バルト『北・中央アフリカ旅行記』

バルト『北・中央アフリカ旅行記』(記録 の史料)。扱う年は1849年 〜 1855年、出来事272件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分記録
視点外側の視点
扱う年1849年 〜 1855年
出来事の数出来事272件・地図に置いた74件
著者Heinrich Barth
原題Heinrich Barth, Reisen und Entdeckungen in Nord- und Central-Afrika (영역 Travels and Discoveries in North and Central Africa, Bettany 편 1890 축약)

地域の内訳: サハラ以南アフリカ 245 · エジプト・北アフリカ 25 · 西ヨーロッパ 1

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1849年Berlinベルリンでリッター教授が、英国政府の中央アフリカ使節(リチャードソン)にドイツ人旅行者が加われると知らせる。バルト参加の始まりpart_01 L182-185
1849年Tunisバルトとオーフェルヴェークがチュニスに到着(12月15日)。6日間の検疫の後に入市し、12月30日に陸路で出発するpart_01 L1430-1432
1849年 〜 1850年Leptis Magnaトリポリ近郊の踏査中、レプティスの遺跡を2度目に調査するch.III(줄 428~430)
1849年 〜 1850年Kasr Jefaraカスル・ジェファラでオーフェルヴェークと再会。近郊踏査を終えてトリポリに戻るch.III(줄 457~470)
1850年Sfax(Sfákes)陸路の終点、スファックスに到着(1850年1月3日)。船を探すため滞在するpart_01 L1487-1488
1850年Mahrès(Méheres)船はネクタ沖に係留された後、火曜午後に再び出航し、夜にマフレスに着く。上陸後、砂漠路用のラクダが見つからないpart_01 L1527-1528
1850年Zarzisジェルバ海峡を渡り、船はザルジスの港に入る(日曜の夕方遅く)。9日間の船旅が終わるpart_01 L1607-1608
1850年Zawiya(Zowára 농원)ビバン湖の西とミルサ・ブレカを過ぎ、ゾワラの農園に着く。この地の統治に復帰した旧知のサイード・ブ・セミンに宿を求めに行くpart_01 L1698-1701
1850年Tripoliトリポリに到着(13時間半の行軍)。英国総領事クロウと副領事リードが歓迎する。リチャードソンはまだ到着していないpart_01 L1745-1748
1850年Tripoliリチャードソンがトリポリに到着(バルトの12日後)。ボート・器具・武器の準備が整い待機するpart_01 L1751-1751
1850年Tripoli英国副領事リードの紹介でトリポリ総督イェジド・パシャに謁見し、歓待を受けるpart_01 L1759-1761
1850年Ghadamesチャールズ・ディクソンが1850年1月1日、最初のヨーロッパ人代理人・居住者としてガダメスに入る(ウォリントンの報告)part_01 L1762-1764
1850年Tripoliトリポリ周辺の山地踏査に出発(2月4日午後)。最初の夜はメシーア付近で野営part_01 L1796-1797
1850年Yefren(Kasr il Jebel)ヤフラン(カスル・イル・ジェベル)に到着。トルコ軍の要塞(守備隊400人)、海抜2,150フィート(オーフェルヴェーク測定)。カイマカムのハッジ・ラシードを訪ねるpart_01 L1946-1948
1850年Gharyan(Kasr Ghurián)カスル・ギュリアン(ガリヤーン)のオリーブ林に到着(夜9時ごろ)。総督とアガを訪ね、守備隊200人の閲兵を見るpart_01 L2314-2315
1850年Gharyan(Kasr Ghurián)2月14日(木)、午後3時過ぎにギュリアンを出発し、南東へ向かうpart_01 L2478-2480
1850年Merwán 동굴(Wady Rán 근처)メルワンの洞窟で野営。一晩中雨と雪が降り、翌朝は地面が雪(約1インチ)に覆われて出発が遅れるpart_01 L2494-2496
1850年Jebel Msíd円錐形のジェベル・ムスィード山に登る。山頂に13世紀のアラブ城の跡、山麓の道に石柱が並ぶのを見るpart_01 L2592-2594
1850年Elkeb 평원エルケブ平原の巨石構造(2本の柱の上に石を載せたもの)を調べる。バルトは原始的な日時計か祭壇と見るpart_01 L2626-2627
1850年Tripoli1850年3月24日の夕方、バルトとオーフェルヴェークは領事クロウに見送られてトリポリを発つch.IV(줄 521~523)
1850年Ain Zaraアイン・ザーラの泉のほとりに天幕を張り、29日(金)まで留まるch.IV(줄 525~538)
1850年Mejeninメゼニン谷の畑の間を行軍。リチャードソン一行は遅れて後から合流するch.IV(줄 565~567)
1850年Mizdaミズダ・オアシスの西端に到着。大麦畑とナツメヤシの林があり、下手の村はずれの砂地で野営するch.IV(줄 780~783)
1850年Shabet Um el Kharab4月9日、シャベト・ウム・エル・ハラブの教会遺跡を踏査。本文は12世紀までキリスト教徒の共同体があったとみるch.IV(줄 873~874, 944~950)
1850年Taboniyeタボニエの井戸のそばで野営。水が塩辛く、その後7日間体調を崩すch.V(줄 1217~1219, 1261~1264)
1850年Gharyan翌日、3人は西ガリーヤ(ガリーヤ・エル・ガルビーヤ)に行き、ローマ時代の門、「PRO. AFR. ILL.」の銘文とセウェルス朝期の碑文を確認するch.V(줄 1265~1305)
1850年el Hasiハマダ砂漠を越えてエル・ハシ井戸に到着。海抜696フィートで、最高点から742フィート下った。野営地は最悪だったと本文は記すch.V(줄 1543~1569)
1850年Edriエデリに到着。アブド・エル・ジェリルの暴政で衰えた古い町。ワディ・シャーティ谷の村々の名と数を記録するch.VI(줄 1652~1713)
1850年Ugréfe隊商の御者たちの故郷、ウグレフェ村の近くで2本のエテル(ギョリュウ)の木の下に野営するch.VI(줄 1827~1835)
1850年Garama Metropolis (Old Jerma)オールド・ジェルマを訪れ、ローマのガラマと同一かを確かめようとする。ローマ時代の一層の墓とティフィナグ文字の落書きを記録するch.VI(줄 1853~1898)
1850年Murzukムルズクに到着。リチャードソンが1時間先に着き、ガグリウッフィの家に泊まるch.VI(줄 2008~2018)
1850年Murzuk5月8日、ボロ(「白人たちの主」ムハンマド)がガグリウッフィの家にバルト一行を訪ねる。彼は遠征の成否が自分の手にかかっていると告げられるch.VII(줄 2059~2072)
1850年Murzukムルズクの西門から出発。出発日は6月13日と定める(予定)ch.VII(줄 2163~2167), ch.VIII(줄 2177~2178)
1850年Tasawaタサワ村のそばの砂地で野営。本隊はシャラバ井戸へ直行し、バルト一行はタサワ経由の道を選ぶch.VIII(줄 2317~2348)
1850年Tasawaガートのハティータとシャーフォの2人の息子が到着。リチャードソンは彼らなしでは出発しないことにするch.VIII(줄 2350~2353)
1850年Tasawaボロが人前で激怒し、一行を道中で襲わせると脅す。バルトはそれが空言ではなかったと記すch.VIII(줄 2359~2366)
1850年Sháraba wellシャラバ井戸に着き、そこで野営する(タサワ出発後)June 25 항목
1850年Tesémmakテセマク谷で野営June 28 항목
1850年Wady Eláwenワディ・エラウェンの西斜面で野営、近くに水たまりがあるJuly 2 항목
1850年Wady Elghom-udéエルゴモデ(ラクダの谷)に入る。複数の小隊商が集まる野営地July 5 항목
1850年Wady Telísaghéテリサゲ谷で岩絵を発見(牛を中央に三人の人物像)July 6 항목
1850年Áman sémmednéアマン・セメド谷の合流点で野営(ハティータを待つ)July 7 항목
1850年Telígaテリガ谷に到着、井戸のそばに2日滞在(標高1,435フィート)July 10 부근 항목
1850年Ídinen (Enchanted Mountain)イディネン(魔法の山)登頂を計画するが案内人を得られず、バルトは単独で出て道に迷う 判定保留July 15 항목
1850年Ghátガートに到着。ハッジ・アフメド(総督)の新しい農園で名士たちが出迎えるJuly 18 항목
1850年Bárakatガートを発ち、バラカトの小さな町に入り、南門から出るJuly 26 항목
1850年Égeriエゲリ谷に到着(バルトはアマイス/マイス谷と同じとみる)7월 말 항목 (날짜 미상)
1850年Ejénjerエゼンゼル谷で野営。北から来る隊商が砂漠に入る前に休む場所August 1 항목
1850年Mariaw平坦な礫砂漠が始まり、マリアウ尾根(砂漠の入口の目印)を過ぎるAugust 2 항목
1850年Afalésselez wellアファレセレス井戸に到着。砂漠横断前の最後の給水地August 3 항목
1850年Taghárebénタガレベン谷で白い砂岩の塊のそばに野営August 6 항목
1850年Nghákeliンガケリ谷に到着。より良い土地の始まりの兆しで、バラニテス(ハラジュ)の森があるAugust 8 항목
1850年Arókam valleyアロカム谷で野営、井戸まで30分August 9 항목
1850年Aïsalaアイサラでティンティルクムの隊商が待っているとの知らせを受け、行軍を再開するAugust 12 항목
1850年Ikadémmelrangイケデンメランに着く。花崗岩の風化した荒地を越え、砂漠平原の最高所に上るAugust 13 부근 항목 (날짜 미상)
1850年Marárrabaマララバに到着。ガートとアイルの中間点で、現地の人々が石を積む場所August 15 항목
1850年Asïuアスーに到着。ガダメスとタワトの道が合流する井戸の集まりで、井戸は4つAugust 17 부근 항목
1850年Fénorang武装強盗の接近の警報。隊商全員が武器を取り隊列を整えるAugust 18 항목
1850年Fénorangフェノラン谷、ラクダの飼料が豊富なため2日滞在することにするAugust 18 항목(2)
1850年Máket-n-ikelánマケト・ン・イケランの小丘で、奴隷たちの武装舞踊と通行の貢納(隊商の慣習)August 20 항목
1850年Jínninauジンナウ谷、最近の鉄砲水が流れ去った広い谷で、バラニテスの森があるAugust 21 항목
1850年Erazar-n-Gébiエラザル・ン・ゲビでラクダに草を食べさせ、シワク(アビスガ)の木を初めて見る。砂漠と中央アフリカの間の移行帯を代表する灌木part_04 줄 7~11
1850年Tághajítタガジット谷で野営。アイル辺境で最初の定住村(ファデアン族、アガデス・スルタンの宗主権下)part_04 줄 30~39
1850年Tághajít池の使用料6リアルを要求され、略奪隊50~60騎の襲撃の噂に隊商が火薬と弾丸を取り出す。実際の攻撃はなかった。続いてクウェルディ(ムルズクの商人)が到着し、危険を否定して状況を曖昧にするpart_04 줄 105~116
1850年Imenánイメナン谷の南斜面でタルハの木立の間に野営。日没に略奪者5人がラクダ6頭を引いて現れるpart_04 줄 206~215
1850年Imenán「ナフヌーヘンの書簡」を掲げた襲撃予告が広まり、隊商は防衛会議を開く。夜明けにラクダの盗難が確認され、略奪者が馬で尾根から指揮するなか、ボロが剣を持って先頭に立ち対峙するpart_04 줄 223~251
1850年Mount Absen 기슭 얕은 골짜기アブセン山塊(テンギク峰の近く)を初めて望み、浅い谷で野営。夜のうちに騎兵2人が馬でひそかに抜け出すpart_04 줄 318~327
1850年Tídik 골짜기ティディク谷を過ぎ、タロイの水たまりで水を補給。村は空だった(ケル・ティディクは西の谷へ去った)。情報を得て、遠征隊は戦闘隊形で行軍するpart_04 줄 361~377
1850年Selúfiet 앞 8마일 지점의 야영지アウェド・エル・ヘルが道を曲げて野営。護衛側のメラベティンが金品を奪い改宗を迫り、祈りの後に緊張が頂点に達する。その後スリマンが「お前たちは殺されない」と告げる。略奪額はケル・オウィの護衛に払った金を基準に決まるpart_04 줄 391~454
1850年Selúfietセルフィエト谷に到着。ラクダの一部は取り戻したが15頭が行方不明で、ボートと重い荷の一部を捨てる。護衛のラクダ引きはここまでの契約で、荷は自分たちで運ぶほかなかったpart_04 줄 488~520
1850年Tintagh-odéティンタグ・オデ(メラベティンとアニスリメンの村、約100戸)のそばで野営。約2マイルの谷間を行軍した後。バターもチーズも手に入らず、普通のかみそり1丁でキビ10ゼッカ(約3分の1ミスカル相当)ほどにしか替えられないpart_04 줄 533~569
1850年Tintagh-odé9月1日、豪雨で野営地の谷が急流となり、天幕と荷が泥水に浸かり、ラクダ2頭が倒れ、バルトとオーフェルヴェークが水に落ちる。午後、ティンタグ・オデの武装住民が布陣するが、アンヌルの遣わしたラクダの護衛が到着し、略奪者は退くpart_04 줄 627~698
1850年Fódet 골짜기護衛隊長ハンマ(アンヌルの娘婿)に挨拶して午前10時ごろ出発。ティン・テルルストへ西の道(フォデト経由)を取る。東の道はタゴとタニを通る。フォデト東の崖際の水たまりで野営part_04 줄 726~731
1850年Afís 골짜기アフィス谷の広い所の南の崖際で野営(午後3時ごろ、井戸あり)。護衛が荷を探って布を裂き物を持ち去るが、ハンマが取り戻させる。その前にアンヌル、ディディ、ファッレジとティニルクムの一部(イブラヒムら)は自分の住まいへ去ったpart_04 줄 762~794
1850年Tin-téllustアンヌルの居所ティン・テルルスト谷に入る。村から約800ヤードの砂丘に英国遠征隊の天幕4張を立てる。この丘は現地で「イギリス人の丘」と呼ばれるpart_04 줄 804~853
1850年Tin-téllustアンヌルとの初対面。キリスト教徒でもここへ来る道の苦難が罪を洗い流したと言い、贈り物を受け取るが言葉はない。続いて「独自に行くなら隊商と行け、保護を望むなら大金を払え」と条件を突きつける(蛇の喩え)part_04 줄 1228~1245
1850年Tin-téllust 영국인 야영지9月17日夜、野営地に盗賊が襲来。銃は掃除後で弾が込めておらず、歌声の騒ぎの隙に天幕の周りを回っていた一団がリチャードソンの天幕から箱を引きずり出す。使用人の大半が逃げる。この件で野営地を村寄りの平地に移すpart_04 줄 1298~1302
1850年Tin-téllust9月30日、アンヌルに別れを告げる。本人への贈り物(約80リアル、11ポンド相当)とアガデス・スルタンへの贈り物を見せ、アガデスの新スルタン、カディリ宛ての推薦状を受け取る。周囲の忠告にもかかわらず、バルトはマクニを外し、モハメッドとアマンカイを連れて10月4日出発と決めるpart_04 줄 1396~1432
1850年Tiggeréresaアガデスへ出発。牛の背から落ちる事故の後に歩き、エゲッルワ井戸の谷でハンマのラクダの後ろに乗る。ティッゲレレサ村そばの花崗岩の岩場で野営し、ここでラクダ2頭を得る。アンヌル側のモハメッドは引き返し、アフィス出身のモハメッド・ババ・ハンカリとハンメダが同行するpart_04 줄 1442~1501
1850年Ásodiアソディを道の右に見て、訪れずに通り過ぎる。聞くところでは古い町で、1000戸以上の廃屋跡があり、今は80戸ほどに人が住み、モスクが7つ。ケル・オウィの名目上のアマノカル(アスタフィデト)の居所part_04 줄 1544~1585
1850年Chizólen 골짜기チゾレン谷で最も暑い時間に休む。タルハの木陰で、家畜は草地に放す。夕方、エゲッラル山を左に見て行軍を続けるpart_04 줄 1588~1600
1850年Eghellál 기슭 얕은 골짜기エゲッラル山麓の浅い谷で野営。アンヌルの後継者ハッジ・アブドゥワが訪れ、コーヒーを分け合う。彼はタフィデトの人で、後にアスタフィデトのアガデス遠征に同行する。クカワを二度訪れた話も聞くpart_04 줄 1601~1634
1850年Tíggeda 골짜기アガタ山とバグゼン山塊の麓を過ぎ、ティッゲダ谷の東岸で野営。この旅で見た最も美しい谷。野営の直前、墓に囲まれた小さな廃礼拝堂を通る。バルトはここをテカッダと見たが、後に別の場所がより適切だと訂正したpart_04 줄 1676~1677
1850年Aúderas 골짜기エラザル・ン・アサダ(ドゲム山下の密林)とエラザル・ン・デンデムを過ぎ、標高2,500フィートの峠で豪雨に濡れ、タギスト谷(モハメッド・ベン・アブド・エル・ケリムの祈りの場「マカーム・エ・シェイク」)を経てアウデラス谷の斜面で野営。谷の西の高地にアエルウェン・ワン・ティドラクの村があるpart_04 줄 1695~1797
1850年Ágades日没にアガデスに到着。半ば空いた区画を過ぎ、アンヌルの家(宿)に入る。灯りのない夜、同行のタワト人アブド・エル・カーデル(スルタンではない)がクスクスを届けるpart_04 줄 1979~1997
1850年Ágades 궁(fáda)アガデスのスルタン、アブド・エル・カーデリに謁見。宮殿内の部屋でアンヌルとリチャードソンの手紙を渡し、ソコトのアリユ宛ての手紙を託す。強奪されて贈り物が足りないためソコト訪問を詫びると、スルタンはケル・ゲレスの塩の隊商で安全に送ると言う(会話はハウサ語)part_04 줄 2010~2135
1850年Agadezアガデスでアブド・エル・カーデルがスルタンに即位(サラウタ)。トゥアレグの4部族が参列した儀式part_05.txt L189-215
1850年Agadezケル・ゲレスとイティサンの塩の隊商がアガデスを発ち、ビルマの塩鉱へ向かうpart_05.txt L417-419
1850年Agadezスルタンの遠征隊(約400人)が夕方にアガデスを発ち、イムガド方面への遠征(ガッジア)に出るpart_05.txt L610-613
1850年Agadezバルト一行がアガデスを発ち、南の本営(ティンテルスト・ティンテガナ方面)へ向かうpart_05.txt L1430
1850年Tin-téggana夜間行軍の末、ティンテガナ平原のアンヌルの本営に着くpart_05.txt L1491-1517
1850年Tintagh-odéエファダイェの襲撃隊がティンタグ・オデを急襲し、ラクダ2群と家財を奪うpart_05.txt L1650-1653
1850年Telésheraティンテガナの野営地(オファイェト)を発ち、テレシェラ山の北東斜面で野営するpart_05.txt L1872-1875
1850年Máriテガタ谷を過ぎ、マリ山麓の急流の河床で野営するpart_05.txt L1916-1921
1850年Adóral連合隊商(アイリ)が一斉に出発し、アドラルの水路沿いで野営するpart_05.txt L1962-2012
1850年Erárar 평원バグゼン山麓のエララル平原で野営。同じ日の午後、アルヴェス井戸を探すpart_05.txt L2026-2042
1850年Télliya涸れ川を渡り、テリヤ谷に着くpart_05.txt L2071-2093
1850年Unánウナン谷のジゴクに着き、ドゥーム椰子の林が現れるpart_05.txt L2144-2149
1850年Aghálleバルゴト谷を出て、アガレの給水地の北斜面で野営するpart_05.txt L2255-2259
1850年Terguláwen砂丘の道を7時間半進み、テルグラウェン井戸に着く。アウェリミデンとケル・ゲレスの襲撃が多い危険地帯part_05.txt L2332-2337
1850年아가데스 길 우물 너머 야영アガデス街道の井戸の先で野営。強風と寒さのなか、1850年の最終日part_06.txt 줄 8–9
1850年Wady Alalaトゥアレグ(ケル・オウィ)の連合7000人余り(主にラクダ騎兵)がウェラド・スリマンの野営地を襲撃。モハメッドは重傷の後に死に、サイードは戦死し、戦利品の大半が奪われるpart_12.txt L11-17
1850年Kukawa宰相が生き残ったウェラド・スリマンの若い首長を保護。馬と銃を出し、遠征ごとに戦利品の一部を納める契約part_12.txt L62-67
1851年1851年3月、リチャードソンの死後、英国政府はバルトに遠征の目的の遂行を委ね、資金を提供するpart_01 L289-292
1851年In-asámetタガマ地方のイン・アサメット近くで野営。住民が群がり、女たちが先に近づくpart_06.txt 줄 88–90
1851年Fárakファラク池のそばを通過(今は干上がっている)part_06.txt 줄 193–195
1851年Gúmrekグムレク湖。アカシアの木陰に家畜が集まるpart_06.txt 줄 225–227
1851年Kulakérkiダメルグの最初のトウモロコシ畑。食糧に余裕があり輸出できる土地の最初の兆しpart_06.txt 줄 272–274
1851年Olalówa 부근タミズギダの首領ダン・イブラが騎兵3人を連れて来て挨拶する。威嚇を含んだ応対part_06.txt 줄 296–297
1851年Sámmitサンミット村の西斜面を過ぎ、刈り株畑で野営するpart_06.txt 줄 314–315
1851年Tágelelタゲレルに到着。アンヌル族長の所有する村で、以後ここから旅は単独体制に変わるpart_06.txt 줄 441–444
1851年Tágelel1851年1月10日、リチャードソンと別れ、アンヌルとも決別して、バルトはガジェレと進む(アンヌルの弟エライジが率いるカノ行き塩の隊商に託され、ガジェレは雇われた案内人)part_06.txt 줄 632–634
1851年Amsúsu森の中のアムスス野営。ブズ族の騎兵約16騎がフラニ人に対する略奪遠征(ヤキ)の途上で通るpart_06.txt 줄 778–786
1851年Chirák 부근チラク付近で、オーフェルヴェークがタサワ・ゴベル・マラディの探査のため別れるpart_06.txt 줄 867–869
1851年Gozenákkoゴゼナッコに到着。大きな村で、住民が井戸水に代金を取るpart_06.txt 줄 915–917
1851年Gozenákkoジンデルからボルヌの騎兵使者(ファッラジ)が来て、バルトをジンデルへ連れて行けという手紙を差し出す。隊商長エライジが阻むpart_06.txt 줄 1016–1019
1851年Tasáwaタサワに到着。アル・ワリの家でオーフェルヴェークと再会part_06.txt 줄 1050–1053
1851年Gazáwaガザワ近くの空き地で野営。ガザワの城壁外の市場part_06.txt 줄 1344–1346
1851年Gazáwaマラディの君主のフラニ遠征隊(騎兵約40、弓兵多数)が野営地のそばを通るpart_06.txt 줄 1425–1429
1851年Dánkamaカチナの旧都ダンカマの廃墟に到着。フラニに陥落した所なので、荷担ぎたちは叫びながら通り過ぎるpart_06.txt 줄 1509–1511
1851年Kátsena 외곽カチナ郊外の大きな刈り株畑で野営。総督が雄羊と蜂蜜を贈るpart_06.txt 줄 1563–1565
1851年Kátsena 외곽今年の塩の隊商の規模の推定。ラクダ約2,500頭(本文の推定値)part_06.txt 줄 1600–1602
1851年Kátsenaカチナ総督ベッロがスルタンの手紙を解釈し、バルトを引き留めようとする(日付は月単位)part_06.txt 줄 1821–1825
1851年Kátsena1851年1月28日、カチナ総督と合意。ベルベットのカフタンや絨毯などを渡し、拘束が解かれるpart_06.txt 줄 2042–2043
1851年Katsinaバルトがカチナの南東門(コファ・ン・カウラ)を通過。カチナ滞在を終えて出発するpart_07.txt 줄 140–143
1851年Kanoバルトがカノに到着。バウの家に宿を取るpart_07.txt 줄 248–423 (Feb.1 Gúrzo 야영 → 다음 날 가노 도착)
1851年Kanoカノ総督に謁見。贈り物を献上し、滞在を許される(熱病の後)part_07.txt 줄 531–533
1851年Kanoカノを発ってクカワへ出発(午後2時、護衛1人と)part_07.txt 줄 1537–1556
1851年Gezawaゲザワに到着。2泊滞在(月曜の市)part_07.txt 줄 1631–1632, 1663–1665
1851年Gérkiゲルキ付近に到着。大都市の入口で、総督を訪ねた後に野営part_07.txt 줄 1843–1844
1851年Gumelグンメルに到着。コンシェと別れ、家を建てて宿を整えるpart_07.txt 줄 1874, 1915–1916
1851年Gumelグンメルにヨーロッパからの手紙が届く。10か月ぶりの知らせpart_07.txt 줄 2050–2055
1851年Benzariグンメルを発ち単独で旅を始める。ベンザリで野営part_07.txt 줄 2110–2112, 2152 (Benzári 야영)
1851年Yelkazaボカリ軍の太鼓に遭遇。カデジャ攻略の準備中で、イェルカジャに到着するpart_07.txt 줄 2152–2156, 2220–2222
1851年 〜 1852年Khadejaボカリがカデジャを占領して兄アフメドゥを殺し、ソコトの軍までも破るpart_07.txt 줄 2178–2181
1851年Máshenaバルトがマシェナに到着。現地の人々はクカワへの道の消息は知るが、リチャードソンの死は知らないpart_08.txt 줄 114–115
1851年Ngurútuwa同行のリチャードソンの死。クカワから6日の距離のングルトゥワで死去(バルトはまだ確認していない)part_08.txt 줄 125–126
1851年Búndiブンディに到着。ガラディマのオマルに謁見し、道案内を頼んで小さな贈り物(かみそり・鏡・針・石鹸など)を渡すpart_08.txt 줄 190–193
1851年Kálimarí活気ある村カリマリを通過(牛に水を飲ませる光景)。3年半後の再訪時には村が消えていたと本文に記されるpart_08.txt 줄 293–295
1851年Zurríkuloズッリクロに到着。ワニ川を渡り、古い大きな町の入口に野営。クカワから来た隊商にもキリスト教徒到着の知らせはなかったpart_08.txt 줄 367–368
1851年Déffowaデッフォワに到着(午後7時15分)、北の外れで野営。村では夜遅くまで音楽が続くpart_08.txt 줄 466–469
1851年Kálowaカロワ村の全景。どの家もバオバブの類の木陰にあり、鍛冶・機織り・臼つきの様子。直前に象の骨を通過part_08.txt 줄 493–494
1851年Kábowa大きな村カボワの市場。貝貨が受け取られず食糧を得られない。ラクダの飼料アゲウル(aghul)は豊富part_08.txt 줄 617–618
1851年Ngurútuwaングルトゥワに到着。イチジクの木の下にリチャードソンの墓を探す。棘の柵で保たれており、バルトは後に宰相に柵の補強を頼むpart_08.txt 줄 762–763
1851年Aláuneアラウネ(旧カブシャリ)に到着。井戸端の住民に道の状況を尋ねる。カシンマまでは安全、その先は危険part_08.txt 줄 812–813
1851年Kashímmaカシンマの丘の村。クカワへの直行路の案内人を探す。東のングルトゥワまでキンディン(トゥアレグ)の形跡はないと聞くpart_08.txt 줄 845–846
1851年Ghambarú古都ガンバルの廃墟を通過。2つの湖の間で、レンガ造りのモスクの残骸を観察part_08.txt 줄 903–904
1851年Ájiríアジリ村の近くで野営。聖人の墓地なので汚さない。続いて警備隊長ケール・アッラを訪問(本文に村名なし)part_08.txt 줄 1112–1113
1851年Dímberwáドゥチ地方の最初の村ディンベルワで休む。村ごとに案内人を替えながら手探りで進むpart_08.txt 줄 1180
1851年Úraウラ井戸で水を補給するが、馬に十分水を飲ませられない。ラクダの逸走で出発は午後5時になるpart_08.txt 줄 1203–1204
1851年Beshérベシェルに到着(正午)。シェイクの騎兵が駐留する村々。井戸水の代金を貝40個で値切るpart_08.txt 줄 1289–1290
1851年Kúkawaクカワの西郊に到着。バルトは単独で先に馬で進み、宮廷の前を通って宰相の家に割り当てられるpart_08.txt 줄 1313
1851年Kúkawa宰相との夜の面談。リチャードソンの遺品売却に正式に抗議し、記録の保存を確認し、死去の知らせをクカワの外に伝えるよう求めるpart_08.txt 줄 1497–1498
1851年Báteliキンディンの略奪隊はボルヌ国境の村の襲撃に失敗した後、カネム方面のバッテリまで行ったが成果は乏しかった。この侵入のためクカワ軍のムスグ遠征は中止になったpart_09.txt L249-253
1851年Ngornuシェイク・ウマルが4月23日の夜、宮廷全体を率いてクカワを発ち、ングルヌに1~2日滞在。バルトも後に続くpart_09.txt L595-596
1851年Maduwariバルトがクカワから湖畔を踏査するうちマドワリに到着。住民フゴ・アリの家に泊まる。ブドゥマ(湖の島の民)についての最初の話を聞くpart_09.txt L814-815
1851年Kukawaクカワからフェザーン行きの奴隷隊商が出発。商人たちは約750人の奴隷を所有する。バルトはリチャードソンの遺品と手紙を使用人モハメッドに託して送るpart_09.txt L1039-1041
1851年Kálilwáオーフェルヴェークがカリルワ(クカワ近郊)でバルトと再会。ジンデルで病気をしてから来たというpart_09.txt L1107-1107
1851年Kukawaバルトがクカワの南門(チンナ・アヌンベ)を出てアダマワ遠征に出発。アダマワの使節、シェイクが付けた将校ビッラマ、オーフェルヴェークが同行part_09.txt L1273-1275
1851年Kába初日の夜の宿営地カバ村。住民が冷淡で、村の外で野営するpart_09.txt L1316-1317
1851年Pírtwa4時間行軍の後ピルトワ村の近くに泊まる。オーフェルヴェークはここで引き返すpart_09.txt L1338-1338
1851年Dýnnamaríディンナマリ(またはアマデ)村で夜を過ごす。別の道を行った一行とすれ違うpart_09.txt L1352-1353
1851年Úlo Kurá一行と合流した場所ウロ・クラ。シェイクの母の所有区域(マギラリ)part_09.txt L1354-1356
1851年Múngholo Gezáwaムゴロ・ゲザワ村に泊まる。宰相の所有なので庭が清潔。この道で初めて雨水の水たまりを見るpart_09.txt L1411-1412
1851年Magá午後遅くマガ区域の村に到着。夕方の豪雨を避けるpart_09.txt L1455-1456
1851年Ujé Maíduguríウジェ・マイドゥグリ村に泊まる。クカワ以来見た中で最大の快適な村。主人の奴隷が庭を空けるpart_09.txt L1521-1522
1851年Mábaní砂丘の上のマバニに到着(川を2度渡る)。アダマワの使節が連れ去られた住民を探す場所part_09.txt L1564-1565
1851年Pálamaríファラマリで夜を過ごす。隣家の夫婦喧嘩の騒音part_09.txt L1653-1654
1851年Aláwóバルトはビッラマとともにボルヌ王エドリス・アラウマの墓があるアラワを訪ねようとしたが、沼に阻まれ墓は見られなかったpart_09.txt L1709-1711
1851年アダマワ総督モハメッド・ラウルがバナ(ムバナ)遠征から帰ったとの知らせ。バナ族はヨラの北東10日の距離に住むpart_09.txt L1743-1746
1851年Túrbe鍛冶屋が鉄を打つ木の下を過ぎ、トゥルベ村の近くへ。鉄はマデゲレ(ブバニジダ)から来るpart_09.txt L1803-1804
1851年Yerímaríイェリマリ村に到着。昔より小さくなった村で、マルギ住民の数人だけがイスラームに改宗。夜に嵐part_09.txt L1850-1851
1851年Molghoyモルゴイ区域の外れに到着。畑は長く放置され荒廃。同じ日にマルギの聖なる森(トゥンビ神)を見るpart_09.txt L1888-1888
1851年Ísgeイスゲ区域に到着。裸の先住民で、原住民の居住地とみる。ワンダラ山脈が見えるpart_09.txt L2126-2127
1851年Mindifバルトが湖畔の丘から初めてミンディフ山を見る。山はもともと黒い玄武岩で、白いのは鳥の糞(グアノ)だと後で聞いたと本文は述べるpart_09.txt L2263-2264
1851年Kófaコファ村の外れに到着。カセラ・アリが略奪・破壊した場所part_10 L88-91
1851年Laháulaラハウラに到着。木柵で塞がれた入口と住民の反感。翌朝伝わった夜襲計画はアシ(ʿAshi)が止めて立ち消えになるpart_10 L154-161, L190-199
1851年Úbaウバの城壁に到着(午後2時)。アダマワ北端のプッロ(フラニ)の入植地part_10 L300-301
1851年Múbiムビに到着。総督の家で待たされた末に宿を得て、バルトは周囲の山の角度を測るpart_10 L434-437
1851年Mbutúdiムブトゥディに到着。花崗岩の山の麓の村で、フルベの支配層が住んでいるpart_10 L550-551
1851年Segéroセゲロに到着し休息。北の村はフルベとホルマが混住し、南は支配層のみ。バルトはフルフルデ語の勉強を始めるpart_10 L682-696
1851年Badaníjoバダニヨに到着。ファリ族の最北の拠点で、住民約3,000人と推定part_10 L770, L787-802
1851年Saráwu Beréberéサラウ・ベレベレに到着。ボルヌ人の村で、ロゴンとファティウェルの道がクカワの道と合流する地点part_10 L844-854, L935-948
1851年Bélemベレムに到着。サラマトのアラブ人入植村で、ムアレム・ダリリを訪ねるpart_10 L1114-1116, L1223-1224
1851年Sulléri夜にスレリに到着。嵐のなか総督の息子の家に強いて入る。食事の提供はなしpart_10 L1294-1307, L1345-1368
1851年Tépeテペでベヌエ川を初めて見る。ファロ川が合流する地点part_10 L1414-1415, L1424-1427
1851年Chabajáureカヌーでベヌエ川とファロ川を渡り(ラクダは鞭で押して渡らせる)、チャバジャウレ村に宿泊part_10 L1551-1592, L1649-1653
1851年Ribáwoリバウォとリバゴに到着、夜10時ごろ宿に入る。本文の推計で人口6,000人以上part_10 L1722-1734, L1785-1786
1851年Yólaヨラの外れに到着(正午ごろ)。アダマワの首都で、総督ラウルの祈りが終わるまで待つpart_10 L1822-1826, L1847-1848
1851年Yólaヨラでラウル(モハメッド・ラウル)と面談。ボルヌ側の書簡3通。コファ・コブチの領土争いに総督が激怒し、バルトの目的を疑うpart_10 L1958-2009
1851年Yólaヨラから去れとの命令。総督の使者2人と弟マンスルの訪問の後、即時退去が通告されるpart_10 L2070-2073, L2123-2149
1851年Ribágoヨラから馬で6時間かけて、リバゴの以前の宿の庭に戻るpart_10 L2170-2184
1851年Dulóリバゴを発ち、ドゥロに泊まる。前市長の家に割り当てられ、バルトは病気で休めないch.XXXVII, Wednesday, June 25
1851年Chabajáureチャバジャウレに泊まる。キニーネを服用して体力の回復を試みるch.XXXVII, Thursday, June 26
1851年Sullériスレリに到着。村長がもう1日引き留め、バルトはその息子の目を治療して名声を得るch.XXXVII, Friday, June 27
1851年Démsaデムサ(デムサ・ポハとデムサ・メス)に到着。総督はフリ遠征中で不在、宿をしばらく待つch.XXXVII, Saturday, June 28
1851年Bélemベレムに到着し2日滞在。バルトの使用人ブ・サアドが象牙と奴隷を買い込み、解雇されるch.XXXVII, Tuesday, July 1 (and July 1–2)
1851年Saráwu Beréberéサラウ・ベレベレに泊まる。すでに使った中庭の宿に戻るch.XXXVII, Thursday, July 3
1851年Múglebúムグレブに到着。雨季のさなか使用人3人とも病み、バルトが薬を分け与えるch.XXXVII, Saturday, July 5 (Múglebú)
1851年Múfi (Múbi)ムフィ(ムビ)に到着。宿をめぐって争い、病気の使用人たちが倒れ込み、もう1日留まるch.XXXVII, Sunday, July 6

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