り、クロトンの包囲を解かせた。8.26.1–8.26.4
552年Ravennaナルセス軍はラヴェンナでヴァレリアヌスとユスティヌスの軍と合流し、九日間滞在した。リミニのウスドリラスが書簡を送った。8.28.1
552年トティラはテイアスを待っていたが、二千の騎兵を待たずにナルセスとの決戦へ進軍した(タギナエ)。8.29.1–8.29.6
552年決戦に先立ち、ナルセスは兵を集めて訓示し、タギナエの戦いに備えた。8.30.1

最初の200件のみ表示(全204件)。全部は地図で見られます。 地図で全部見る

原文のライセンスと出典

원문: Perseus Digital Library, Tufts University, CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0/) — 대목 나누기·정리: 이 프로젝트

CC-BY-SA 4.0

https://github.com/PerseusDL (Perseus Digital Library, Tufts University)

同じ時代の別の史料

地図で見る — プロコピオス『戦史』を開く