ダレ『朝鮮教会史』

ダレ『朝鮮教会史』(正史 の史料)。扱う年は1784年 〜 1866年、出来事443件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。

区分正史
視点外側の視点
扱う年1784年 〜 1866年
出来事の数出来事443件・地図に置いた297件
著者Ch. Dallet (1874)
原題Histoire de l'Église de Corée

地域の内訳: 中国 213 · 朝鮮半島 202 · 東南アジア 11 · 南ヨーロッパ 9 · 西ヨーロッパ 2 · 日本 1

出来事の一覧

年場所出来事原文の位置
1784年Peking(Beijing, 북경)承薫(ペトロ)が、漢陽の使節一行とともに北京に滞在中に北京で洗礼を受けた。part_05.txt 줄(0부터) 697
1784年Seoul(한양)承薫は帰国して漢陽に着き、持ち帰った書物・十字架・絵を李檗に送った。part_05.txt 줄(0부터) 754
1784年Seoul(한양)李檗は承薫が送った書物を受け取り、静かな家を借りて閉じこもり読書と黙想をした。part_05.txt 줄(0부터) 761
1784年李檗の仲間が李家煥(Ka-hoan-i)を訪ねて講論し討論した。四日近い議論の末、李家煥は敗れて口を閉ざした。part_05.txt 줄(0부터) 811
1784年Yanggeun(양근군, 감산)陰暦9月、李檗は楊根の甘山の権氏の家を訪ねて講義した。権日身(フランシスコ・ザビエル)は改宗してすぐ洗礼を受け、権哲身(アンブロシオ)はほどなく続いた。part_05.txt 줄(0부터) 893
1785年Seoul(한양)刑曹判書の金華鎮が金範禹(トマス)を捕らえて棄教を強要した。権日身が名乗り出て共に罰を受けると言うと帰されたが、金範禹は拷問が続いた。part_05.txt 줄(0부터) 1092
1785年 〜 1787年Tan-iang(단양, 충북 동쪽 끝 추정)金範禹は流刑地の丹陽(Tan-iang)で拷問の傷により死んだ。朝鮮最初の殉教者として記録される。part_05.txt 줄(0부터) 1128
1785年大学士の鄭植(Tsieng-siouk-i)が天主教を攻撃する檄文を広めた。朝鮮政府が公式に天主教を排斥した最初の文書。発令場所は本文にない。part_05.txt 줄(0부터) 1141
1786年李檗は伝染病(peste、赤痢・チフス系)にかかり、八日で33歳で死んだ。臨終に棄教したというのは根拠のない伝承である。part_05.txt 줄(0부터) 1197
1787年権哲身(フランシスコ・ザビエル)を司教に、承薫・李端源(ルイ・ゴンザガ)・李承薫ほか数人を司祭に自ら選出した。叙階式は確認されていない。part_05.txt 줄(0부터) 1293
1787年 〜 1789年Seoul(한양)自前の教会組織が漢陽で秘跡を執行した。丁道馬(Jean T'soi)が漢陽に家を借りて秘跡を担当し、信者が集まって告解と聖体拝領を行った。part_05.txt 줄(0부터) 1333
1789年自前の聖職者活動を中断した。聖職の有効性に疑問が生じ、北京の司教に問い合わせの書簡を書くことにした。場所は本文にない。part_05.txt 줄(0부터) 1352
1789年Seoul(한양)尹有一(パウロ)が商人に変装して漢陽から北京へ向かい、司教宛の問い合わせの書簡を携えて行った。part_05.txt 줄(0부터) 1379
1790年Tsou-tsima (쓰시마, 對馬國)1790年から朝鮮の使節は日本本土には行かず対馬までとなり、使節の手続きが簡略化された。p01 l.1152–1156
1790年Seoul(한양)尹有一は使節に随行して北京を発ち帰国し、司教が絹に書いた返書を持って漢陽に戻った。part_05.txt 줄(0부터) 1410
1790年Peking(Beijing, 북경)尹有一は北京でラザリスト宣教師(M. Raux)から洗礼を受けた。洗礼の代父は樊氏。part_05.txt 줄(0부터) 1444
1790年Peking(Beijing, 북경)尹有一と使節一行の呉(洗礼名ヨハネ・バプティスタ)が北京の司教に書簡を渡し、司祭の派遣を請うた。司教は司祭を送ると約束した。part_05.txt 줄(0부터) 1460
1790年司教は祖先祭祀の禁止を返答として送った。この決定により、承薫ら一部が離れていった。part_05.txt 줄(0부터) 1489
1791年Tsang-kou-tong(진산현 장구동)尹持忠の母の喪で、尹持忠が祭祀を行わず、親族や村の非難が強まった。これが1791年の辛亥迫害の発端となった。part_05.txt 줄(0부터) 1636
1791年Seoul(한양)洪樂安が宰相の蔡済恭(T'sai)に上訴して尹持忠の極刑を求めた。同時に珍山県監にも逮捕を催促した。part_05.txt 줄(0부터) 1666
1791年Tsin-san(진산현)珍山県監の申思彦が尹持忠の家を捜索し、空の神主箱を見つけた。尹持忠と権尚然(ヤコブ)を捕らえて珍山の官衙に収監した。part_05.txt 줄(0부터) 1676
1791年Jeonju(전주, 전라감영)尹持忠と権尚然は全羅監営(全州)に移され、観察使が自ら尋問した。祭祀・位牌・教書について問いただした。part_05.txt 줄(0부터) 1812
1791年전주尹パウロ(Paul loun)と権ヤコブ(Jacques Kouen)が斬首された。祖先の神主を焼いた罪での死刑で、午後3時。1권 p.54
1791年서울(한양)権日身(François-Xavier Kouen Il-sin-i)が逮捕され、刑曹(tribunal des crimes)に引かれて拷問を受けた。1권 p.57
1791年공주李ルカ(Louis de Gonzague Ni Tan-ouen-i)の棄教の報告。公州の守令が棄教の誓約を王に伝え、王は確実な転向があるまで釈放するなと命じた。1권 p.61-62
1791年홍산李ルカは故郷の内浦で家族や教友と別れ、洪山の地へ移った。伝道はより静かに続けた。1권 p.62
1791年불명1791年、祭祀の廃止と位牌の焼却により尹持忠・権尚然らが処刑された。朝廷布告の記述。717-720
1791年書簡は殉教者名簿の最初に、1791年に殉教したパウロ・Ing-tchi-tchungを挙げている。part_10.txt 줄 326-328
1792年로마1792年、北京の司教が朝鮮教会の消息を教皇に送った。教皇は感謝し、信者たちに祝福を送り、北京の司教に世話を委ねた。part_12 줄 2431–2437
1793年홍주ピエール・ウエン(Pierre Ouen Si-tsiang-i)が鞭打ちの末に致命した。冬の夜に冷水を体に浴びせて凍らせ、二番鶏の鳴く頃に息絶えた。1권 p.66
1793年북경信者の使者が燕行使に随行して北京へ出発した。司祭を請うための派遣である。1권 p.69
1794年홍주1794年、洪州で新たな迫害。朴パウロ(Paul Pak Hieng-hoa)が棄教した。迫害の規模は不明。1권 p.66
1794年북경周神父(P. Jacques Tsiou)が北京を発って朝鮮国境へ向かった。国境まで20日の行軍。1권 p.71
1794年의주周神父が夜中に鴨緑江(Apno)を渡り、朝鮮側の義州(Ei-tsiou)の川辺に入った。1권 p.71
1795年서울(한양)周神父が漢陽に着き、崔マティアス(Mathias T'soi)が用意した北側の家に泊まった。復活祭のミサを初めて捧げた。1권 p.71
1795年서울(한양)捕卒が神父の隠れ家を襲った。崔マティアスが自分が中国人神父だと名乗り出て、神父は別の信者の家に避難した。パウロとサバスも同日に捕らえられた。1권 p.72
1795年서울(한양)パウロ(Paul loun)、サバス(Sabas Tsi)、マティアス(Mathias T'soi)が獄中で処刑され、同じ夜に遺体は川に投げ込まれた。1권 p.73
1795年Pien-men (변문, 국경 관문)中国人神父の周文謨が朝鮮の国境をひそかに越えて入国した。872-873
1796年金トマス(Thomas Kim)が晋陽の官衙で逮捕・拷問された。死刑判決の後に執行が延期され、管轄外へ追放された。1권 p.84
1797年북경1796年9月、周神父が書いた手紙を黄トマス(Thomas Hoang Sim-i)が絹に隠して運び、1797年1月28日に北京に着いた。司教は大いに安堵した。1권 p.77
1797年서울(한양)洪ルカ(Luc Hong Nak-min-i)が王に上げる報告を曖昧に書いた。王に叱責されると、かえって迫害を求めた。1권 p.85
1797年공주忠清の地方官Han long-hoaが管内の守令に、信者の逮捕と信仰の根絶を命じた。1권 p.85
1797年李パウロ(Paul Ni To-kei)が逮捕された。甕を焼く家から書物と十字架が出て、鞭打ちの後に監獄へ移された。1권 p.86
1797年홍주朴ロレンツォ(Laurent Pak)は捕らえられた息子を救うため自ら県庁に出頭した。以後、1799年の致命まで獄中にあった。1권 p.94
1798年李パウロが致命した。数度の拷問の末に息絶えた。56歳。1권 p.93
1798年 〜 1799年Seoul (한양)黄嗣永は漢陽の阿峴(Ai-o-kai)のあたりに身を寄せ、少年たちに読み書きを教え、祈祷書を書き写した。77-79
1799年해미朴ロレンツォが致命した。海美の官衙で尋問と拷問を受けた後、午前11時頃に藁縄で絞殺された。約30歳。1권 p.99
1799年Hong-tsiou(홍주)フランソワ・パンら信者三人が洪州で殉教した。p.102–104 (OCR 쪽표지 근사)
1799年Tsieng-tsiou(청주)ヤコブ・ウエンが清州で打ち殺された(70歳)。p.102
1799年Tsieng-tsiou(청주)フランソワ・パイが清州で打ち殺された(60歳前後)。p.103
1799年Tong-nai (동래 앞바다)1799年、西洋の船が東萊沖に数日停泊した。玄啓欽はこの船に乗ったと疑われた。476-478
1800年Séoul (서울)1800年、国王Tieng-tsong-tai-oang(正祖)が背中の腫れ物で死去した。原文は手術を受けず礼法どおりに死んだと記している。p01 l.1648–1652
1800年Seoul(한양)正祖王が崩御した(在位24年)。p.108
1800年Nie-tsiou(예산)マルタン・ニら信者たちが復活祭の集会中に逮捕され投獄された。p.128–129
1800年信者たちは道の観察使の前で棄教を拒み、死刑判決に署名した。p.133–134
1800年Seoul(한양)摂政の大妃が時派の高官を全員罷免し、老論の人物に入れ替えた。p.110–111
1800年 〜 1801年Pien-men (변문, 국경 관문)玉千禧は北京から戻った後、迫害の知らせを中国側の信者に伝えようと国境の関門、辺門に引き返した。420-426
1800年書簡は1800年の国王の死後、大迫害の前後の事情を要約している。part_10.txt 줄 318-320, 489
1801年1801年、南人党が崩壊して首領の大半が死んだ。原文はこれを初期の迫害と結びつけている。p01 l.1597–1600
1801年1801年にアウグスチノ・ニウが致命した際、その親族の官吏26人(全員異教徒)が罷免され、長兄が流刑になった。work/part_02.txt 줄 4609~4610 (서론 LIX쪽 부근)
1801年1801年に迫害が激しくなると、金トマスは家族を山に置いて自首しようとしたが止められた。同年の陰暦7月に病で死んだ。1권 p.84-85
1801年Seoul(한양)摂政の名で天主教禁止の教旨が頒布された。五家作統の連座制で、「皆殺しにして種を残すな」。p.112–113
1801年Seoul(한양)教理書と書簡の入った箱が発覚して任トマスが逮捕され、箱は丁アウグスチノのものと判定された。p.115
1801年Seoul(한양)高官の李家煥(Ni Ka-hwan)ら四人に逮捕令が出され、禁府の獄に収監された。p.115
1801年Seoul(한양)権アンブロシオと丁アウグスチノが逮捕された。p.115
1801年Seoul(한양)権アンブロシオが獄中で死んだ(66歳)。打ち殺されたという説と獄中の苦難で死んだという説がある。p.121
1801年Seoul(한양)役人が姜コロンバの家を襲い、女の奴婢まで捕らえた。貴族の婦女を捕らえた最初の例。p.116
1801年Seoul(한양)信者六人が西門(Porte de l'Ouest)の外で斬首された。p.122
1801年Kong-tsiou(공주)ルイ・ニ・タンウエンが公州で斬首された。以前に伝道した土地で見せしめに処刑された。p.126–127
1801年Kong-tsiou(공주)ニ・中国が公州で斬首された(ルイの処刑の15日後)。p.127
1801年Nie-tsiou(예산)礼山の信者五人が城外で斬首された(執行官一人は川で溺死した)。p.136
1801年Seoul(한양)周神父(P. Tsiou)が自ら出て行き、禁府(Keum-pou)の獄に自首した。p.142–143
1801年Seoul(한양)神父をかくまった二人の婦人が賜薬(死を賜る毒薬)を受けた。p.144–145
1801年Seoul(한양)信者六人が死刑判決を受けて処刑された(丁シャルルはアウグスチノの息子)。p.136–137
1801年Seoul(한양)広州(Koang-tsiou)出身の朴氏がソウルで斬首された(同行の三人は流刑)。p.141–142
1801年Seoul(한양)周神父がソウル近郊の鷺梁津(No-teul、ミナム島)の刑場で斬首された。p.147
1801年Hong-tsiou(홍주)白丁身分の黄アレクシスが洪州で斬首された(脚を砕かれた後、担架で運ばれた)。p.141
1801年Seoul(한양)金氏(le-sam-i)の密告で、教理の首領崔ヨハネが真夜中に逮捕された。p.114–115
1801年宣教師のTsiou神父が1801年5月31日に斬首された。part_08.txt 줄 49
1801年Seoul(한양, 본문 'la capitale')金ヨサファトと親族が1801年6月1日、都城西の小門の外で斬首された。part_08.txt 줄 280
1801年Seoul(한양, 본문 'la capitale')姜コロンバを含む9人(女性5人を含む)が1801年7月3日、都城西門の外で斬首された。part_08.txt 줄 421
1801年Philippe HongとKim Tsong-tsioが1801年10月4日の同じ日に処刑された。part_08.txt 줄 511
1801年Tsieng Sioun-maiが1801年7月5日にNie-tsiouで斬首された。ソウルの仲間より二日遅い。part_08.txt 줄 736
1801年lang-keun(양근, 음역 추정)Tsien-hiei、すなわち尹アガタ(Agathe Ioun)が故郷のlang-keunで1801年7月5日に斬首された。part_08.txt 줄 741
1801年Pieng-san(평산)Ko Koang-sieng-iが故郷のPieng-sanに送られ、斧で斬首された(1801年7月7〜8日)。part_08.txt 줄 873
1801年Kong-tsiou(공주)Pierre Ni Kouk-sengが1801年7月6〜7日にKong-tsiouで斬首された。part_08.txt 줄 946
1801年André Kim Koang-ok-iが故郷のNiei-sanで1801年8月25日に斬首された。part_08.txt 줄 1087
1801年Tai-heng(대흥)Pierre Kim Tai-t'sioun-iが1801年8月25日にTai-hengで斬首された。同じ日にAndré KimはNiei-sanで斬首された。part_08.txt 줄 1109
1801年Kim-tiei(김제)Stanislas Han Tsieng-heun-iが故郷のKim-tieiで1801年8月26日に斬首された。part_08.txt 줄 1127
1801年Tsien-tsiou(전주)André Kim T'sien-aiが1801年8月27〜28日にTsien-tsiouで斬首された。part_08.txt 줄 1136
1801年Mou-tsiang(무장) 장터 Tsi-kapMathias T'soi le-kiem-iが故郷Mou-tsiangの市場Tsi-kapで1801年8月27日に斬首された。part_08.txt 줄 1178
1801年lang-keun(양근, 음역 추정)Thomas T'sioがlang-keunの獄で拷問の末に死んだ(1801年11月初め、日付は本文で確定していない)。part_08.txt 줄 1275
1801年Tsien-tsiou(전주)Augustin Niouら5人が1801年10月24日にTsien-tsiouで処刑された。3人は六つ裂き、2人は斬首。part_08.txt 줄 1402
1801年Charles Niが1801年(辛酉年)の陰暦12月に殉教した。part_08.txt 줄 1491
1801年Tsien-tsiou(전주)Jean Niou Tsiong-sien-iと弟のJean Niou Moun-tsiel-iがTsien-tsiouの獄で絞殺された(1801年11月14日)。part_08.txt 줄 1732
1801年Pai-ron (배론, 제천)黄嗣永が堤川の地で逮捕され、漢陽に護送された。18-21
1801年Pai-ron (배론, 제천)黄嗣永は舟論(ベロン)の隠れ家で北京の司教宛の長い書簡(帛書)を書いた。126-127
1801年불명黄トマス(黄沁)が逮捕された。433-434
1801年Seoul (한양, 서문 밖)黄トマス(黄沁)が斬首された後に四肢を切断された。Pierre Kimも共に斬首された。517-518
1801年Seoul (한양)黄嗣永は書簡の作成者とされて斬首後に四肢を切断された。玉千禧と玄啓欽は斬首された。521-524
1801年Seoul (한양, 발송)朝鮮国王の名義の書簡が清の嘉慶帝に送られた。事件を報告し、黄嗣永の書簡について弁明した。619-621
1801年불명周文謨神父が勅令により処刑された。1433-1434
1801年불명政府の命令で、辛酉年末に大規模な処刑が終わった。2191-2192
1801年1801年の大迫害で、神父と多くの信者が処刑された。朝鮮政府はこれを清の皇帝に知らせた。part_10.txt 줄 399-400, 522-525, 580-582
1801年Koang-tsiou1801年秋、プロタシオ・ホンが信徒名簿のために捕らえられ、広州へ流刑となる(回想)L663~666
1802年Luthgarde Ni、Mathieuら4人が1802年1月31日に斬首された。part_08.txt 줄 2319
1802年Hong-tsiou (홍주, 오늘 홍성)Kim Koui-long-iが故郷の洪州で斬首された。棄教を拒んだ。543-545
1802年Seoul (한양, 조정 반포)邪学禁止の教書(「Instruction contre la mauvaise religion」)が頒布された。教理と祭祀の廃止を批判し、禁令を固めた。1155-1156
1802年Seoul (한양, 형장)李カロルら8人が殉教し、李カロルは22歳で斬首された。同じ日に刑場で処刑された。1605;1708-1709
1802年Tsieng-tsiou (청주, 병영 소재지)金フランシスコ四集(Kim Sa-jip)が清州で棍杖81回を受けて死んだ。1837-1838
1802年Po-tsien (포천)洪レオが抱川で44歳で斬首された。死後数日間、光が体を包んだと伝えられる。1883-1884
1802年T'siong-tsiou (충주)忠州で李啓淵(Ni Gye-yeon、63歳)が斬首された。同行した三人も共に処刑された。1910-1912
1802年Koang-tsiou (광주, 경기)禹済雲が広州で50歳で斬首された。墓の手入れに力を注ぎ、棄教者を叱った。1958-1964
1802年Koang-tsiou (광주, 경기)韓トマスが広州で52歳で斬首された。刃が三度振り下ろされた後に息絶えた。1967-1990
1802年불명壬戌年から迫害が弱まり、信者はしばらく一息ついた。2261-2263
1804年Nie-tsien1804年、天主教徒のTsio Siouk-i(Justin Tsioの親戚)がNie-tsien県一帯で逮捕された。part_10.txt 줄 61-62
1804年Péking1804年に北京で激しい迫害があったとの知らせが朝鮮の信者に伝わった。教会への出入り禁止、信者の処刑、宣教師の投獄が噂に上った。part_10.txt 줄 423-426
1805年Hai-mi1805年、別の天主教徒たちが海美で投獄された。まもなく釈放されたが、経緯は不明。part_10.txt 줄 62-64
1805年Lang-keunTsio Siouk-iがLang-keunの官衙で死刑判決を受けて斬首された。拷問中に棄教したが、Jean Niの勧めで勇気を取り戻した。part_10.txt 줄 65-83
1808年北京教区の司教デ・ゴヴェア(de Govéa)が1808年7月6日に死去した。part_10.txt 줄 223-225
1811年1811年の陰謀は鉱山労働者の集会で生まれたという話があるが、伝聞であり確認されていない。p01 l.691
1811年朝鮮の天主教信者たちが北京の司教宛に司祭の派遣を請う書簡を書いた。同じ日付で教皇宛の書簡も書いた。part_10.txt 줄 176-177, 185-192, 558, 568-
1811年 〜 1812年PékingJean Niは燕行使節団の後に続いて身分を隠して北京に着き、書簡を司教に渡した。part_10.txt 줄 194-196, 212-213
1812年Hong-tsiou1812年、洪州でパウロPsi le-sam-iが鞭打たれて死に、殉教した。1801年の流刑の後に再び捕らえられた3度目の逮捕。1003〜1031行の光と奇跡の記述は省いた。 判定保留part_10.txt 줄 959-980, 1003-1006
1812年퐁텐블로1812年、朝鮮の信者たちが司祭を求める書簡を教皇ピウス7世に送った。書簡はフォンテーヌブローに幽閉されていた教皇に届けられた。part_12 줄 2439–2446
1813年Po-rieng1813年陰暦4月15日、保寧(Po-rieng)一帯で黄パウロ(Paul Hoang)が逮捕され、海美の官衙に引き渡された。その後、公州に移送された。part_10.txt 줄 1036-1058
1813年Kong-tsiou1813年陰暦10月19日、公州で黄パウロとマティアス・Tsiangが共に斬首された。同年、Pierre Ouenは獄死した(1076〜1079行)。part_10.txt 줄 1033-1115
1813年PékingJean Niの二度目の北京行き。司教は司祭を送ることも約束することもできなかった。part_10.txt 줄 1133-1152
1813年An-tong1813年陰暦4月、シモン・Kimが安東の官衙の使令に逮捕された。元の下人の密告による。江原の原州の獄に移される前に安東の獄を経た。part_10.txt 줄 1898-1932
1814年1814年、収穫がほとんどなく全国で大飢饉となった。春には道端で死ぬ者が多かった。信者で飢える者は比較的少なかったと記す。part_10.txt 줄 1276-1292
1814年Hai-mi海美の獄に10年近く囚われていたPie Kimが76歳で獄死した(陰暦10月20日)。本文は拷問と飢えのどちらによるかは分からないと記す。part_10.txt 줄 1178-1210
1815年Morai-san1815年の復活祭の日、信者が集まっていた砂山の村を官衙の軍卒が急襲した。密告者Tsien Tsi-sou-iが案内役だった。多くの信者が捕らえられ、慶州の官衙に引き渡された。part_10.txt 줄 1294-1335
1815年Tai-kou1815年、大邱(監営)の獄で信者二人が獄死した。フランソワ・T'soiは鞭打ちの最中に死に(死刑判決の後)、アレクシス・Kimは食事なく飢え死にした(判決の二か月後)。part_10.txt 줄 1370-1375, 1400-1428, 1475-1483
1815年Me-rou-san復活祭の直後、鎮浦郡の砂山(Me-rou-san)村の信者が捕らえられ、安東の官衙に収監された。その中には棄教者も多かった。part_10.txt 줄 1333-1335, 1535-1539
1815年Tai-kou1815年陰暦5月初め、大邱の官衙の前で、棄教していたアガタ・マドレーヌ・Kimが再び戻って信仰を告白し、鞭打ちで死んだ。共に捕らえられていたアンドレ・Kimはその場で死刑判決を受けた。part_10.txt 줄 1761-1802
1815年Ouen-tsiou1815年陰暦11月5日、シモン・Kimが原州の獄で獄死した。刀で死ぬ殉教は得られなかった。本文は詳細な時間の流れだけを記す。part_10.txt 줄 1934-1967
1816年Tai-kou (대구)慶尚道の信者7人(フランソワ・Lim、アンナ・Ni、バルバラ・Tsioら)が大邱で斬首された(丙子年陰暦11月1日)。work/part_11.txt 줄 11~12
1816年Péking (베이징)パウロ・Tingが信者代表の使者として初めて北京の司教に司祭の派遣を請いに行った(下男に変装して徒歩で往復)。work/part_11.txt 줄 116~119
1816年Tai-kou1816年、大邱でアンドレ・キムが殉教(娘テレーズ・キムの回想)L1313~1314
1817年Ha'i-mi (해미)1817年10月、海美の官卒がTek-san管内のパイナタリ村で信者30余人を捕らえて海美へ連行した。大半が棄教し、獄死した者が数人いた。work/part_11.txt 줄 489~491
1818年Macao北京の補佐司教ソウザ・サライヴァ(Souza-Saraiva)は北京に入れず、マカオで死去した。part_10.txt 줄 223-230
1819年Séoul (한양, 도성)1817年春に逮捕されたピエール・Tsio(Pierre Tsio)と妻テレジア・Kwo、女性信者バルバラ・Koが、1819年陰暦5月21日に漢陽で斬首された(27か月の獄中生活)。 判定保留work/part_11.txt 줄 454~457
1821年1821年、コレラが日本から入って全国に広がった。受洗準備中の人々は死を前に急いで洗礼を受けた。work/part_11.txt 줄 675~676
1823年通訳官の家柄のアウグスチノ・Niou(Augustin Niou)が教理書を読んで入信した(場所は本文にない)。work/part_11.txt 줄 757~759
1824年Péking (베이징)アウグスチノ・Niouは使節団の通訳として北京に行き、司教・司祭たちの前で洗礼を受け、パウロ・Tingとともに司祭の派遣を請うた。work/part_11.txt 줄 771~774
1825年Ha'i-mi (해미)1825年、アウグスチノ・パイ(T'seng-mo)が再び捕らえられ、海美の官衙で激しい拷問を受けた(2〜3年後に釈放)。work/part_11.txt 줄 880~882
1827年Kok-sieng (곡성)1827年2月、陶器村の酒場の主人の密告(教理書の提出)により、谷城の官衙が信者の逮捕令を出した。迫害は全羅道全域に広がった。work/part_11.txt 줄 968~971
1827年Tsien-tsiou (전주)高山などで捕らえられた信者240余人が全州に集められた。観察使のNi Gwang-mun(李光文)は死刑よりも流刑や獄死を選んだ(棄教者が多数)。work/part_11.txt 줄 1001~1004
1827年Tsien-tsiou (전주)信者ジャン・Ni Seng-sam-iが全州の獄中で拷問により死んだ(33歳)。work/part_11.txt 줄 1157~1158
1827年Im-sil (임실)1827年の迫害中、任実(Im-sil)の台板村で信者ヨブ・Ni(Job Ni)が捕らえられて全州へ連行された。死刑を宣告された後、獄に残された。work/part_11.txt 줄 1232~1233
1827年Ko-san (고산)1827年、高山(Ko-san)の村で信者ピエール・Kim Tai-koanが官卒100余人に捕らえられ、高山の官衙へ連行された。その後、全州に移されて拷問を受け、棄教を拒んだ。work/part_11.txt 줄 1307~1309
1827年Siang-tsiou (상주) · Tsat-kol 마을1827年陰暦4月22日の明け方、尚州管内のTsat-kol村でピエール・Sinが全州の官卒に逮捕された。家を包囲して連行した。work/part_11.txt 줄 1465~1467
1827年Séoul (한양, 도성)1827年陰暦4月21日の夜、漢陽でパウロ・Ni Tsiong-hoiが全州から来た官卒に逮捕された。全州に護送され、所持していた絵と書物について尋問を受けた。work/part_11.txt 줄 2107~2109
1827年상주1827年陰暦4月22日、全州の官卒が慶尚道の境を越えて尚州(Siang-tsiou)の地でペトロ・Sin(Pierre Sin)を逮捕した。part_12 줄 607–611
1827年상주1827年4月末、尚州管内の大きな信者村五、六か所が官卒に襲われた。逃げた者が多く、家や道で捕まった者は尚州の獄に入れられた。棄教者も多かった。part_12 줄 624–627
1827年상주1827年の昇天日(陰暦4月末)、パウロ朴景和がMeng-ei-mokiの家で家族や近所の信者と祈っていたところ、密告者が官卒を連れて入り、捕らえられた。 判定保留part_12 줄 676–684
1827年안동1827年陰暦5月、アンブロシオ・Kimが自ら安東の官衙に出頭して自首した。鞭打たれて投獄され、一か月後に大邱(Tai-kou)に移された。part_12 줄 1022–1030
1827年대구1827年陰暦9月27日、パウロ朴景和が大邱の獄で71歳で死んだ。獄死の前に何度も拷問を受けた。part_12 줄 1093–1113
1827年단양1827年陰暦5月、ロラン・ヌカ(Laurent Nu-ga)が丹陽(Tan-iang)の信者の家で、居合わせた信者約20人とともに逮捕された。原文は、密告者が身代金を分け合おうとしたと記す。part_12 줄 1154–1165
1827年 〜 1828年무산ロラン・ヌカに死刑判決が出たが、咸鏡道茂山(Mou-san)への流刑に変わり、北の果てへ送られた。流刑の道で、さらに信者を教えると語った。part_12 줄 1186–1197
1827年 〜 1828年무산ロラン・ヌカは茂山の流刑地で、米粉に塩を混ぜた餅を食べて死んだ。原文は1827年12月説と1828年3月説の二つを記す。part_12 줄 1203–1212
1827年전주1827年の迫害で、全羅道の信者村は全域が荒れ果てた。逮捕者は約500人と記され、棄教者が多かった。獄は全州(Tsien-tsiou)にあった。part_12 줄 1224–1246
1827年로마1827年、朝鮮の信者の書簡がローマに届いた。書簡は1825年頃に書かれ、司祭の派遣を切に請うていた。part_12 줄 2487–2495
1827年Bangkokブリュギエール神父がバンコクに到着した(シャム代牧区の神学校を担当)。p.10
1827年Rome布教聖省が、パリ外国宣教会に朝鮮教会を引き受けるよう要請する公文を送った。p.8
1828年대구1828年陰暦10月27日、アンブロシオ・Kimが大邱の獄で68歳で死んだ。part_12 줄 1129–1148
1828年Macao難破とコーチシナ滞在を経て、シャスタン神父が1828年7月19日にマカオに到着part_14 정규화 줄 1993
1828年Penangシャスタン神父がマレーのペナン島(Poulo-Pinang)に派遣され、中国・安南の神学生を教えるpart_14 정규화 줄 2017
1829年Bangkokブリュギエールはバンコクから外国宣教会に書簡を送り、朝鮮行きを志願して説得した。p.18
1829年Bangkokバンコクでブリュギエールが司教に叙階された(カプセ名義司教、シャム代牧区の補佐)。p.19
1830年Eug-i1830年、Jean Ni le-tsin-iがEug-iで安らかに死んだ。事件性は低いが、人物の経歴の終わりである。part_10.txt 줄 1154-1163
1830年한양1830年、代理聴政をしていた翼宗が重病にかかった。その前に流刑中だったJean Tieng lak-iongを呼び戻して復権させたが、翼宗は数日後に死去した。葬儀の際に棺が半ば焼けた。part_12 줄 1276–1301
1830年무산1830年8月2日(陰暦6月14日)、ジャスティン・Tsioが茂山の流刑地で92歳で死んだ。流刑30年。part_12 줄 1343–1379
1830年순흥1830年、慶尚道北部の順興(Sioun-heng)の太白山の麓で金浩然が一人の信者から洗礼を受けた。洗礼名パウロ。part_12 줄 1397–1452
1831年1831年9月(陰暦8月)、パウロ金浩然が洗礼から1年で死んだ。36歳。父の迫害があった。part_12 줄 1557–1566
1831年로마1831年、教皇庁は朝鮮を北京教区から分離して独立の代牧区を設けた。司教にブリュギエールが任命された。part_12 줄 1813–1816
1831年Rome教皇グレゴリウス16世が朝鮮を独立の代牧区とし、ブリュギエールを初代代牧に任命した。p.20–21
1832年1832年、長雨と大洪水で凶作の兆しが見えると、王は大赦を行った。流刑中の信者の大半が釈放されたが、原文はその代償として棄教が求められたと記す。part_12 줄 1581–1600
1832年1832年夏、イギリスの商船が忠清の西海岸の入口の島Ouen-sanの近くに現れた。旗に「イエス・キリストの宗教」と書かれていた。宣教師たちを信者と思い違えた人々は船から退いた。part_12 줄 1618–1636
1832年한양1832年陰暦9月10日の真夜中、漢陽の官卒がアンドレ・黄の家を襲った。アンドレは不在で、叔父のペトロ黄と一緒にいた人々を含む10人が捕らえられた。9人は棄教して釈放されるか流刑になった。part_12 줄 1666–1680
1832年ブリュギエールは朝鮮代牧に任命されたとの知らせを聞いた。p.23
1832年Singaporeシンガポールからマニラ行きの船が出航した(マカオ行きの無料船は遅れて来たので運賃を払った)。p.25
1832年Manilaマニラに到着し、大司教セグイ(Seguí)が宣教師として遇して迎えた。p.25
1832年Macaoマカオに上陸し、布教聖省の代理人ウンピエール(Umpierres)の家に向かった。p.26–27
1832年Macaoマカオで福建行きの船に乗った(宣教師6人が同乗、12月19〜20日出航)。p.27
1832年Macao1832年3月、モーバンがル・アーヴルでマカオ行きの船に乗る(9月11日に中国着)part_14 정규화 줄 1419
1832年Seoul純祖が死去し、7〜8歳の息子が王となり、金氏の王大妃が摂政を務める体制になるpart_14 정규화 줄 1671
1832年Koang-tsiou1832年の流刑者赦免の際、監営が広州の守令にプロタシオを釈放するよう指示。彼は心は変わっていないと答えるL696~698
1833年한양1833年6月(陰暦5月初め)、ペトロ黄が漢陽の獄で死んだ。獄中生活は約8か月、70歳近くで拷問を5回受けた。part_12 줄 1782–1785
1833年Fuzhou福州の港に入港し、福建司教の邸に宣教師が14人まで泊まった。p.33
1833年Fuzhou福州から南京行きの船が出航した。p.34
1833年浙江北部の乍浦(Hia-pou)の港に到着した。p.34
1833年Nanking南京から陸路で出発。荷車やロバなどを借り、中国人の案内人とともに発つp.36–37
1833年黄河を渡って山東の地に入るp.42–43
1833年山西(Chang-si)の司教の居所に到着し、ここに数か月滞在p.52
1833年Beijingジョセフを北京に送り、朝鮮の信徒に宛てた手紙を託すp.53–54
1833年 〜 1834年Seoul中国人司祭パシフィク(劉神父)が朝鮮に入っており、信仰のために信徒9〜11人が投獄されたpart_14 정규화 줄 64
1833年Fouganシャスタン神父が9月にマカオを発ち、11月に福州(Fougan)に到着。モーバン神父はまだそこにいたpart_14 정규화 줄 139
1833年Fouganモーバンとシャスタンが福州から朝鮮へ向けて出発part_14 정규화 줄 142
1833年Macaoシャスタン神父が1833年9月にマカオを発ち、朝鮮宣教地へ出発chunk1 줄 193–194

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