北斉書(正史 の史料)。扱う年は525年 〜 577年、出来事94件を年代順に整理。原文のライセンスと出典つき。
| 区分 | 正史 |
|---|---|
| 視点 | 内側の視点 |
| 扱う年 | 525年 〜 577年 |
| 出来事の数 | 出来事94件・地図に置いた82件 |
| 著者 | 李百藥 |
| 原題 | 北齊書 |
地域の内訳: 中国 94
| 年 | 場所 | 出来事 | 原文の位置 |
|---|---|---|---|
| 525年 〜 527年 | 秀容(忻州) | 杜洛周の反乱に加わったのち離反して葛栄に従い、その後また秀容の爾朱栄に帰順した。高歓が爾朱栄の麾下に入る契機となった。 | 北齊書 卷1 |
| 530年 〜 531年 | 滏口(磁縣) | 爾朱兆の許しを得て六鎮の流民を率い、晋陽から滏口を経て山東へ向かう(襄垣の漳水で兆と誓約)。その後、鄴に駐屯した。 | 北齊書 卷1 |
| 531年 | 信都(冀州) | 高歓が軍を信都に駐屯させると、高乾と封隆之が城門を開いて迎え、冀州を手中に収めた。 | 北齊書 卷1 |
| 531年 | 信都(冀州) | 6月庚子の日、信都で爾朱氏討伐の旗を掲げた(建義)。 | 北齊書 卷1 |
| 532年 | 鄴 | 相州刺史の劉誕が城を固く守ったが、高歓は土山と地道で攻め、鄴城を陥落させて占拠した。 | 北齊書 卷1 |
| 532年 | 韓陵(安陽) | 閏3月、韓陵で円陣を組み、牛とロバを連ねて退路を断ち、爾朱の連合軍20万を大破した(韓陵の戦い)。 | 北齊書 卷1 |
| 532年 | 洛陽 | 洛陽に入り、節閔帝と中興主(廃帝)を廃して、孝武帝を擁立した。 | 北齊書 卷1 |
| 532年 | 晉陽 | 爾朱兆討伐の途上、晋陽は四方を塞がれた要衝だとして大丞相府を置き、そこに定着した(以後、晋陽は東魏・北斉の軍事の中心となる)。 | 北齊書 卷1 |
| 533年 | 秀容(忻州) | 竇泰が精兵を率いて一昼夜に300里を駆け、爾朱兆の本拠を奇襲して赤洪嶺で破った。爾朱兆は首を吊って死んだ。 | 北齊書 卷1 |
| 534年 | 洛陽 | 高歓が河北から軍を渡らせると、孝武帝は長安へ逃れた。己酉の日、高歓は洛陽に入り、永寧寺に滞在した。 | 北齊書 卷2 |
| 534年 | 長安 | 孝武帝は、家臣たちの計略が割れたまま、当日長安へ逃げた(北魏分裂の始まり)。 | 北齊書 卷2 |
| 534年 | 洛陽 | 洛陽で清河王世子の元善見を立てて孝静帝とした。「魏はここに初めて二つに分かれた」(東魏・西魏の分立)。 | 北齊書 卷2 |
| 534年 | 鄴 | 洛陽は西に近く梁に接して形勢が不利だとして、鄴への遷都が協議された。詔が出て3日後には40万戸が出発した。 | 北齊書 卷2 |
| 536年 | 1月甲子の日、高歓は騎兵1万を率いて、4日で西魏の夏州を奇襲した。梯子で夜に城内へ入り刺史を捕らえ、5千戸を移住させた。 | 北齊書 卷2 | |
| 537年 | 蒲津(永濟) | 竇泰の軍が敗れ、竇泰は自殺した。高歓は蒲津に至ったが、氷が薄く救援できず、撤退した。 | 北齊書 卷2 |
| 537年 | 沙苑(大荔) | 高歓は蒲津で黄河を渡り、20万を率いて西征した。宇文泰は沙苑に陣を敷いた。地形に阻まれて退くと、西軍は太鼓を打ち鳴らして進撃し、大混乱となった。甲冑・武器18万を捨て、高歓はラクダに乗り、船で帰還した(沙苑の戦い)。 | 北齊書 卷2 |
| 538年 | 河陰(孟津) | 侯景・高昂が金墉で独孤信を包囲したため、西魏の文帝と宇文泰が救援に来た。8月、河陰で大勝して数万を捕らえた(司徒の高昂が戦死)。宇文泰は陣営を焼いて退いた(高歓が金墉を空にしていた)。 | 北齊書 卷2 |
| 543年 | 虎牢 | 北豫州刺史の高慎が武牢(虎牢)に拠って西魏に背いた。3月、宇文泰は河橋の南城を包囲した。 | 北齊書 卷2 |
| 543年 | 芒山(孟津) | 3月戊申の日、芒山で西魏軍を大破し、督将以下400余名を捕らえ、6万を殺すか捕虜とした。高歓は続いて馬を失い危機に陥ったが、逃れた(芒山の戦い)。 | 北齊書 卷2 |
| 546年 | 玉壁(稷山) | 高歓は西魏の玉壁城を包囲し、土山・地道・水路などから攻めたが、韋孝寛が防ぎ、50日で7万が死んだ。高歓は11月に病を得て撤退した(玉壁の戦い)。 | 北齊書 卷2 |
| 547年 | 晉陽 | 1月丙午の日、高歓は晋陽で52歳で死んだ。喪は秘された。その後、侯景が反乱を起こした。 | 北齊書 卷2 |
| 547年 | 鄴 | 8月甲申の日、鄴の西北、漳水の西に葬られ、孝静帝が紫陌で見送った。 | 北齊書 卷2 |
| 547年 | 長社 | 1月辛亥の日、司徒の侯景が河南で反乱し、潁州刺史の司馬世雲が城を挙げて呼応した。高澄は韓軌を派遣して討伐させた。 | 北齊書 卷3 |
| 547年 〜 548年 | 黎陽 | 3月辛亥の日、高澄は南の黎陽へ下り、虎牢で黄河を渡り、洛陽を経て太行山に沿って晋陽へ戻った。 | 北齊書 卷3 |
| 549年 | 鄴 | 7月辛卯の日、高澄(29歳)は梁から捕らえられた蘭欽の子・蘭京ら6人により東柏堂で殺された。高洋が駆けつけて蘭京の一党を斬り、喪を伏せた。 | 北齊書 卷3 |
| 549年 | 晉陽 | 高澄殺害の後、高洋は晋陽に赴き、自ら政務を統括して寛大な政治を行った。 | 北齊書 卷4 |
| 550年 | 鄴 | 5月辛亥の日、高洋は鄴に赴いた(禅譲の準備)。 | 北齊書 卷4 |
| 550年 | 5月戊午の日、孝静帝の禅譲を受けて鄴の南郊で即位し、北斉を建国した。武定八年を天保元年に改めた。 | 北齊書 卷4 | |
| 550年 | 晉陽 | 9月庚午の日、皇帝は晋陽へ行き、山陵に拝礼した(以後、毎年、鄴と晋陽を行き来した)。 | 北齊書 卷4 |
| 550年 | 陝城(三門峽) | 11月、宇文泰は軍を率いて陝城に至り、騎兵を分けて北へ渡り、建州に達した。 | 北齊書 卷4 |
| 550年 | 晉陽 | 丙寅の日、高洋は自ら軍を率いて城の東に出て陣を張った。宇文泰は軍の規律が厳正なのを見て「高歓不死矣」と嘆き、撤退した。 | 北齊書 卷4 |
| 551年 | 曆陽(歷陽) | 合州刺史の斛斯顯が梁の曆陽鎮を攻めて勝った。 | 北齊書 卷4 |
| 551年 | 建鄴(建康) | 侯景は梁主の蕭棟を廃し、建鄴で皇帝に即位して国号を漢とした。 | 北齊書 卷4 |
| 552年 | 廣陵 | 東南道行台の辛術が広陵から伝国璽を送ってきた(3月の南征の成果)。 | 北齊書 卷4 |
| 552年 | 10月、黄櫨嶺に至り長城の築造を始め、北の社干戍まで400余里にわたって36の戍を設けた。 | 北齊書 卷4 | |
| 552年 | 江陵 | 11月辛巳の日、梁王の蕭繹が江陵で即位し(元帝)、使者を送った。 | 北齊書 卷4 |
| 553年 | 離石(呂梁) | 1月、山胡が離石を包囲したため、高洋は討伐に出たが、胡人はすでに逃げていた。三堆戍を巡視し、大規模な狩猟をして帰還した。 | 北齊書 卷4 |
| 553年 | 平州(盧龍) | 10月丁酉の日、契丹討伐の途上で平州に至り、長塹の道から進軍した。潘相楽を青山へ、韓軌を東へ派遣して退路を断たせた。 | 北齊書 卷4 |
| 553年 | 甲辰の日、陽師水一帯で高洋が先頭に立って山を越え契丹を大破し、10余万体と家畜数十万を得た。潘相楽も青山で契丹の別部を撃破した。 | 北齊書 卷4 | |
| 553年 | 營州(朝陽) | 丁未の日、営州に至る。この遠征では千里余りを昼夜行軍し、肉と水だけで食をつないだ。 | 北齊書 卷4 |
| 553年 | 碣石 | 丁巳の日、碣石山に登り海を望んだ。 | 北齊書 卷4 |
| 553年 | 朔州 | 十二月、突厥が茹茹を攻めると、高洋は晋陽から北上して茹茹を馬邑川に置き、朔州から自ら突厥を追撃して降伏を受けた。 | 北齊書 卷4 |
| 554年 | 石樓 | 正月、離石の道から山胡を三路で挟撃し、数万を斬って石楼を平定した。魏の時代から届かなかった険しい地である。 | 北齊書 卷4 |
| 554年 | 四月、茹茹が肆州に侵入すると、高洋は恒州の黄瓜堆で数万の茹茹別部に包囲されたが、千余騎で包囲を破って追撃し、庵羅辰の妻子と三万余りの人を捕らえた。 | 北齊書 卷4 | |
| 554年 | 洛陽 | 八月、常山王高演らが洛陽の西南に伐悪城・新城・厳城・河南城を築いた。(九月、皇帝が親臨して周軍を誘い出そうとしたが、周軍は出てこなかった。) | 北齊書 卷4 |
| 554年 | 江陵 | 西魏が江陵の梁の元帝を攻め、斉は清河王高岳らを派遣して救援したが、到着前に江陵は陥落し、元帝は于謹に殺された。 | 北齊書 卷4 |
| 555年 | 夏首(武漢) | 正月、清河王高岳が軍を率いて長江を渡り、夏首を攻めて勝ち、梁の郢州刺史陸法和を送ってきた。 | 北齊書 卷4 |
| 555年 | 三月、上黨王高渙が東関を攻めて勝ち、梁の将裴之横を斬り、数千を殺しまたは捕らえた。 | 北齊書 卷4 | |
| 555年 | 建鄴(建康) | 五月、斉が立てた梁の主、貞陽侯蕭明が建鄴に入った。(六月、梁の民の帰国を許す詔が出た。) | 北齊書 卷4 |
| 555年 | 懷朔鎮(固陽) | 七月、白道に輜重を置き、精鋭五千で茹茹を追撃、壬午の日に懐朔鎮(固陽)で追いつき大破し、沃野まで進んで二万余りの人と数十万の家畜を奪った。 | 北齊書 卷4 |
| 555年 | 十月、梁の将陳霸先が王僧弁を襲って殺し、蕭明を廃してから蕭方智を再び立てた。 | 北齊書 卷4 | |
| 555年 | 石頭城(建康) | 十一月、大都督蕭軌が長江に至り、柳達摩らを渡らせて石頭に駐屯させたが、陳霸先に圧迫されて石頭を挙げて降伏した。 | 北齊書 卷4 |
| 555年 | 幽州 | この年、民夫百八十万を徴発して、幽州の北夏口から恒州まで九百余里の長城を築いた。 | 北齊書 卷4 |
| 556年 | 鐘山(建康) | 六月、蕭軌らが鐘山の西で梁軍と戦ったが、長雨に大敗し、蕭軌・李希光らが戦死し、生還したのは十人に二三人だった。 | 北齊書 卷4 |
| 556年 | 十二月、西魏の丞相宇文覚が魏の禅譲を受けた。(北周の建国。陰暦十二月なので西暦では557年正月にあたる。) | 北齊書 卷4 | |
| 557年 | 周の冢宰宇文護が閔帝を殺し、弟の宇文毓(明帝)を立てた。 | 北齊書 卷4 | |
| 557年 | 十月、陳霸先が梁の主蕭方智を殺して自ら即位し(陳の武帝)、斉に藩国を称して使者を送った。 | 北齊書 卷4 | |
| 558年 | 虎牢 | 四月、北豫州刺史司馬消難が城ごと周へ逃げた。 | 北齊書 卷4 |
| 558年 | 鄴 | 鄴の三台(金鳳・聖応・崇光)が完成し、高洋は晋陽から来て三台に登り宴を開き、大赦した。 | 北齊書 卷4 |
| 559年 | 晉陽 | 十月甲午の日、高洋が晋陽宮の徳陽堂で急死した(三十一歳)。 | 北齊書 卷4 |
| 559年 | 晉陽 | 十月癸卯の日、太子高殷が晋陽の宣徳殿で即位した(廃帝)。大赦。 | 北齊書 卷5 |
| 560年 | 鄴 | 高演(常山王)が省で宴会中に尚書令楊愔・燕子献・可朱渾天和・宋欽道を捕らえ、鄭子黙まで御府で斬って政権を握った。(巻5は同じ事件を二月乙巳の日としている。) | 北齊書 卷6 |
| 560年 | 晉陽 | 八月壬午の日、高演が晋陽の宣徳殿で即位(孝昭帝)、乾明を皇建に改元した。(廃帝は済南王に降格。) | 北齊書 卷6 |
| 561年 | 晉陽 | 十一月、高演が晋陽宮で二十七歳で没し、長広王高湛を呼んで即位させるよう詔を残した。 | 北齊書 卷6 |
| 561年 | 晉陽 | 十一月癸丑の日、高湛が晋陽南宮で即位(武成帝)、皇建二年を大寧に改めた。 | 北齊書 卷7 |
| 562年 | 正月、晋陽から鄴に戻り、妃胡氏を皇后とし、息子の高緯を太子に立てた。 | 北齊書 卷7 | |
| 562年 | 冀州 | 七月、太宰・冀州刺史の平秦王高帰彦が冀州で反乱。段韶・婁叡が討伐して捕らえ、帰彦と息子三人を市で斬った。 | 北齊書 卷7 |
| 563年 | 晉陽 | 十二月、周の将楊忠が突厥阿史那木汗らと二十余万で恒州から三路で攻め込んだ。己未の日、周軍は并州(晋陽)を圧迫し、達奚武は東雍・晋州へ向かった。 | 北齊書 卷7 |
| 564年 | 晉陽 | 正月朔日、周軍は晋陽城下に陣を張り、城の西で戦ったが、周軍と突厥は大敗し、段韶は塞外まで追撃した。 | 北齊書 卷7 |
| 564年 | 洛陽 | 閏九月、周軍は三路から出た。尉遅迥は洛陽へ、楊檦は軹関へ、権景宣は懸瓠へ。十一月甲午、尉遅迥が洛陽を包囲した。 | 北齊書 卷7 |
| 564年 | 軹關(濟源) | 十一月甲辰の日、太尉婁叡が軹関で周軍を大破し、楊檦を捕らえた。 | 北齊書 卷7 |
| 564年 | 豫州(懸瓠·汝南) | 十二月乙卯の日、豫州刺史王士良が城ごと周将権景宣に降伏した。 | 北齊書 卷7 |
| 564年 | 晉陽 | 十二月丁巳の日、皇帝は晋陽から南へ親征して洛陽救援に出た。 | 北齊書 卷7 |
| 564年 | 洛陽 | 十二月壬戌の日、太師段韶が尉遅迥らを大破して洛陽の包囲を解いた。丁卯の日、皇帝は洛陽に至り租賦を免除した。 | 北齊書 卷7 |
| 565年 | 晉陽 | 四月丙子の日、太史の天文の警告により、皇太子に譲位し、武成帝は太上皇帝となった。(後主即位、天統元年。) | 北齊書 卷8 |
| 568年 | 鄴 | 十二月辛未の日、太上皇帝(武成帝)が鄴宮の乾寿堂で三十二歳で没した。 | 北齊書 卷7 |
| 568年 | 十一月、陳の安成王陳頊が君主陳伯宗を廃し、自ら即位した。 | 北齊書 卷8 | |
| 571年 | 鄴 | 七月庚午の日、太保の琅邪王高儼が詔を偽造し、南台で録尚書事の和士開を殺し、同日に厙狄伏連らを処刑した。馮子琮は宮中で自刃した。(九月、高儼は殺害された。) | 北齊書 卷8 |
| 572年 | 鄴 | 七月戊辰の日、左丞相咸陽王斛律光と弟の幽州行台斛律豊楽が処刑された。 | 北齊書 卷8 |
| 573年 | 呂梁(彭城·徐州) | 五月、開府尉破胡・長孫洪略が陳の将呉明徹と呂梁の南で戦って大敗し、長孫洪略は戦死した。秦・涇二州が陥ち、呉明徹はさらに和・合二州を取った。 | 北齊書 卷8 |
| 573年 | 壽陽(壽縣) | 六月、呉明徹が寿陽を包囲し、十月に攻め落とした(淮南を喪失)。 | 北齊書 卷8 |
| 573年 | 鄴 | 十月辛丑の日、侍中崔季舒ら六人を殺した。(二日後の癸卯の日、晋陽へ行幸した。) | 北齊書 卷8 |
| 574年 | 朔州 | 二月、朔州行台の南安王高思好が反乱を起こし、尚書令唐邕らが大破すると、高思好は水に溺れて死んだ。 | 北齊書 卷8 |
| 575年 | 洛陽 | 八月、周軍は洛川に入って芒山に駐屯し、洛城を圧迫した。火をつけた船で浮橋を焼き、河橋が断たれた。閏月、高阿那肱が晋陽から防御に出て河陽に至ったが、周軍は夜に逃げた。 | 北齊書 卷8 |
| 576年 | 晉州(平陽·臨汾) | 十月、後主が祁連池で大規模な狩りをしている間に周軍が晋州を攻撃。癸酉の日、雞棲原で周の斉王宇文憲と対峙したが、夜まで戦わず、周軍は陣を引き揚げた。 | 北齊書 卷8 |
| 576年 | 晉州(平陽·臨汾) | 十一月、周の武帝は長安へ帰還し、支隊だけを晋州に残した。高阿那肱らが晋州城を包囲し、戊寅の日、後主が包囲陣に到着した。 | 北齊書 卷8 |
| 576年 | 晉州(平陽·臨汾) | 十二月、周の武帝が晋州救援に来て、庚戌の日、城の南で戦い斉軍は大敗、後主は軍を捨てて先に逃げた。(魏徴の論「衆は平陽に潰えた」。) | 北齊書 卷8 |
| 576年 | 晉陽 | 十二月癸丑の日、後主は晋陽に入ったが怯えて北朔州・突厥へ逃げることを考え、高延宗・高孝珩を残して晋陽を守らせた。丁巳の日、隆化に改元し、夜に五龍門を破って鄴へ向かった。 | 北齊書 卷8 |
| 576年 | 晉陽 | 十二月戊午の日、安徳王高延宗が群臣の議により晋陽で即位し、徳昌に改元した。辛酉の日、周軍と戦って大敗し、捕らえられた。 | 北齊書 卷8 |
| 576年 | 鄴 | 十二月庚申の日、後主が鄴に入った(この後、禅譲が議された)。 | 北齊書 卷8 |
| 577年 | 鄴 | 正月乙亥の日、八歳の幼主高恒が即位し、承光に改元、後主は太上皇となった。顔之推らは河外での徴兵と陳への亡命を勧めた。 | 北齊書 卷8 |
| 577年 | 鄴 | 正月己丑の日、周軍が紫陌橋に至り、癸巳の日、西の城門が焼かれ、太上皇は百騎余りで東へ逃げた。鄴の陥落は目前だった。 | 北齊書 卷8 |
| 577年 | 青州 | 正月、太上皇は青州に至り陳へ向かおうとしたが、青州南の鄧村で周将尉遅綱に捕らえられ鄴へ護送された。北斉滅亡(577)。 | 北齊書 卷8 |
| 577年 | 長安 | 周の武帝は後主を賓客の礼で遇し、太后・幼主・諸王とともに長安へ送り、温国公に封じた。(建徳七年、反逆の濡れ衣により賜死。) | 北齊書 卷8 |
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