リヴィングストン『南アフリカ伝道旅行記』

リヴィングストン『南アフリカ伝道旅行記』(記録 の史料)。扱う年は1842年 〜 1856年、出来事224件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分記録
視点外側の視点
扱う年1842年 〜 1856年
出来事の数出来事224件・地図に置いた43件
著者David Livingstone
原題Missionary Travels and Researches in South Africa

地域の内訳: サハラ以南アフリカ 222 · 西ヨーロッパ 2

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1842年Letlocheリヴィングストンはショクアネの先で北へ向かう途中、バカア丘陵の北(レトローチェ付近)を回った。ゾウガ川下流から十日の距離で、1842年にンガミ湖を見つけられたはずの場所Ch.1 (북행, 'in 1842')
1842年 〜 1843年Lepeloleバマングワト族がレペロレ(現在のリトゥバルバ)からバクウェナ族を追い出した。リヴィングストンの定住計画は頓挫し、新しい場所を探さねばならなくなったCh.1 (레펠롤레 정착 무산)
1843年Mabotsaリヴィングストンはクルマン寄りのマボツァ(バカトラ族の村)の谷に移り、伝道所を設けたCh.1 (마보촌 기지)
1843年 〜 1844年Mabotsaマボツァ近くの丘でライオンの群れを追い立てた。リヴィングストンはライオンに噛まれて肩と腕を負傷し、同行のメバルウェは太ももを噛まれ、一人が死んだCh.1 (사자 사건)
1843年 〜 1849年Kolobengチョヌアネに定住した後コロベングの川辺に移ったが、干ばつが4年続いた。川は干上がり魚が大量死し、クルマンから穀物を買い入れたCh.1 (가뭄 4년)
1845年Loanda1845年にイギリスの巡洋艦が増えて活動が強まると、奴隷貿易に代わり、人夫(カリエドール)が商品を海岸まで運ぶ強制運搬の制度が生まれたch.19 말(Golungo Alto 노동 제도 설명)
1849年Kolobeng1849年6月1日、オズウェル、マリーとともにコロベングを発ち、砂漠の向こうの北の湖を探しに出発したpart_02.txt:301-333
1849年Boatlanamaボアトラナマに立ち寄った。井戸で牛に水を飲ませた。獲物が多かったpart_02.txt:356-360
1849年Lopepeロペペ。以前の大きな池が干上がり、井戸の底を掘って牛に水を与えたpart_02.txt:362-365
1849年Serotliセロトリの泉。水が足りず砂に穴を掘って水を得、案内人ラモトビが道を定めたpart_02.txt:369-412
1849年Serotliセチョミが牛17頭を返し、砂漠行きを思いとどまらせようとした。母の言葉も伝えたpart_02.txt:449-469
1849年Mathuluani三日目の朝、砂漠の水たまりマトゥルアニで雨水を得た。家畜が水に入ったpart_02.txt:588-619
1849年Nchokotsaンチョコツァの塩原。オズウェルがブッシュマンの女を捕まえ、水のある場所へ案内させたpart_02.txt:644-660
1849年Zouga river1849年7月4日、ザンベジ川上流の支流ゾウガ川に着いた。湖の水がこの川から来ると聞いて安心したpart_02.txt:692-705
1849年Ngabisaneゾウガ川を96マイル遡り、ンガビサネに牛と馬車を置いて湖へ向かったpart_02.txt:727-732
1849年Lake Ngami1849年8月1日、ンガミ湖を発見した。ヨーロッパ人として初めて目にしたpart_02.txt:789-795
1849年Zouga river首長レチュラテベは案内を拒み、川を渡る道も塞いだ。筏作りは失敗し、二人は南のケープへ戻ることにしたpart_02.txt:910-931
1849年Kolobeng1849年6月1日、オズウェル、マリーとともにコロベングの伝道地を発ち、湖を探しに出発したpart_12.txt:345-346
1849年Lake Ngami二か月でカラハリ砂漠を横断し、8月1日にンガミ湖に着いたpart_12.txt:378-380
1850年Kolobeng1850年4月にコロベングを発った。家族と首長セチェレとともにセチョミの国ボテティを迂回し、ゾウガ川の北岸へ向かったpart_02.txt:1091-1102
1850年Tamunak'leタムナクレ川の河口でツェツェバエが多く馬車が進めず、ゾウガ川を再び渡ったpart_02.txt:1104-1115
1850年Lake Ngami湖の近くでイギリス人画家アルフレッド・ライダーが熱病で死んだ。他のイギリス人たちは回復したpart_02.txt:1121-1131
1850年Lake Ngamiレチュラテベに銃を与えて案内を得ようとしたが、子どもたちと使用人が熱病にかかり、その年はセビトゥアネ訪問を断念したpart_02.txt:1133-1152
1850年Nchokotsa三度目の出発。セチョミが付けた案内人の銃が壊れたので直してやった後、西ではなく北へ進み、ンチョコツァまで行ったpart_02.txt:1191-1201
1850年1850年、マンバリの商人がマコロロに来て、銃8丁を少年8人と交換した。奴隷取引の始まりで、リヴィングストンは阻止しようとしたが間に合わなかったpart_02.txt:1740-1761
1850年Cassange valley (Bangala)1850年、ポルトガルの遠征隊がバンガラ族を懲罰した。それ以前にあった村の多くが消えたという背景の記述ch.19 말(카생지 계곡 묘사)
1850年Zouga River (margin)1850年、ゾウガ川のほとりでオズウェルが象を追っていて、馬が藪に引っかかり落馬した。象はその上を通り過ぎたが、体は無傷だったpart_10.txt:745-748
1850年Lake Ngami二度目の試み。妻、子ども三人、セチェレとともに湖に着いたが、レチュラテベに銃を与えて案内人を得た後も、子どもと使用人が病気になり中止したpart_12.txt:404-406
1850年 〜 1851年三度目の遠征は成功した。セビトゥアネはその前に死に、その娘マモチサネの地でザンベジ川を発見したpart_12.txt:480-483
1851年 〜 1852年キャスカートがボーア人の独立を宣言して結んだ条約。イギリス人の通行条項と奴隷制禁止条項が入ったが、宣教師の問題は抜け落ちたCh.2 (조약)
1851年Mahabe Riverブッシュマンの案内人ショボが道に迷って姿を消し、水が尽きた。五日目の午後にようやく水を見つけ、子どもたちは助かったpart_02.txt:1257-1287
1851年Banajoa villageバナジョア族の村に着いた。村の長マザネに代わってその弟モロア・マザネが案内を務め、セシェケ方面のチョベ川・ソタ川まで道を示したpart_02.txt:1301-1319
1851年Chobeツェツェバエ地帯を通過して牛43頭を失った。牛を北岸へ移して救い、人と子どもたちは刺されても害を受けなかったpart_02.txt:1317-1334
1851年Seshekeマコロロの首長セビトゥアネに会った。彼は牛がツェツェバエに刺されたと言い、牛を与えると約束した。リヴィングストンは彼の生涯の話を聞いたpart_02.txt:1424-1451
1851年マコロロの首長セビトゥアネが肺炎で死んだ。死の直前にリヴィングストンが訪ね、助言を一言残したpart_02.txt:1653-1674
1851年Zambezi1851年6月末、ザンベジ川を発見した。中央アフリカの真ん中を流れる大河が初めて確認されたpart_02.txt:1701-1715
1852年Kolobengボーア人400人がプレトリウスの命令でバクウェナ族を襲撃した。多数が殺され、学校の子ども200人が奴隷として連行され、リヴィングストンの家は略奪され伝道所は破壊されたCh.2 (1852 습격)
1852年Cape Town1852年4月にケープタウンに着いた。家族をイギリス行きの船に乗せ、一人で戻って内陸探検の準備をしたpart_02.txt:1779-1791
1852年Cape Town1852年6月初め、ケープタウンから最後で最長の旅に出発した。アンゴラのルアンダ方面の西海岸へ向かい、東の目的地はクリマネ(ケリマネ)だったpart_02.txt:1839-1852
1852年Kolobengボーア人の遠征隊が夜明けにセチェレの町を攻撃して火を放ち、60人を殺し、女・子ども・男を連行した。リヴィングストンの家も略奪されたCh.6 — 세켈레 편지
1852年Kurumanボーア人の脅威で使用人を雇えず、クルマンで数か月足止めされた。使用人三人を得て、11月20日に北へ出発したCh.6 — 출발
1852年Motitoモティトでセチェレに会った。セチェレは「イギリス女王のもとへ行く」と言って旅立ち、リヴィングストンは同行を断ったCh.6 — 세켈레 여왕 방문길
1852年 〜 1853年Bloemfonteinセチェレはブルームフォンテーンに着き、イギリス軍(バストー戦から戻ったばかり)に会った。将校たちは食事を出して旅費を集めたが、司令官は彼を相手にしなかったCh.6 — 세켈레 영국행
1852年Litubaruba1852年12月31日、セチェレの町リトゥバルバに着いた。ボーア人に略奪された住民は飢えていたCh.6 — 리투바루바 도착
1852年Cape Town1852年4月にケープタウンに着き、家族を船に乗せてイギリスへ送った(二年後の再会を約束)part_12.txt:499-502
1852年Cape Town1852年6月にケープタウンを発ち、五年にわたる旅を始めたpart_12.txt:504-505
1852年Kolobengボーア人がセチェレの町を襲撃した。現地人60人が死に、子どもと女性が捕虜となり、リヴィングストンの家が略奪されたpart_12.txt:517-518
1853年Litubarubaボーア人の使者四人が和平を求めた。条件は「セチェレの子どもたちを返せ」だった。武装したバクウェナ族の部隊が峠を塞いでいたCh.6 — 보어인 강화 요청
1853年Boatlanama1853年1月21日、ボアトラナマの井戸に着いたが、初めて水が涸れていたCh.7 — 1853년 1월 출발
1853年Letlocheバマングワトの先約20マイルのレトローチェに着き、水を十分に得た。ここはゴードン・カミングの最北の拠点だったCh.7 — 1월 28일
1853年3月10日、一行のうち四人が熱病にかかり行軍が止まった。数日後にはほぼ全員が倒れ、リヴィングストンとバクウェナ族の一人だけが残ったCh.8 — 3월 10일
1853年Sanshurehチョベ川の支流サンシュレーが水に阻まれ渡れなかった。バオバブの木の下で野営し、渡し場を探して川岸を探索したpart_04 줄 91–93
1853年Mahontaチョベ川の本流を浮き橋で渡った後、日暮れにマホンタ島のマコロロ族の村(モレミ)に着いたpart_04 줄 201–204
1853年Linyanti1853年5月23日、リニャンティ(マコロロの首都)に着いた。北の氾濫原を迂回して西へ回り込んだpart_04 줄 220–221
1853年マコロロがリヴィングストンの帽子を持って戻ると、マンバリの奴隷商人たちは夜に逃げた。彼らはムペペの庇護のもと北に柵を築いて奴隷商いをしていたpart_04 줄 353–361
1853年セシェケへの道でセケレトゥの一行がムペペと出会った。ムペペはセケレトゥを斬ろうとし、この夜リヴィングストンがセケレトゥの体を覆って暗殺を防いだpart_04 줄 379–400
1853年同じ夜、セケレトゥの命でムペペが処刑された。1マイル引きずり出され、槍で刺し殺された。ムペペの部下はバロツェへ逃げたpart_04 줄 406–418
1853年レチュラテベの挑発(セビトゥアネの死を喜ぶ歌など)に対し、マコロロ約500人がリニャンティで武装した模擬戦をして威嚇したpart_04 줄 997–1003
1853年Katongaセシェケの上手、カトンガ(バシュビア人セコシの村)でカヌーによりレアンビエ川を渡ったpart_04 줄 1357–1359
1853年Seshekeセシェケに数日滞在し、村々からカヌーを集めた。この川をバロツェ族がレアンビエと呼ぶことを知ったpart_04 줄 1371–1373
1853年Nalieleカヌー33隻、漕ぎ手約160人でレアンビエ川を遡り、バロツェの地(目的地ナリエレ)へ向かったpart_04 줄 1471–1481
1853年ムペペの父の村で、セケレトゥを殺してムペペを立てようと勧めた二人が引き出され、川に投げ込まれて殺されたpart_04 줄 1626–1635
1853年ムペペが与えた武器で立てこもるマンバリの柵を兵糧攻めにする協議があった。著者が奴隷たちのために仲裁し、マンバリは立ち去ることを許されたpart_04 줄 1637–1652
1853年レアンビエ川を南緯14°11'3"まで遡った。ここで川の名はカボンポに変わる。その後引き返したpart_04 줄 1869–1871
1853年Ma-Sekeletu (town)マリレ川を下ってセケレトゥの母の村(ロイェラ島の対岸)に着いた。セケレトゥがこの地方を初めて訪れ、村は祝宴を開いたpart_04 줄 1971–1987
1853年Gonye一日でリトフェからゴニェまで下った(本文の表記で緯度44マイル)。その後セシェケ、リニャンティへと続くpart_04 줄 2024–2028
1853年Linyanti9月の記録、リニャンティにて。西への道(ベンゲラ・ルアンダ方面)を探す調査は失敗し、11月の雨季の後にチョベへ出発すると決めたpart_04 줄 2067–2079
1853年Linyanti1853年11月11日、リニャンティを発った。セケレトゥの見送りを受け、首長のカヌーをチョベ川に浮かべたpart_04 줄 2214–2223
1853年Mpariaチョベ川を下り、レアンビエ川と合流するムパリア島に着いた。合流点で火成岩(トラップ岩)を観察したpart_04 줄 2300
1853年Sesheke1853年11月19日、再びセシェケに着いた。モリアンツァネが治めるマカラカ族の村(レアンビエ川北岸)part_04 줄 2322–2326
1853年Gonye Falls1853年11月30日、ゴニェの滝で住民たちがカヌーを肩に担いで滝を迂回した。暑さで行軍が遅れたpart_05.txt 줄 300
1853年Balonda 마을들 (Leeba 북쪽, 위치 본문 미상)マコロロのレリモの一団が北のバロンダ族の村々を襲い、マシコの臣民を捕虜にして村をいくつも破壊した。セケレトゥの平和方針に反していたpart_05.txt 줄 327
1853年Naliele12月9日、ナリエレの首長たちの前でレリモの略奪を公然と叱責した。ンポロロが罪を引き受け、捕虜五人を解放したpart_05.txt 줄 349
1853年Libonta12月17日、リボンタ(マコロロ最後の村)でさらに捕虜を受け取り、十九人になった。以後、無人の国境地帯に入ったpart_05.txt 줄 522
1853年Leeba–Leeambye 합류점12月27日、リバ川とリンベ川(ザンベジ川)の合流点に着いた。マシコに送り返す捕虜七人(子ども二人、少女、青年、女二人)を用意したpart_05.txt 줄 975
1853年Leeba–Leeambye 합류점モサントゥと同行者を捕虜とともにマシコのもとへ送った。サントゥルの息子マシコを諫め、略奪をやめるよう求める伝言を託したpart_05.txt 줄 992
1853年 〜 1854年Makondo 개울 (Leeba 동쪽에서 유입)四日間の雨と交渉の末、バロンダ族の女首長マネンコの招きを断り、マコンド川(小川)沿いに上流へ向かったpart_05.txt 줄 1256
1853年 〜 1854年Cassange2月20日、カサンジェを発った。西風が強く吹き、翌日には一行の多くが熱病で足を止めたpart_08 「FEB. 20TH」 항
1853年 〜 1854年Quango Riverクワンゴ川の渡し賃を要求された。布30ヤードを求められたが、6ヤードしか渡さなかった。カヌー一回に二人で、約2時間半で全員が渡ったpart_08 퀑고 도하 대목
1853年 〜 1854年Chiboque country forest (unnamed village)村人たちが荷物に襲いかかり銃を撃った。リヴィングストンが六連発リボルバーを手に首長と対峙すると相手は退いた。流血はなかったpart_08 4월 19일 열병 뒤 숲 습격 대목
1853年 〜 1854年Moena Kikanjeキオコ族最後の首長モエネ・キカンジェの村に着いた。村はキロ川の東岸にあり、マタンボ(マティアンボ)の地の直前だったpart_08 Moena Kikanje 대목
1853年 〜 1854年Chikapa Riverチカパ川に着いた。川幅は50〜60ヤードで、カサイ川に向かって東北東に流れるpart_08 Chikapa 대목
1853年 〜 1854年Loajima Riverロアジマ川に着いた。木と蔓で橋を架けて渡った。川幅は25ヤードpart_08 Loajima 대목
1853年 〜 1854年Moamba Riverモアンバ川に着いた。川幅は30ヤードで、ワニとカバがいるためカヌーで渡った。地層は鉄の覆いが付いた砂岩part_08 Moamba 대목
1853年 〜 1854年Cabango (village on the Chihombo)マタンボ配下のムアンザンザ村カバンゴに着いた。葬儀の四日間、足を止めた。カサイ川北方のルバ・マイ地方の情報を集めたpart_08 Cabango 대목
1853年 〜 1854年Bango village首長バンゴが大きな贈り物をくれた。バンゴ族は牛を人と同じように見なすため、牛肉を食べない。この集団だけだと記録されているpart_08 Bango 대목 (방고 머묾)
1853年 〜 1854年Loembwe Riverバンゴを発ってルンブウェ川に着いた。川は北北東に流れ、カバが多い。魚を捕る柵が設けられたpart_08 「MAY 30TH」 항
1853年 〜 1854年Kawawa's villageカワワの村に着いた。カワワは魔女の疑いの裁判で奴隷狩りの様子を見せた。続いて牛一頭・銃・火薬を要求し、拒まれると武装して対峙したpart_08 Kawawa 대목
1853年 〜 1854年Kasai River ford (southern bank)カワワの人々が渡し舟を隠して渡河を妨げた。夜、隠してあったカヌーをこっそり借りてカサイ川の南岸へ渡ったpart_08 Kasai 여울 대목
1853年 〜 1854年Lake Diloloディロロ湖周辺。北のロテンブワ川が逆流するという報告を聞き、カサイ川とザンベジ川の分水嶺と判断した。湖の位置は本文に記されているpart_08 Dilolo 대목
1853年 〜 1854年Katema's townカテマの村に着いた。カテマはマタンボ(マティアンボ)のために皮を狩っていた。赤い布のマントなどを贈り、カテマは道の安全を請け合うと言ったpart_08 「JUNE 14TH」 항
1853年 〜 1854年Shinte's townシンテの村に着いて滞在した。シンテは弟リンボとマシコの争いに介入すべきか尋ねた。リヴィングストンが仲裁して争いをやめさせたpart_08 Shinte 대목
1853年 〜 1854年Leeba Riverニャモアナからカヌー五隻を借り、レバ川をカヌーで下った。野生動物の群れを目にしたが、水牛狩りは失敗したpart_08 Leeba 하강 대목
1853年 〜 1854年Manenko's village (about 15 miles from the river)マネンコの村の近くでサンバンザが政治情勢を伝えた。翌日、ピツァネとサンバンザは血を混ぜる友情の儀式(カセンディ)を行ったpart_08 Manenko·Kasendi 대목
1853年 〜 1854年Libontaリボンタの村に着いた。二年ぶりに戻った一行を死んだと思っていた人々が盛大に歓迎した。二日後に感謝の礼拝が行われ、牛二頭が提供されたpart_08 「JULY 27TH」 항
1853年 〜 1854年Nalieleナリエレに着いた。ンポロロの娘と孫が殺された事件。犯人とその妻が川に投げ込まれて処刑されたpart_08 Naliele 8월 1일 대목
1853年 〜 1854年Masiko's stockade (location of the engagement not given)リンボがマシコの女たちを連れ去り、柵の前に現れた。マシコ側の若者が盾で防ぎ、リンボ側は十人が負傷、十人が死んだ。リンボは罰として奴隷三人を差し出したpart_08 8월 5일 항 · 마시코 사절 대목
1853年 〜 1854年Naliele shore (Zambezi)ナリエレの岸沿いに進む途中、カバがカヌーに体当たりして片側が水面から持ち上がった。全員が岸へ飛び降りて無事だったpart_08 8월 13일 항
1853年 〜 1854年Gonyeゴニェに着いた。首長モクワラが象牙を贈り、リヴィングストンはそれをピツァネに渡した。ゴニェの岩盤は赤灰色の砂岩で、鉄分により釉薬のような表面をしているpart_08 Gonye 대목
1853年 〜 1854年リヴィングストンがルアンダに行っている間に、マコロロは二度の略奪遠征に出て牛の群れを大量に奪った。セケレトゥの側近もこれを悪事と見ていたpart_09 L159–166
1853年1853年11月11日、セケレトゥの国からルアンダに向けて出発し、現地人27人が同行したpart_12.txt:572-572
1854年Lonkonye 개울의 Sheakondo 마을1月1日、シェアコンドの村に着いた。シェアコンドはバロツェ語を上手に話し、キャッサバを贈ったpart_05.txt 줄 1297
1854年Nyamoana 마을 (Balonda)1月6日、女首長ニャモアナの村に着いた。円形の広場で開かれた面談で平和の言葉を伝えたpart_05.txt 줄 1350
1854年Nyamoana 마을 (Balonda)マシコの使節団が到着した。象牙、蜂蜜、青い布が贈られた。マシコは自分の民は売らず隣の小部族の捕虜だけを売ったと主張し、和親に同意したpart_05.txt 줄 1484
1854年Shinte(Kabompo) 도읍 (Balonda)1月16日、谷間のシンテ(カボンポ)の町に着いた。ポルトガル系の混血の奴隷商人二人が野営していたpart_05.txt 줄 1945
1854年Shinte(Kabompo) 도읍 (Balonda)1月17日、シンテとの正式な謁見。九人の弁士が語り、住民約千人と兵士三百人が集まった。女性たちも公の場に出たpart_05.txt 줄 1994
1854年Shinte(Kabompo) 도읍 (Balonda)1月18日、シンテに牛一頭を贈り、牛の取引を勧めたpart_05.txt 줄 2119
1854年Shinte(Kabompo) 도읍 (Balonda)夜、シンテが十歳ほどの少女を贈り物として差し出そうとした。リヴィングストンは親元に置くよう言って断ったpart_05.txt 줄 2212
1854年Shinte(Kabompo) 도읍 (Balonda)1月24日、シンテがテントに入って品物を眺め、円錐貝の首飾りを掛けてくれた。友情の印だというpart_05.txt 줄 2313
1854年샤인테 도읍 북쪽 Balonda 마을 (위치 본문 미상)1月26日、シンテの町を発った。部下八人が荷を運び、案内人インテメセが同行した。夜はバロンダ族の村で過ごしたpart_05.txt 줄 2361
1854年Lonaje 개울가 Kapende 마을カペンデの村(ロナジェ川のほとり)で毒のあるキャッサバを受け取りすぎ、置いて出発したpart_05.txt 줄 2391
1854年Leeba River crossing1月31日、案内人インティメセが出発を遅らせた末にレバ川を渡った。川幅は約100ヤードで、渡るのに約4時間かかったpart06 줄≈91
1854年Soana Molopo's villageカテマの異母兄ソアナ・モロポは、リヴィングストン一行を恐れ、マケロロが道を示したせいだと言った。それでも食糧を贈ったpart06 줄≈351
1854年Katema's townロテンブワ川を渡って8マイル進み、カテマの散在する村々に着いた。カテマが多くの食糧を贈ったpart06 줄≈564
1854年Katema's townカテマは自分をマタンボ(マティアンボ)と並ぶ大君主だと自慢し、リヴィングストン一行に北の道の案内人を付けた(北西の道は水没していた)part06 줄≈596
1854年Lake Dilolo2月20日、カテマの地を出てディロロ湖の狭い端を回った。広い側へは熱病のため行けず、天体観測も省いたpart06 줄≈738
1854年Kabinje village (Kasai-Zambezi watershed)2月24日、氾濫した平原を抜け、南の川と北の川(カサイ川とロケ川)の分水嶺を越えた。カテンデ首長の地で、カビンジェ村に着いたpart06 줄≈924
1854年Kasai (Loke) ford2月27日、カンゲンケが案内人とカヌー二隻を出し、カサイ川(ロケ川)を渡った。川幅は約100ヤードpart06 줄≈1014
1854年Katende's villageカテンデは土地の通行料として、人・象牙・ビーズ・銅の輪・貝のどれかを要求した。リヴィングストンはシャツ一枚を送り、案内人と食糧を得たpart06 줄≈1087
1854年Njambi's village (Chiboque)3月4日、チボケ族の地に入り、ニャンビ(ニジャンビ)の村に着いた。3月5日の日曜は休む予定で、疲れた牛を屠って首長に肉を贈ったpart06 줄≈1298
1854年Njambi's village (Chiboque)ニジャンビが人々を集めて野営地を包囲し、人・牛・銃・象牙を要求した。リヴィングストンは銃を持って対峙し、牛一頭とシャツ、ビーズなどを与えて流血なしに通過したpart06 줄≈1318
1854年3月6日、案内人たちが対価を要求し続けたため、進路を北北東に変え、ポルトガル領カサンジェへ出る道を探すことにしたpart06 줄≈1425
1854年Ionga Panza's village (Loajima second ford)3月17日、ロアジマ川の第二の浅瀬で敵対する一団が通行を阻んだ。老人のニョンガ・パンザが前に出て対峙し、リヴィングストンは発砲する前に話し合いで解決しようとしたpart06 줄≈1670
1854年Ionga Panza's village3月20日、ニョンガ・パンザが通行料を要求した。セケレトゥの象牙一本と牛一頭を渡してようやく収まり、一行は落胆して引き返そうという声まで出たpart06 줄≈1779
1854年Chikapa River3月24日、ニョンガ・パンザの息子たちをポルトガル領への案内人にし、貝の飾りを前払いした。チカパ川を樹皮の舟で渡ったが、船頭は三度も賃金を取ったpart06 줄≈1843
1854年Quango valley (escarpment)3月30日、高原の険しい断崖を下ってクワンゴ渓谷を見下ろした。幅は約100マイルで、向かいの山地のように見えたpart06 줄≈1996
1854年Sansawe's village (Bashinje)4月2日、バシンジェ族の首長サンサウェが人・牛・象牙を要求した。断ると明日殺して奪うと脅したが、リヴィングストンは「白人をどう見分けるのか」と切り返したpart06 줄≈2069
1854年River Quango (ford)4月4日、クワンゴ川沿いの首長が人・牛・銃を要求して引き返すよう言った。リヴィングストンは最後の毛布を渡すまいと粘ったpart06 줄≈2174
1854年River Quango (ford)ポルトガル系混血民兵の軍曹シプリアーノ・デ・アブレウが船頭との賃金交渉を助けた。クワンゴ川の西岸に渡ってバンガラ族の地、ポルトガル臣民の地域に入ったpart06 줄≈2205
1854年Cassange4月10日以降、丈の長い草むらを三日間苦労して歩き、カサンジェに着いた。ポルトガル領西アフリカの最奥の拠点で、司令官シルバ・レゴの家で食事し、ネヴェス大尉の家に泊まったpart06 줄≈2300
1854年Cassangeカサンジェでポルトガル人住民と復活祭を祝った。史料には年がなく日付のみだが、前後の記事から1854年にまとめたch.19 말(조각 앞부분)
1854年Tala Mungongoカサンジェを発ち、タラ・ムンゴンゴの山麓まで行軍した。4月22日にルイ川、24日にルアレ川を渡り、山麓で野営したch.19 말(카생지 계곡)
1854年Ngio4月30日の日曜日、クイゼ川の渡し場近くのンギオに留まった。熱病で行軍が遅れたch.19 말(Ngio)
1854年Ambacaアンバカの司令官アルセーニオがパンと肉を与え、民兵の案内人二人を付けた。カサンジェの下士官はここで引き返したch.19 말(Ambaca)
1854年Zangu正午ごろ、ゼンガの商人メロの家で休んだ。彼は鶏を料理し、ワインを出したch.19 말(Zangu)
1854年Cabinda5月14日の日曜日、カビンダの副司令所(下位の指揮所)に留まった。ゴルンゴ・アルトへ向かう山道ch.19 말(Cabinda)
1854年Golungo Altoゴルンゴ・アルトの司令官カントのもとに滞在して体力を回復した。この地方の労働制度(カリエドール、1845年以降の強制運搬人夫)の説明ch.19 말(Golungo Alto)
1854年Loanda5月31日、ルアンダの町の上の斜面を下り、ガブリエルの家に泊まった。熱病と赤痢で体がひどく弱っていたch.20 앞부분(Loanda 도착)
1854年Loanda司教(アンゴラ総督代理)がマコロロの人々を迎え、ルアンダの訪問を自由に許可した。マコロロはとても喜んだch.20 중반(주교 면담)
1854年Icolo i Bengo9月20日、船でルアンダを発ってベンゴ川の河口に着き、川を遡ってイコロ・エ・ベンゴに入った。司教が人夫20人と贈り物を用意したch.20 말(출발)
1854年Kalungwembo9月28日、カルングウェンボで宿営した。どの市場でも女たちが綿を紡いでいた。綿1ポンドが1ペニーch.21 앞(Kalungwembo)
1854年Massanganoマサンガノに着いた。ルカラ川をカヌーで下り、要塞、古いポルトガルの城、キサマ族の地域を見た。火事が頻繁に起きたch.21 중반(Massangano)
1854年Golungo Altoマサンガノの後ろからゴルンゴ・アルトへ戻った。部下の多くが熱病で寝込んだch.21 중반(귀환)
1854年Ambaca12月14日、カントの家を発ってアンバカへ向かった。部下が回復してから出発したch.21 중반(12월 14일)
1854年Pungo Andongoルカラ川を渡って南へ回り、プンゴ・アンドンゴの岩の要塞に行った。ピレス大佐の家に滞在して原稿を書き直したch.21 후반(Pungo Andongo)
1854年Pungo Andongo郵便船フォアランナー号が沈み、地図・日誌・公文書がすべて海に沈んだという知らせを聞いた。書き直しが始まったch.21 후반(원고 소실)
1854年Cassangeポルトガル国境の入植地カサンジェでセケレトゥの象牙を売ったpart_12.txt:624-624
1854年Luanda1854年5月31日、ポルトガルの港ルアンダに着いた。リヴィングストンは熱病で倒れたpart_12.txt:630-631
1854年Luanda1854年9月にルアンダを発って帰路についた。ポルトガルの贈り物を積んでセケレトゥのもとへ向かったpart_12.txt:668-670
1854年Ambaca12月6日にアンバカ(地区役所の所在地)を通過した。原文の表に記載part_12.txt:3-3
1855年Candumba1月1日、プンゴ・アンドンゴを発ち、カンドゥンバの酪農施設に泊まったch.22 앞(1855-01-01)
1855年Malangeルカラ川の支流を渡って北東へ進み、マランジェ村で元の道と再び合流したch.22 앞(Malange)
1855年Sanzaサンザ村を通りながら種用の小麦を手に入れようとしたが、アンゴラにはなかったch.22 앞(Sanza)
1855年Tala Mungongo1月15日、タラ・ムンゴンゴの高地を1時間かけて下った。1600歩、落差は約1200〜1500フィート。カサンジェ渓谷へ入ったch.22 초반(1855-01-15)
1855年Cassangeカサンジェ村に着いた。ネヴェス大尉の家で歓迎された。大尉は手にひどい炎症と膿瘍があったch.22 초반(Cassange)
1855年island in the Zambesi (불명)リヴィングストンは、モファット経由でマタベレが送った荷物の包みを見つけた。マコロロが1854年9月から1855年9月まで川の中の島の小屋にそのまま置いていたものだったpart_09 L50–70
1855年Linyantiセシェケで馬の到着を待ってからリニャンティに着いた。1853年11月に置いていった馬車と荷物はそのままだったpart_09 L92–94
1855年Linyanti西海岸の道は閉ざされ、東海岸のザンジバル路は物資が不足している(住民が敵対的)と判断し、ザンベジ川に沿って北岸を下ることに決めた。雨季前の暑さの中の出発は延期したpart_09 L294–349
1855年Loandaセケレトゥは象牙を積んでルアンダへ行く新しい一行をアラブ商人ベン・ハビブに託した。ベン・ハビブは10月初めに出発したpart_09 L113–121, L376–383
1855年Linyanti雨季最初の降り続く雨が降った。出発の準備として、セクウェブとカニャタを一行の頭に定め、マミレ、モチベと略奪問題について話し合ったpart_09 L549–596
1855年Seshekeセケレトゥと約200人とともにリニャンティを発った。ツェツェバエ地帯は夜に通過し、稲光と雨の中でセケレトゥが毛布を掛けてくれたpart_09 L623–653
1855年Mparia (Chobe 합류점 섬, 불명)11月13日、カヌーでザンベジ川を下った。一部は川を下り、一部は牛を岸辺に追った。チョベ川との合流点の島ムパリアで一夜を過ごしたpart_09 L669–672
1855年Nampene island (불명)約10マイル下ったところでナンペン島から急流が始まり、カヌーを捨てて岸辺を歩いたpart_09 L695–697
1855年Kalai (Sekote island, 불명)セケテの島カライに着いた。セケテはセビトゥアネに追われて川向こうへ逃げ、その島はのちにマコロロの地となった。古いコトラには頭蓋骨の杭、カバの頭蓋骨、セケテの墓の象牙70本余りがあったpart_09 L698–726
1855年Victoria Falls (모시오아투냐, 불명)カライからカヌーで20分、水煙の柱を初めて見た。島に上がって裂け目をのぞき込み、滝にビクトリアという英国式の名を付けた。1855年の記念として島に桃やアプリコットの種などを植えたpart_09 L728–830, L741–743, L860–868, L985–987
1855年マコロロの一人がセケレトゥの名を借りて略奪を行った。セケレトゥが罰金を科したことを、略奪に罰金を科す初めての例として、リヴィングストンは歓迎したpart_09 L1019–1028
1855年Lekone (불명)セケレトゥの一行と別れ、北のレコネへ向かった。象牙を運ぶ114人の護衛が付いた。月夜にツェツェバエ地帯を避けて夜道を進んだpart_09 L1052–1063
1855年Moyara village (불명)モヤラの村で一日留まった。その父が殺したマタベレ人の頭蓋骨54個が杭に掛けられていた。モヤラは頭蓋骨を自慢したpart_09 L1169–1197
1855年Namilanga (The Well of Joy, 불명)ナミランガ(喜びの井戸)に着いた。大きなイチジクの木の下にある井戸。土地の老人が、父が白人商人のいたンバンバまで行った話をしてくれた(白人との最初の接触の伝聞)part_09 L1217–1255
1855年Unguesi river (불명)マリンバ老人の村々の近くでウンゲシ川を渡った。川はレコネと同様、中心の方へ逆向きに流れる。牛は夜だけ追い、昼は歩いて進んだpart_09 L1311–1324
1855年Kaonka village (불명)カヨンカの最後のバトカ族の村に着いた。セケレトゥの命令でカヨンカがトウモロコシと落花生を献上した。リヴィングストンは離れた反乱側のバトカに略奪をやめるよう伝えることにしたpart_09 L1576–1585
1855年River Mozuma (River of Dila, 불명)モズマ(ディラ)川を渡った。ここはセビトゥアネが住んでいた旧地で、彼が水牛の群れをツェツェバエの毒から救った場所であり、褐炭の跡を見たpart_09 L1826–1870
1855年12月4日、最初の村に着いた。夜、敵対する村の人々が水汲みに行った青年を槍で突こうとした。斧を持った男が発作状態で近づいた。セクウェブが槍を持って阻んだpart_09 L1879–1903
1855年夜、縛られた捕虜が走ってきて解放を求めた。バショクルンボから逃げてきた男で、妻と畑を与えられたがさらに要求し、主人を殺すと脅した。リヴィングストンがナイフで縄を解いたpart_09 L2016–2031
1855年Monze village (불명)バトカ族の最高首長モンゼが訪ねてきた。リヴィングストンがモンゼと約150人に、白人が来て住み、教えることを望むかと尋ねると、全員が喜んだpart_09 L2060–2062, L2096–2100
1855年Monze's sister village (불명)モンゼの姉妹の村に泊まった。以前解放した捕虜が出てきて、トウモロコシと粉を捧げ、薪と鍋を持ってきてくれたpart_09 L2155–2170
1855年Semalembue village (Kafue ford)セマレンブエの村に着いた。カフエ川の渡し場近くでトウモロコシ粉を何籠も贈られ、出発の際にシャツを与えたpart_10.txt:164-165
1855年Chipongo (Chiponga) riverチポンゴ川のほとりを離れ、左手の雲母と粘板岩の山並みを通った。山の下で珪化木の森を見たpart_10.txt:477-478
1855年Zambezi River (near Menye makaba island)再びザンベジ川を見た。川幅は広く濁っていた。メニェ・マカバ島の近くで雨のため数日足止めされたpart_10.txt:515-516
1855年Kalai1855年11月18日、カライ。モシ・オ・トゥニャ(ビクトリアの滝)付近part_12.txt:5-5
1855年Victoria Fallsモシ・オ・トゥニャの滝を見た。ザンベジ川が深い裂け目に落ち込む。リヴィングストンは「ビクトリアの滝」と名づけることを提案したpart_12.txt:757-758
1855年Kalomo River1855年11月30日、カロモ川。表に記載part_12.txt:10-10
1855年Banks of Zambesi1855年12月30日、ザンベジ川のほとり。カフエ川とザンベジ川の合流点付近part_12.txt:34-34
1856年Selole (Chilole) villageセロレ(チロレ)首長は私たちを敵と見て、ンブルマの方へ伝令を送った。ンブルマの弟は嘘だと見抜いて私たちの野営地に来て、事の次第を語ったpart_10.txt:678-680
1856年Mburuma's villageンブルマの村に着いた。その弟が迎えた。私たちが奴隷商人でないことを示すと疑いは解けたpart_10.txt:773
1856年Zumbo (Loangwa–Zambezi confluence)ロアングワ川とザンベジ川の合流点に着いた。古いポルトガルの町ズンボの石造りの家の跡と教会跡、割れた鐘を見たpart_10.txt:906-907
1856年Loangwa River crossing (near Zumbo)15日、ロアングワ川をカヌーで渡った。対岸の人々は武装して見守っていた。荷物と家畜を分けて運んだpart_10.txt:940-942
1856年Shibanga island17日、シバンガ島からシャツ姿の人が来た。ポルトガルの入植地(テテとニュングウェ)は川の向こうにあり、二年目になる現地人との戦いの最中だと教えてくれたpart_10.txt:1077-1078
1856年Mpende's village23日、メンフェの村の方で、赤い物を振り呪術の火を焚いて人々が集まった。戦いが近いと見て、牛を屠って士気を高めたpart_10.txt:1186-1188
1856年Mpende's village首長会議で私たちの側の者の話を聞き、渡河を許した。メンフェはのちに私たちを「友人」だと言って助けてくれたpart_10.txt:1227-1229
1856年Zambezi crossing (below Mpende's country)24日、下流の大きな島の住民がカヌーで渡してくれた。川幅は約1,200ヤード。川幅が広く水が深いため、本島に留まり、朝に渡ったpart_10.txt:1252-1253
1856年Mozinkwa's islandモジンクワ島で雨のため数日足止めされた。病気だった人夫の一人が死に、もう一人はモジンクワの方へ逃げたpart_10.txt:1303-1304
1856年Zingesi (sand-river)2月1日、増水した砂の川ジンゲシを渡ろうとして失敗した。牛が砂の下深くに沈み、ザンベジ川の方へ流されたpart_10.txt:1395-1397
1856年Boroma village2月6日、ボロマの村に着いた。ボロマ本人は現れず、その母がトウモロコシ一籠と鶏一羽を送ってきたpart_10.txt:1545-1546
1856年Pinkwe hill (opposite the river)ピンクウェの丘の対岸でザンベジ川を離れ、南東のモパネの森へ向きを変えた。川の支流をいちいち渡るのに多くの時間を費やしたpart_10.txt:1578-1580
1856年Nyampungo village2月13日、ニャムプンゴの村。雨を呼ぶ呪術を持つと知られる長。この地方の人々は牛を飼ったことがないと聞いたpart_10.txt:1658
1856年Nyampungo's country (elephant kill site)2月14日、ニャムプンゴの地で年老いた雄象を仕留めた。狩りの作法で地主に知らせる必要があり、ニャムプンゴ側の者がトウモロコシ一籠と鶏、ビーズ数連を持ってきたpart_10.txt:1737-1740
1856年Monina's village (near Tangwe sand-river)2月20日、モニナの村に着いた。モニナは諸部族の間で気前が良いと評判の人物。夜には戦いの踊りが行われたpart_10.txt:2054-2055
1856年Monina's villageその夜、部下のモナヒンが持ち場を離れて戻らなかった。三日間探したが、跡は見つからなかったpart_10.txt:2149-2150
1856年Nyakoba's villageニャコバの村に着いた。ビーズがないという私たちの言葉を信じない人々にビーズを見せた。ニャコバはトウモロコシと穀物を二籠送ってきたpart_10.txt:2198

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